「こうして教会は(9):ひたすら一同がしていたこと」

先日、ある方を通して昔、観たけれども忘れていました「Into the Wild」という映画を思い起こさせていただきました。

この映画は1992年に一人の青年が放浪の末にアラスカで死体で発見されたという実話をもとにした映画で、アカデミー賞にもノミネートされました。

主人公クリスは裕福な家庭に生まれ、物質的に恵まれた環境で育ち、アトランタにあるエモリー大学を優秀な成績で卒業します。両親は彼がハーバードのロースクールに進学することを望んでいましたが、金と物ばかりを与えようとする両親に嫌気がさしていたクリスは、学資預金を全額寄付し、真理を求めアラスカへと旅に出ます。

かたちは違いますが、私も20歳の頃のひと夏、アラスカで働いていたことがあります。クリスとは状況は異なりますが、何かに対する探求ということに関してはクリスの思いと似たものがあり、かつての自分とクリスの心を重ね合わせながらこの映画を観ました・・・。

この映画の結末は他人事ではなく、大切なことを私達に語りかけてきます。

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「こうして教会は(9):ひたすら一同がしていたこと」

2019年8月25日

先週、私達は「教会の交わり」をみました。イエス・キリストが言われていた通りに、聖霊が人々の上に注がれ、神の言葉が語られていくと、人々は神の前に悔い改め、洗礼を受け、教会が生まれ、建て上げられていきました。その教会では日々、具体的に何がなされていたのでしょうか。

42そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。43みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。44信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、45資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである』(使徒行伝2章42節-47節)。

ここに記されていることが初代の教会がしていたことです。ここに書かれていることは私達に理解できないことではなく、私達の教会生活の中にもみられることです。これからしばらくここに記されていることを具体的に見てまいりましょう。

まず最初に私達が目を留めたいことは「一同はひたすら」(42)ということです。

一同はひたすら・・・。

ここに「一同」と書かれていますように、この使徒行伝2章には「一つ」を意味する言葉が何度も使われています。すなわちここには「一緒、一同、ひとりびとり、みんなの者、みな一緒、共有、一つ、共に」(使徒行伝2章42節-47節)という言葉がいくつも記されているのです。

ここから初代の教会のクリスチャンが一同、教会に集うことをとても大切にしていたことが分かります。そして先週、お話ししましたように、神様はその教会を通して、私達に大切なことを知らせようとしているのです。こう書かれている通りです。

10それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって11わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである』(エペソ3章10節-11節)

そうです、神の多種多様な知恵は主にある者達が一同に集まる教会を通して私達に知らされるのであり、それはまだ教会がこの世界に存在する前から神がおもちになっていた永遠の目的にそうものだというのです。

さらには私達が一同、集う教会について使徒行伝は「聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」(使徒行伝20章28節)と、その教会は御子の血で贖いとられたものだというのです。

これらのことは一人で送る信仰生活では得られないものが御子の血で贖いとられた教会にはあるのだということを示していると先週はお話ししました。

さて、それではこの初代の教会に集う人たちはその教会で何をしていたのでしょうか。まず私達が注目したいことは、彼らは「ひたすら」(使徒行伝2章42節)あることをしていたということです。

この「ひたすら」という言葉を英語の聖書は「Devote」という言葉で説明しています。「Devote」とは「忠誠」という意味です。「ひたすら」という日本語は「ただ、そのことだけに心が向けられ続けること」を意味します。

ですから、これらのことを全て踏まえて考えられる「ひたすら」とは、「継続された忠誠心」ということになりましょう。

私達の生涯は色々なことによってかたち造られていきます。その色々なことが私達の人生に違いをもたらします。その中で特に私達の人生の岐路となり得る要因を一つあげるとするのなら、それは何でしょうか。

それは「続ける」ということです。「継続する」ということです。「続ける」、この意味を説明する必要はありませんでしょう。難しい言葉ではありませんでしょう。そう、「今、していることをやめない」というとてもシンプルなことです。

ある業界でトップの業績をもつビジネスオーナーがセミナーを開きました。そこで彼は自分の成功の秘訣を隠すことなく全て話しました。出席者の中にはライバルである同業者の方達もたくさんいました。セミナーが終わり、部下が心配しながら聞きます「社長、あんなに全てを話してしまってだいじょうぶですか」。社長は答えます。「大丈夫だよ。彼らは今日、話したことに一時、感化されるだけで、それを続ける人はいないから、うちの脅威になることはないから」。

