「神の時」に応える勇気

かつてイエス・キリストは言いました。「あなたがたはこの世にあっては悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)

私は最近、ずっとこのイエスの言葉を思いめぐらしています。この世には悩みがある。イエスはそれを知っている。そう、我々には病があり、老いがあり、死がある。そして、疫病がある。そもそも、生きていくこと、そのものが、既に試練であり、悩みの連続でしょう。

しかし、それに対して神の子イエスは「わたしを信じなさい」とか「わたしに従いなさい」とは言わなかったのです。

イエスは言われた「勇気を出しなさい」。私はあなたの心に、私の時に一歩前に出る勇気を予めあなたの心の中に備えているのだ、だから、その時が来たのなら、あなたは勇気を出しなさい。恐れるな、勇気を出して、私の前に出なさい。私に近づきなさいと主は言われるのです。

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「神の時」に応える勇気
2020年4月26日

3月15日までさかのぼりますが、その日に私は使徒行伝から「こうして教会は」というシリーズの29回目のメッセージを礼拝の中でお話ししました。しかし、その後、グッドフライディーがあり、イースターがあり、オンラインサービスが始まり、コロナウイルスの感染が広がり、なかなかそのシリーズを再開できずにおりました。

そして、今、そのシリーズを振り返りますと、実際のところ、使徒行伝の中にうかがい知れる初代教会の姿というものを、ほほ全て皆さんにお話ししていたことが分かりました。

そこで、祈りつつ、これからのことを考えていたのですが、やはり私達が今、置かれているこのコロナウイルスとの戦いにどのように向き合っていくのかということを聖書の中から見ていくべきだと示されています。

そこで、これからしばらくの間、出エジプト記より、様々な状況に置かれたイスラエルの民が、神との冒険をどのように続けていったのかということを見、そこから神様の指針をいただきたいと願っています。

今から約3500年前、アブラハムを祖とするユダヤの民、数百万人が400年もの間、エジプトに奴隷となっており、彼らには過酷な労働が課せられていました。

しかし、そんな過酷な状況に置かれておりながらも、神は彼らに御目をとめられ、彼らの数は増えていきました。それは神の祝福でありました。しかし、増え続ける彼らの姿がエジプトの王、パロの目に留まり、彼はそれには恐れと脅威を感じました。

それゆえにパロはエジプト全土にこのような命令を出します。「ヘブル人に男の子が生れたならば、みなナイル川に投げこめ。しかし女の子はみな生かしておけ」(出エジプト1章22節)

 当時パロは人間でありながら、神と等しいものとされていました。それゆえにその命令は絶対でありました。この命令に従うか否かはオプションではなく、それは従わなければならないことでした。

私はよく「自分がコントロールできることに集中しましょう」と言います。それに対して自分の範疇を超えたこと、すなわち「コントロールできなことは神にお委ねしましょう」と言います。

このパロの命令は当時のユダヤ人にとりまして「自分ではコントロールできない命令」でした。人の歴史は度々、このような上に立つ権力者の意向によって翻弄されてきました。

自分だけではコントロールできないことが私達の人生には度々、あります。それは、このような独裁者の命令であったり、自然災害であったりします。現代の私達にとりましては現在の世界経済の動向であったり、またその原因となっているコロナウイルスというような疫病もそれに当てはまるでしょう。

出エジプト記は、このパロという独裁者によって自らコントロールできない状況に置かれたある家族に光をあてています。

1 さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。2 女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。3 しかし、もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。4 その姉は、彼がどうされるかを知ろうと、遠く離れて立っていた。5 時にパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は、葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、6 あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブルびとの子供です」。7 そのとき幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。8 パロの娘が「行ってきてください」と言うと、少女は行ってその子の母を呼んできた。9 パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行って、わたしに代り、乳を飲ませてください。わたしはその報酬をさしあげます」。女はその子を引き取って、これに乳を与えた。10 その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」(出エジプト記2章1節―10節)。

