「杖」と「ムチ」が示すこと

crT83ユダヤ人の心理学者、哲学者であるエーリッヒ・フロムは父の愛についてはこう書いています『父親の愛は条件つきの愛である「わたしがおまえを愛するのは、おまえが私の期待にこたえ、自分の義務を果たし、私に似ているからだ」というのが父親の愛の原則である』(『愛するということ P71』エーリッヒ・フロム)

この言葉は私にとりまして目から鱗となりました。日本の心理学の第一人者である河合隼雄さんは「日本人はほんとうの父性というものを理解できていません」と指摘しているそうですが、なるほどと思わされます。そうなのです、自らを振り返ってみましても父とは何かということについて問われるのなら、考え込んでしまう自分がいるのです。しかし、エーリッヒの言葉、「父親の愛は条件つきの愛である」ということにハッとしたのです。そう、このことはまさしく聖書の中に繰り広げられる父なる神の姿を表しているからです・・・。

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「杖」と「ムチ」が示すこと
2016年8月7日

これまでお話ししておりますようにイスラエルの二代目の王であったダビデはかつては羊飼いであり、その実体験に基づく経験から羊飼いの仕事について、また羊の性質というものを熟知していました。その経験がある彼は羊を私達人間、羊飼いを主として、あの有名な詩篇23篇をつくりました。

1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。3主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。6わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう(詩篇23篇1節-6節)。

ここにいたるまで主は私達の牧者であって、主は私達を緑の牧場、憩いの水際に導くということを、またたとい私達が死の陰の谷を歩むようなことがあっても、主は私達と共におられるということをお話ししました。

しかし、羊飼いのなすべきことはそれだけではありません。彼の手には「ムチ」と「杖」が握られているのです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。す』(詩篇23篇4節)と書かれている通りです。聖書にはこの「ムチ」と「杖」が色々なところに出てきます。それらを読むかぎり、この「ムチ」と「杖」はどちらもその状況によって色々なことに用いられていたことが分かります。しかし、その中であえてその主な役割を申し上げますのなら、「ムチ」は敵から羊を守る武器となり、またそれは羊を本来彼らが歩くべき道へと連れ戻す、その矯正のためにも用いられたようです。「杖」は羊にとりましては彼らの先頭を歩く羊飼いの後についていくために必要な目印となり、ゆえにその杖は羊飼いの権威をあらわしました。今日はこのところから二つのことをお話したいとおもいます。一つ目、それは「必要な権威」ということです。

「必要な権威」

「杖」と言えば私達はあのモーセの杖を思い起こします。モーセの杖はエジプトで奴隷になっているイスラエルの民を救い出すようにと神様がモーセに与えられた権威の象徴でした。この杖によりモーセはエジプトの魔術師と戦い、この杖を紅海に差し伸ばすことにより水は分かれ、民は乾いた地の上を歩いて渡り、この杖で岩を打った時にそこから水が沸き出ました。この杖は常にモーセと共にあり、民はこの杖を見るたびにモーセに神が与えられている権威というものを思い起こしたのです。

権威というのは自分で承認するものではなく、与えられるものです。モーセはイスラエルの民を導く権威を神様からいただき、それを行使しました。なぜ警察官が私達の車を止めることができるのか。なぜなら彼らはそうすることができる権威が与えられているからです。

マルコ2章1節ー12節に、かつてイエス・キリストがガリラヤ湖畔のカぺナウムのある家にいた時、それを聞きつけた多くの人達が集まってきたということが書かれています。その家には隙間がないほどに人が集まっていました。そこに一人の中風の人を四人の人達が運んできました。彼らは人が多くてイエス様に近寄ることができないと判断し、屋根にのぼり、屋根をはぎとり、空いた穴からこの中風の人をイエス様の前に吊りおろしました。イエス様は彼らの信仰を見て、中風の者に言われました。「子よ、あなたの罪はゆるされた」。そして、この言葉を側で聞いていた幾人かの律法学者は心の中でこう論じたのです「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。イエス様は彼らが内心そのように論じているのをすぐ見ぬいて「私は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたに分かるために」と語ります。そう、人間には本来、罪を赦す権威はありません。確かに私達の世界では裁判所があり、そのところで免罪や減刑というような判決はなされますが、実際のところ誰しも神の前には罪人であり、その罪人が同じ罪人である人の罪を赦す権威はないのです。しかし、イエス様はその権威をもっているのだというのです。

