「疫病」と呼ばれた男

この数か月、私達は毎日「感染」という言葉を聞きました。感染とは私達の体内にその体よりも小さい病原体が侵入、寄生し、増殖することを意味します。感染は一人の人から始まり、やがてその感染は他の人に伝わります。

それを「伝染」とよびます。そして、その伝染が社会全体に爆発的に広がっていく、それを「流行」と呼びます。英語では「パンデミック」と呼びます。まさしくコロナウイルスはこのようにして全世界に広がりました。

そのような中にあって、今も地球規模の脅威を世界に与え続けているこのウイルスの名前を持ち出して、誰かに向かって「よう、コロナ!」とか「あなたはコロナのような人だ」と言うことは決して許されません。もし、このようなことが起きますとそれは社会的に大きな問題となります。

しかし、聖書の中にかつてそのように呼ばれた男がいました・・・。

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「疫病」と呼ばれた男
2020年5月31日

 皆さん、今日はどんな日かご存知ですか。「5月最後の日曜日!」。確かにそうです。しかし、今日はあることを記念する日なのをご存知ですか。

キリスト教にはクリスマス、イースターとよく知られた特別な日があります。そして、その特別な日が実は今日なのです。この二つの記念日に比べますと、その日はそれほど知られていないかもしれません。しかし、それはとても大切な日です。

そう、今日は「ペンテコステ」です。この日がどれくらい大切かといいますと、この日なくして今日のキリスト教はありえないというほどにこの日はとても大切な日なのです。

私達はこれまで数回にわたり出エジプト記を見てまいりましたが、今日はこのペンテコステについてお話しをさせていただきます。そして来週は、また出エジプト記に戻りたく願っています。

ペンテコステとはギリシャ語で数字の5を意味する「ペンタ」と数字の 10を意味する「コスト」の組み合わせで成り立っいる呼び名で、それは50を意味します。

何が50かといいますと、このペンテコステはモーセがイスラエルの民をエジプトから救い出したことを記念する「過ぎ越しの祭り」の日から50日目が穀物の収穫を感謝する五旬節の日であったというところから、イエス・キリストが復活された日、すなわちイースターからちょうど50日目に弟子たちの上に聖霊が注がれた日を私達はペンテコステと呼んでいるのです。

そのペンテコステの日には何が起きたのでしょうか。聖書はキリストの弟子達に起きたことをこう記しています。

1五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した(使徒行伝2章1節-4節)。

この時、イエス・キリストは既に十字架にかかり、復活され、そして天におりました。そうです、彼らはもはやイエス様ご自身と食卓につき、その話を聴くことも、共に旅することも、その奇しき御業を見ることもできなくなっていました。

イエス様なき弟子達はそのような状態でエルサレムにとどまっておりました。その彼らの上に聖霊がのぞみ、彼らは聖霊に満たされたのです・・・。

そして、このことはたまたま弟子達に突然、起きたということではありませんでした。イエス・キリストが復活して、天に昇られたということが使徒行伝には記録されていますが(使徒行伝1章9節)、召天の直前にイエス様は二つの約束を弟子たちに残されました。「その時」というものを考慮しますのなら、それらの約束はイエス様の弟子達に対する最後の言葉です。

すなわち、その言葉とは「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう(使徒行伝1章4節、5節)ということと、その後、8節の「ただ、聖霊があなたがたに下る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう(使徒行伝1章8節)という言葉でした。

これらの二つのイエスの言葉には「~であろう」という言葉が語られています。つまり、それはその時にはまだ起きていないことでしたが、そのことは近い将来に必ず起きるだろうというイエス様の言葉でした。

そして、このイエス様の「~あろう」という言葉は使徒行伝のみならず、ヨハネによる福音書においてもイエス様が十字架に架けられる前から、ご自身の口を通して、繰り返し何度も語られていたのです。

ヨハネ14章16節―17節、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは、真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない」

ヨハネ15章26節、「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それは私についてあかしをするであろう

ヨハネ16章7節-8節、「しかし、わたしは本当のことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もしいけば、それをあなたがたにつかわそう。それが来たら、罪と義と裁きについて、世の人の目を開くであろう