子供の誕生は親にとっては大きな喜びです。その喜びは3500年前も今も変わりません。日本人もユダヤ人も変わりません。

パロが出した命令は「男の子が生まれた場合はその子は皆、ナイル川に投げ込め」というもの。私が当時の親だったらどうするだろうか。確実に私もこの夫婦と同じことをしたと思います。命令だからと言って、生まれたばかりの我が子をその誕生の日に川に捨てにいくことができる親がいますでしょうか。

死んだ人は埋めれば隠せるかもしれません。しかし、生きている人間、しかも生まれたばかりの子供を隠し通すことはできません。当然、新生児は状況を理解することなどできませんから、泣く時は泣くのです。親の心知らず、思いきり泣くのです。

それでもこの夫婦はがんばった。どうにかこうにかその子を隠し通した。しかし、三月(みつき)が限界でした。自分達がその子を川に置いてくることなどはできない、張り裂けそうな心を抑えて、その子の姉に彼を託します。

いよいよその日がきました。我が子はこれから起きることを何も知らずに、その日に限って、泣くことなくニコニコと笑っています。その子の上には父母の涙がぽたぽたと落ちたことでしょう。

姉は託された弟が入れられたかごをナイル川に浮かべます。しかし、彼は血のつながった弟、そこから立ち去ることができずに、それからどうなるのかしばらく葦のしげみから様子をうかがっていました。

聖書はその時のことをこう記しています。5 時にパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は、葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、6 あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブルびとの子供です」。

 このタイミングでその場所にやってきたのはパロの娘でした。そうです、「全ての男の子はナイルに捨てろ」と命令を出した、その張本人の娘です。

聖書はその時のことをこう記しています時にパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた」(5)

 ここに「時に」と書かれています。普通に読んでいれば、何も引っかからずに通り過ぎてしまう言葉です。しかし、ここに私達は「神の御手」を見るのです。

自らコントロールできない状況に置かれた家族、絶体絶命に追い詰められた者達、しかし、時に神は彼らが思いもしなかった扉を開けられた。

その時、パロの娘が体を洗おうと川辺に降りてきたということ、人はそれを「偶然」と呼びます。しかし、私達が信仰の目をもって、このことを見るのなら、そこに天地万物を支配しておられる、パロの命をも握っておられる神の存在を見るのです。

この親子は自分ではコントロールできないただ中にいた。しかし、その中に全てを御手の中に収めておられる神が介入された。

 私達がもし、この「時に」という言葉をいつも「偶然」だとか「ラッキー」と言って片づけているのなら、私達は自分の人生の中に、これまで起きてきた「神の時」を、すなわち神の介入を見過ごしてこれまで生きてきたと言えます。

彼らに「時に」があったように、私達にも神様はいくつもの「神の時」をこれまで備えていてくださっていたことをあなたは知っていましたか。

今、私達が直面しているこのコロナの状況に対して私達一人一人は無力です。ただ今、私達にできることは家の中にとどまり、外出時には必ずマスクをして、なるべく短く買い物をすませ、再び家に籠ることです。

しかし、「時に」神はそのような私達のただ中に働かれているということをあなたは知っていますか。

彼らが向き合わなければならないことは過酷なことで、それは彼らの想定外でありました。しかし、それは神の想定外ではなく、そこから神は新しいことを始められたのです。

幼子はいつも父母を悩ましていたことを葦の草の間でもしました。そう、幼子は泣いた。おもいきり泣いた。パロの娘はその幼子を見つけたのです。

そして、彼女はその子がヘブルの子だということに気がつきます。その時、彼女の心が反応します。彼女は感じました、「この子がかわいそうだ」と。

彼女の父は「ヘブルの男児の息を絶て」と命じました。しかし、彼女の心には神が予め人間に与えた良心がありました。彼女は神として崇められている父の命令に従わず、彼女の心にその思いを与えた神の内なる語りかけに従ったのです。

この一連のことに対して聖書はさらに私達に語りかけます。

 7 その時、幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。

神の御手が動いた時に、すなわち、その幼子にとりましては敵と見なされるパロの娘がやってきた。しかし、神は彼女の心にあわれみの心を起こさせた、ちょうど「その時」、幼子の姉は勇気を振り絞って隠れていた場所から前に進み出ました。