このご自身が与えられている権威についてイエス様はこの地を離れる時にさらに明確にこう言いました18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章18節‐20節)。

そうイエス様は父なる神様からいっさいの権威が授けられていたというのです。そして、その授けられた権威に従ってイエス様は私達に語りかけております。そうです、私達はそのイエス様の権威に従うものなのです。

しかしながら権威という言葉に対して好意的な思いをもつ人はあまりいないようです。人は成長していく過程において、特に若い時にはこの権威に対してことごとく反抗します。今日の言葉で乱暴にいいますなら、それが「うざったく」思えるからです。さらにそれは若い時だけの話ではなくて、成人となっても「権威的に話す人」というのはどうしても受け入れられません。独裁者に与えられる権威は私達には害となります。ですから大切なことはしかるべき存在に与えられる権威です。その権威がどんな動機で発せられているのか、それが正しく遂行されているのか、その権威に対して私達が信頼して従うことができるということが大切です。

今、米国では連日、大統領選挙の報道がなされていますが、なぜ、私達の関心がそこに向けられているかといいますと、言うまでもなく私達はその選ばれた人に大きな権威を与えることになるからです。その人はその権威を使うことが許される、すなわちこの国に対して、その国民である私達に対してその影響力は多大だからです。

正しい権威が失われた世界は混沌としており、やがてそれは混乱と破壊へと導かれていくことでしょう。親としての権威を失った者が子を育てることはできません。警察官に権威が与えられていなければ無秩序が支配する世界となりますでしょう(今、この国で問題となっていることは、その権威の行使の仕方であります。権威には力がありますが、それが誤った動機で用いられますとその権威自体が混乱を招きます)。

今、私達の世界は寄って立つ基軸を失っています。何が善であり、悪であるかということが曖昧となり、何を基準にして物事を決めていいのかが分からなくなっています。結婚生活の基準はどこにあるのか。学習するということの基準はどこにあるのか。育児の基準はどこにあるのか。果ては「なぜ人を殺してはいけないのか」ということに対しても私達は答えを窮するような有様です。ですから、私達はこれらのことについて、権威ある方の言葉を必要とします。これらのことについて私達に語りかける権威をもっているお方がイエス・キリストなのです。

牧者なるイエス・キリストが持っておられる、その権威のしるしである杖は十字架のかたちをしています。その権威は私達に強制をうながすものではなく、私達がその十字架の前に、自発的に喜んでイエス様に従う力を与えるものです。そしてその権威は私達を正しい道へと導いてくださるのです。

パウロは26そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない』(Ⅰコリント9章26節)と言いました。私達はまさしく空を打つような空回りの生き方をしているのかもしれません。「何かに当たれば御の字」と言うかのごとく色々なことに手を出しては失意落胆しています。もし私達がイエス様の権威のもとに生きるのなら、私達が向かうべき目標を見出し、私達がなすべきことが神様からいっさいの権威を与えられているイエス様のもとに明らかになることでしょう。二つ目のことをお話します。それは「愛のかたち」ということです。

「愛のかたち」

私達の牧者なる主はその権威をあらわす杖を持ち、またムチをも持つお方です。主イエスはそのムチをもって私達を正すことがあります。この言葉を実際に主が私達の体にムチ打たれるということとして受け止める必要はないと思います。そうではなくて、主は時に私達の過ちを正すために、歩むべき道に私達を連れ戻すために、そのムチをもって私達に気づきを与えられます。そして、その気づきには大きな価値があるのです。このことについて聖書はみ言葉をもって私達に語りかけています。

ソロモンは書き残しました。むちと戒めとは知恵を与える、わがままにさせた子はその母に恥をもたらす』(箴言29章15節)。へブル人への手紙を書いた記者はこう書きました。また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。

 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる』(へブル12章5節‐11節)

先週も紹介しましたようにサバティカル中、色々な本を読み、多くの収穫を得ました。その中の一つに豊田信行という牧師が書きました「父となる旅路:聖書の失敗例に学ぶ子育て」(いのちのことば社)があります。豊田先生はまだ幼い時に牧師である父親を亡くしています。ゆえに自らに父親像というものがなく、その自らの探究を「父となる旅路」というタイトルに託しているように思われました。

