「こうして教会は(13):健康な教会であるために」

かつて、あのジョン F ケネディーが内外に問題が山積していたアメリカ国民に語りかけた有名な言葉がありますね。国があなたに何をしてくれるのかを問うのではなくて、あなたがこの国のためにできることをしてください」。

受けることばかりを考え、その権利ばかりを主張するということ、ある意味、それはまだ私達が人間として未熟であることのあらわれでありましょう。イエス様が言われた「受けるより、与えるほうがさいわいである」という、この御言葉の意味を人生の中で一度も知ることなく、私達が死んでいくのなら、私達は人間として、最も大切なことを知らずしてその人生を閉じることを意味しますでしょう。

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「こうして教会は(13):健康な教会であるために」
2019年9月22日

数週間前の礼拝において私達は初代の教会が「共にパンをさいていた」(使徒行伝2章42節)ということをみました。「共にパンをさいていた」ということは、すなわち彼らが愛餐(Agape Feast)と聖餐(Holy Communion)をとても大切にしていたということであり、このことは彼らが共に食卓につくことを重んじていたということをお話ししました。しかし、そんな彼らにこんなことが起きました。

1そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。 (使徒行伝6章1節)

「共にパンを割く」ということは食事に関わることでした。しかし、その食卓に関わる問題が起きたというのです。

そうです、教会の中で問題が起きたのです。でも問題は起きるものであるということを私達は心に刻みましょう。あの箴言の言葉が言っている通りです。『牛がなければ穀物はない、牛の力によって農作物は多くなる』(箴言14章4節)。そうです、私達が生きている限り、色々な問題が生まれるのです。それは私達が生きている証拠なのだということを受け止めましょう。この箴言を牛ではなく、人間に置き換えれば、こう言うことができるでしょう。『人がいなければ地球は平和だ。しかし、人によって神の御心は全うされる』。

初代教会で起きたことの背景には「弟子の数が増えてきた」(1)という状況がありました。そうです、人が増えるということは喜びと祝福でありますが、それと同時に目の行き届かないところも出てきて、色々な問題が起きるものです。そのような意味でこのことは初代教会が成長するにあたり、通らなければならないことであったと言えます。

当時、まだ福祉制度が確立されていない初代教会では、そこに集う者達への生活援助に力が注がれていました。そして、その教会にはヘブル語を話すユダヤ人のやもめ達とギリシャ語を話すユダヤ人のやもめ達がいました。

なぜこのように二か国語を話すユダヤ人が教会の中にいたかといいますと、その時からさかのぼること約600年前、イスラエルがバビロンによって滅ぼされ、彼らは捕囚民としてバビロンに連行された歴史があったからです。

その中には地中海沿岸に離散し、外国で生まれ育った人々がおり、彼らはその土地の公用語であるギリシャ語を話していたのです。そのギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちに対して配給がおろそかにされているのではないかという苦情が教会内に出てきたのです。詳細は分かりませんが、おそらく配給に不平等を感じた人達がいたということでありましょう。

一本のマッチの火が広大な森林を燃やすように、たとえそれが小さなことに思えても、そのまま放置しておけば大火災にいたることがあります。そこで、このことに対して イエスの12弟子が動き出しました。

2そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。3そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、4わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」(使徒行伝6章2節―4節)

人々への配給の問題を改善することなら12弟子でもできたでしょう。しかし、彼らには彼らがすべきことがありました。すなわち彼らが配給に時間を割けば、彼らの祈りと御言葉を語ることがおろそかにされてしまう。彼らはそのことに危機感を覚えました。

なぜなら、そのことなしでは教会は立ちえないからです。それは車で例えるのなら、エンジンのようなはたらきで、それなくして教会は動かないからです。それゆえに彼らは七人の者を選び、その者達がこの問題に対処することにしたのです。これが今日の執事の始まりです。

私達はここから知恵を得る者です。初代の教会と2000年後の私達の教会では、成すべきことに違いがあります。たとえば彼らは全てのものを売り払い、共有していたというようなことがこの使徒行伝には記録されていますが(使徒行伝2章44節、45節)、全く同じようなことを今のアメリカ社会ですることは難しいでしょう。そうすることはかえって私達の間に大きな問題を生み出すことでしょう。

しかし、それでも昔も今も人間の必要は何ら変わりません。人は飲み、食べ、問題に直面し、病気になり、離別を経験します。家族の問題や経済的なチャレンジを受けることがあります。

