「裏切られた同じ夜・・・」

私達とって自分によくしてくれる人を好んだり、愛することはたやすいことです。害なく、悩まされず、益をもたらしてくれる人を受け入れることもたやすいことでしょう。

私達がしばしば使います「I love you」とか「I like you」という言葉はこのような人達に向かって語られます。そうです、これらの言葉は私達がその人の内に、その人を好きになるために値するもの、その人を愛するために値するものを、見出しているゆえに発せられるのです。しかし、自分を裏切る者、自分に敵対する者に対して、その愛を全うすることは至難の業です。いいえ、至難の業というより不可能であります・・・。

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 一日一生(2018/3/26-2018/4/1)

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メッセージ原稿、おもちかえりは以下からどうぞ。

「裏切られた同じ夜・・・」
ルカ22章15節―20節
2018年3月25日

今週から受難週が始まります。受難週とはイエス・キリストが約2000年前に十字架にかけられるまでに過ごした一週間のことです。私達は毎週、順を追ってローマ書から見ていますが、今日はイエス様が十字架におかかりになる前に弟子達と共にとった最後の晩餐に目を向けてみたいと願っています。

古代の文書を研究する歴史家たちの間では、多くの国々が残した歴史資料には、その国にとって都合のいい事は記録されていますが、そうではない、例えば自国の敗戦というようなことに関しては記録を残さない傾向があるということを聞いたことがあります。

そして、それは今日、触れますイスラエル民族の間で歴史的大事件とされているは「出エジプト」という出来事もそうでした。イスラエル民族はかつてエジプトに400年もの間、奴隷として仕えたという歴史があります。そして、その奴隷の状態から神は彼らを解放されました。この出エジプトに関する記事はエジプト側には何も資料が残っていないといいます。なぜならそれはエジプトにとって名誉となることではなかったからです。

そのいきさつはこうでした。当時、奴隷であったイスラエルの民に過酷な苦役を課していたエジプトのパロ王に、イスラエルのリーダー、モーセが何度も「我々を解放せよ」と訴えたにもかかわらず、パロ王の心は頑なになり、それを拒み続け、ますます彼らに苦しい労働を課していくようになりました。

モーセは神の力により、カエル、イナゴ、アブ等の異常発生などを含む9つの恐るべき災いをエジプトの国に降り注ぐのですが、それでもパロは彼らを解放しようとはしません。故に10番目の災いとして、神様はエジプトの地の全ての初子、すなわち王座に着くパウロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、果てには全ての家畜の初子にいたるまでも打つという警告をモーセを通してパロに伝えたのです。

しかし、神様はその災いが臨むことがないために、自分の家の鴨居と二本の門柱に子羊の血を塗っておけば、その家の初子は過ぎ越されて、打たれることはないという約束をイスラエルの民になされました。結局、この恐ろしい忠告にも関わらず、パロの心は変わることなく、故に、その災いがエジプトの国に降りかかったのです。

つまり、エジプトの全ての初子たちは神に打たれ、イスラエルの家々の者達は神に示されたとおりにその鴨居と門中に子羊の血を塗りましたので、その災いが過ぎ越され、彼らの初子は守られ、彼らはエジプトを脱しました。

そして、このことを記念して、持たれるようになったのが「過ぎ越しの祭り」なのです。今でもこの過ぎ越しの祭りはユダヤ人にとって、神が先祖たちになして下さった救いを思い起こす大切な時となっており、彼らは定められた食事を家族と共にもちます。ちなみに今年の過ぎ越しの祭りは3月30日(金)の日没から、4月7日(土)の日没までとなっています。

イエス・キリストがこの地におられたのはその出エジプトから約1500年後でしたが、その時の過ぎ越しの祭りの時期というのはちょうど、イエス様が十字架にかかる時と重なっていたのです。その時のことについてルカによる福音書を見てみましょう。

15イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。16あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。17そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。18あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。19またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。20食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である(ルカ22章15節ー20節)。

同じ時にエルサレム市内の多くの家庭でも過ぎ越しの食卓が囲まれていたでしょうが、イエス様は15節にあるように、その過ぎ越しの食事を弟子達と共にとることを「切に望んでいた」(15)のです。イエス様はただ願っていたのではなく、心から望んでいたのです。イエス様は何を望んでいたのでしょうか。

その席でイエス様はぶどう酒の入った杯を取り、感謝して言われました。「これを取って、互いに分けて飲め。あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」(17)。またパンを取り、感謝してこれを割き、弟子たちに言われました「これは、あなたがたのために与える私のからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」(19)。食事ののち、杯も同じようにして言われました「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」 (20)。