豊田先生はユダヤ人の心理学者、哲学者であるエーリッヒ・フロムの言葉を引用して母親の愛についてこう書いています「母親に愛されるというこの経験は受動的である。愛されるためにしなければならないことは何もない。母親の愛は無条件なのだ。しなければならないといったら、生きていること、そして母親の子供であることだけだ。母親の愛は至福であり、平安であり、わざわざ獲得する必要はなく、それを受けるために資格もない」(『愛するということ P67』』エーリッヒ・フロム)

このことについてはあまり説明はいらないと思います。海という漢字に母という字が含まれているようにまさしく母の愛は広く、私達が何をしたか、どんな者なのかということに関係なく、私達が母の子であるということだけで、母は私達を包み込むものです。それでは父親の愛とはどんなものでしょうか。

豊田先生はエーリッヒ・フロムの言葉を引用して父の愛についてはこう書いています『父親の愛は条件つきの愛である「わたしがおまえを愛するのは、おまえが私の期待にこたえ、自分の義務を果たし、私に似ているからだ」というのが父親の愛の原則である』(『愛するということ P71』エーリッヒ・フロム)

この言葉は私にとりまして目から鱗となりました。日本の心理学の第一人者である河合隼雄さんは「日本人はほんとうの父性というものを理解できていません」と指摘しているそうですが、なるほどと思わされます。そうなのです、自らを振り返ってみましても父とは何かということについて問われるのなら、考え込んでしまう自分がいるのです。しかし、エーリッヒの言葉、「父親の愛は条件つきの愛である」ということにハッとしたのです。そう、このことはまさしく聖書の中に繰り広げられる父なる神の姿を表しているからです。

ここ20年ほどでしょうか「ありのままのあなたが愛されている」ということがキリスト教会ではさかんに言われてきました。それは間違ってはいません。確かに神様の愛は無条件です。この言葉は私達日本人にもよく分かるのです。とても嬉しい言葉なのです。既に亡くなられたクリスチャン作家であった遠藤周作はカトリック教徒として父なる神を日本人に伝えることの難しさを覚え、日本という国にキリスト教を根づかせるために、母性的な神、すなわち「母親のように全てを包み込む神」というテーマに生涯、向き合い、小説を書きました。そう、それは「ありのままのあなたが愛されている」という母性的な愛です。しかし、それは聖書に記されている神様の一つの姿であり、神様には父なる神の愛というものがあるのです。

そもそも、フロムの言う「父親の愛は条件つきである」ということはどういうことでしょうか。そんなこと初めて聞いたという方がいるかもしれませんが、そのことは聖書のいたるところに書かれています。例えば信仰の父となるアブラハムを神様が召された時に何と言われましたか「1時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。2わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12章1節ー2節)

神はイスラエル民族とその物語を始めるにあたりアブラハムに語りかけました。全てはここから始まったのです。その時に神様は「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたした示す地に行きなさい」とアブラハムに要求したのです。そう、それは先にお話しました権威を有するお方としての要求です。そして、その要求に応じるのなら「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となる」と約束されたのです。

この父なる神の要求はこれだけにとどまりません。やがてアブラハムには待望の息子イサクが与えられますが、その彼に神様はそのイサクの命を捧げるように要求します。アブラハムがそれに従おうと剣をイサクに振りかざした時に御使いは神様の御心を代弁するかのようにしてアブラハムに語りかけます「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(創世記22章12節)。そう、明らかにここにはイサクを捧げるようにとアブラハムに要求した神と、それに応えようとしたアブラハムの心のうちを知り、アブラハムがその要求に応えることを知り、それに満足されている神の姿があります。実に父なる神は私達にその要求に応えることを期待なさるお方なのです。

豊田先生はこう書いています。「もし、父が子供に何も期待せず、要求しなければ、子供は父の愛を受け取ることができない。何も要求しない優しい父は無理難題の要求ばかりをする父よりは無害かもしれない。しかし、要求しない父親は子供を承認することをしていない」(P32)

神様の愛は完全な愛です。それは父性的な愛と母性的な愛を包括し、超越しています。神の愛は無条件の愛でありながら、その期待に応えることを求める愛なのです。ゆえにイエス様は私達にこう要求されたのです「だから、あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5章48節)。