人が何かを始める時、それを継続する人はいったいどれだけいるのでしょうか。今年の新年に皆さんは何かを決意しましたか。九か月が経ちましたよ。今も続けていますか。クレグリストではこれからのシーズン、今年一月に買われたトレッドミールが売りに出されるそうです。

あのイチローの名言(めいげん)がありますでしょう。彼がメジャーリーグにおいて前人未到の年間最多安打を打ち立てた時、彼はこう言いました。『小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道』

人はイチローは天才だと言います。しかし、彼ははっきりとそれを否定します。彼が「とんでもないところ」に到達したのはが「小さいことを重ねてきた」からです。今日も明日もすべきことをコツコツと続けてきた、ただそれだけなのです。そうです、続けることなくして、私達が目指すゴールへの到達はないのです。

800メートルや1500メートルのレースを見ていますと、時々、最初にものすごいスピードで走る選手がいます。走者が20人くらいいますと、19人をはるか後方に置き去りにして、あたかもそれが100メートル走であるかのようなスピードでその人は走ります。

観客は皆、顔を見合わせて苦笑い。皆、「そのペースで最後までもつわけがない」と分かっているのです。案の定、しばらくするとペースはがた落ちして、後に続く者達に一人、また一人、抜かれていくのです。

陸上競技に限らず、このようなことはどの世界でも見ることができます。最初は多くの人の視線を受け、期待が注がれます。しかし、とても残念なことですが、その人は半年後、もはやその場にいないのです。

主にある皆さん、信仰生活、教会生活は短距離走ではありません。一瞬で勝敗をつけるものではないのです。そもそも、それは競争ではないのです。誰かと競うものではないのです。

それはイエス・キリストと共に、止めることなく、各々のペースで完走を目指すべきものなのです。かの初代教会は一人、二人、競争に勝った者だけが、ひたすら信仰生活を続けたのではありません。彼ら一同がひたすら続けたのです。それゆえにこの教会は今もこの世界にあるのです。

「千里の道も一歩から」という言葉があります。この言葉は正しいと思います。千里とは2500マイルです。2500マイル先にあるゴールを私達は見ることはできません。それはとてつもなく遠く感じられます。

でも、そこを目指すのなら、すべきことは明らかです。そうです、まず一歩を踏み出すことです。そして、その一歩を踏み出したら、次の一歩を踏み出すのです。一歩、一歩、雨の日も、風の日も、そのことをし続けるのです。その一歩、一歩の先に目的地はあり、一歩を踏み出すたびに、私達はそこに近づいているのです。

最近はいインターネットのソシャルメディアなるものがあり、思いがけない旧友との再会が可能になりました。18歳を最後に会っていない友人にまず驚くのは、彼らがおじさん、おばさんになっていること。このことに驚きます。そし数秒後、自分もそうなのだという現実が私を襲ってきます。

そんなソシャルメディアを通して高知県のある教会が会堂建築をしていることを知りました。その教会は私がまだ神学生だった25年前に夏期伝道に遣わされた教会で、教会に住み込み、朝に夕にトラクト配布をしたり、公園伝道をしました。「はりまや橋」で路傍伝道をしたことを今も忘れることができません。

その時に、高知の田舎の集落では、今でも家族の中からクリスチャンがでると、親から勘当されたり、村八分にされてしまうという現実をききました。そして、その夏、私達はそんな高知の山村で信仰生活をおくられているクリスチャン・ファミリーと出会いました。

あれから25年、最近のフェイスブックを見ましたら、その家族が当時と何ら変わらずに教会の集合写真の中心に写っていました。アメリカのように恵まれた環境ではなく、信仰を持ち続けていくことに大きなチャレンジがともなう場所で、彼らはあの日からひたすら今日までその信仰を保ち続けていたのです。ゴールにたどりつく唯一の道を彼らが今も歩き続けていることにおおいに励まされ、主の御名を崇めました。イチローの言葉を借りて言えば、この家族はメジャーの記録を生み出すことよりも、さらにとんでもないところに着実に向かっているということになります。

主にある皆さん、読み過ごしてしまうようなこの「一同はひたすら」という言葉、これこそが初代教会がこの世にあり続けることができた大前提だったのです。そして、それはそのままこのサンディエゴ日本人教会に集います私達一同にもあてはまることなのです。

二つ目のことをお話しします。これから話すことは初代の教会の人達が「一同ひたすら」していたことです。そう、彼らはひたすら、使徒たちの教えを守っていたのです(42)。