教会はこれらのことに向かい合うこともあります。特に海外にある私達のような教会にとりまして、大抵、私達の家族は日本にいますから、通常、家族や親族の間でなされることを、彼らに代わって私達が互いに助け合うことが多々あります。

これまでもこのような状況に私達の教会は置かれてきましたし、これからもその状況は変わることがないのです。さぁ、それでは私達はどのようにこれらのことに対処すればいいのでしょうか。

かつて数百万のイスラエルの民と共にエジプトを脱して40年を荒野に暮らした民のリーダー、モーセにこのようなことが起きました。

それは数百万もいるユダヤの民を前にモーセは一人で彼らの全ての悩みを聞いていたということでした(出エジプト18章13節―14節)。それを見ていた彼のしゅうとエテロが彼の心身を案じてアドバイスをしたのです。

「あなたのしていることは良くない。あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない」(出エジプト18章17節―18節)。

そして、モーセのしゅうとエテロはモーセに言ったのです「あなたが成すべきことは神の前に事件を述べ、その定めと判決を民に教え、彼らの歩むべき道と成すべきことを彼らに知らせることだ」(出エジプト18章19節―20節)。

そして、そのために民の中から有能で神をおそれ、誠実で不義の利を憎む人を10人、50人、100人、1000人の民の上にリーダーとして立てよと勧め、あなたを身軽にし、あなたと共に彼らに、荷を負わせなさい」(出エジプト18章21節-22節)と勧めたのです。

このようにして「平素は彼らが民をさばき、難しい事件はモーセに持ってきたが、小さい事件は全て彼らみずからさばいた」(出エジプト18章26節)と聖書は伝えています。

そして、エテロは「もし、この事が成されていくのなら、民は皆、安んじてその所に帰ることができよう」(出エジプト18章23節)と言ったのです。そうです、このことにより状況は改善され、民は皆、安んじて家に帰るだろうというのです。

モーセとて人間、彼にも問題に対して対応できる限界があり、その限界を超えますと、その対応は有効なものではなくなります。しかし、その問題を他の者達と共有すれば、それぞれの対応のクオリティーは保たれ、その結果、モーセが一人で全てをしていた時よりも民の問題解決は進み、よき結果へといたったことでしょう。

人がいれば祝福が増え、同時に問題・課題も増えます。これは避けて通れないことです。しかし、大切なことはその起きた問題に対して、どのように対処するかということです。

初代の教会がしたことは、実にエテロがモーセに忠告したことで、彼らは諸々の課題にあたる人間を選び、それぞれに役割を与えたのです。その時、彼らの脳裏には彼らの敬愛する先祖、モーセの姿があったのかもしれません。

ここに冷蔵庫があったとしましょう。この冷蔵庫を一人で運ぶことができる人はいません。二人でも難しいかもしれません。しかし、四人がそれぞれの隅を持ち上げるのなら、それは可能でしょう。一人の時と比べればその重さも軽いものです。

3人でやるべきことを1人でしているのなら、いつかバーンアウトするでしょう。しかし、それを3人で、いや、もしそこに5人の人がいればどうでしょう。それぞれの荷は軽く、彼らはの心身に余裕が生まれます。私達から何かよきものが生まれるためには心身に余裕がなければなりません。

伝道の書4章9節には「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである」という言葉があり、続けて「三つよりの綱はたやすくは切れない」(伝道の書4章12節)と書かれています。

一つの綱では切れてしまうことも三つの綱があれば、それに十分に対処できるのです。そして、共に助け合った者達はその時、その報いを互いに喜び合うことができるのです。

かつてパウロは教会をして、それを「キリストの体」と呼びました。そして、その体のそれぞれの肢体、すなわちぞれれぞれの各器官が私達一人一人なのだと言いました。

4なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、5わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。6このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、7奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、8勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである(ローマ12章4節-7節)。

ここには生まれたばかりのキリストの体なる教会において、そこに集う者達がどのようにしてその教会に連なっていったのかが書かれています。そうです、彼らはそれぞれ神様から与えられている賜物(ギフト)に従い、各々が成すべきことを分担していったのです。

私達は「健康であること」に大きな関心をもっています。健康であるために食事や運動に心を配ります。健康であるためには私達の体の各々の器官がそれぞれの役割を果たしているということが不可欠です。

大腸が大腸のはたらきをすることにより、指の爪がそのはたらきをすることにより、その人の体全体は健康に保たれます。そして、健康なからだは自ずと成長していくのです。

パウロが目指したことは、その体の各器官の機能が健全にそれぞれの役割を果たすことにより、キリストの体なる教会の健康を保ち、成長を望み見るということでした。そして彼はそのキリストのからだに連なる器官のいくつかをここで取り上げて説明しているのです。