豊田先生はこの後にダビデとその息子アブシャロムとの関係について書いています。そう、ダビデには異母兄弟からなる20人の子供がいました。その中でダビデは長男アムノンを特に愛しました(聖書にはいつもこのようにある子供だけを愛する溺愛というものが出てきます)。やがてはこのアムノンに王位も継承してもらいたいとダビデは願っていたことでしょう。しかし、問題が起こります。

このアムノンは自らの異母の妹タマルに恋心をもちます。そうです、それは禁断の恋です。しかし、彼の思いは激しく、彼は無理やりにタマルと関係をもち、彼女を辱めるのです(いつもお話しますように聖書は人間の美しさを書いているのではなく、人間の赤裸々の姿を書いています)。妹に起きたことを聞いたタマルの兄アブシャロムはこの一件を聞き、激怒します。しかし、その怒りを押し殺して、長兄アムノンと向き合います。そうです、なぜ彼がそのように装うことができたかと言いますと、アブシャロムは自分の尊敬する父、ダビデならたとえ愛する長兄アムノンであっても特別扱いをせずにタマルを辱めた罪を正しく裁いてくれるに違いないと父を信頼するのです。

父の子達に対する愛は「正しい要求」、この場合はダビデの「正しい裁き」によって証明されます。子供は父の愛を正しい裁きによって経験するのです。聖書は愛を「不正を喜ばずに真理を喜びます」(Ⅰコリント13章6節)と教えています。過ちを正さないのは愛ではない。不正を見過ごすことは愛ではありません。愛は真理を喜びます。

フロムは成熟した人間の特徴は母親的良心と父親的良心を併せ持っていると記しています。『母親的良心は言います、お前がどんな過ちや罪を犯しても、私の愛はなくならないし、お前の人生と幸福に対する私の願いもなくならない」。父親的良心は言います、「おまえが間違ったことをした。その責任をとらなければならない。何より私に好かれたかったら、生き方を変えねばらない」(「愛するということ」。P73)

 豊田先生はこう書いています。『子供は父親に対して正しさの象徴であることを望んでいます。子供は父親が愛情を注いでくれないことよりも、矛盾したことを平気で行うことに深く傷つきます。たとえば父親の女性関係が露呈したとき、特に息子は母親を愛していない父を憎むのではなく、母親と家族を裏切った不正行為に腹を立てる。子供が父親に傷つくのは「愛が足りない」からではなく「不誠実」であるからです。子供は自分が過ちを犯した時、「お前は間違ったことをした」と誠実な父親に責められることで父の愛を確かめるのです』(「父となる旅路:聖書の失敗例に学ぶ子育て」(いのちのことば社)P40)。

時経たず、アムノンとタマルのことは父ダビデの耳にも届きます。ダビデはそれを聞き、激怒します。しかし、結論から言いますとダビデはこのことを聞きながらも、アムノンを裁くことなく、彼のしたことを不問としました。詳細は省きますが、かつて自分も犯したバテシバとの一件が彼の心に複雑な思いをのこしていたのかもしれません。

兄弟アムノンに対して父の権威をもって正しい裁きをすることがないということを知ったアブシャロムはダビデを見限って自らの手で兄、アムノンを殺します。そして、このアブシャロムは父ダビデへの反旗をひるがえします。しかし、父ダビデは我が子アブシャロムとも向き合うことなく逃げます。主にある皆さん、ダビデはイスラエルにおける最も偉大な王でありますが、このような弱さを抱えていました。そして、このアブシャロムもダビデとの戦の中で命を失っていくのです。

もし、ダビデがその権威をもって、アムノンの問題を指摘し、それを裁き、同時に赦しの愛をもって彼を愛するのなら、彼は二人の息子を失うことはなかったのです。「もしあなたがたが、誰でも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」(へブル12章8節)。この言葉にダビデを照らし合わせますのなら、彼の子達に起きたことの根本原因はダビデがアムノンを私生子としてしまったことなのです。

主にある兄弟姉妹、これらのことを私達が知る時に私達はなぜ主がその手に権威の象徴となる杖があり、私達を戒めるムチがあるのかが分かるのです。なぜ、それが羊なる私達にとって慰めとなるのかが分かるのです。

