あなたは私に従いなさい。

主に従うということは、自分がしていることと、人がしていることを比較して一喜一憂することではありません。「私はこんなに苦労しているのに、あの人は楽な人生を送っていていいよね」という思いに捕らわれることでもありません。実際、本人以外の誰がその人の人生は楽だと決めつけることができるでしょうか。自分が思う以上に私達は自分以外の人のことはほとんど何も知らないのです。

私達は「あなたは私に従いなさい」という主イエスの言葉をしかと受け止め、一日、そしてまた一日、それに従って生きるのです。この言葉を聞き、この言葉に従っている限り、私達は主が与えてくださっている自由を失うことはないのです。

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あなたは私に従いなさい。
2019年6月2日

聖書を拝読します。

 18「よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。19これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。20ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。21ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。22イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」(ヨハネ21章18節‐22節)

私たちにとって「自由」とは何でしょうか。国語辞典によると「心のままにすること。思うとおりにすること」と書かれていました。言うまでもなく私達はこの自由を好み、これを放棄する人はいないと思います。

8年ほど前、サドルバック教会でもたれたジョージ・ブッシュ元大統領とリック・ウォーレン牧師の対談を聞きにいきました。その時にブッシュ氏は度々「フリーダム」という言葉を使い、聴衆もその言葉に強く反応していました。個人の自由は米国民にとって最も尊重され、共有されるべき権利だからです。皆さんにとって「自由」とはなんでしょうか。

今日の聖書個所には「ペテロの自由」というものが語られています。それは  18節にイエス様がペテロに言われた「あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、思いのままに歩きまわっていた」という言葉に表されています。

 日本の温泉宿に宿泊しますと浴衣を着ます。そして、その時、腰に帯をします。イエス様の時代の人達にとりましてもこの「帯」とは腰にまくものでした。「腰」には「要」(かなめ)という字が含まれているように、そこは私達の力の源であります。物を運ぶにも、歩くにも腰の力が重要です。

すなわち自分で腰に帯を巻くとは、自分の力を自由に自分で治めることができるということであり、それはまさしく、自分で自分の欲することを何でもすることができるということでありましょう。まさしく、ペテロはその人生を自由に思うがままに生きてきたのです。

思えば彼がイエス様に従い弟子となったというのも、イエス様に強制されたからではなくてペテロの自由な選択でありました。彼はいつでもイエス様のもとを離れて、昔の仕事、漁師に戻る自由もあったのです。彼はまさしく、自分で帯をして思いのままに行動していたのです。

これらのことを踏まえて、今日はこのペテロにイエス様が言われた二つの言葉「わたしに従ってきなさい」(19節)と「あなたは、わたしに従ってきなさい」(22節)を皆さんと一緒に見ていきたいと願っています。

わたしに従ってきなさい(19節)

 「あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、思いのままに歩きまわっていた」(18)とイエス様はペテロに言われました。しかし「これからは違うよ」とイエス様は彼に言われたのです。すなわち、これからは「自分の手を伸ばし、そして、他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くだろう」(18)というのです。

皆さん、この言葉は、よく考えると私たちの生涯にも当てはまるような気がします。確かに私たちはどちらかといいますと、若い時には自由に生きることができました。自分の時間が自由にとれて、好きな所にもたやすく行けることが多かったのです。しかし、年齢を重ねる度に、自分一人で自由に行動できる範囲が狭まってきたのです。

それは多くの私達の日常生活にも当てはまるものです。家庭をもったり、仕事をしたりしていますと、言うまでもなく、私達は自分がしたいことを後回しにしなければならない毎日を送ることになります。それこそ腰に帯が結びつけられて、右に左に引っぱられているような毎日です。

それでは家庭から子供が巣立ち、仕事をリタイヤしたらどうでしょうか。大抵、その頃から体の無理がきかなくなってきます。そのことゆえに自分の自由というものが限られてきます。

