あなたの体について

私達はクリスチャンであるゆえに霊的な事に関心を寄せます。しかし、霊的なことだけに目を向け、人は同時に肉体をも有しているのだということに心の目が閉ざされてしまうことがあるのではないかと思うことがあります。

時に私達は「あの魂をお救いください」とか「失われた魂のために」というように「人間」を見ないでその「魂」だけを見、「これだけの魂が救われました」。「魂を勝ち取りました」というようなことで一喜一憂をしているようなところがあるのかもしれません。

我々は「魂の塊」なのではなくて「肉体」をもつ神にかたどって作られた多くの過ちを犯す者、喜びで心満たされる者、健康を損なってしまう者、時には塞ぎこんでしまう、そんな毎日を送っている「人間」なのです。

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あなたの体について
ローマ人への手紙12章1節
2018年2月25日

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ローマ12章1節-2節)。

このローマ12章は「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める」という勧めの言葉によって始まります。この「勧める」という言葉を英語の聖書(NIV)は「URGE」と記しており、それは「よかったらどうぞ」というようなものではなく「強く勧める」ということになります。そして、「神のあわれみ」というところを「IN VIEW OF GOD’S MERCY」と記しています。直訳しますと「神のあわれみの視点により」ということになります。

これら英語聖書をふまえてこのパウロを表現しますのなら「私達に注がれている神のあわれみのまなざしにより、強くあなたかたに勧める」ということになります。そうです、神様は私達をあわれみ、愛しんでいてくださる。大切なものとしてくださる。それゆえに以下のことが私達に強く勧められているのです。

それゆえに「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。今日はここから幾つかのことをお話ししましょう。

パウロはここで「「あなたがたのからだ」と言いました。ここにパウロの人間に関する深い洞察力があります。とかく宗教というと何か神秘的なもの、霊的なものとして私たちは受け止める傾向があります。

すなわち今日、よく聞きます「スピリチュアル」ということだけに私達の思いが向きますと、私達の肉体は精神の付属品にすぎない、すなわちスピリチャルな事柄に比べれば、肉体は見劣りするものであるかのように語られることがあります。

しかし、私達がこの礼拝堂を出たとたん、私達の関心はその肉体に向けられるのです。私達がここを出た後、八尋ホールやパーキングで私達が互いに取り交わすことは互いの健康のことであり、時折、あちこちで誰かが誰かにに何かを手渡す光景がありますが、その時に交わされる会話は「これを食べて、これを飲んで、これを貼って、これを塗って、よくなってください、力をつけてください」というようなことなのです。

パウロという人はこの肉体をよく意識していました。彼は自らの視力があまりよくなかったことに触れ、自らの体にある刺についてそれを取り去って下さるように祈っています。キリストのメッセージが「魂」のことだけに関するのであるのなら、そのようなことをあえて書き記す必要はありませんでしょう。また「教会」を「キリストのなる教会」とし、そこに連なる者達を体の各器官になぞらえました。

これらのことを思います時に、パウロは「人間」を「失われゆく魂」として見ていたのではなくて「肉体をもった魂」として人を見ていたのだと思われます。

かつてある牧師が礼拝からしばし遠ざかっている方を訪ねたましたところ「礼拝に行かずとも、私の霊は礼拝と共にあります」と言われ、それに対してその牧師は「あなたはお化けですか」と言われたということを聞いたことがあります。言われてみれば、まことにその通りであります。確かに私達は霊的な者でありながらも、同時に肉体を有している者なのです。

神学校時代に恩師が授業で話してくれたことがありました。経験豊かな宣教師が神学校を卒業し、これから宣教地に向かう若い伝道者に一つのアドバイスをしたというのです。その宣教師はこう言いました「あなたは魂を愛するのではなく、人間を愛してください」。

この若い伝道者は現場に出てみて、この宣教師の言葉を理解するのに、しばらく時間を必要としたかもしれませんが、実際に信徒の方達と接することにより、やがてこの言葉が言わんとすることに気がつかされていったのではないかと思います。

私達はクリスチャンであり、また牧師であるゆえに霊的な事、魂にその関心を向けます。しかし、時に霊的なことだけに目を向け、人は同時に肉体をも有しているのだということに対して心の目が閉ざされてしまうということがあるのではないかと思うことがあります。

時に私達は「あの魂をお救いください」とか「失われた魂のために」というように「人間」を見ないでその「魂」だけを見、「これだけの魂が救われました」。「魂を勝ち取りました」というようなことで一喜一憂をしているようなところがあるのかもしれません。

我々は魂の塊なのではなくて「肉体」をもつ神にかたどって作られた多くの過ちを犯す者、喜びで心満たされる者、健康を損なってしまう者、時には塞ぎこんでしまう、そんな毎日を送っている「人間」なのです。

