こうしうて教会は(18):まごころを評価する教会

多くの方達の家庭には昔の写真や思い出のものというものがあると思います。時々「息子が書いてくれたんですよー」とその子の親の顔の絵を見せていただくことがあります。それを見て「下手ですね」という人はいません。「まぁーお上手、いいですねー。将来はアーティストですね」と私達は言います。その親御さんは嬉しそうにニコニコしています。

私が大切にしている思い出にかつて息子が幼い頃に書いてくれたメッセージがあります(彼の許可をもらってシェアーしています)。

ここには意味不明な「かかこい」、「fyne」とあり、何を言いたいか、だいたい想像はできますが、言うまでもなくスペルは間違っています。皆さんにとってこの絵は落書きにしか見えないかもしれませんが私にとって、このメッセージはかけがえのない宝物です。なぜでしょうか?我が子が心をこめて書いてくれたからです。

まさかこのメッセージに対して「お前のスペルは違っているぞ」「うまく書けるようになってから、もう一度、くれないか」という親はいないでしょう・・・。

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こうしうて教会は(18):まごころを評価する教会
2019年11月3日

 多くの方達の家庭には昔の写真や思い出のものというものがあると思います。時々「息子が書いてくれたんですよー」とその子の親の顔の絵を見せていただくことがあります。それを見て「下手ですね」という人はいません。「まぁーお上手、いいですねー。将来はアーティストですね」と私達は言います。その親御さんは嬉しそうにニコニコしています。

私が大切にしている思い出にかつて息子が幼い頃に書いてくれたメッセージがあります(写真)(彼の許可をもらってシェアーしています)。

ここには意味不明な「かかこい」、「fyne」とあり、何を言いたいか、だいたい想像はできますが、言うまでもなくスペルは間違っています。皆さんにとってこの絵は落書きにしか見えないかもしれませんが私にとって、このメッセージはかけがえのない宝物です。なぜでしょうか?我が子が心をこめて書いてくれたからです。

まさかこのメッセージに対して「お前のスペルは違っているぞ」「うまく書けるようになってから、もう一度、くれないか」という親はいないでしょう・・・。

今日の聖書箇所を読みましょう。この箇所を私達はここ数週間、見ておりますが、ここに2000年前の最初の教会の姿が描かれています。

46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである(使徒行伝2章46節)。

初代の教会に集まる者達を見て、人々は彼らの中に「まごころ」を見出しました。彼らはまごころをもって食事を共にし、賛美し、それゆえに全ての人に好意を持たれていたのです。

初代の教会はどのようにして「まごころ」を有する教会となったのでしょうか。彼らはイエス・キリストの内にそのことを見出し、それゆえに彼らもそれに倣ったに違いありません。かつてこんなことがありました。

1そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。2すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。3イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。4時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。5イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。6これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。7すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。8弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、9「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。10イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。11そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。12人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。13そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった(ヨハネ6章1節-13節)。

ある時、イエス様がガリラヤ湖に居りました時、男だけで5000人、この場合、成人男性の数でしょうから、もし女性や子供を入れれば軽く10000人を超える群衆がイエス様の話を聞くべく、その後について来たというのです。

ガリラヤ湖にはこのことが起きただろうと言われている場所があります(写真)。かつて一人でイスラエルを旅した時、私はそこに行きました。そこはガリラヤ湖畔に通じる広いオープン・スペースのある場所でした。観光のシーズンオフなのでしょうか、そこは夏のシーズンが終わった後の寂しいビーチのように人一人おらず、しばし、私はそこでかつての大群衆の喧騒を思いめぐらしました。

イエス様はその群衆の姿を見て彼らに何かを食べさせたいと思われました。イエス様は彼らの空腹を案じ、彼らのお腹を満たしたいと願われたのです。

この度、この箇所を読んでいて感動しました。主イエスはなんと私達のすぐ側におられるお方なのでしょう!「空腹を満たしてあげたい。お腹いっぱい食べさせてあげたい」この感情は我々全ての人間が共有する思いです。

この感情はアフガニスタンでも、アメリカでも、日本でも、韓国でも皆が感じる感情です。イエス様は空腹の辛さを知り、お腹が満たされる喜びを知っていました。

しかし、イエス様が願われたことは一万人を超える群衆に何かを食べさせてあげたいということでした。ペトコパークに野球観戦に行きます時に、私はいつもオニギリかスパムロールを持っていきます。私はこれまで一度も考えたこともありません。スタジアムにいる人たち全てにこのオニギリとスパムロールを食べていただくことはできないだろうかと。