今までたやすく行けていた所に、そう簡単に行けなくなってきたということは、誰しもが体験することでありましょう。さらに私達の年齢が進みますと、それこそ自分の思いはかなわず、私達の生活をマネージしてくれる家族や第三者が私達の生活を決定するというようなことも経験することになるかもしれません。

そう考えますと「他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行く」という言葉は私達にも理解できます。しかし、ペテロの身に降りかかることは私達が思い描くこととは違っていました。

すなわちここには「このことはペテロがどんな死に方で神の栄光をあらわすかを示すためにお話しになった」というイエス様の言葉が記されているのです。彼が死ぬことにより、神の栄光があらわされるというのです。

ペテロは伝説によるとイエス・キリストに対する信仰ゆえに十字架に逆さにはりつけられて、殉教したと言われています。それは、まさしく彼の生きる自由というものが他者によって完全に奪われたということでありました。

十字架に逆さに磔にされるということは私達が願う最後ではありません。しかし、イエス様はそのことを通して神の栄光があらわされると言いました。神の栄光は私達が最悪と思われるところにもあらわされるというのです。

私達はここであることに気がつきます。それは「こう話してから」(19)、イエス様は「わたしに従ってきなさい」(19)と言われたということです。

皆さん、誰かが自分と共に歩もうとする時に、そのことによって最悪のことが起こるだろうと話してから「わたしと共に行こう」と言うでしょうか。そんなことを聞きましたら、大抵の人はしり込みし、「いやいや、お断りします」と返答しますでしょう。

男性が女性にプロポースをする時に(もちろん、その逆もありますが)、「僕と結婚してください」と言って「この結婚により、僕達はどれだけ幸せになれるのか」と彼は彼女に語ることでしょう。

ですから多くのカップルは結婚前に幸せそうな顔をしているのです。しかし、結婚後には大抵「こんなはずじゃなかった。聞いていたことと違う」ということがあり、そこから諸々の問題が起きてきます。

しかし、こんなプロポーズの仕方もあります。すなわち「僕たちはこれから色々な苦労をするだろう。あのことも、このことも通らなければならないかもしれない。それでも僕と共に人生を歩んでくれないか」

皆さん、前者と後者の違いはなんでしょうか?私はこう思います。前者の女性は結婚後の困難を何も聞かずに、ただ良いことだけを聞いて彼と結婚しました。

しかし、後者の女性はこれから起こるであろう困難というものを全て予め聞きながらも彼と結婚しました。そうです、彼女はそれらのことを全て聞きながらも「それでも僕と共にいてくれないか」という彼の言葉を受け入れたのです。

なぜ?なぜなら、後者の場合、この男性の言う「それでも僕と共にいてくれないか」という言葉は、実はそれで完了はしていないからです。その後には「これから色々な困難に直面するだろうけれど、僕は君を愛している。そして必ず君を守る」という彼の思いが伴っているのです。それがなければこのプロポーズを受ける人はいないでしょう。

 あなたが私に従うことにより、色々な困難に直面することだろう。私と共に歩まなければ受けることのない困難すらもその中にはあるだろう。しかし「私に従いなさい」と主は私達に言われます。そして、その背後には「必ず私があなたと共にいるから」(マタイ28章20節後半)という言葉があることを私たちは忘れてはならないと思います。

私達はあのダビデの詩篇23篇を知っています。「主は私の牧者であり、私達を緑の牧場に伏させ、私達を憩いのみぎわに伴ってくださる」。しかし、この詩はいいことばかりを言っていません。この詩は「たといわたしは死の陰の谷を歩むことがあっても」と語り、その後に「あなたが共にいるから、災いを恐れません」というのです。

イエスを主として生きる者達の人生はいつも緑の牧場、憩いのみぎわにいるわけではありません。時には死の陰の谷を歩むこともある。いいえ、しばしの間、その谷を歩き続けるようなことだって人生にはある。聖書はお得なことしか話さない悪徳セールスパーソンのように、リスクを隠して、いいことばかりを私達には語らないのです。