ヨハネ16章13節―15節、「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊は私に栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」

まさしく「あろう」のオンパレードです。そして、驚くべきことに、これらの言葉は全て同じことについて言っています。そうです、それは一言でいますのなら「あなたたちの上に聖霊が来られる、聖霊が臨まれる」ということでした。

 コロナウイルスがいつ、どのようにして、どれくらいの広範囲で広がるかということを予言していた人はいません。しかし、「聖霊が人に注がれる」ということについてイエス・キリストはその時と場所と様子と拡大の範囲について、そのことが起こる前に予め話されておりました。

イエス様は繰り返し、このことを弟子たちに語り、その聖霊を「エルサレムで待ち望みなさい」と言われ、その約束の言葉はペンテコステの日にエルサレミにとどまっていた弟子達の上に成就したのです。

そして、このことゆえにキリストが言われていたもう一つのこと、すなわち「ただ、聖霊があなたがたに下る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう(使徒行伝1章8節)という言葉もその成就に向けて動き出したのです。

この言葉に関して言いますのなら、皆さんも私もこのことが本当に起きたといういうことを証言する、エルサレムから彼方の果てに暮らす証人なのです。誰もこの事実を否定することはできません・・・。

この数か月、私達は毎日「感染」という言葉を聞きました。感染とは私達の体内にその体よりも小さい病原体が侵入、寄生し、増殖することを意味します。感染は一人の人から始まり、やがてその感染は他の人に伝わります。

それを「伝染」とよびます。そして、その伝染が社会全体に爆発的に広がっていく、それを「流行」と呼びます。英語では「パンデミック」と呼びます。まさしくコロナウイルスはこのようにして全世界に広がりました。

そのような中にあって、今も地球規模の脅威を世界に与え続けているこのウイルスの名前を持ち出して、誰かに向かって「よう、コロナ!」とか「あなたはコロナのような人だ」と言うことは決して許されません。もし、このようなことが起きますとそれは社会的に大きな問題となります。

しかし、聖書の中にかつてそのように呼ばれた男がいました。誰だかお分かりになりますか。パウロです。ご存知のようにパウロはかつてキリスト教徒を捕らえては獄に投じることに使命を感じていた男、殺害の息をはずませながらキリスト教徒を探し回っていた男です。

しかし、その男に神は目を留めまして、彼を回心へと導かれ、彼は転じて、命を懸けてイエス・キリストを伝える者となりました。そのために彼は捕らえられ、裁きの座に立たされ、獄に投じられたことが度々、ありました。使徒行伝はその一つの出来事をこう記しています。

1五日の後、大祭司アナニヤは、長老数名と、テルトロという弁護人とを連れて下り、総督にパウロを訴え出た。2パウロが呼び出されたので、テルトロは論告を始めた。「ペリクス閣下、わたしたちが、閣下のお陰でじゅうぶんに平和を楽しみ、またこの国が、ご配慮によって、3あらゆる方面に、またいたるところで改善されていることは、わたしたちの感謝してやまないところであります。4しかし、ご迷惑をかけないように、くどくどと述べずに、手短かに申し上げますから、どうぞ、忍んでお聞き取りのほど、お願いいたします。5さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります(使徒行伝24章1節―5節)。

その時、大祭司アナニヤはローマの総督ペリクスに「この男は疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起こしている者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります」とパウロを訴えました。

アナニヤは大祭司ですから、彼は幕屋や神殿の至聖所に入ることが許されたユダヤ社会で最も重んじられた人です。かつて神とイスラエルの間に立ち、その尊い働きをしていた人です。しかし、そのアナニヤの目にパウロは疫病のように見えたのです。パウロのユダヤ人に対する感染力、すなわち影響力を前にアナニヤは脅威を感じていたからです。

パウロの「影響」とは何か。それは「イエス・キリストこそが救い主である」とパウロが寝ても覚めても宣べ伝えていたことであり、そのメッセージがどんどんユダヤ人の間に、否、ユダヤ人を超えて諸々の他民族にも伝わっていったという影響です。