イスラエルの二代目の王でありましたダビデはかつてこのような言葉を神様に訴えたことがありました。『主よ、わたしをあわれんでください。わたしは悩み苦しんでいます。わたしの目は憂いによって衰え、わたしの魂も、からだも衰えました』(詩篇31篇9節)。

この詩篇31篇の背景にはダビデがサウルに命を狙われ、追っ手に取り囲まれてしまっているような危機に追い込まれていた時に書き記されたのではないかと言われています。

その時にダビデはその心中を隠すことなく「わたしをあわれんでください。わたしは悩み苦しんでいます」と言い、その悩み苦しみによって彼の「目は悲しみによって衰え、魂も体も衰えてしまいました」というのです。彼はここで「魂だけではなく、体も力を失いました」と言っているのです。

そして、この古の王の言葉を今日の私達も共有するのです。皆さんは言ったことはありませんか「もう心身共に疲れ果てました」私達の魂と体は区別されるものではなく、それは一つなのです。

先週もお話ししましたが、今から2900年ほど前、北イスラエルにはエリヤという大胆不敵で、武骨な預言者がおりました。ちょっとやそっとのことでは弱音をはかないような人でした。そんな彼はある時、850人もの異教の預言者を前にたった一人で神の御名のもと戦わなければならないことがありました。そんな相手に普通の人ならしりごみしてしまうものですが、エリヤは果敢に彼らと向き合い、神の絶大なる力によってその戦いに勝利を治めました。その勝利は圧倒的でしたので、その戦いはそれで終わるだろうと思われました。

しかし、その戦いの結果を聞いた時、その戦いを主導していた北イスラエル王国の王、アハブの妻、イゼベルはエリヤに使いを送ってこう言うのです「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」(列王記上19章2節)。この言葉にはイゼベルが必ずエリヤの息の根を止めるという決意が込められています。エリヤを殺さずにはおけないイゼベルの執念がその言葉には込められていました。

エリヤはこの言葉を聞き、恐れにとらわれました。心が折れてしまったのです。そして、その所から逃げ、身を隠しながら、自らの死を求めて神にこう願いました「主よ、もはや十分です。今わたしの命をとってください」(列王記上19章4節)。

彼は大胆不敵な人でしたが、完全無欠な人ではありませんでした。そう、彼はスーパーマンではなく人間だったのです。彼は打ちのめされて、虚脱感に襲われ、自らの命が絶たれることを願ったのです。そう彼は圧倒的な勝利を得たにも関わらずに、どん底に落ちました。今日でいうところのバーンアウトです。

その時、神様はどうなさったのでしょうか。「なんと情けない様だ!」と一喝されたでしょうか。「祈りが足りない」と言いましたでしょうか。いいえ、神様は天の使いを彼のもとに送り「焼石の上で焼いたパンと一ビンの水」(列王記上19章6節)をエリアに与えられたのです。それは「ただのパン」ではなく、焼石の上で焼かれたもの、今日で言えば熱々のトーストでした。神様は彼のためにパンを焼き、水を与えました。

エリヤはそれを食べ、飲んで眠りました。しばしの休息の後、天の使いは再び彼のもとに来て言ったのです「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」(列王記上19章1節以降)。神様はこの時、エリアがどのようにしたら、回復することができるかをよくご存知でした。実際、彼はこの休息の後、心身共に立ち直り再び、預言者としてのはたらきを続けていきます。

かつて4000人ほどの人が三日もの間、食事もせずにイエス様の話を聞くべく、その後を追い続けたことがありました。その時のことについてマルコはこう記しています。

1そのころ、また大ぜいの群衆が集まっていたが、何も食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、2「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。3もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」(マルコ8章1節-3節)。

イエス様は自分の後を追い続けてきた群衆を見ていったのです。「彼らがかわいそうだ」と。そして、その時にイエス様の心にあったことは、彼らはお腹を空かしているだろう。このまま家に帰しては途中で弱り切ってしまうであろうということだったのです。

神の一人子、イエス・キリストは彼らの空腹を心配したのです。ご存知のようにイエス様は罪人、取税人、遊女、パリサイ人、律法学者とも食事をとりました。魂の渇きを満たす言葉を語られたイエス・キリストは同じように、人の空腹をないがしろにはしませんでした。

あのエサウが長男の権利を失ったのはなぜですか。彼の信仰がなかったからですか。いいえ、お腹が空いていたからです。私も自覚します。お腹が空いている時に私は確かに気が短くなる。空腹で帰宅すると冷蔵庫に直行し、「これは何か。食べていいのか」と妻に聞きながら・・・返答を受ける前に、既に食べているのです。そう、私がエサウだったら彼と同じことをしていただろうと思います。