少年非行で補導された少年少女の多くが「親から叱られなかったこと」で拒絶感や疎外感が深まったと証言しています。親から贅沢な生活を提供され、何の不自由もない豊かさを享受していながら、本気で叱ってもらえないことに深い寂しさをかんじている。いつも親が子供の罪の償いを肩代わりしてきたのでしょう。いくらでも正さなければならないところがありながら、子供の言い分や言い訳に相槌を打ってきた、そのことにより親子の確執は生まれないでしょうが、子は親の心を見透かしています。親が子供の過ちを肩代わりすることで子供は喜ぶかもしれない、しかしその時、子供は愛されているとは感じないのです(「父となる旅路:聖書の失敗例に学ぶ子育て」(いのちのことば社)P63)。

正直申しまして私はここまで父がなすべきこと、父が示し得るこのような愛ということを考えたことはありませんでした。しかし、その語られていることに対して、自らのいたらないところ、失敗と呼ばれるものを省みるにつけ、この姿が聖書の中にある父なる神の姿であるということを知る時にこのことを十分に納得しました。

そして母性とこの父性の愛を併せ持ち、否、それを超越している神の私達に対する愛にあらためて驚いたのです。ゆえに神の子として、その権威である杖から目を離さず、私達を正しい道へと導くために振られる愛のムチを受け、私の先頭に立つ牧者なる主に従っていくことを心から願うのです。これらのことを知る時に今まで何度も聞いていたあの言葉が全く違った言葉として私の心に響いてくるのです。

また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」

 そうです、私達は私生子ではなく、私達に語りかける権威をお持ちである父なる神、私達にその愛ゆえに戒めを与える神の子なのです。神は我々を無条件で愛し、我々に要求し、我々を正すことによりその愛を示すお方なのです。私達の主がその手に握るムチが私達を守り、私達を救うのです。お祈りしましょう。

“Rod” and “staff”

August 7, 2016

As I have told you before, David, the second king of Israel, was once a shepherd. And he understood the nature of sheep as well as the responsibility of a shepherd. With that intimate knowledge, David wrote that famous Psalms 23, depicting sheep as human being and the shepherd as the Lord.

The Lord is my shepherd, I lack nothing. He makes me lie down in green pastures, he leads me beside quiet waters, he refreshes my soul. He guides me along the right paths for his name’s sake. Even though I walk through the darkest valley, I will fear no evil, for you are with me; You prepare a table before me in the presence of my enemies. You anoint my head with oil; my cup overflows. Surely your goodness and love will follow me all the days of my life, and I will dwell in the house of the Lord forever. (Psalms 23:1-6)

We have learned that the Lord is our shepherd, that he leads us to the green pasture and beside quiet waters, and that the Lord will be with us even when we walk though the darkest valley.

But the work of a shepherd is not limited to these. A shepherd holds a “rod” and a “staff” in his hands. It is written: ”Your rod and your staff, they comfort me(Psalms 23:4) “Rod” and “staff” are mentioned often in the Bible. From the Bible, we understand that the rod and the staff had different purposes. Mainly, a “rod” was used as a weapon to protect the sheep from enemy, while a “staff” was used to guide the sheep to the right path and to correct the behavior of the sheep. The “staff” was a visible sign to follow the shepherd leading the flock, and also represented the authority of the shepherd. From today’s scripture reading, I would like to talk about two topics. The first one is a “necessary authority”.

Necessary authority

A “staff” reminds us of the staff of Moses. That staff was given to Moses as the symbol of authority that God had granted Moses in order to save the Israelites out of the slavery of Egypt. With this staff Moses battled with the magicians of Egypt, parted the Red Sea so that the people could walk to the other side, and struck the rock to allow water to gush out from it. The staff was with Moses always, and people were reminded of the authority God had granted to Moses.

Authority is not self-declared. Rather, it is granted. Moses was granted an authority from God to lead the people of Israel and he executed it. The reason why the police officers can stop our cars is because they are granted an authority to do so.

Mark Chapter 2 Verses 1-12 talk about a time when Jesus Christ was at a house in Capernaum by the Sea of Galilee. Many people were gathered there. The house was jam-packed with people. Then, four people came carrying a paralyzed man. Seeing that they could not approach Jesus because of the crowd, they decided to climb up the roof, made an opening there, and lowered the man through the hole. Seeing their faith, Jesus said to the paralyzed man: “Son, your sins are forgiven.” But some of the teachers of the law were thinking: “Why does this fellow talk like that? He is blaspheming! Who can forgive sins but God alone?” Knowing what they were thinking in their hearts, he says: “I want you to know that I have an authority on earth to forgive sins.” People do not have any authority to forgive sins. In our world, we have a court of law, and people are forgiven or commuted their sentence there. But, actually, we are all sinners in front of God. And, we have no authority to forgive other sinners. But, Jesus was granted that authority.

