かめの粉は尽きず

今日は母の日です。それゆえに母親である皆さんにエールを送りたいと思います。

それは、皆さんがどんな能力があるとか、どんなものを持っているかということよりも(実際に今日お話ししますやもめにはこの類のものは何もありませんでした)、今日、お話しします聖書の言葉に照らし合わせるのなら、真に神を畏れ、神を信頼して、神に従って生きているか否か、それこそが最も大事なことだということです。

申し訳ありませが、事実を語らせていただきますと、私達ができることというのはたかが知れていますでしょう。かつて私の母は言いました。「あなたを育てながら牧会をしていた時はがむしゃらだった」と。きっと皆さんの毎日も日々のことに追われて「がむしゃら」でありますでしょう・・・。

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かめの粉は尽きず
列王記上17章8節―16節
2019年5月12日

今日は母の日です。私たちには誰もが母がいますし、また今、母親であるという方もいます。母とは言うまでもなく女性であり、その女性の姿というものが聖書の中にも数多く出てきます。

現代のアメリカに住んでいますと、そんなことは考えないかもしれませんが、今も中東の国々では、全身、頭から足の先まで真っ黒な衣装で身を隠す女性達がいます。そのような国々の街では外を歩いているのは男ばかりで女性達はあまり家から出ないとも聞きます。サウジアラビアでは昨年、女性初の運転免許証の交付があったといいます。

そのようなことを考えますと今から数千年前に男性と何ら変わらずに聖書の中に多くの女性が出てくるということ、その女性達が神に用いられていく様が多く描かれているということは当時の慣習から考えたら本来、あり得ないのです。そう神は私達人間の慣習という箱の中に収まるお方ではなく、私達の思いがおよばない不思議なことをなさるお方なのです。

そんなことを心に留めつつ、今日は聖書に記録されている一人の母親に注目したいと願っております。

8その時、主の言葉が彼に臨んで言った、9「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。10そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。11彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。12彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。13エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。14『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。15彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。16主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった(列王記上17章8節-16節)。

ここに出てくる女性は未亡人であり、一人の男の子の母親でした。彼女の名前はここには記されておらず、聖書はただ彼女を「ザレパテのやもめ」と呼んでいます。

まずこの出来事の背景を説明しましょう。かつてイスラエルにアハブという王がいた時代がありました。このアハブ王にはイゼベルという妻がいました。この女性は聖書の中でも悪女を代表するような女で、バアルという偶像の熱烈な崇拝者でした。バアルというのは太陽神であり、イゼベルはイスラエルからバアル以外の神を拝む者を一掃し、根絶し、バアル崇拝をイスラエルの国教にしようとしたのです。

聖書を読みますとアハブ王はこのイゼベルに振り回されているような印象を受けます。そして、その同じ時代に預言者にエリヤという人物がいました。彼は神に対して熱い情熱をもった預言者でして、このアハブとイゼベルに命をかけて立ち向かっていたのです。

当時、バアルを崇拝することが強いられていた時代にあって、エリヤは列王記上17章1節でこのように宣言しています「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。そして、このエリヤの言葉のごとくそれから3年6ヶ月の間、雨が降ることはなくイスラエルは過酷な旱魃となり、飢饉がやってきます。

そのような飢饉の最中、神様は17章8節、9節でエリヤにこう言っているのです「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。

ここで出てくる“シドンに属するザレパテ”とは地名を示します。そこはフェニキア人の住む土地で、イスラエルから言いますと外国でありました。故に文化も宗教も違う土地でありました。

このやもめが何人であったかは聖書には書かれていません。フェニキア人であった可能性もありますが、エリヤと自由に話したり、彼を自分の家にかくまったりしていることを見ると、もしかしたらエリアと同じイスラエルに属する者だったのかもしれません。

彼女が置かれていた細かな状況は分かりませんが、もしかしたら彼女の死んだ夫がフェニキア人だったのかもしれません。言わば彼女は外国人と国際結婚をして、異国の地に暮らしていたのかもしれません。

やがて息子が生まれたけれど、夫を失い、女手一つで幼い子供を育ててきた。おそらくそんな状況にいたのではないかと思われます。

そして、この箇所からも分かるように彼女と息子はとても窮していたようです。そこにある一握りのパンの粉と少しの油で食事をして死のうというほどに、彼らは切羽つまった状況にいました。