イエス様の一番弟子、ペテロは十字架を前にイエス様を裏切ります。イエス様は孤立無援、十字架にかけられます。しかし、ガリラヤ湖畔でペテロの前に復活のイエスはあらわれます。その時、ペテロは一晩中、ガリラヤ湖で漁をしていましたが何も取れず、そんな時に岸辺にイエス様がいることを知り、舟からに飛び込んでイエス様の元に向かいます。

ペテロが全身びしょびしょになってガリラヤ湖のほとりに上がってきた時、イエス様はペテロの前に立ちはだかり、「三年も共にいながらお前の信仰はあの程度だったのか!」と仁王立ちになりましたか。いいえ、夜通し漁をしても何もとれず、疲労と空腹と寒さの中にあったペテロのためにたき火がくべられ、その上には魚が焼かれていたのです。

一晩中、肉体労働をした体は空腹だったことでしょう。春先のガリラヤ湖の周辺はまだ寒かったことでしょう。ましてや水にまで飛び込んだのですから、彼の体は冷え切っていたことでしょう。その彼の前にイエス様が備えてくれていたのはたき火であり、焼かれた魚でした。

ペテロはこの時、イエス様を知らないと三度、イエス様を否んでから初めてイエス様に面と向き合ったのです。そんなペテロに対して、イエス様は自分を裏切ったことに対する非難をすることなく、ただ熱々の魚をペテロに手渡したのです。彼はそれを食べながら、冷え切った体が焚き火によって温まっていくことにより、その心も満たされていったことでしょう。

愛とは「あなたを愛しているよ」という言葉だけであらわされるものではなく、心をこめて焼いた一匹の魚を無言で手渡すことによっても十分に届けることができるのです。

イエス様は彼が魚をほおばるのを優しいまなざしで見つめておられたことでしょう。彼の前にある火も焼き魚もイエス様の手作りです。それらを前にして、イエス様は敗者復活の言葉をペテロに語りかけます。「ペテロよ、わたしを愛するか」。そう、私達はこの有名な言葉ばかりに注目しますが、この言葉はペテロの心身が満たされた時に語られた言葉なのです。

霊的にダウンしているのです。祈りが足りないのでしょうか。もっと聖書を読むべきなのでしょうか。私は不信仰でだめです」と聞かれることが時々あります。そして、それに対して「おっしゃる通りです。あなたに足りないのは祈りの時間です。聖書を読む時間です。もっと祈りなさい、もっと読みなさい」というアドバイスを受けることがあります。

確かに時と場合、そのような時も確かにありますでしょう。何を差し置いても主と四つに取り組んで祈らなければならない時はあるのです。しかし、その魂の問題と共に「あなたはしっかり睡眠をとっていますか。食事をとっていますかから始まり、ご夫妻の関係はどうですか」というような問いかけをすることもとても大切なことでありましょう。私達は肉体のうちに魂を持ち合わせている人間なのですから。

イエス様がゲッセマネで祈っておられた時、弟子達は確かに疲れていたのでしょう。眠ってしまいました。イエスに一度は起されながら、イエスが「悲しみのあまり死にそうだ」というほどに、血が滴るような汗を流して祈っていた側で、彼らは再び眠り、遂にイエスが捕えられるその時まで彼らは眠っていたのです。

そのような最中、イエスは彼らに言われました「心は熱しているが、肉体が弱いのである」(マタイ26章41節)。主イエスは弟子達のこの心と肉体の状態を受け止め、一人カルバリに向かわれたのです。

皆さん、これが私達、人間です。私達はこの地上にある限り、魂と霊だけで生きているのではないのです。私達は肉体を持ち合わせて生きており、この肉体は私達の心に影響を与え、私達の心は私達の肉体に影響を与えるのです。

そして、私達が心に刻まなければならないことは、この私達の肉体を誰よりも気にかけていてくださるお方は主であるということです。主は私達のために食材に手を加えて、私達に与えてくださるほどに、私達の肉体をそのお心に留めてくださっています。

今日、私達の肉体を取り巻く環境は混とんとしています。アメリカでは子供達のすぐ身近なところにドラッグがあります。テレビや雑誌に出てくるアイドルと呼ばれる子達が皆、完璧なプロポーションですので、そうなるために拒食症になってしまう子供達がたくさんいます。最近、この状況の深刻さを認め、ある有名なファッション雑誌が激やせのモデルを雇わないという方針を打ち出しました。実際の状況が公にされることはありませんが、若者達の間で日夜リストカットがなされています。私達が考えている以上に若者達の肉体が壊されていきます。

芸能人や政治家の「不倫」が連日、報じられます。かつて「不倫は文化」だといった人もおりましたし、それこそが純粋な男女の愛だと言わんばかりのドラマがあったり、「大人の男女がしていることだからいいんじゃないか」という思いがあり、エスカレートしていくばかりです。