Jesus talked about his authority more clearly when he was leaving this earth. 18 Then Jesus came to them and said “All authority in heaven and on earth has been given to me. 19 Therefore go and make disciples of all nations, baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit, 20 and teaching them to obey everything I have commanded you. And surely I am with you always, to the very end of the age.” (Matthew 28:18-20)

Yes. Jesus had been granted all of the authority from his father. With that authority, Jesus is talking to us. We are supposed to obey his authority.

But people tend to resist the authority and the people in authority. People, especially young people, tend to rebel all forms of authority. To young people, authority is old fashioned and outdated. Even grown-ups have some feeling of resentment for people in power and authority. A dictator abusing authority is even harmful to the general public. Important thing is that the authority is given to the right people. What is the basis of the power, and how is the power exercised? We need an authority that we can trust and obey.

In these USA, news media are busy reporting the progress of the presidential election. his election is important since it decides who would be given the authority to lead us all.President will be given an authority over this nation and the people within it.

When the right power is lost, there is bound to be a chaos and destruction. If a parent loses its authority, he cannot raise the children. Police without proper authority will lead to unruly society.  (This nation is struggling on the right way to exercise its authority. An authority comes with power. But if such power is misused, such authority will lead to chaos.)

Our world today seems to have lost the basic principle. We do not know what is good and what is bad. We do not have the right guideline to follow. What is a right form of marriage? What does education have to teach the young? How should we raise our children? We even waver on the clear reason for not killing people. We need a solid guideline from the correct authority. The one who can provide us with such an authority is Jesus Christ.

Our shepherd Jesus Christ carries a staff of authority in the form of a cross. This authority is not forced on us against our will. This cross provides us with strong motivation to follow the authority. This authority will lead us to the right path.

Paul said:  Therefore I do not run like someone running aimlessly; I do not fight like a boxer beating the air.” (I Corinthians 9:26)  Many of us are like a boxer beating the air. We swing our arms aimlessly and end up finding nothing but disappointment. If we were to live under the authority of Jesus, who had been granted all of the authority from God, we would be shown our goals clearly and we should understand our role in this world. Let me talk about the second point. That is the different forms of love.

Different forms of love

Our Lord and our shepherd carries a staff of authority and he also carries a rod. Lord Jesus sometimes corrects us with his rod. It does not mean that he will beat us physically to discipline us. He uses his rod to open our eyes to our mistakes and to bring us back to the right path. It is very important for us to open our eyes and realize what we are doing. The Bible also tells us so.

Solomon wrote: “A rod and a reprimand impart wisdom, but a child left undisciplined disgraces its mother.” (Proverbs 29:15)  The writer of the letter to the Hebrews said: And have you completely forgotten this word of encouragement that addresses you as a father addresses his son? It says, “My son, do not make light of the Lord’s discipline, and do not lose heart when he rebukes you, because the Lord disciplines the one he loves, and he chastens everyone he accepts as his son.” Endure hardship as discipline; God is treating you as his children. For what children are not disciplined by their father? If you are not disciplined—and everyone undergoes discipline—then you are not legitimate, not true sons and daughters at all. Moreover, we have all had human fathers who disciplined us and we respected them for it. How much more should we submit to the Father of spirits and live! 10 They disciplined us for a little while as they thought best; but God disciplines us for our good, in order that we may share in his holiness. 11 No discipline seems pleasant at the time, but painful. Later on, however, it produces a harvest of righteousness and peace for those who have been trained by it. (Hebrews 12:5-11)

I read many books during my sabbatical leave. One was a book entitled “Journey to fatherhood: Learning from mistakes recorded in the Bible on raising a child”, written by Rev. Nobuyuki Toyoda. Rev. Toyoda had lost his father when he was still young. That is why he did not have father figure to learn from. In his book “Journey to fatherhood” he tried to share his understanding of what it means to be a father.

Rev. Toyoda quotes from Erich Fromm, a Jewish psychologist and a philosopher, about love of mother.   “Being loved by mother is a passive experience. One does not have to do anything to be loved by mother. Her love is unconditional. Only requirement is to be alive and be her child. Love of mother provides an extreme happiness and peace of mind. You do not have to seek it or be qualified to receive that love.”