まず彼は「預言」について話しました。漢字ではこの言葉には二つの漢字があります。「予言」はまさしく未来に起こることを予め言い当てるということ、そして「預言」とは神の言葉を預かって伝えることで、ここに記されている預言は後者となります。

すなわち、この預言は今日でいうところの聖書の言葉に関わるはたらきでありましょう。神の言葉、すなわち聖書の言葉を神様から授かり、それをもって教会に集う方達を励まし、慰め、訓戒し、彼らの心を支え、奮い立たせる役目です。時にこの役目には、十分な備えが伴い、牧師と呼ばれる者達がこの働きを務めます。

奉仕」とは文字通り、人が集まる教会でなされる諸々のはたらきになるでしょう。私達の教会で言うならば、例えば教会掃除、セキュリティー、グリーター、奏楽などであり、またカレーランチや教会建物の管理、財政もここに含まれるでしょう。

教える」ということは文字通り、教えることであり、それは教会や各家庭での集会が含まれるでしょう。私達はこの賜物をもっている方達を見出して、整え、訓練して、それらの方達に御言葉を教える機会を与えなければならないと感じます。なぜなら、このことは牧師だけの専売特許ではないのです。クリスチャンを10年しているのなら、皆さんの中には既に誰かに話すべきこと、伝えるべきことが十分に蓄積されていないでしょうか。

 勧め」とは、人の心の思いを察知し、その人がどんなギフトを神様から与えられているのかを見極め、彼らを励まし、その心に火をつけることができる人達です。そうです、魂を動かすことです。

寄付」というのは、その言葉が意味するように実際の献金から、諸々のドネーションを指していることでしょう。神様から祝福されていることを知り、それを神様お返ししていくことを知っている方達はこの寄付にいそしむべきでしょう。

広く言えば、それは献金やドネーションに限らず、健康が与えられている者、時間が与えられている者は、それを己れのことだけに用いずに、それらを主のために喜んで捧げるのです。

指導」とはリーダーシップと言い換えることができるものでしょう。各々の役割を把握し、その要所にそこに合う人を配置し、教会の健康を維持するために成すべきことを知り、実行する人達です。

慈善」とは人の置かれている状況を理解し、同情し、そのために報いを考慮せず、自分のできる最善を他者にしていく人です。このような方達を私達はいつも必要としています。

このようにいくつかの働きがここで取り上げられていますが、このことについてパウロはこのような言葉を書き残すことも忘れてはいません。

「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである」(1コリント12章4節-7節)。

そうです、これらの働きは異なりますが、その中において働いてくださる神様は同じです。そして、これらのことは全体の益になるためになされるべきことなのです。

確かに専門性や何かしらの技術とか経験が必要とされることは誰しもができるわけではありません。私は三か月後に礼拝のピアノ奏楽ができるかというとそれは不可能なのです。財務の知識や通訳というものも全ての人ができるわけではありません。

でも他のことをもってキリストのからだの一翼を担うことはできますでしょう。私達ができること、それをもって私達は主のお役に立つことができたらと願うのです。

ある時、イエス様がガリラヤ湖畔におられた時、そのイエスの前には数千人の群衆がいました。イエス様は彼らに食事を与えることを願われ、それを弟子達に伝えました。しかし、何もない湖畔では群衆に与えるものが何もありません。そのような中、ペテロがイエス様のもとに来て、こう言いました「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」(ヨハネ6章9節)。

ある聖書訳は「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9節:新共同訳)と記しています。そうです、数千人の群衆を前に五つのパンと二匹の魚が何かの役に立つとは誰も思わない。しかし、イエス様はそれを受け取り、感謝の祈りを捧げて、その群衆、全てが満腹するものを与えたのです。

さらには残ったパンくずを無駄にするなと弟子達に指示し、それゆえに集められたパンくずは12のかごがいっぱいになったというのです。「私のこんなもの、いったい何の役に立つのだろう」。それはあなたの考えです。主はそれを受け取って下さる。しかも、「その余りを無駄にするな」というほどにそれを大切にしてくださる。その主のもとに私達は各々ができる最善を尽くすのです。

チルドレンチャーチのスタッフの方達や賛美チームが自主的に教会にとって最善となることを祈り、考え、それをしてくださっています。彼らはその礼拝賛美、チルドレンミニストリーの最前線にいる方達ですから、そのところで必要なことを誰よりも一番、よく知っている方達です。