それではパウロのその「感染力」、「影響力」はどこから来たのでしょうか。彼の学識でしょうか。確かに彼は当時のいかなる律法学者を前にしても彼らを論破するような学を積んでいました。しかし、相手を論破したからといって、その信仰は人には伝わりません。

私には若い頃、日本での苦い経験があります。礼拝後にランチを食べ、その後、教会の青年たちと色々なことを語り合っていました。そこにその日に初めて教会に来たという若者がいました。

話は自然に「キリスト教」ということになり、その若者はキリスト教に関する疑問を話してくれました。そう、キリストの処女降誕やキリストの復活の話です。それを聞いていた私は一生懸命にそのことを弁証しようとしました。

それはやがて議論となり、平行線のまま話は終わりました。その日以来、その方は教会に戻っては来ませんでした。あの数時間の議論の後の虚しさを今でも忘れることができません。

神学の一分野に弁証学(apologetics)というものがあります。弁証学はキリスト教に対する諸々の異議に対抗し、それを弁証する学問です。確かに弁証学を学ぶことにより、私達は信仰を堅固なものとし、異議をたてる者の口を封じ込めることができるかもしれません。しかし、弁証学を学び、それによりて誰かと議論したからといっても、その人が神を信じる、イエス・キリストを信じるかというとそんなことはないということを私はその時に知りました。それではパウロの感染力、影響力はどこからきたのでしょうか。

パウロはかつてサウロと呼ばれ、彼はキリスト教徒を殺害することに人生をかけていました。その彼が転じて、キリスト教徒になったのですから、その「生きた証」に力があったのでしょうか。確かに彼のBEFORE & AFTERの証にはインパクトがあります。しかし、実際のところ、その彼をうさん臭く思う者達がたくさんいたということも事実なのです。

劇的な回心と言えば、日本にもやくざからクリスチャンになったり、牧師になったという方達がいます。その方達の話を聞いたり、読んだりしていますと、悪の限りを尽くしていた所から、せっかくクリスチャンになったのに風当たりの強さを感じることがあるようです。

その風は世の中から、またキリスト教界の中から吹いてくるようです。「自分の過去を売りものにするな」「かつてさんざん迷惑をかけてた人達がいるのによく今、人前で説教ができるな」等々・・・。とても残念なことですが、おそらくこのような人の心は今も昔も変わりません。

確かにパウロの回心は劇的でしたが、その彼の強烈な証が大祭司をして「疫病のような男だ」と言わしめた理由ではなさそうです。それでは何か。

かつてサウロと呼ばれていたこのパウロは、ある日、クリスチャンを捕らえ獄にぶちこむために、今日のシリアのダマスコに向かっていました。3ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。4彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」7サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。8サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。9彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。(使徒行伝9章3節―6節)

パウロはその時、イエス・キリストの声を聞きます。「ダマスコに行きなさい。そこであなたがなすべきことが告げられる」と。それと同時に彼の視力は失われます。おそらく彼は連れの者に手を引かれながらダマスコに向かったことでしょう。

詳細は省きますが、神様は同じ時にダマスコにいるアナニアという人に幻の中で語られます(先ほどの大祭司もアナニヤでしたが、このアナニアは別人です)。「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。12彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」(使徒行伝9章11節―12節)。

こうしてパウロの元にアナニアが訪ねてきます。17そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。18するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、19また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、20ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた(使徒行伝9章17節―20節)。

おそらく彼らは互いに初対面であったことでしょう、そこでアナニヤはサウロにこう言ったのです。「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」(17)。

そうです、サウロはアナニアのもとで聖霊に満たされ、バプテスマを受け、迫害者から宣教者へと変えられたのです。私達はここにあのエルサレムで聖霊を受けたイエスの弟子達と同じ手続きを経て、キリストを宣べ伝える者へと変えられたパウロの姿を見るのです・・・。
イエス・キリストは40日にわたり復活後の姿を度々、弟子たちにその姿を現わされたと聖書は記録しています。死から復活した者と共に過ごすという、人知を超えたスーパーナチュラルな経験をしたこの弟子たちにとりまして、その驚くべき経験はキリストに対する揺るぎない強い確信となったに違いないと思います。