皆さん、ご存知のようにペテロは先に自分に降りかかることを聞きながらも、イエス様に従っていきました。自分で自分の帯を締めて思いのままに生きるということを放棄してイエス様に従ったのです。

そして、このことゆえに彼はイエス様が言われたような安泰な生涯を送ることはありませんでした。まさしくイエス様が言われたように彼の帯は他者の手に渡され、彼は迫害され、投獄され、そして最後は殉教しました。しかし、彼の心には常にそのような時にもイエス様が共にいてくださるという確信があったのです。

さて、ここで考えてみましょう。確かに彼は自分の腰の帯を他の人に握られました。それでは、その彼に自由はなかったのでしょうか。いいえ、彼は「自分の自由」を失ったように見えましたが、彼はそれと引き換えに「キリストにある自由」というものを獲得したのです。

私達が言うところの自由は私達が望むように、自分の思いのままにすることです。しかし、今やペテロの心は神様のみ心と一つとなり、そのことにより彼は本物の自由を得たのです。

 そんなこと本当にあるのかいと思われる方がいるかもしれません。ペテロは自分が記した手紙の中(Ⅰペテロ2章)で、自分の差出人たちにこう書き残しています。

自由人にふさわしく行動しなさい」(Ⅰペテロ2章16節)。

この手紙は今日、見ていますイエス様との会話から約30年後、AD63年頃に書かれたと言われます。その時というのはローマ帝国のネロによるキリスト教徒に対する迫害が強くなってきた時であり、彼はそのような緊迫した時、すなわち自由を失いかねない、否、すでに自分の行動が制限されるようなただ中でこの言葉を書き記したのです。

この彼の言葉は言うまでもなく「私は自由人である」ということ前提として、あなたたちも自由人にふさわしく行動しなさいと勧めています。それは強がりでも、負け惜しみでもない、キリストに従う自分こそ「本物の自由人」なのだと彼はここで言っているのです。

そして、その後に彼はこうも記しています。「あなたがたは羊のようにさ迷っていたが、今はたましいの牧者であり監督である方のもとにたち帰ったのである」(25)そう、彼はさとったのです。自分が若い時に感じていた自由はその時には自由に見えたけれど、それは神の側から見れば、「羊のようにさまよっていたことなのだ」と。

彼はたましいの牧者なるイエスのもとに立ち返り、その牧者なるイエスと片時も離れずに生きる人生の中で、たとえその両腕に縄が縛られても、私はキリストにあって自由人なのだということを悟ったのです。私達が見聞きする「自由」と神様が私達に与えてくださる「自由」とはこのような全く異なるのです。二つ目の事をお話ししましょう。

あなたは私に従ってきなさい。

イエス様に「あなたは私に従って来なさい」と言われながら、その後に私達は人間らしいペテロの姿を見ます。まことに彼は愛すべき人です。彼は言いました「主よ、この人はどうなのですか」

ああ、彼の言葉はなんと私たちの心の思いを代弁するものでしょうか。彼は「分かりました」と言う前に「この人はどうなのですか」と言ったのです。

私達は回りの人のことが常に気になります。いつも、あの人、この人と人を気にしています。子供の頃、親に叱られますと、私達はこう言いました。「どうしてあの子は叱られないの?何で僕だけなの?」そして、私達が大人になるとこんな思いが心にわいてきます「どうしてあいつが出世して俺はまだここにいるんだよ?」

ペテロがイエス様に尋ねた「主よ、この人はどうなのですか」という「この人」とはこのヨハネ伝を書いたヨハネのことを示すのですが、ペテロにとって彼は仲間の12弟子の一人でありました。

「自分はこれから自由を失うらしい、なんかそれはただ事ではない、じゃー自分だけではなくて、こいつも同じように苦しいところをとおるのだろうか、いや、通るべきだろう。じゃないと不公平だ」。しかし、それに対して主は言われたのです。「あなたには何の関わりがあるのか。あなたは、私に従ってきなさい」(22)