第一にそれは不可能。第二にそれは私の責任ではありません。しかしながら群衆の空腹のことを考えたイエス様は真剣に彼らのお腹を満たすことを願われたのです。

そのイエスの願いを聞いた弟子達はどんな思いをもったことでしょうか。「とんでもないことを言われるな―。そんなの無理です」。普通で考えたら、この思いから先には進まないでしょう。

でも、弟子の中にその言葉を受けて、実際に自分のできることをしようとした人がいました。アンデレです。彼は何か可能性はないかと群衆の中に分け入っていきました。

そして、見つけました、一人の子供を。その子がパン五つと魚二匹を持っているのを!アンデレはその子を連れて、イエス様のもとに来て言いました。ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」

皆さん、この辺りのことを読みますと、もう、落語の世界です。落語はこのようなトンチンカンなやり取りがなされて、最後に「落ち」をもって終わるのです。しかし、この場合、これは落語ではなく、本当の話なのです。

よくサンデースクールでこの出来事が話される時に、私達は「お母さんが持たせてくれたお弁当をもった少年」と子供達に話します。我が子が最近、町の噂になっているイエスに会ってみたいと言う、それなら「これを持っていきなさい」と母に手渡されたのがこの弁当。

アンデレはその子供のお弁当を見つけてイエス様のもとに来ていったのです。「ここに大麦のパン五つと二匹の魚を持っている子供がいます!」と。

「アンデレ、だいじょうぶかー!!」と私達は思います。ペトコパークの群衆を前にイエス様、やっと「ホットドック五つとビーフジャーキーを二つ持っている子供を見つけました」と喜んで報告する人いますか。そんな発想、私達にはないのです。

ご安心を。パンと魚がありますと言いながら、すぐに彼は言いました。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。そうです、アンデレも状況は分かっていたのです。もしかしたら、この現実をもって、イエス様に諦めてもらいたいという下心があったのかもしれません。

しかしです、なんとイエス様は群衆を座らせ、そのパンと魚をとり、感謝してから人々に与えたというのです。五つのパンと二匹の魚を細かくちぎって一万個に分けたのではないのです。イエス様は群衆が満腹になり、パンくずが12のかごに余るほどまでに彼らに与えたのです。

「しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。この言葉は全く正しい言葉です。しかし、かの子供にとってその弁当は彼の持っている全てでした。でも彼はそれを手放しました。なぜですか?アンデレが「主がお入り用なのです」と言った言葉に、この子は「僕のお弁当を使ってもらおう!」と純粋に反応したのです。彼は自分のできることをもって応えようとしたのです。

そしてイエス様はそれを喜ばれたに違いありません。なぜですか?そこには子供の真心があったからです。純粋に「主のお役に立ちたい!」その気持ちだけでその子は自ら、名乗り出たのでしょう。

きっと大人達の中にも、自分が食べる分ぐらいのものは持っていた人がいたことでしょう。しかし、彼らはそんなものが何の役に立つのか。それを出してしまったら自分はどうなるのか、色々と考えた。しかし、イエス様は足りる、足りないというようなことを見ているのではなく、子供の心を見たのです。

主にある兄弟姉妹、私達、主にある教会はこのイエス様の思いを心に刻まなければなりません。私達はイエス様がそうであったように互いの真心を大切に評価すべきです。その真心をないがしろにしてはいけません。

聖書はこんな出来事も記録しています。

3イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。5この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。6するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。7貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。8この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。9よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マルコ14章3節―9節)。

先の話は「五つのパンと二匹の魚」でした。ここでは「300デナリ以上の価値がある香油」です。だいたい1デナリは労働者の一日の賃金と言われています。もし、それを100ドルとするのなら、3万ドルはする香油です。とてつもなく高価な香油です。彼女はそれを今のようにプシュー、プシューと振りかけたのではなくて、惜しみなくイエス様に注ぎかけました。

あのパンと魚をもってきた少年を見た人たちは「そんなもの、何の役に立つか」と思いました。

ここでは、香油を惜しみなくイエス様の頭に注ぎかけた女性をみて人々は憤っていったのです、「何のために香油をこんなにむだにするのか」。

対照的な出来事です。「少なすぎる」、「多すぎる」ということです。このところに私達が共有する心があります。そうです、大抵、私達はいつもこのような価値観、すなわち「多いか、少ないか」「大きいか、小さいか」というような考えで物事を見ており、最も大切なことを見落としています。

この二つの出来事には共通点があることにお気づきになりましたか。そう、あの子供もこの女性も彼らの真心をこめたのです。そして、イエス様はそれを喜ばれました。

私にはこの香油の話について忘れられない思い出があります。私と妻は1998年、当時の東京聖書学院院長であった小林和夫先生の司式のもと、結婚式を捧げました。その結婚式のメッセージで小林先生はこの御言葉をとりあげました。なぜ、ここから結婚式のメッセージなのか。