また彼らは人類の中でイエス・キリストから直々にその御教えを聴き、主イエスの御業を目の当たりに見た者達です。彼らが学び、見せていただいたものの価値は絶大で、そこには神の力が溢れていたことでしょう。

私達が暮らす社会でどのように人が用いられていくかといいますと、主にその要因となるものは「その人が学んだこと」と「その人が経験したこと」です。学生が「ビジネス」をメジャーとして大学で学び、企業に就職し、そこから社会人としての「経験」を積みます。10年後、彼が学んだことに肉づけされた経験は、彼らを会社に益をもたらすビジネスマパーソンへとしていることでしょう。

その時のイエスの弟子達にも「経験」と「学んだこと」がありました。彼らにとって特別だったことは、彼らは直にイエスから学んだことであり、また復活のイエスに出会うという類まれな経験でした。

しかしイエス様は彼らにそれらのものを頼りに世に出ていくことにあえてストップをかけ、天来の助け主なる聖霊を待ち望むようにと言われたのです。

大祭司アナニヤはパウロを「疫病」と呼びました。この大祭司が放った言葉は酷な言い方ではありましたが、その時のパウロに対するこの呼び名として相応しいものでした。そうです、聖霊というウイルスに感染した彼は、神の言葉を各地で伝えました。そして、その行く先々でそれは集団感染を起こしました。霊的なパンデミックが各地で起きたのです。

その原因は彼の力ではなく、人の目には見えない聖霊のみわざでした。そして、彼は常に、いかなる時にもこの聖霊を意識し、聖霊の働きを願い求め続けたのです。

パウロの時代、彼らは何によって宣教を進めていったのですか。彼らの前途には諸々の困難があったのです。こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増ていった(使徒行伝9章31節)。そうです、彼らは主をおそれ、聖霊に励まされながら歩んだのです。

私達がイエス・キリストへの信仰を決断する時、すなわち「イエスこそ私の主です」という信仰の告白をる時、そこには聖霊がはたらいています。パウロはこのことをよくよく承知しており、書いています。

『また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない』(コリント第一の手紙12章3節)。「イエスは主である」という信仰告白は私達が自らの力では、言いえないものであり、それを告白する時には聖霊のはたらきかけが不可欠なのです。
この聖霊がイエス様の約束通りに弟子達や使徒達に臨んで以来、彼らの宣教のわざはこの聖霊の指示に従うものとなりました。パウロはその宣教の旅を続ける中、聖霊の導きというものに細心の注意をはらいました。彼が第二回の伝道旅行に出ている時、彼は聖霊のお導きに従い、自らが向かうべき場所を決めたのです。

『6それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。7そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。8それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った』(使徒行伝16章6節-7節)。

彼らの頭の中ではアジヤで宣教することが最善と思えたのかもしれません。しかし、聖霊様はそこに介入されて、その地に行くこをゆるしませんでした。まさしく彼らの宣教の秘訣はその御霊の細き御声に心の耳を傾け、それに従い生きていくことだったのです。
私達は肉体を持つものであり、この肉体がある限り、私達の人生には色々なことが起こります。肉体をもつゆえの喜びがあります。おいしいものを食べた時、感動する光景を見たり、音楽を聞いた時、私達の肉体は喜びます。それは神様が私達に与えてくださっている祝福です。

しかし、この肉体を持っているということにより、私達は様々なチャレンジに向き合います。なぜなら、肉体はやがて朽ちていくものだからです。そうです、時に肉体はあちこちに病を負うものであり、その最後にはその肉体の命は失われるのです。

また私達のこの肉体は罪の温床ともなります。聖書はこの肉体をまとっている私達の心にある思いを「肉なる思い」といいます。聖書はその肉なる働きについてこう書いています。

19肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、20偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、21ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない』(ガラテヤ5章19節-21節)。