使徒たちの教えを守り

この使徒たちの教えとはギリシア語で「デダケ―」と呼ばれる言葉で、この教えとはイエス様がその公生涯の間に使徒たちに直々に教えたことです。そうです、この時、まだ新約聖書は記されていなかったのです。すなわちイエス様の言動を記録したマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書はなかったのです。

それゆえにこの時はイエス様が教えられたことが口伝として、人々に伝えられていたのです。すなわち彼らは「私がイエスと会食をしている時、イエスはこんなことを話された」とか「私達がベタニヤに向かう時に出会った人にイエスはこんなことをなされ、こんなことを教えられた」というようなことを彼らは教会に集う者達に繰り返し教えたのです。そして彼らはそれを守っていたのです。それが当時の人達が一同、ひたすらなしていたことなのです。

この教えというものがどのようなかたちで教会で教えられていたかということについて、例えば使徒行伝にこんな言葉が記録されています。このイエス様の言葉は私達にとても馴染み深い言葉なのですが、このことは福音書の中には記録されていません。

わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである(使徒行伝20章35節)。

まさしくこれはイエスの弟子達がイエスからよく聞いていた言葉なのでしょう。彼らが誰かに施しをする時や、彼らが誰かのために時間を割く時に、イエス様は度々、「受けるよりは与える方が、さいわいなのだよ」と彼らに語ったのです。それが彼らの心に刻まれ、事あるたびに彼らも「イエス様はかつて私にこう言われていたのだ」と何度も語り伝えたのでしょう。

このようにしてイエスの言動は初代教会の中に伝えられていきました。そして、初代の教会はそのイエスの教えを一同、ひたすら守ったのです。

口伝というものはかたちあるものとして残りませんから、やがてすたれてしまったり、言い換えられたりしてしまいます。それが口伝のたどる道です。ですから神様のお導きでありましょう、このイエスの言動をマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネは後世に残るように記録し、そのイエスの教えは今、私達の手元に聖書としてあるのです。

私達の教会がこれまでそうであったように、これからもひたすらなし続けていくことは、このイエスの教え、聖書の教えを一同、この場所で聞き、学び、そして、ひたすらにその御言葉を守り続けていくことなのです。

この御言葉が私達の進むべき道を示し、私達がどう生きるかということを教えてくれる、私達のガイドラインなのです。そのような言葉を一人で聴くのではない、それを主にある兄弟姉妹と共に一同、聴くのです。そして、同じ主の言葉を聴いた私達は「信徒の交わり」(42)に導かれていくのです。

信徒の交わり

「交わり」とはギリシア語で「コイノニア」といいます。その意味は「共に分かち合う」ということで、初代教会の中心にはこのコイノニアがありました。今日、私達はこのコイノニアを「お交わり」とか「Fellowship」と呼んでいます。

先週、お話ししましたように神様はこの私達の互いの交わりに関心をもっておられるということは注目すべきことです。

先日、ある姉妹を通して昔、観たけれども忘れていました「Into the World」という映画を思い起こさせていただきました。

この映画は1992年に一人の青年が放浪の末にアラスカで死体で発見されたという実話をもとにした映画で、アカデミー賞にもノミネートされました。

主人公クリスは裕福な家庭に生まれ、物質的に恵まれた環境で育ち、アトランタにあるエモリー大学を優秀な成績で卒業します。両親は彼がハーバードのロースクールに進学することを望んでいましたが、金と物ばかりを与えようとする両親に嫌気がさしていたクリスは、学資預金を全額寄付し、真理を求めアラスカへと旅に出ます。

かたちは違いますが、私も20歳の頃のひと夏、アラスカで働いていたことがあります。クリスとは状況は異なりますが、何かに対する探求ということに関してはクリスの思いと似たものがあり、かつての自分とクリスの心を重ね合わせながらこの映画を観ました。

身分証を捨て、自分の名前を変えたクリスは道中、ヒッチハイクでヒッピーの夫婦や身寄りのない老人と出会ったりしながら、アラスカにたどりつきます。アラスカでは原野に捨てられたバスを見つけ、そこに一人で住み始めます。

そこで毎日、日記を書き、ジャック・ロンドンやトルストイの小説を読みながら自給自足します。それはまさしく彼が夢に描いていた誰からも束縛されない自由な生活です。

あらためてこの度、思い出したのですが、私もあの夏、アラスカのヘインズという町でトレイラーハウスに一人で住み込んで、いつまでも暗くならない白夜の中、司馬遼太郎の「人斬り以蔵」を読んでいました。

