「重荷はこうして負います」

重荷を負うということは簡単なことではありません。しかし、私達は荷を背負い続けることが求められ、その荷の重さに押しつぶされないことが期待されます。その荷を降ろしたり、誰かに委ねたりすることは、その荷の重さに屈してしまうことで、「この人は責任や義務が果たせなかった」と評価されることを私達は恐れています。

それよりも、それらの荷を負い続けてゴールインするということが美談として、語り継がれ、そのように生きた人生は称賛される傾向があります。

荷を降ろすことを私達はとまどいます。なぜなら「降ろした」後にどんなことが待ち受けているかを私達は知らないからです。そして「降ろす」ということは、たとえ荷を下ろしても、その荷はそこにそのままあるわけで、それでは何の解決にもならないと私達は思うからです。

さらには荷を降ろすことは時に、私達の「プライド」が許しません。そうすることにより、人からどう思われるかと私達は考えます。「この荷は耐えられない」と明らかにすることは、自分の敗北を認めることと思われ、それは私達のプライドが許さないのです。

ここまで、荷を「おろす」か「おろさない」か二つの選択肢をお話ししました。私達は何か問題にぶつかりますと、その視野がとても狭くなる傾向があります。そうです、この問題の解決に対して「あれか、これか」と二つの選択肢しか私達は考えられなくなることがあるのです。

しかし、皆さん、私達が抱える問題の多くは本来「あれか、これか」というようなものではなくて、その解決のためには「あれか、これか、それともこのことか」と第三、第四の道があるものです。

ゆえに、今日は私達が日々負っている荷について、私達が取り得る第三の選択肢について聖書が記していることをお話しします。

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「重荷はこうして負います」
2018年9月9日

江戸時代の将軍、徳川家康は言いました「人の一生は重き荷を負うて、遠き道を行くがごとし」。彼の言ったことは正しいと思います。確かに私達の一生は重き荷を背負って、いつまで続くのか分からない遠き道を歩むようなものです。

それにしましても荷を負うということは簡単なことではありません。しかし、私達は荷を背負い続けることが求められ、その荷の重さに押しつぶされないことが期待されます。

その荷を降ろしたり、誰かに委ねたりすることは、その荷の重さに屈してしまうことで、「この人は責任や義務が果たせなかった」と評価されることを私達は恐れています。

それよりも、それらの荷を負い続けてゴールインするということが美談として、語り継がれ、そのように生きた人生は称賛される傾向があります。

荷を降ろすことを私達はとまどいます。なぜなら「降ろした」後にどんなことが待ち受けているかを私達は知らないからです。そして「降ろす」ということは、たとえ荷を下ろしても、その荷はそこにそのままあるわけで、それでは何の解決にもならないと私達は思うからです。

さらには荷を降ろすことは時に、私達の「プライド」が許しません。そうすることにより、人からどう思われるかと私達は考えます。「この荷は耐えられない」と明らかにすることは、自分の敗北を認めることと思われ、それは私達のプライドが許さないのです。

ここまで、荷を「おろす」か「おろさない」か二つの選択肢をお話ししました。私達は何か問題にぶつかりますと、その視野がとても狭くなる傾向があります。そうです、この問題の解決に対して「あれか、これか」と二つの選択肢しか私達は考えられなくなることがあるのです。

しかし、皆さん、私達が抱える問題の多くは本来「あれか、これか」というようなものではなくて、その解決のためには「あれか、これか、それともこのことか」と第三、第四の道があるものです。

ゆえに、今日は私達が日々負っている荷について、私達が取り得る第三の選択肢について聖書が記していることをお話しします。

家康が重荷について書き残したように、家康のはるか前に書かれた聖書もこう言っています。『人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです』(新改訳聖書:ガラテヤ6章5節)。この言葉は私達にはそれぞれ負うべき自分の重荷があると示しています。それは負うべきものであり、その重荷は皆、違うのです。そして、その私達の重荷についてイエス・キリストはこう言われました。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書11章28節―30節)。

ここでイエス様は「全て重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と言います。そう、「全て」です。重荷の大きさ、重さに関わらず、その重荷ゆえに苦労している者はわたしのもとに来なさいとこのお方は言われ、続けてこう言います。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」。

ここで言われている「くびき」とは、二頭一組の牛などの家畜の首にかける横木のことで、その二頭が一緒に荷物を運ぶ時に使う道具です。

こうすることにより、この重荷は二頭で背負うことになります。さらにはこの二頭は同じ方向に、同じ早さで進むことになります。なぜなら、そのくびきがつながっているからです。

私達は自分が負うべき重荷を背負って、イエス様のもとに来ます。時にその重荷は本当に重く、耐えがたいもので、押しつぶされそうになることもあります。その重荷をイエス様はどうするのでしょうか。私達から取り上げて処分してくださるのでしょうか。