言うまでもありませんでしょう、これらのことにより私達の人生は混乱し、最悪の場合、これらのことにより私達は破滅してしまうということを。パウロの時代の教会において、もし教会が失われてしまう可能性があったとしたなら、その第一の原因は人間の内から出てくる苦々しいものであったことでしょう。そして、それは今日も変わりません。

しかし、私達の内に聖霊は御霊の実を実らせてくださると言います。『22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない』(ガラテヤ5章22節、23節)。

これらのものが私達の心に結ばれることを望まない人はいませんでしょう。これらが私達の人生を良き方向に向かわせる、これらが人との関係に祝福をもたらし、壊れた人間関係を築き上げることができるということを否定する人はいないでしょう。
もし、あの時、弟子達やパウロが自らの強烈な経験や知識、興奮と情熱だけで、すなわち肉の力だけで宣教をしていたらどうだったでしょう。せめて、もっても10年、弟子達が死んでしまえば、彼らが伝えたことなどは地上から全くなくなってしまったことでしょう。主にある皆さん、これが肉の力の限界なのです。

ですからパウロは言ったのです。「あなたがたは、そんなに物わかりが悪いのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか」(ガラテヤ3章3節)。

彼がアナニアのもとで聖霊を受けたということ、そのことによりのみ宣教のわざが成されていったということを一番、良く知っていたのはパウロだったのです。ですから、彼は御霊で始め、御霊で仕上げるべきだ、最初から最後まで聖霊に満たされてあなたは生きるべきだと語りかけているのです。

「疫病のような男だ」。一見、この言葉は侮辱に思われる言葉として聞こえます。しかし、まさしくこれこそが聖霊の力をあらわしているのです。聖霊は私達の目には見えませんが、私達を通して、それは伝染し、主が許されるのであるのなら、それが爆発的に広がり続けるのです。

嘘だろうと思うかもしれません。しかし、今朝のコロナウイルスが感染している国々があらわされている世界地図を見てください。そして、その地図の横に今日の世界のクリスチャン人口を占める世界地図を並べてみてください。そこに私達はまさしくクリスチャニティーのパンデミックを見るのです。

主にある皆さん、これが聖霊の力です。教会はこの聖霊によって産声をあげました。私達も聖霊によって新しく生まれたのです。これらのことから私達に確かなことは、私達が寝ても覚めても祈り求めることも聖霊であるということです。そう、私達が聖霊に満たされることです。私達は肉によって自らを仕上げることはやめるべきです。私達は聖霊に満たされ、聖霊と共に歩むべきです。

どうか主イエス・キリストが弟子達に約束された聖霊が私達の上にも望み、この聖霊に満たされて私達が日々を歩むことができますように。このウイルスの戦いのただ中で、このウイルスが過ぎ去った後も、私達は切にそのことを日々、祈り求めていこうではありませんか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年5月31日

1)あなたは父なる神、子なる神、聖霊なる神について、それぞれどんなイメージをもっていますか。

 

2)今日は礼拝の中でイエス様が何度も聖霊(助け主)の降臨について予め弟子達に伝えておられたということをお話ししました(使徒行伝1章4節、5節、8節、ヨハネ14章16節―17節、15章26節、16章7節-8節、13節―15節)。この繰り返された言葉からイエス様のどんな思いが分かりますか。

 

3)「ただ、聖霊があなたがたに下る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1章8節)という言葉が正しかったということはなぜわかりますか。

 

4)大祭司アナニヤからパウロは「疫病のような人間」だと呼ばれました。「疫病」にはどんな性質がありますか。アナニヤの目にパウロはどのように映っていたと思いますか。

 

5)パウロの影響力はどこから来ていたのでしょうか。彼の学識、経験、カリスマでしょうか。

 

6)初代教会は何を励みにしていましたか(使徒行伝9章31節)。

 

7)私達の信仰告白はどのようになされますか(コリント第一の手紙12章3「節)

 

8)人々は何に気をつけて伝道していましたか(使徒行伝16章6節-7節)

  

9)「肉のはたらき」(ガラテヤ5章19節-21節)と「御霊のはたらき」(ガラテヤ5章22節、23節)の違いは何ですか。あなたはどちらを求めますか。


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