先生が「この女はできるかぎりのことをしたのだ」とイエス様の言葉を言われた時、先生は会衆を前に、しばらく言葉を詰まらせ、沈黙が生まれました。なぜ、先生は言葉を詰まらせたのでしょうか?先生はその言葉を先生の目の前に座っている私の母に捧げたのです。

小林先生と母は共に十代の頃、聖書学院において学んだ同志です。お互いにそれぞれの人生を近くから遠くから見守り、祈ってきた間柄です。母が韓国にわたった経緯、夫を失い、その後、私を女手一人で育ててきたことを全て見守ってくださった方です。

先生が私達の結婚式の司式を引き受けてくださり、さてその式で何を語ろうと思われた時、先生の頭にまず浮かんだことは私達、新郎新婦ではなく、同志である私の母のことでした。

母は生涯、女性伝道者でした。小さな教会から始まり、いくつもの教会を転々としました。ある時、神様がそんな教会を祝福して下さり、教会に壮年男性が増えてきますと、当時、高校生の私に何度か「女の私一人ではやっぱり限界を感じるよ」と言っていたのを覚えています。さぞかし大変だったのだろうなと、この年になって、よく分かります。一人ゆえに確かに行き届かないところはたくさんあったことでしょう。

神学的な学識があるわけでもない、18歳の時にイエス様の十字架を知り、もう嬉しくて、嬉しくて、何をもってこの喜びを主にお返しすることができるだろうかと、聖書には旧約聖書、新約聖書があることも知らずに、救われて半年後に神学校に飛び込みました。その時の喜びを生涯の原動力として、ただ、祈りと情熱でがむしゃらに伝道者人生を歩んできた人です。

「がむしゃら」ですから、雑なところがあったり、色々な失敗もあったことでしょう。小林先生はその君江さんの一人息子が今や妻を持つのだということに対して、母の人生を想いめぐらして下さり「彼女はできるかぎりのことをしたのだ」と評価してくださったのです。

主にある皆さん、私達がどんな能力があるとか、どれだけのものを捧げたとか、そのようなことは、きっと私達が思うほどに神様はお心におとめにならないのではないかと思います。考えてみてください、天地万物を所有しているお方の前に誰かが広大な土地を捧げたとしても、莫大な献金を捧げたとしても、実際のところ、それが神様にとっていかほどの益となりますでしょうか。

私達は今朝、心に刻みましょう。神様が私達に求めているのは、私達の真心です。どれだけの心を私達が主のために注いでいるかです。あの少年にとりまして、それが5匹のパン、二匹の魚、そして、あの女にとりまして、それが高価な香油だったのです。

私達はこのイエス様の心を忘れてはなりません。そして、私達はイエス様がそうであったように、互いの心を大切にすべきです。なぜなら、それがイエス様が最も大切にされたことだからです。人の真心をくみ取る教会になりましょう。

全てを完璧に、十分にこなす、それも大切です。しかし、そのことばかりに目がいってしまい、主イエス・キリストが一番大切にしていることに目を閉ざすのなら、私達は神の御心に従って生きていないことになるのです。

このことが真(まこと)であることを心に刻むために、さらに、もう二つの出来事をみましょう。ある時、こんなこともありました。

41イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。42ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。43そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。44みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」(マルコ12章41節―44節)。

イエス様はさいせん箱に座り、人々がそこに金を投げ入れる様子を見ていました。イエス様の前には色々な人達が通り過ぎて行ったことでしょう。金持ちはたくさんのお金を投げ入れました。そんな中に見ただけで貧しいと思われる一人のやもめがやってきて、人目につかないように、レプタ二つを入れました。レプタの価値はだいたい今日の30セントほどだったと言われています。

それを見ていたイエス様は何をしましたか。弟子達を呼び集めたのですよ。イエス様は弟子達と共に寝食を共にして、彼らを訓練する日々を教えていました。ご自身のお心を余すところなく教える日々を過ごしていました。

イエス様は全国に名前がとどろく律法学者がいると言って、弟子達を呼び寄せたのではない。ローマ皇帝がいるぞと弟子達を呼び寄せたのではない。イエス様は名も知られていない貧しい一人のやもめを彼らに示したのです。この女性の心を決してないがしろにするな。彼女は誰よりも多くのものを神に捧げたのだ。このことを弟子達の心に刻み込まれたのです。イエス・キリストというお方はひたすらその人の心、真心を見つめられたのです。