The Chinese character for a mother contains a character for an ocean. The love of mother is vast and deep as an ocean. Her love embraces us regardless of what we do, or who we are. She loves the child simply because the child is hers.

Regarding the love of a father, he also quoted from Erich Fromm and wrote:  “Fatherly love is conditional. Father loves the child only if the child meets his expectation, carries out his duty, and looks a lot like him.”

These words opened my eyes. A leading psychologist of Japan, Dr. Hayao Kawai points out that “Most of Japanese people do not understand what the father is.” I tend to agree. When we are asked what the father is, most of us are not sure how to answer. But Erich Fromm said that “fatherly love is conditional”, I realized that the father figures in the Bible are just like that.

For almost 20 years recently, Christian churches have been saying that people are loved as they are. This is not incorrect. True, God’s love is unconditional. These are words we Japanese can understand. They are pleasing words. Endo Shusaku, a Christian writer found it hard to convey the concept of Father God to Japan. So, he conveyed a Mother God, namely God that embraces everyone like a mother. He presented God of motherly love that loves people as they are. But, that is not the only image of God in the Bible. There is also fatherly God and fatherly love.

So, what did Fromm mean when he said that the fatherly love is conditional? Perhaps some of you have never heard about this. But, it is mentioned often throughout the Bible. For instance, what this God say when he called Abraham? 1 The Lord had said to Abram, “Go from your country, your people and your father’s household to the land I will show you. I will make you into a great nation, and I will bless you; I will make your name great, and you will be a blessing.” (Genesis 12:1-2)

The story of God and the people of Israel had started when God spoke to Abraham. At that time, God commanded Abraham: “Go from your country, your people and your father’s household to the land I will show you.” This was a command from the one with the authority. And, God promised that if Abraham obeyed that command, “[God] will make [Abraham] into a great nation, and will bless [him] and will make [his] name great, and he will be a blessing.”

This command was not the only one from God. Later, Abraham was blessed with his son Isaac. But, God commanded Abraham to sacrifice the life of Isaac to God. But, when Abraham was about to kill Isaac with his knife, an angel called out to Abraham:  “Do not lay a hand on the boy,” he said. “Do not do anything to him. Now I know that you fear God, because you have not withheld from me your son, your only son.” (Genesis 22:12)  Here we see God commanding Abraham to offer Isaac as a sacrifice and Abraham obeying his command. This action of Abraham was a testimonial of his faith. God was happy to see that Abraham obeyed God’s command and God was satisfied.

Rev. Toyoda wrote:  “If a father does not expect nor demand anything from his child, the child cannot receive love from the father. A father who does not demand obedience from a child may be innocuous. But, such a father is not accepting the child into his love.”

Love of God is complete. That love embraces both fatherly and motherly love and more. God’s love is unconditional, and yet God demands we respond to his expectation.  That is why Jesus told us:  “Be perfect, therefore, as your heavenly Father is perfect.” (Matthew 5:48)

Rev. Toyoda also speaks about the relationship between David and his son Absalom. David had 20 children. David especially loved his first son Amnon. (Bible often talks about one child being loved more than other children.) King David must have wanted this Amnon to take over his position eventually. But a problem intervened.

But, this Amnon falls in love with his half-sister Tamar. It was a forbidden love. But, his strong desire caused him to overpower and rape Tamar.  (As I have said many times, the Bible not only speaks about the good side of human being but also the ugly side.) When her brother Absalom heard what had happened to his sister Tamar, he was angry. But, Absalom controlled his anger as he faced Amnon. Why could he behave this way? Because Absalom believed that David, his respected father, would not overlook what Amnon did and would punish him accordingly.

Fatherly love demands his son to be upright. This is revealed by just punishment. A child learns about the fatherly love through such punishment. The Bible says: Love does not delight in evil but rejoices with the truth.” (I Corinthians 13:6)  Love does not overlook evil deeds, but it corrects them. Love rejoices with the truth.

Fromm says a mature individual has both the motherly conscience and fatherly conscience. “Motherly conscience says whatever mistakes you make, I will continue to love you and I hope the best and happiness in your life.” Fatherly conscience says: “If you make a mistake, you have to be accounted for your action. If you want me to love you, you must correct your way of living.”