先にもお話しましたように、はるか昔、イスラエルの民は家の鴨居と門柱に塗られた子羊の血により救いを得たのです。つまり、彼らの救いのためには、子羊が屠られたのです。

このところに私たちはイエス・キリストにある救いの型を見るのです。出エジプトの時にイスラエルの民が救われるために流されたのは子羊の血でした。新約聖書においてバプテスマのヨハネはイエス様を指してこう呼びました「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1章29節)。

イエス・キリストが十字架におかかりになる時、それはたまたま過ぎ越しの祭りが持たれる時期と重なっていたというのではなくて、明らかにそこには過ぎ越しの祭りと神の子羊なるイエス様の十字架を重ね合わせた神様の意図があります。

そうです、イエス様はご自身は神の子羊として、かつてあのイスラエルの民の命が鴨居に塗られた子羊の血によって救われたように、全ての人間の救いとして、ご自身を捧げるということをイエス様はここで語られたのです。

つまり、イエス様がこの過ぎ越しの晩餐の席に弟子たちにイエス様はパンをとり、そのパンについて、それは十字架において裂かれた自分の体であり、注がれるブドウ酒とはご自身が十字架において流す血を意味するのだと言われたのです。

その食卓にはイエス様の12弟子達の姿がありました。その先祖になされた神の救いを喜ぶ、その場はどんなに和やかな雰囲気だったのでしょうか。・・・いいえ、実際には、そこには様々な人間の心がありました。

その晩餐の席では、弟子達の間で誰が一番偉いかという論争があったとルカは記録しています(ルカ22章24節―30節)。

また、その食卓においてイエス様は自分を裏切る者がこの中にいると指摘されました(マタイ26章21節)。そうです、それはイスカリオテのユダのことで、彼はこの後、イエス様を銀貨30枚で売り渡します。

また、この食事の後にペテロがイエス様を保身のために否認することについて、彼にそのことを指摘するイエス様の姿がありました(ルカ22章33節―34節)。ペテロは死んでまでもイエス様に従うと言いましたのに、イエス様は彼の忠誠心は試みに耐えることができないだろうと予め話し、まさしくこの数時間あとに事はイエス様の言われた通りになったのです。

そして、この後、イエス様が捕えられます時、この弟子達は皆、蜘蛛の子を散らすように、逃げてしまうのです。確かに弟子の一人、イスカリオテのユダはイエスを裏切りましたが、肝心かなめの時にイエス様を置いて逃げてしまった弟子達もイエス様を裏切ったと言えますでしょう。

そのような場で、イエス様のこの言葉は語られたのです。そして、その一言一言は、その状況の中で際立っていました。なぜなら、それは完全に自己放棄の言葉であったからです。イエス様はパンを割くことにより、「私の体をあなたがたに与えよう」と言われたのです。また、ブドウ酒を手にとり「あなたがたのために私の血を流そう」と言われたのです。

この時のことを使徒パウロはコリント人への第一の手紙11章23節―25節にこのように言い表しています「わたしは主から受けたことを、また、あなた方に伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」

 パウロは言いました「主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれを割き・・・・」。この箇所を英語の聖書は「主イエスは裏切られた、その夜・・・」と訳しています。

パウロは言いました「主イエスは裏切られた同じ夜・・・」そう、自分が弟子たちから裏切られた、その同じ夜、イエスは何をしたのか。彼はパンをさき、ブドウ酒を分け与え、自らの十字架による愛を弟子たちに告げ知らせたのです。彼らが最もイエスを悲しませ、悩ませるような言動をしたその夜、イエス様は神の愛は弟子達の言動によって変わるようなものではないということを示されたのです。

私たちにとって自分によくしてくれる人を好んだり、愛することはたやすいことです。害なく、悩まされず、益をもたらしてくれる人を受け入れることもたやすいことでしょう。私達がしばしば使います「I love you」とか「I like you」という言葉はこのような人達に向かって語られます。そうです、これらの言葉は私達がその人の内に、その人を好きになるために値するもの、その人を愛するために値するものを、見出しているゆえに発せられるのです。しかし、自分を裏切る者、自分に敵対する者に対して、その愛を全うすることは至難の業です。いいえ、至難の業というより不可能であります。

イエス様の愛は、イエス様が神であり、神は愛であるということ以外にまったく説明ができません。人間的に考えたら、私たちの側にはイエス様に愛されるべき理由がないのです。すなわちイエス様に愛されるために値することを私達は何もしていないのです。神様の愛は、私たちの功績に報いたり、見返りを与えるための愛ではありません。人間的な尺度や理解を超えた愛なのです。

パウロはこのことをローマ5章6節―8節でこう言いました「わたしたちがまだ弱かった頃、キリストは時いたって、不信人な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」