主にある兄弟姉妹、もし私達も人の心を見つめるということに徹するようになったら、何が起こりますか。もし私達が主に対して、私達の真心を込めるのなら、その時に何が起こりますか。主は何よりもそのことを喜んでくださるのです。

かつて預言者サムエルがイスラエルの王を選ぶ時、エッサイの息子たちに会いに来ました。長男が絶対的な恩恵を受ける当時、サムエルの前にエッサイの長男エリアブはもしく見えたに違いありません。彼は「自分の前にいるこの人こそ、主が油を注がれる人だ」(サムエル上16章6節)と思いました。しかし、神はこう言われました。

「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル上 16章7節)。

こうしてその場にいた七人の兄弟が全てサムエルの前に立ちましたが、その中に神の御心にかなう者は一人もいませんでした。

大祭司サムエルでさえも神様と見ているものが全く違いました。彼が「この人に違いない」と思った者であっても神様のお考えは違いました。こうして結局のところ、そこにいた息子たちの中に神様のお心にかなった者はいませんでした。

サムエルはエッサイにききます。「あなたの息子はこれだけか」。思わず「そうです」とエッサイは言いかけたかもしれません。それぐらい、忘れられている、候補者に最初から除外されている末の息子ダビデがエッ才にはいたのです。

ダビデはセレクションの場に呼ばれもせず、その時、野で羊を世話していました。「あぁ、それなら呼んで来い」とダビデが呼ばれます。エッサイも兄弟達も思ったに違いない。「あぁ、時間の無駄だ。彼がいったいイスラエルのために何の役に立とう」。

しかし、神のお心は明確でした。ダビデがサムエルの前に立った時、主はサムエルに言われます「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」(サムエル記上16章 12節)

主にある皆さん、これ以上、申し上げる必要はありませんでしょう。神様は私達の心を見られるのです。このことの確かさは確実で異議のとなえようもありません。ということは今日のメッセージの結論も明確です。

そうです、繰り返し申し上げますが、私達も主に真心を捧げるべきです。私達のできる最善を尽くすべきです。主に自分ができる最高のものを捧げるべきです。自分で一番、いいものを全て取り尽くして、自分にとっては、もうどうでもいいような残りもの、余ったものばかり、主に差し出していて、「神様、私を祝福してください」というのはあまりにも虫のいい話だとは思いませんでしょうか。

あの子供が指し出した真心は五つのパンと二匹の魚ですよ。「なんだそんなもん」と言われて当然のものですよ。でも、その子の心を知られる主はそれを受け止め、想像を超絶する祝福をそこに注がれたのです。主にある皆さん、私達はこの神様の祝福を逃してはなりません。

小さな小さな群れから始まった教会は今や、全世界に広がっているのです。当時の世界を制覇したローマ帝国ですら、このキリストの教えを受け止めたのです。その教会の広がりは五つのパンと二匹の魚から万を超える者達を祝福されたということ以上の神の奇しき御業、祝福でありますでしょう。その祝福はまごころをもって仕え合った初代教会の人々に対する神様のリスポンスが始まりであったでしょう。

私達の教会は主イエスがされたように互いの真心を評価する教会となりましょう。それが神の御心であり、私達のそのような姿を主がご覧になる時、主はそれを何よりも喜んでくださるのです。そして、主は私達を祝福してくださいます。主に喜ばれる教会となりましょう!

もう、このことについて何も話すことはありません。このことにおいて一同、今、私達は同じページの上に立っていると主にあって信じています。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2019年11月3日

 1)あなたは誰かの「まごころ」に触れたことがありますか。その時、どう感じましたか。あなたは「まごころ」をどのように定義しますか。

 

2)使徒行伝2章46節を読みましょう。初代教会の人々の間には「まごころ」があったとここには記されています。この言葉から彼らのどんな姿をあなたは想像しますか。

 

3)ヨハネ6章1節―13節を読みましょう。この時にパンと魚を指し出した子供のどんな心を想像しますか。常識的に考えてこの魚とパンは何かの役に立ちますか。イエス様はこの時、何を評価しましたか。

 

4)マルコ14章3節―9節を読みましょう。この香油を注いだ女について、人々は何に関心をもちましたか。イエス様が心にとめていたことは何ですか。

 

5)私達は物事をどのように見て、それを評価していますか。まごころとは何ですか。

 

6)マルコ12章41節―44節を読みましょう。イエス様はなぜ弟子達を呼び寄せたのでしょうか。その時にイエス様が心にとめていたことは何ですか。

 

7)『わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る』(サムエル上16章7節)という神様のお心から私達は何を心がけるべきですか。

 

8)なぜ教会は「まごころ」を評価すべきなのですか。私達が「まごころ」を大切にしていく時に教会に何が起きますか。

 

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