クリスの場合、徐々に食料が減り、捕まえたヘラジカも自分が食べる前に虫に食われてしまいます。いよいよ心身に限界がきて、町に戻ろうとしますが、溶けた氷で川が増水しており、もはや戻ることができずに、アラスカの過酷な自然の中にとじこめられてしまいます。

空腹を満たすために野草を食べますが、それには毒性があり、衰弱し、最後に死にいたります。その彼が最後に書き残した言葉が私達にとても大切なことを投げかけます。

彼は「幸福が現実となるのはそれを誰かと分かち合った時だ」という言葉を本に書き残し、涙を流しながら、バスの中で息絶えるのです。

彼の言葉は、さかのぼること創世記で神様が最初の人、アダムを造られた時に人間に対して語られたあの神の言葉を思い起こさせます。「人がひとりでいるのはよくない」(創世記2章18節)。そして神様はアダムにエバを与えられました。

ご存知のように神様は六日をかけて世界を創造したと創世記は記していますが、その日に創造されたものを見る度に、それらを見て「神は良しとされた」と聖書は記しています。そして、最終日には「神が造ったすべてのものを見られたところ、それは、はなはだよかった」(創世記1章31節)と聖書は記録しているのです。私達は時々、この世界の自然界を見て、感動します。なぜなら、それは神様お墨付きのはなはだ良きものを私達が見ているからです。

しかし、「全ての被造物を見て、はなはだ良い」と言われた神様は「アダムがひとりでいるのはよくない」と言われたのです。そうです、神がはなはだ良かったと言われたものを私達は一人で楽しむのではなく、その喜びを互いに分かち合うように私達はあらかじめ定められているのです。

そうなのです、「人は一人ではなく互いの交わりの中に生きるものだ」というのは人間の始まりに神が考え、定められたことです。そのことが既に定められているのなら、私達はやはりこのことに従い、生きるべきです。

そして、このことを前提として神様は教会に交わりを求めておられるのです。その交わりを通して神の知恵を私達に教えようとされているのです。私達はこのことを心にきざむべきです。

私はかつてサバティカルをいただき一人で生まれて初めてイスラエルを旅行しました。約3週間の間、私は単独で行動し、行く先々で色々なことを思いめぐらしました。そこは神がはたらかれた土地、イエス・キリストが歩まれた土地、自分にはとても意味のあるかけがえのない経験となりました。

その毎日はまず目覚めると、ユースホステルの食堂に行き、ブレックファーストを食べるところから始まります。そこには大勢の団体客がおり、皆が前の日に観てきたものを分かち合いながら談笑している端っこで一人、シリアルを食べ、ゆで卵を数個、持ち帰り、昼は一人であちこちを歩きながら、そのゆで卵を食べました。このようにしてその旅は一人で始まり、一人で終わりました。

何年か後にイスラエルに行きました時には飛行機の隣の座席には妻がおり、教会の兄弟姉妹も一緒でした。ですから出発する前から、また旅の道中も感動を分かち合える人、食卓を囲む人達がいました。死海を前にのぼる朝焼けの美しさや、諸々の遺跡を見た時の感動はやはり一人、心にとどめ置くことではなく、その喜びは分かち合うことにより、幸いをえるというあのクリスの言葉は本物だと今、思います。

神の子なるイエス・キリストが私達と同じ人の姿をもって生きたということは、彼のうちに私達が目指すべき、他に追随を許さない人間の最高峰の生き方があるということを意味します。その神の子、イエス・キリストはバックパックを背負った孤独な旅人として、この世に生まれたのではなくて、彼は人間との交わりを求めてこの世にお生まれになったのです。

では、そのイエス・キリストは人とどのような交わりを持たれたのでしょうか。イエス様には男女の区別、人間的な肩書による区別はなく、彼のもとに来る者を拒んだことはなく、イエス様は人との交わりを楽しみ、喜びました。

弟子達は困ったことでしょう。イエス様は罪人と呼ばれる者達の交わりにいつも身を置いていたからです。そのことゆえに宗教家たち、すなわち律法学者やパリサイ人はイエスを非難しました。それを聴くたびに弟子達はやきもきしたことでしょう。しかし、イエス様はそんなことは全く意に介さず、彼らとの交わりをとても大切にされたのです。

そのイエス様ご自身が率先して弟子たちに見せたことがありました。それは互いに仕え合う、僕となることでした。それはイエス様が弟子達に教えた一歩踏み込んだ、交わりの持ち方でした。その生き方をイエス様は弟子達に勧めたのです。