兄弟姉妹が何が最善であるかということを自主的に考え、実行していること、そのはたらきをキリストのからだ全体、すなわち教会の中でのバランスと共に観察し、彼らが十分にそこに力を注ぐことができるように整えること、それが指導する者の役割です。

この自然界を見渡す時に私達はある真理に気がつかされます。そうです、この世界は「与えること」により成り立っているのです。植物は自らの花粉を蜂に惜しみなく託します。そうすることによりさらなる花がいたるとこで咲くからです。青々とした葉はやがて黄色くなり、地に落ちます。それが分解され、さらに新しい命を育みます。

私達が恐れる山火事も長い目で考えれば、山が焼かれることにより、それが肥料となり新しい命の循環が始まるといいます。動植物は互いに食べ、食べられることにより互いの命を保っています。自然界が調和をもち、その命を維持している理由は彼らが「受け、与える」ということを日々、しっかりとしているからです。

さすがに私達は互いに食べ合うことはしませんが、しかし、やはり私達もこの神の法則の中に生かされているのです。「受け、与える」というバランスが保たれている時にのみ、この世界は、そして私達の心も体も健康に成り立つように私達は造られているのです。

このことが神様が定めた法則であるのなら、私達はその法則に逆行すべきではありません。それは重力によって上から落ち続けている水を、全て自力で元に戻そうとするようなものです。私達の人生の祝福の秘訣はこの神様の法則に従うことです。これに尽きるのです。

かつて、あのジョン F ケネディーが内外に問題が山積していたアメリカ国民に語りかけた有名な言葉がありますね。「国があなたに何をしてくれるのかを問うのではなくて、あなたがこの国のためにできることをしてください」。

受けることばかりを考え、その権利ばかりを主張するということ、ある意味、それはまだ私達が人間として未熟であることのあらわれでありましょう。イエス様が言われた「受けるより、与えるほうがさいわいである」という、この御言葉の意味を人生の中で一度も知ることなく、私達が死んでいくのなら、私達は人間として、最も大切なことを知らずしてその人生を閉じることを意味しますでしょう。

今朝、皆さんのお手元に私達の教会の奉仕リストをお配りしています。これらのことは私達の教会が健康であるために最低限、必要なことです。どうか皆さん、祈り心をもってご自身ができる項目にお名前を書き記して、提出していただけないでしょうか。

その一覧を見ます時にお分かりになりますように、それぞれの奉仕にはそれにあたる方達の条件も記されています。それは教会リーダーがこれらのはたらきの意味と内容を熟慮した結果、決められたことですのでご理解ください。

日々の生活で精一杯の方達や、年齢や健康上の理由で何もできませんという方達もいらっしゃると思います。その方達はどうぞ、ご無理せずに、何もきがねせずに、これまでと同じように教会にいらっしゃってください。

我々はこのようなことに気をつかったり、うしろめたさを持ちかねない時がありますが、どうかそのような思いは一切、お持ちにならないようにお願いします。

また教会の奉仕だけに力と時間を注ぎすぎて、夫婦や家族の関係が壊れてしまうようなことはしないでください。それは神様の御心ではありません。そのようなことを教会は勧めませんし、強制しません。それはカルトへの道となるからです。どうぞしっかりとバランスを考えてお決めください。

また来週の第五日曜日には係会がもたれます。私達の教会では「伝道・宣教」、「教育」、「総務」、「礼拝・集会」の係があります。これはキリストの体で言い表すのなら、頭、右手、左手、右足、左足のようなものでしょう。そして、それぞれに執事の方達がリーダーとして立っています。どうぞ、このキリストの体なる教会の肢体に連なって、皆さんのできることを主のために思い切り励んでください。

そして、言うまでもなく、このはたらきに対する私達の動機はこのことに尽きます。それは「私達を今日まで生かしめてくださっている神様と主イエス。キリストの恵みと愛に対する私達の喜びと感謝の応答」なのです。
もし、今日、お配りしたリストについてご質問がありましたら、あの初代教会において選ばれた七人の方達に代わる、私達が主の名のもとに選んだ五人の執事の方々、町田兄、川久兄、大野兄、スコット姉、アーリー姉にお気軽におたずねください。

どうか主がキリストの体なる私達の教会の健康を保ち、そこに成長を与えてくださいますように。そして、このキリストの体なる教会のために、私達一人一人が喜びと感謝をもって互いに忠実に生きることができますように。そして、それが教会全体の益となりますように。お祈りしましょう。

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