Rev. Toyoda said:  “A child wants father to be a symbol of righteousness. A child is hurt by a father not showing his love. But he is hurt more by a father whose behavior is contradictory. For example, if father is found to be in an affair, the son does not hate father for not loving his mother but for betraying his mother. The child is hurt not because his father lacks love but because father is not honest. A child knows his father loves him when he is scolded for his mistakes.”

Soon afterwards, father David heard about Amnon and Tamar. Upon hearing this, David got angry. But, although David had learned about this, David failed to punish Amnon and did not do anything. We do not know the details. But, David could have been influenced with his own guilty feeling about his relationship with Bathsheba.

When Absalom learned that his father David did not punish Amnon as he should have, Absalom decided to act on his own and killed Amnon. In this way, Absalom rebelled against his father David. But, father David avoided confrontation with his son Absalom. Brothers and sisters, although David was one of the greatest kings of Israel, he was also weak. This Absalom lost his life during his battle with David.

David would not have lost his two sons if David had pointed out Amnon’s mistake and took correct action accordingly. If you are not disciplined—and everyone undergoes discipline—then you are not legitimate, not true sons and daughters at all. (Hebrews 12:8)  We can say that the fundamental problem of David was that David treated his son as illegitimate.

When we hear such a story, we understand why the Lord carries in his hands the staff of authority and the rod to guide us. This gives us comfort. We are his sheep.

Many of juvenile delinquent youths say that they felt rejected and neglected because their parents failed to scold them. Perhaps these young people were provided abundantly with material comfort. But, they felt lonely and unloved because the parents did not scold them sincerely. Perhaps their parents tried to blame themselves for children’s actions. The parents knew that they had to steer the children to the right path. But, they condoned their behavior without scolding them. This may result in a superficial peace. But the child knows better. When the parents take blame for children, the children might feel relieved but also feel that they are not loved by parents.

To be honest, I have not seriously considered what an ideal father should do or how a father should reveal his love. But, as I read these stories, I realize what I was lacking and I have not been a good father. I am convinced that the Bible is telling us that God is showing us what a father should be.

We are surprised again for the love of God who has both the motherly and fatherly love and even more. That is why we want to follow the Lord our Shepherd keeping our eyes on his staff of authority and accepting the rod of love leading us to the right path. When we learn this, the familiar scripture section echoes in our heart with a new meaning.

And have you completely forgotten this word of encouragement that addresses you as a father addresses his son? It says, “My son, do not make light of the Lord’s discipline, and do not lose heart when he rebukes you, because the Lord disciplines the one he loves, and he chastens everyone he accepts as his son.” (Hebrews 12:5-6)

 We are not illegitimate children. We are children of God who speaks to us with authority and disciplines us with love. God loves us unconditionally, and he shows his love through his demands and guidance. The staff and the rod in the hands of the Lord protect us and are source of our salvation.

Let us pray.

Translated by Dr. Yasuhisa Hosomatsu

本日のおもちかえり

2016年8月7日

 

1)詩篇23篇1節-6節を読み、特に4節に注目しましょう。あなたはここから羊飼いが持つ「むち」と「杖」についてどんなイメージをもちますか。それらはどんな目的で使われたと思いますか。

 

2)なぜ、「ムチ」と「杖」が私達を慰めるのでしょうか。

 

3)「杖」は牧者の「権威」をあらわしています。今日の世の中に私達が従うことにより、私達が正しい道を歩き続けることができる権威というものがありますか。親の権威、上司の権威、国の権威は常に正しいですか。

 

4)マルコ2章1節ー12節、マタイ28章18節‐20節を読みましょう。ここにはイエス様のどんな権威が書かれていますか。その権威は誰からイエス様に与えられたのですか。あなたはイエス・キリストがもっている権威に従うことを望みますか。なぜですか。

 

5)箴言29章15節、へブル12章5節‐11節を読みましょう。ここに記されている「ムチ」はどんなムチですか。それが「愛のムチ」であるということはどのようにして分かりますか。

 

6)母性的な愛とは一般的にはどんな愛でしょうか。父性的な愛は聖書の中にどのようなかたちで記されていますか。母性的な愛、もしくは父性的な愛だけで子供は健全に育ちますか。なぜですか。

 

7)「これは神様からの愛のムチだ」ということは、どのようにして分かりますか。あなたには牧者なる主の愛のムチが必要ですか。

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