塚本訳の聖書はこの箇所を「あなたの知ったことではない」と訳しています。あぁ、なんとはっきりとした訳でしょうか。そう、ペテロと同様、ヨハネは神様の御手の中にある者で、彼が神様にどのように用いられていくかということは、ペテロが思い悩むことではないのです(実際、この後のペテロとヨハネの人生はそれぞれ異なるものとなり、またそれぞれが主の宣教のために不可欠な役割を果たしていきましたでしょう)。

そうなのです、私達がすべきことは、他の人はどうなんだろうと他者と比較しながら生きるのではなくて、私達の同伴者なるイエス様と共に自分がなすべきことに日々、取り組んでいくことなのです。

皆さん、お分かりになりますでしょう、ペテロの心にこの疑問がわいた瞬間、そう、その瞬間ですよ、彼は瞬く間に不自由な男になってしまったということを。そう、その思いに心が捕らわれてしまったからです。

主にある皆さん、私達が生きる限り、ペテロの持った思いを私達は持ちかねない世界にいることを認めましょう。そうです、私達はいつでも心の自由を失いかねない場所に今もこれからも置かれているのです。

主に従うということは、自分がしていることと、人がしていることを比較して一喜一憂することではありません。「私はこんなに苦労しているのに、あの人は楽な人生を送っていていいよね」という思いに捕らわれることでもありません。実際、本人以外の誰がその人の人生は楽だと決めつけることができるでしょうか。自分が思う以上に私達は自分以外の人のことはほとんど何も知らないのです。

私達は「あなたは私に従いなさい」という主イエスの言葉をしかと受け止め、一日、そしてまた一日、それに従って生きるのです。この言葉を聞き、この言葉に従っている限り、私達は主が与えてくださっている自由を失うことはないのです。

もしかしたら私達は自らの心が生み出してしまう不自由を人生の最後まで持ち続けていくことになるかもしれません。それはイエス・キリストが私達にも約束して下さっている本物の自由を体験することなく人生を過ごすということです。よくよく考えたら、これは非常に残念なことであり、後になって悔いても悔いきれないことです。

私達の人生の終わりが近づいてきた時に自分の人生を振り返り、「私はただイエス様だけを見つめ、その言葉を心に刻んでここまで生きてきたのだ。そのことにおいて私には悔いはない。あぁ、主は私に本物の平安を与えて下さり、私はなんと自由な生涯を送ることができたのだろう!」と人生を終えることができたら、それはなんと幸いなことでしょうか。

今朝、私達は「あなたはわたしに従ってきなさい。見よ、私は世の終わりまでいつもあなたと共にいる」という主のお声を聴いていますか。主にある皆さん、キリストにあって自由人にふさわしい生き方をしようではありませんか。

お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年6月2日

1)この世で「自由であること」は何を意味しますか。あなたにとって「自由」とは何ですか。あなたは今、自由を満喫していますか。

 

2)ヨハネ21章18節‐22節を読みましょう。イエス様はなぜペテロが将来、自分の自由を失うことが起きることを語った後に「わたしに従って来なさい」(19)と言われたのですか。

 

3)イエス様の考える「自由」と私達が考える「自由」にはどんな違いがありますか。

 

4)イエス様との会話の後にペテロは「この人はどうなのですか」と自分以外の人のことが気になりました。あなたは普段、どれくらい人のことを気にしていますか。そのことで心が捕らわれてしまうことがありますか。その時にあなたは自由人ということができますか。

 

5)ペテロの質問に対してイエス様は「あなたの知ったことではない」(塚本訳)と言われました。なぜイエス様はこう言われたのでしょうか。この言葉は私達にどんな思いを与えますか。

 

6)ペテロは迫害の激しい時代を生き、最後には捕えられ、逆さ磔により殉教したと言われています。これらのことはペテロが自由を失ったことを意味しますが、彼は「自由人にふさわしく生きなさい」(1ペテロ2:16)と語っています。彼は自由を失いながら自由人でした。これはどういうことですか。

 

7)「あなたは私に従いなさい」というイエス様の言葉を聞き続けることはなぜ大切ですか。

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