いいえ、イエス様は「ご自身のくびき」の一方をご自身の肩にかけ、もう一方を私達の肩にかけ、私達が背負ってきた荷とそのくびきをつなげます。その時から、私達が一人で負っていた荷は私達が一人で負うものではなくなるのです。「一人で負い続けるか」、それとも「荷を下ろしてしまうのか」という二者択一ではなく、これが「その荷を二人で背負う」という第三の選択です。

イエス様は言われたのです。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

時々、封建的な時代背景の映画などを見ますと、権力者の荷物を僕達がせっせと背負って運ぶ光景を見ることがあります。その権力者は手ぶらで、持っているものといえば扇子ぐらいで、それに対して僕達は汗を流して大きな荷物を運んでいます。そこには明らかに「持たざる者を支配する者」という権力の構造があります。

しかし、イエス様は神の一人子でありながら、そのお言葉にあるように「心の優しい、へりくだったお方」であるゆえに、私達が背負っている荷を共に背負うと言ってくださるのです。

皆さん、イエス様が備えたもう「くびき」は私達にとりまして「荷」ではありません。そのくびきは私達とイエス様とをつなげるものです。それをつけて、私達はイエス様と共に荷を負い、イエス様の願われるところへ、イエス様が願われるペースで向かいます。

この「くびきを負いなさい」という言葉ですが、これは当時のユダヤ社会ではラビ達の間でよく使われていた慣用句で、その意味は「わたしの学校に入りなさい」ということでした。すなわち、私達がイエス様のくびきを負うということは、そのくびきを背負った時から私達はイエス様から学ぶということなのです。すなわち、イエス様と同じくびきを背負うことにより、その言葉と行動を間近に見ることにより、これまでとはまったく異なる新しい実践、仕組み、優先順位、関係、視点をもった生き方を学ぶということです。

それまでは全ての重荷を肩に背負い、自分なりに色々なことを考え、自分の思う方向に荷を負って歩んでいました。そのペースも自分の思うがままでした。しかし、これからは違う。共に私達の重荷を負ってくださるイエス様の言動から学びつつ、イエス様が願う方向に私達も向かうのです。そして、その時に学ばせていただくことは、その荷を背負うという代価よりもはるかに大きいのです。

このようにイエス様と共に歩き始めるとどういうことが起きてくるのでしょうか。「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

キリストのくびきを負うて行くなら、たとえ私達が荷を担っていたとしても、私達の魂に休みが与えられるというのです。これは驚くべき言葉です。荷を背負ったまま休憩する人はいません。休憩とは最もリラックスした状態で休むことです。すなわち、負っている荷を降ろす時こそが、休憩なのです。しかし、キリストは言ったのです。わたしのくびきを負うて、わたしに学んでいくのなら、かだあなたは魂にやすみが与えられるのだというのです。

 以前、「ピース・オブ・マインド」、「心の平安」についてお話ししました。あの名声と富を全て手中に収めた歌手のマドンナがある時、インタビューを受けます。「あなたは大成功を収めています。富も、美貌も、名声もすべて手に入れています。これ以上、何か欲しいものがありますか」この質問はマドンナにとって予想外だったようで、マドンナはしばらく考えた後にこう言いました・・・。「ピース・オブ・マインド」。

もし私達が彼女の富と名声をもっていれば、私達が今、背負っている重荷のいくつかは取り下ろすことができるかもしれません。しかし、それとピース・オブ・マインド、心の平安とは関係がないようです。すなわち、心の平安は私達の重荷が取り去られたから与えられるというようなものではないということです。

イエス・キリストは十字架にかかる直前に弟子達と共にエルサレムのとある二階座敷で時を過ごしました。そのところでイエス様は弟子達の足を自ら洗い、彼らにブドウ酒とパンを分かち合いました。

その中でイエス様はこう言われました。『わたしは平安をあなたがたに残していく。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな』(ヨハネ14章27節)。

 この言葉を語られた数時間後にイエス様は十字架に磔にされました。イエス様はそのことが自分の身に起きることを、この言葉を語られた時に知っていました。そのような中でイエス様は弟子達に「わたしの平安」を彼らに与えると言われたのです。

そして、それはこの世が与えられるものとは異なると言われました。そうです、世がいうところの平安とは、むごたらしく殺されていくただ中にあってもあり続ける平安とは確実に違うのです。

イエス様は言われたのです「わたしのくびきを負いなさい」。そして、言われたのです「わたしの平安をあなたがたに与える」。

どちらもこの世が与える「くびき」ではないし、「平安」ではないのです。マドンナのように名声があっても、財産があってもこれらは手に入れることができないのです。

そのくびきは「イエス様のくびき」であり、その平安はイエス様が十字架の数時間前にもっていた「イエス様の平安」なのです。そうです、それは文字通り十字架を担いつつも、そのお心の中にあったイエス様の平安です。これらをイエス様は私達にもくださるというのです。

私たちは自分で自分を取り仕切っていないと落ち着かない人生を送っています。自分で自分の人生の舵を握っていないと、私達の心に不安がおこってきます。しかし、自分で舵をとっていれば平安かというと必ずしもそうではありません。