当時、やもめと言えば、他者に何かを与えることなどできるはずもない、それどころか他者から何かを恵んでもらわなければならない最も弱い人たちでした。

驚くべきことに神様はエリヤに裕福な家に行くようにと言われたのではなく、これから息子と死のうというほどに窮地に追い込まれているやもめの元に行くようにと言われたのです。

さらに驚くべき事に列王記上16章31節を見ますとアハブ王が「シドン人の王エテバアルの娘イゼベルをめとり・・・・」という言葉が記されています。すなわち預言者エリヤが対決していたアハブ王の悪妻イゼベルとは、もともとシドンの王女だったのです。

ということは神様はエリヤに敵国にいるやもめの元に行き(列王記17章8節、9節)、そこでやもめの女から養われるようにと言われたのです。

言うまでもなくこのことは危険極まりないことでした。普通は敵から距離を置きなさい、逃げなさいというのが常識的な考えです。しかし、神様は時に人間の考えもおよばない不思議なことを求めることがあるのです。

さて、このエリヤがザレパテに来てみますとそこには神様が言われた通りに、ひとりのやもめがいました。彼女は町の門でたきぎを拾っていたというのです。彼はその女に声をかけて言いました「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」(列王記上17章10節)。その時とはエリヤが3年6ヵ月雨が降らないと言った乾季でした。そんな時には水一杯も貴重であったに違いありません。

そして、この女性が水を取りに行こうとした時に、エリヤは彼女を呼び止めて言いました「手に一口のパンを持ってきてください」。彼女はそれに対してこう応えました「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。

この一文を読む時に私たちは彼女とその子の姿が目に浮かんでくるようです。その彼らにエリヤは言いました「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかし、まず、それでわたしのために小さなパンを一つ作って持ってきなさい。その後、あなたとあなたの子供のために作りなさい。主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」とイスラエルの神、主が言われるからです」。

それを聞いた彼女は「あなたは何と非常識で身勝手な人なのか?」と言うことができたと思います。こっちは親子で生きるか死ぬかのところにいる、その最後のわずかな食べ物までも恵むように言うなんて!

さらには先ほどお話しましたようにエリヤはイゼベルの息のかかる所にいるのです。彼女にこのお捜し者で危険人物は自分を養ってくれと言っているのです。王の妻の宿敵を養うなんてことは、普通では考えられないことであり、それはやもめとその子にとって命に関わることであったに違いありません。

しかし、15節を見ますと、このやもめは行って、エリヤの言ったとおりにしたのです。そして、それがこのやもめ親子の人生を変えました。

彼女たちは枝3本とパンの粉一握りと、少しの油を用意しました。これらが彼女たちが持っていた全財産でした。皆さん、こんなわずかなものから何かが起ると思いますか。何か新しいことが始まると思いますか。

これが常識的な考えです。しかし、信仰をもって私たちが一歩を踏み出すと、驚くべき世界が開けていくのです。人間の常識の範疇に収められる方などは神ではないのです。

このやもめ親子には、エリヤが言った通りのことが起きたのです。これが最後と思って使ったパンの粉と油、それを主に捧げた時から彼女たちのパンの粉と油は絶えることがありませんでした。

これは文字通り、その日以降、彼女のかめの中の粉、びんの中の油が毎朝、満ち満ちていたという、およそ考えられない神のみわざが起きたということなのかもしれませんし、不思議な方法で誰かを通して、これらのものが彼女たちに供給されるようになったということなのかもしれません。どちらにせよ、その日以来、彼女達の日毎の必要が満たさていくのです。

皆さん、この出来事は何を意味するのでしょうか。私達の米びつから米がなくなることない。使えど使えどバンクの残高が減ることはない。こういうことが信仰者に起こるということでしょうか。

今までお話してきましたエリヤとやもめ親子の話は旧約聖書に書かれている、その名の通り旧い契約の時代に起きた出来事でした。今、私たちは新しい契約の時代に生きています。そして、この新しい契約について書いている新約聖書では「パン」はイエス・キリストをさします。そして「油」は聖霊を指すのです。

ヨハネ6章35節でイエス・キリストはこう言われました「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して乾くことがない」。

マタイ25章にはイエスによって語られた「10人のおとめが明かりを手にして花婿を迎えに行く」という譬話が記されています。その内の5人のおとめは思慮が深く、明かりのために余分な油を用意していました。しかし他の5人の思慮が浅いおとめたちは油を用意していなかったのです。この油は何を示すのか、それは私たちに注がれる「聖霊」、Holy Spiritを意味しています。