25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」(マタイ20章25節―28節)

時に私達の心が騒ぐ時、そこには色々な原因があります。その一つに「自分は正当な取り扱いを受けていない」という思いがあります。どこかで「この人にこんなことを言われるなんて!」とか「こんな態度をされるなんて!」というような思いがあります。

そのような時、私達は気がつきませんが。そうです、その時、私達はその人の上に立とうとしています。イエス様がそうされたように人の交わりの中で「仕える者、僕」のように生きることは、このような騒ぐ心から私達を守ってくれます。

なぜなら、私達の心にはいつもどこかに「仕えるよりも仕えられたい」という思い、「こんなことは自分がすべきことではない」という思いが常につきまとうからです。そして、これらの思いと共にある限り私達の心に平安はないからです。しかし、イエスのように、それらに思い煩う前に椅子かた立ち上がり、水を汲み、タオルを腰に巻き、弟子達の足を洗う生き方へと私達の生き方をシフトしていくのなら、私達の心からイエス様が与えて下さる平安が失われることはないのです(ヨハネ14章27節)。

今朝、私達は2000年前の初代教会では一同がひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをもっていたと話しました。ここから私達は信仰生活は誰かと競い合う競争ではないということ、最も大切なことはこの信仰生涯を私達が各々のペースで続け、この地上での旅路を完走することだということを学びました。

そして、一同、ひたすら聖書の教えを守り、主にある兄弟姉妹の交わりを絶やさないことです。水は必ず高い所から低い所に流れるように、神の祝福と恵みも高いところから低い所に流れます。

人が集まるところには色々な淀みが起こりえますが、そのところにおいてキリストと同じように喜んで腰を低くして生きるのなら、不思議と今まで私達の心を騒がせていたものから解放されていく自分を発見することでしょう。

そして兄弟姉妹との交わりの中に神の多種多様な知恵を見出すことでしょう。驚くべきことは、ここにいらっしゃる皆さんは今、既にそのような場所に招かれているということなのです。続けましょう。一同、主の教えに聞き従い、それを守りましょう。主イエスの愛された交わりを楽しみましょう。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年8月25日

1)使徒行伝2章42節-47節を読みましょう。「一同はひたすら」という言葉からあなたは初代教会の人達のどんな姿を想像しますか。

 

2)あなたは長い間、継続してきたことがありますか。何かを達成した人とそれを達成できなかった人達の違いは何ですか。

 

3)「使徒たちの教えを守り」ということは使徒たちがイエス様から受けた教えを伝え、それを人々が守っていたということです。「イエス様の教え」ということを考える時にまずあなたの頭に思い浮かぶ教えは何ですか。なぜ、その教えが最初に頭に浮かんだのでしょうか。

 

4)「Into the Wild」という映画の中でクリスという青年が自由を求めてアラスカの原野に一人で暮らし始めたという、その彼の気持ちをあなたは理解できますか。

 

5)過酷な自然の中でクリスが涙を流しながら書き残した言葉、「幸福が現実となるのはそれを誰かと分かち合った時だ」という言葉にあなたは同意しますか。

 

6)創世記において神様は一人でいるアダムを見て、「人がひとりでいるのはよくない」(創世記2章18節)と思われ、彼にエバを与えられました。なぜ神様は人がひとりでいるのはよくないと思われたと思いますか。

 

7)「人がひとりでいるのはよくない」ということが神様が人間に対して抱いている思いであるのなら、私達はこの言葉に従うべきです。イエス様はそんな人と人の間で、どのように生きることを勧めていますか→マタイ20章25節―28節。

 

8)なぜ「仕える僕になること」は私達を諸々の思い煩いや苦々しい思いから救ってくださるのでしょうか。私達は日々の生活の中でどのようにしてキリストのように仕える僕となることができますか。

2 thoughts on “「こうして教会は(9):ひたすら一同がしていたこと」

  1. 俺がこれを観た時、「いつか息子に見せたいなあ」と思ったのだけど、先日、一緒に見たDVDの予告編にこれが入ってて、「これ、観ろ」、「おもしろそうだね」と相成った。

    ショーン・ペンは監督としても一流だな。

    • そうか!うちの倅も興味を持っていたよ。若いうちに周囲数十キロ、誰もいない原野で一人、数日、過ごしてみるのはいい経験になるな。その点、アラスカはうってつけの場所だと思うよ。ショーン・ペン、いいな。

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