しばしば経験することですが、自分でその舵をとっても、私達の重荷は消えることはありません。いいえ、その舵を握り直し、目を凝らして前方を見つめ、荷を背負いながら歩んでいても、私達の心に平安はなく、その重荷はますます肩にのしかかってきます。

ですから、その舵をそのままイエス・キリストにお任せするのです。そして、そのことこそがイエスのくびきをイエスと共に負うということなのです。そうです、くびきはイエス様とつながっているのですから、私達の向かうべき方向はイエス様が向かわれる方向なのです。

神に委ねるということは、自分の思いと願いを断念するということではありません。現状に甘んじることでもありません。むしろ、その逆なのです。自分の重荷を神に差し出す、そして、前を向いて主イエスと共に歩き出すという新しい生き方により、私達は時に自分の思いや願いより、さらに勝ったところへと主イエスは私達を導いてくださるということを知るのです。

クリスチャンになるということ、イエスの弟子になるということ、それは、私たちが父なる神様に私達を委ねて生きることが許されているということを意味するのです。

ペテロ第一の手紙5章6節―11節にはこんなみ言葉が記されています「⑥だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。⑦神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。

この書を記したペテロは私達に「神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」と勧めます。競技者がメダルが授与される時、頭を下げて、それを受けるように、私達の肩に何かがかけられる時、私達は身を低くします。そうです、自らを低くしないとイエスのくびきはつけられないのです。

確かにそれまで蓄えてきた自分の力や知恵、経験というものがありますでしょう。しかし、それらを脇において、主の前に頭を下げないとくびきは私達の肩に設置できないのです。

そして、一度、くびきをつけたのなら、その時からその重荷は主イエスと共に担うものとなるのです。すなわち、神はその重荷を共に負ってくださり、私達をかえりみていて下さるのだから、自分の思い煩いを、いっさい神に委ねるのです。

そして、このよう神に委ねて生きる者に対して、10節にいたっては「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたを癒し、強め、力づけ、不動のものとして下さる」というのです。

「不動」という言葉に私達は惹かれます。何にも心騒がず、惑わされず、一人大地に立つ、そんなイメージを思い浮かべます。しかし、ここで言う不動とは、主イエスと共にあるゆえの不動なのです。主と同じくびきに繋がらせていただき、その主が導かれるままに生きるゆえの不動なのです。

ここには「しばらくの苦しみの後」と書かれています。そう、イエス様に「いっさいを委ねた後」に私たちの人間としての重荷が消滅するというのではないのです。確かに重荷はそこにある。しかし、それをキリストに委ねて歩む時に、私たちの魂には休み、すなわち平安が与えられというのが聖書の約束です。

私達が自らを低くして、主イエスのくびきを主イエスと共に担わせていただき、主イエスと共に私達の重荷を背負うのなら、私たちは日々、イエス・キリストの平安を知ることでしょう。

そして、私達と共にくびきを負われる主はその道すがら、多くのことを教えてくださることでしょう。それはこの世の知恵や指針ではありません。それは天来のものです。キリストと共に荷を負う時に私達が導かれる場所というのはこのようなところなのです。

聖書が言うように私達には各々、負うべき重荷があります。あなたは今、それを一人で背負っていますか。それとも、もう既にその荷をどこかに降ろしてき、それゆえに肩身狭く生きていますか。今朝、心にとめてお帰り下さい。私達が進む道は背負うか、降ろすかの二つではありません。

私達には主イエスと共にくびきで結ばれて、その重荷を背負って生きていくという第三の道があるのです。今からでも遅くはありません。この生き方に私達の人生をシフトしていきませんか。既に主イエスと共に私の重荷を背負っていますという方、今一度、そのくびきがしっかりと私達につながっているのか、確認をしましょう。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

新しい一週間が始まります。あなたの肩にはイエスとつながったくびきがありますでしょうか。あなたの傍らには、いつもその道すがらで私達に不可欠なことを教えてくださる主イエスがいらっしゃるでしょうか。私達の人生において、この方以上に心強い同伴者はいないのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2018年9月9日

1)あなたは日々、どんな重荷を背負って歩んでいますか。その荷を負い続けることは簡単なことですか。なぜ荷を下ろすことを私達はためらうのでしょうか。

 

2)マタイによる福音書11章28節―30節を読みましょう。ここからあなたが第一に受ける印象は何ですか?

 

3)くびきからイメージされることは何ですか。くびきの一方をイエス様、もう一方は私達が背負う時に、どんなことが起こりますか。

 

4)「イエス様が柔和で心のへりくだった」ということはどうしてわかりますか。

 

5)共にくびきを背負うことによって私達がイエス様から学ぶことができることは何ですか?

 

6)私達がイエス様からいただくことができる「やすみ」とはどんなものでしょうか。

 

7)マタイによる福音書11章28節―30節を読みましょう。この時、イエス様はどんな状況に置かれていましたか?

 

8)「わたしのくびき」と「わたしの平安」というイエス様の言葉は何を意味しますか。

 

9)ペテロ第一の手紙5章6節―11節を読みましょう。「自らを低くすることは」なぜ大切ですか。

 

 

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