今日、私達が暮らす世界においては空腹や渇きが問題なのではなく、それらのものを過剰に取りすぎることが問題となっています。しかし、実際のところ、私達の空腹や渇きというのは肉体的なものだけではありません。

肉は満たされていても、私達の魂は空腹であり、渇きがあります。この空腹と渇きを命のパンなるイエス・キリストは満たしてくださいます。

また私達の上に注がれる聖霊が枯渇してしまうということはないのです。この尽きることのない命のパンなるイエス・キリスト、そして油なる聖霊が尽きずに私達と共にある時に私達が霊的に飢え渇いて滅んでしまうことはありません。

そして、この二つが絶えることなく私達と共にあるのなら、とても不思議なことですが、私達の必要も満たされていくのです。なぜなら私たちの必要はこのキリストと聖霊様を通して私たちに与えられるからです。

非常に切実で具体的な話になりますが「これからの子供の大学進学に必要な学費は一人あたり、私立ですと年間5万ドル、四年で20万ドルかかるらしい。一年5000ドル(それでも高い!)、四年で2万ドルではなくて、20万ドルなのです。子供が三人いればこれが60万ドルです」というような恐ろしい話を聞くことがあります。一体、誰がこんな学費を払えましょうか。

しかし、そのような時に思うのです「かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった」。そうだ、自分は私たちの供給者のことを忘れている。自分で全てを供給しようと思うならば、これは完全に不可能。

しかし、主に願い求めよう!そうしますと形こそは違いますが、確かに神様は不思議な方法で幾つもの扉を開いてくださるのです。そう、それは私達の理解を超えていますので、まさしく「不思議」としか言いようがないことなのです。

四月末に私達は大川道雄先生の送別会を持ちました。ご存知のように先生は牧師の子として育ちました。これからお父様がかつて牧会していた清水の教会でそのはたらきを始めます。

以前もこのことはお話ししたかと思うのですが、私がこのエリヤとやもめの話を読む時にいつも先生のご家族に実際に起きたことを思うのです。道雄先生の弟である大川従道先生は今、現在、神奈川県の大和で伝道牧会をしていますが、その従道牧師が書かれた「教会成長うらおもて」という著書の中で「驚くべき貧困家庭」という自分の生まれ育った家庭について書いています。

その書によりますと、先生の育った牧師家庭はあまりにも貧しいので、教会に火をつければ両親は伝道をやめるのではないかと思ったことや、父親にはかなわないので、母親の一枚しかない外出着を燃やしてしまったり、頭髪を引っ張ったり、蹴飛ばしたり、踏んづけたり、さんざん親に反抗したことが書かれています。

そんな従道牧師をお母さんはいつも「今のお前は本当のお前ではないよ。必ず、主に用いられる人物になるよ」と言って聞かせ、祈り続けたそうです。そんな夢のような言葉や優しい態度が、反抗しながらも先生の心の奥に残っていたそうです(その時、お母様は思ってみたことでしょうか。後にこの息子が牧会する教会が日本で一番、大きな教会となるとは!)。

先生のお母さまは貧しくてもけっして不平や愚痴を言いませんでした。そして、口癖のように「エリヤの神様は生きているよ」と子供たちに言い聞かせたというのです。そう、このエリヤこそ今、お話ししているエリヤです。

当初、先生も「エリヤの神様なんてどこにいるんだよ」と親をからかっていたようですが、その神に対する親の信頼心は反発していた子供の心に「神なんかいるもんか」と口では言いながら、神への畏敬を教え、「まず神の国と神の義とを求める」なら、必ず、神様は必要を満たしてくれることを数えきれない経験を通して示してくれたといいます。

明日食べるお米がなくても、感謝して就寝する母の姿は驚きでもあり、頼もしくもあり、祈りがこたえられて、早朝「ドスーン」という音とともに玄関前に米俵が置かれてあるのを見て、信頼するものに恥をかかせたまわない神様の存在を学ばせられたというのです。

皆さん、大川先生は嘘をついているのでしょうか。皆さん、エリヤの神様は作り話ですか?いいえ、その後の先生の生涯がエリヤの神は生きておられるということの揺るぎない事実を示していますでしょう。

神様はいるのかしら、いないのかしら、祝福、祝福と言っているけれどそんなの本当かしら」。そう思う方がいるかもしれません。そんな時、私たちは問われるのです「あなたは本当に神様に信頼し、従い、神の国と神の義をまず第一に求めていますか?