彼女は「神の時」に自らの意思をもって応答したのです。

主にある皆さん、ここからです、ここから神が織りなす歴史は力強く動き始めたのです。どうぞ、心に刻んでください、このことは「神の介入」と少女の「応答」によって始まったのです。

本来、奴隷の身分の姉はパロの娘などには近づけません。しかし、彼女の内に神は人知を超えた勇気と力をお与えになったのでしょう。彼女は大胆にも神と崇められる父を持つパロの娘に進言します。

「わたしが行って、へブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳をのませるうばを呼んでまいりましょうか」(7)。

 「お前はどんな分際で、誰の前に立っているのか分かっているのか」と、その場で剣が降り落とされてもおかしくない。しかし、パロの娘はこの奴隷の娘の勧めを聞き入れ、すぐさま言います「うばを連れてきてください」。

姉の足はガタガタ震えていたかもしれません。しかし、転がるように駆け出し、溢れる涙を拭きながら、悲しみに打ち伏せている母のもとに走ったのです。

息を静める間もなく、事の成り行きを母に説明したことでしょう。一度は手放した我が子がかえってきて、その子に自ら乳を飲ませることができる、それはどんなに大きな喜びだったでしょうか。母も父も姉もその家族の目からはとめどもなく涙があふれたことでしょう。

およそ考えられない、驚くべきことが起こりました。これが最後と目に焼き付けたわが子をもう一度、抱く母、我が子にもう一度、乳をふくませることができる幸い。

しかも、その子はエジプトの保護の元に置かれ、養われるという保証と共に我が子は帰ってきました。母はエジプト王朝から賃金をもらい我が子を育てることになったのです。

皆さん、ご存知のようにこの子は後にモーセと呼ばれ、成人となった彼こそが、このエジプトから自分と同族のへブルの民を救い出すリーダーとなるのです。エジプト王朝はやがて自分に反旗を翻すモーセを保護し、母の手を離れて成長したモーセは王の元でエジプトの帝王学をも学んでいくことになるのです。

かつてパロは言いました。「ヘブルびとに男の子が生れたならば、みなナイル川に投げこめ。しかし女の子はみな生かしておけ」(出エジプト1章22節)

幼子はもちろん、当時の社会において、悲しいことですが、女性は男性の力の下に置かれていました。故にエジプトの王は「男の子は殺せ、女の子は生かしとけ」と命じたのです。パロは男だけに脅威を感じていたのです。女性は自分の脅威としてカウントしていなかったのです。

しかし、今日、お話しした出来事に男の姿は全くありません。パロが生かしておいても害はないだろうと考えた、力のない者たち、すなわち女性達と生まれたばかりの幼子を用いて神は歴史を力強く動かされたのです。

それはエジプト王朝の頂点にたつ人間と神の格の差をあらわしています。あたかも「パロよ、お前の試みなどは私の前に無に等しい」とでもいうかの如くに、彼女はパロが心にかけない者達を用いられました。

人はこれを「偶然と幸運がたまたま重なりあって」と言うかもしれません。しかし、私たちはここに確かに神の介入を見るのです。

主にある皆さん、皆さんは神の「時」を見極めていますか。今、私達が置かれている状況は私達にとりまして試練です。しかし、神の御手は止まってはいない。

神の御手は動いている。その御手のわざに目を留めていますか。注視していますか。そして、その時を見たのなら、それに応答しようと願われていますか。

あなたがこれまでに「偶然」だとか「運がよかった」と言って片づけていたことの背後には神がおられたということを知っていますか。その「神の時」を私達はこの度も見過ごし、「まぁ、何事もなくてよかった。ラッキーだったわ」と片づけるのでしょうか。

私はこのコロナを通して、神は私達の心に介入していると信じます。神は私達に新しい生き方をさせようと願っていると思います。

コロナ以前、私達の世界は「効率」という名のもとに、「スピード」とか「便利さ」ということが、「至上の価値」と思われる世界を形成しつつありました。

そうです、人は「立ち止まる」とか「静まる」ということを「時間の浪費」と考えるようになりました。神の御心を思いめぐらしたり、主のために成すことは脇に追いやられ、私達は自分のことに没頭しました。