心にある思いを伝える時に、私たちが自由にできる表現手段は3種類あります。まず、最初に「言葉」という表現手段があります。しかし、それは難しいということを私たちは知っています。心の思いを的確に余すところなく表現する言葉を探すことに作家たちは苦心するのです。

2つめは芸術と言われるもので、音楽、絵画、彫刻などがこれになります。言葉で言い表せない心の思いがリズムとなり、様々な色合いとなり、彫られた細かな形により、表現されていく。芸術家は、その心の思いを表現するのに、これもまた苦心します。

そして、最後にその動作により私たちは心の思いを表すことがあります。日本には茶道という文化がありますが、あの一杯の茶を飲むという作動の中に、言葉では表現できない人の細やかな心使いが込められているのです。

教会の講壇に立って語る者(この人とは、しばしば牧師と呼ばれる者たちなのですが)がイエス様の十字架の愛の意味を言葉で語りつくすことはできません。時に「愛」という言葉を何度も何度も使っていると、その価値が失われてしまうのではないかと思うことがあります。

イエス様はそんな私達にあの2000年前、エルサレムの二回座敷で弟子達になされたことを「私を記念するために、このように行いなさい」(ルカ22章19節)と命じられました。「記念する」ということは「思い起こす」ということです。私たちの信仰にとって、大切なことは十字架の上で死に、復活したイエス・キリストを常に思い起こすことなのです。

そして、そのことは言葉だけで思い起こされるものではなくて、イエス様が私を記念するために、このように行いなさいと言われた、その時にイエス様がなされたことの中に自らを置くことにより、私達の心に思い起こされることなのです。

私たちはこれから聖餐式をもちます。これは2000年前にイエス様が裏切られた夜にイエス様と弟子達との間で取り交わされたものを、2000年後に生きる私達がイエス様の言葉に従い、継承しているものです。

「私を記念するために、このように行いなさい」ということは、その時に語られた言葉が今も効力をもっていることを意味します。私達はこの聖餐式により、主イエスが私たちのために割いて下さったお体と流された血潮を思うのです。私たちの内に何か評価に値するものがあったから、報われる何かがあったから、その報酬としてイエス・キリストは十字架にかかられたのではありません。

あなたがキリスト・イエスに対して最悪の態度を示しても、赦されるはずもないという心当たりが何かあったとしても、このお方の愛はあなたを包み込まれます。なぜなら、このお方は「裏切られたその同じ夜」その自分を裏切った弟子たちを自分の命を捨てるほどに愛されたお方なのですから。イエス様は感謝して杯をとり、弟子達に分け与え、また感謝してパンを割き、それを弟子達に分け与えたお方なのですから。そのイエスの愛は変わらずに私達の上に今も、これからも注がれているのです。

お祈りしましょう。
本日のおもちかえり
2018年3月25日

1)出エジプト12章1節-13節を読みましょう。ここでなされていることはどのようなことでしたか。その光景はどんなものだったでしょうか。なぜイスラエルの民が救われるために子羊の血が流される必要があったのでしょうか。植物から取れる染色剤ではだめでしたか。

 

2)ユダヤ人は「過ぎ越しの祭り」のように、先祖から引き継がれてきたものをとても大切にします。このような継承にはどんな意味がありますか。あなたにはこのように大切にしているものがありますか。

 

3)ルカ22章15節ー20節を読みましょう。その時にイエス様が切に願っていたことは何ですか。

 

4)イエス様はここで「新しい契約」と言われました。「新しい契約」とは何ですか。古い契約」とは何でしょうか。なぜ古い契約から新しい契約へと変わる必要があったのでしょうか。

 

5)なぜバプテスマのヨハネはイエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1章29節)と言ったのでしょうか。イエス様が子羊であるということは、エジプトで過ぎ越しの晩に子羊の血が流されたことと、どう関係していますか。

 

6)ルカはイエス様が切に願っていた弟子達との過ぎ越しの食事がイエスが裏切られた晩に起きたと記録しています。なぜ、このことを書き記すことは大切なのですか。あなたは自分を裏切る者達が同席している食事を楽しむことができますか。彼らに自分が大切にしているものを与えることができますか。
7)私達はよく「愛」という言葉を口に出しますが、その愛とイエス様の愛とは何が違うのでしょうか。「条件つきの愛」とはどんな愛ですか。「無条件の愛」とはどんな愛ですか。私達の愛はどちらに分類されますか。

 

8)「わたしを記念するために、このように行いなさい」とイエス様は言われました。今日、この言葉にならい私達が持ち続けている聖餐式は私達にとってどんな意味がありますか。その聖餐式を通して私達は何が分かるようになりますか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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