歴史家が申しておりますことはこの世界に起こり、滅んでいった国の数々、これらが滅びる前に必ず起きていたことはこれ以上、落ちえないというところまで落ちた性的な退廃だと言います。

今日の世界は一つのルールのもとに動いています。それは「あなたがいいなら、いいじゃない」というルールです。全てがこのルールにのっとっています。このルールを前には他者が口をはさむ余地がないのです。それは個人の自由とされるからです。しかし、今日、私達の世界を見まわしてみます時に、そこにはこの自由の名のもとに生み出された虚無と悲しみがいたるところで悲鳴をあげていないでしょうか。

これら私達の肉体に関することについて、世界は語り得る言葉を失っています。しかし、私達はこれらのことに対して語るべき言葉を持つ者なのです。そう、それは私達の人生訓ではなく、私達の命、私達の体に対する神の言葉です。コリント書においてパウロは言っています。

あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがは、代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい(コリント第一の手紙6章20節)。

この言葉は私達が自分の体に対して持っている思いを根底から変えます。そう、この体は「わたしの体」ではないという衝撃的な事実です。この体は神から受けたものでり、それは聖霊が内に宿る宮だというのです。

この体は代価を払って買い取られたというのです。ゆえにもはやこの体は自分自身のものではないというのです。ですから、私達がこの体によってなすべきことはこの体を通して神の栄光をあらわすことです。

この肉体のために払われた代価とは何ですか。そう、それはイエス・キリストの命です。私達が打たれて受けるべき傷をイエス・キリストは自らの肉体に受けてくださったのです。その代価をもって買い取られている体をもって神の栄光をあらわす、そんな人生を送ることが私達が今、この世にあって生かされている理由です。

パウロはテサロニケ人への手紙の中でこう書き残しています。神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、 4 各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず・・・」(第一テサロニケ4章3節ー5節)

このところには各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ちと書かれています。清く、尊く、保つのです。保つということは管理するということです。そう、神様は私達に主イエスの命と引き換えに買い取られた体を何よりも尊いものとして、きよく管理しなさいと語りかけています。私達の体は神のものであり、私達はそれをしっかりと管理しなければならないのです。

主にある皆さん、私達は今日、私達に注がれている神のあわれみのまなざしにより、神様が私達に強く勧めていることについて見てまいりました。このお方がなぜ私達をあわれみのまなざしで見られるのか、なぜなら私達は肉体を抱えた弱い存在であるからです。そのことを十二分に理解しておられるゆえに神様は私達をあわれまれます。そして、そのことを踏まえて、私達に強く勧めるのです。

『神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である』(ローマ12章1節)。

私達はもう一度、自分自身の体を見直そうではありませんか。主イエス・キリストが代価を払って買い取ってくださいました私達の体を神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げるためにはどうしたらいいのか、各々、自分の心に問いかけようではありませんか。主イエスによって贖っていただいたこの体を神様は私達に託しておられるのですから、私達はこの体を大切に管理し、私達の心と体を通して、主が喜ばれるように、少しでも主の栄光をあらわすことができるようなものでありたいのです。お祈りしましょう。

本日おもちかえり
2018年2月25日

1)あなたが今、関心のあることは何ですか。あなたはどれくらい健康について関心を持っていますか。ローマ12章1節から2節であなたに語りかけてくる言葉は何ですか。

 

2)私達の信仰とは「霊的」な事柄だと私達は思いがちで、それは誤っていないのですが、私達の「肉体」について聖書は何を語っていますか。

 

3)「スピリチュアル」なことだけに私達の関心が向けられますと、どんな問題が起きてきますか。

 

4)詩篇31篇9節、列王記上19章1節以降、マルコ8章1節-3節には私達の肉体に対する神様のどんな心が見えますか。イエス様はなぜイエス様を裏切ったペテロの冷えた体を温め、その空腹を満たしたのでしょうか。このような主のお心を知る時に私達はどんな思いになりますか。

 

5)「心は熱しているが、肉体が弱いのである」(マタイ26章41節)というような経験をあなたはしたことがありますか。このことからどんな心と肉体の関係が分かりますか。

 

6)コリント第一の手紙6章20節を読みましょう。体は私達のものですか。それが神様のものであるのなら、私達はこの体をどのように取り扱うべきでしょうか、用いるべきでしょうか。

 

7)今日、私達の世界には不倫や自らの肉体を傷つけるようなことがたくさん起きています。これらのことに対してなぜ聖書はノーというのでしょうか。

 

8)第一テサロニケ4章3節ー5節を読みましょう。「自分のからだをきよく保つ」とは私達の体を管理するということです。私達は主から託されているこの体をどのように管理すべきでしょうか。そして、この肉体を通して、どうあるべきことが人間の究極的な生きる目的なのでしょうか。

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