主にある皆さん、今、私達は神を脇に置いて、ここ何年も蓄えてきたことが、私達の前でもろくも崩れ落ちていく様を目の当たりにしているのです。

神様は私達が立ち止まり、静まり、神を思い、神に立ち返ることを最初から願われていたのです。なぜ、それが分かる?なぜなら、それこそが神が聖書の中で常にユダヤの民に願われていたことだからです。

しかし、私達は一向に手をやすめず自分のことで精いっぱい。己が願うことばかりをし続けました。

信仰者と呼ばれる私達も都合のいい時だけ「神」という名を持ち出し、不都合のことがあると「神は何をしているのか」と開き直る。主にある兄弟姉妹、そのような生き方が神を前にして、いつまでも続くはずはありませんでしょう。

もし、私達の姿が神の目にそのようにうつっていたとするのなら、神は私達を愛しているゆえに、私達のはたらきの一切が止められる時にこう語りかけておられないでしょうか。

静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる』(詩篇46篇10節)

かつてイエス・キリストは言いました。「あなたがたはこの世にあっては悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)

私は最近、ずっとこのイエスの言葉を思いめぐらしています。この世には悩みがある。イエスはそれを知っている。そう、我々には病があり、老いがあり、死がある。そして、疫病がある。そもそも、生きていくこと、そのものが、既に試練であり、悩みの連続でしょう。

しかし、それに対して神の子イエスは「わたしを信じなさい」とか「わたしに従いなさい」とは言わなかったのです。

イエスは言われた「勇気を出しなさい」。私はあなたの心に、私の時に一歩前に出る勇気を予めあなたの心の中に備えているのだ、だから、その時が来たのなら、あなたは勇気を出しなさい。恐れるな、勇気を出して、私の前に出なさい。私に近づきなさいと主は言われるのです。

モーセの姉は奴隷の身でありながら、自分の命をかえりみずにエジプトの王パロの娘の前に進み出たのです。その時に彼女の心にあったものは、一歩前に出る勇気でした。神の時とこの少女の勇気と共に神の歴史は動いたのです。

主にある兄弟姉妹、私達も同じです。「神の時」と「私達の勇気」、そこから私達は新しい生き方をなしていくのです。そこから神とあなたの歴史が刻まれていくのです。

今朝、勇気をもって一歩、主に近づこうではありませんか。神は私達にこの度、一世一代のチャンスを与えてくれているのだと信じます。「今がその時ではない」と誰が言うことができますでしょうか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年4月26日

1)エジプトの王パロは「ヘブル人に男の子が生れたならば、みなナイル川に投げこめ。しかし女の子はみな生かしておけ」(出エジプト1章22節)という命令を出します。もし、あなたが男の乳児をもつ親だったらどんな気持ちになりますか。

 

 2)出エジプト記2章1節―10節を読みましょう。6節に「時にパロの娘が身を洗おうと・・・」と記されています。この「時」は「偶然」ですか、それとも「神の時」ですか?あなたの人生にこの「時」がありましたか?あなたはそれに気がつき、その時を「神が介入された時」として受け止めてきましたか?

 

3)神様は幼子を前にしたパロの娘の心に「その子をかわいそうに思う心」を与えました。その思いは彼女にとって、父パロの命令よりも大きなものでした。このことは何を明らかにしていますか。

 

4)7節は「その時、幼な子の姉は・・・」と記され、幼子の姉がパロの娘の前に出、進言する様が描かれています。「神の時」に対して「私達の応答」はなぜ大切なのですか。

 

5)パロは男だけに脅威を感じていました。しかし、今日の出来事に男の姿はありません。パロが脅威の対称にしなかった女性達によって神のみわざは成されました。あなたはこのことからどんな神様のメッセージを受け取りますか。

 

6)「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。奴隷の娘が神として崇められているパロの娘の前に出て、進言することは命がけであり、勇気を要するものでした。なぜイエス・キリストはここで私達に「勇気を出しなさい」と言われているのでしょうか。

 

7)ご存知のようにこの「幼子」は「モーセ」です。聖書中、最も偉大な神のみわざのために、神に仕えた人です。その生死に関わる出来事からあなたは何を学びましたか。神様が今、あなたに語りかけていることは何ですか?

 


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