あのやもめは、子供と食べる最後の食事をエリヤに分け与えたのです。彼女自身が言っているように、もしエリヤにそれを与えなければ、その分だけ数日長く生きながらえたかもしれませんが、すぐに糧は尽きて、この親子は死んでいたことでしょう。しかし、神をまず第一にして従った時に、その時に思いもしなかった、想像もしなかった神のみ業を見ることになったのです。

イエス・キリストの誕生よりも750年前に生きたイザヤという預言者はキリストの誕生についてこんな預言をしました。

『ひとりのみどり子が、私達のために生まれる。ひとりの男の子が私達に与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる』(新改訳聖書:イザヤ9章6節)

主にある皆さん、私は今日のメッセージで何度か「不思議」という言葉を使いました。そうなのです、誰が敵国にいるやもめ親子をしてエリヤを救うなどと考えますか。家に火をつけて親の伝道を辞めさせようと考えていた少年が、どうして将来、主の言葉を語るようになりますか。神がなさることは不思議で満ちているのです。この不思議な助言者のはたらきは尽きることはないのです。

先週、ニコデモのことをお話ししました時に、この不思議な助言者の言葉をお分かちしましたでしょう。そう、イエス・キリストはニコデモに語りかけたのです。

5イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。6肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。7あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3章5節-8節)。

ここにも書かれていますように不思議な助言者の語る言葉は私達にはまさしく不思議に思われるのです。なぜなら、風が私達の目に見えないのに、そこに確かに存在し、自然界の中で大切なはたらきを多くなしているように、聖霊は目には見えずとも確かに私達の間ではたらき、私達の間で数々のことを成しているからです。このことを私達は不思議としか形容できないのです。

皆さん、今日は母の日です。それゆえにそんな皆さんにエールを送りたいと思います。

それは、皆さんがどんな能力があるとか、どんなものを持っているかということよりも(実際にあのやもめにはこの類のものは何もありませんでした)、今日、お話ししました聖書の言葉に照らし合わせるのなら、真に神を畏れ、神を信頼して、神に従って生きているか否か、それこそが最も大事なことだということです。

申し訳ありませが、事実を語らせていただきますと、私達ができることというのはたかが知れていますでしょう。かつて私の母は言いました。あなたを育てながら牧会をしていた時は「がむしゃらだった」と。きっと皆さんの毎日も日々のことに追われて「がむしゃら」でありますでしょう。

あのやもめ女性はがむしゃらを通り過ぎて、もはや万事休すだったのです。あのやもめが自分でできることは残り数日の命を保つことでしたでしょう。しかし、そこに神が介入された時に不思議なことがそこに起きたのです。

このメッセージを準備しながら考えました。私は日ごとに枯渇してしまうような、尽きてしまうような自分の余力に頼るのではなくて、尽きることのないイエス・キリストと聖霊のはたらきがこの人生に介入してくださるような生き方をしたい。そして、この人生の中に神がなされる不思議を一つでも多く見せていただきたいと。

主にある皆さん、ザレパテのやもめ親子を養い続けたエリヤの神は今も変わらずに私達と共にあるのです。あなたはこの神に信頼を寄せ、この神を第一としていますか。あなたの人生にこの神が不思議をなさろうとしていることを信じますか?

お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
列王記上17章8節―16節

1)列王記上17章8節―16節を読みましょう。神様がエリヤにザレパテのやもめのもとに行くように言われたことはなぜ私達にとって驚きなのですか?

 

2)エリヤが彼女に水と一口のパンを求めたことは、彼女にとって何を意味しましたか?なぜ彼女はこのことに従うことが出来たと思いますか?(12節)。

 

3)あなたが信じてる神は生きている神ですか。あなたはそのことをお題目ではなく事実として受け止めて、そこに立って生きていますか?

 

4)新約聖書に照らし合わせますと「パン」と「油」は何に置き換えることが出来ますか?

 

5)イエス・キリストと聖霊は今日、どんなはたらきを成していますか?

 

6)エリヤを助け、やもめ親子を養い続けた神様にあなたは期待をしていますか?

 

7)あなたはどんな神様の不思議なみわざを体験したことがありますか。今、 体験していますか?

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