こうして教会は(1):原点に立ち返る

 


この世には老舗旅館や老舗の和菓子店というものがあります。中には創業は江戸時代で300年、暖簾を下げていますというようなものもあります。そんな話を聞きますと私達はすごいなーと思います。

しかし、クリスチャニティーは2000年来、見えない神を信じ、この神と共に歩み、イエス・キリストの十字架を信じなさい、そうしたら救われるということを言い続けており、そのことに応答する人達が今も絶えることがないのです。こんなこと普通で考えたらありえないのです。

それではなぜ、そのありえないことが2000年もの間も継続されているのでしょうか。よほど2000年間、人間がしっかりしていたからでしょうか。いいえ、キリスト教会はこの2000年の間に多くの問題を起こしてきました。

そして、その主犯は言うまでもなく私達人間です。すなわち人間の力によってこの2000年もの間のクリスチャニティーが保たれているのではないのです。それではなぜか?答えはこのことに尽きます。すなわち2000年前に弟子達の上に注がれた聖霊がそれ以来、教会の上に注がれ続けてきたからです。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

↓ 本日の「礼拝メッセージ原稿」「おもちかえり」はこちらから。↓

こうして教会は:原点に立ち返る
2019年6月16日

私達は「地境を動かさず、幕を張り広げ、綱を長く!」という標語を掲げて新しい一年を歩み始めています。この標語はどこから来ているのでしょうか。もちろん、それは聖書から来ています(箴言22:28、イザヤ54:1-3)。この聖書の言葉への信仰こそが私達が動かしてはならない地境です。この標語を掘り下げるためにこれからしばらくの間、聖書、使徒行伝から「こうして教会は」というテーマで礼拝においてお話できたらと願っております。

この「こうして教会は」という言葉ですが、それは使徒行伝9章31節からきています。こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増ていった

ここに記されている「こうして」(PP:上記の箇所で黄字に)(英語ではTHENですね)という言葉は「出来事の経過」と「その出来事が起きた理由」を説明する接続詞です。すなわち、この9章の前になぜ教会が平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊に励まされ、信徒の数が次第に増えていったのか、その「経過」と「理由」が書かれています。

ちなみに旧約聖書には「教会」という言葉は出てきません。なぜなら旧約の時代に「教会」はなかったからです。「教会」はイエス・キリストが十字架にかかり、復活され、天に戻られた後に、イエスの弟子たち、使徒たちと共にこの地に誕生したものなのです。

あたかもイエス・キリストがご自身と引き換えにするかのようにして、この地に最初の教会が誕生し、そしてそれが世界に増え広がり、私達の教会も今、ここにあるのです。

世には牧師や神学者が書いた教会成長に関する書物は数えきれないほどありますが、私達がこれから見ていくことはそのオリジナルとなるものです。教会の基礎が固まり、前身していくということ、すなわち私達の地境が堅固なものとなり、さらにその天幕を広げていくために私達が従うべき原則がこの使徒行伝には記されているのです。

それではその使徒行伝の冒頭を読んでみましょう。1テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、2お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。3イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。4そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。5すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。6さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。7彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。8ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。9こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。10イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて11言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1章1節―11節)。

お読みになっていてお気づきになったと思います。ここにはイエス・キリストが天に挙げられる前に弟子達に語りかけた言葉が書かれています。もし皆さんが大切な人を残して、天国に行かなくてはならなくなったら、最後に何を語りますか。そうです、自分が最も大切にしていること、彼らの助けや益となることを言い残しますでしょう。

イエス・キリストにとりまして、それは「聖霊Holy Spirit」があなた達に臨むであろうということであり、イエス様は繰り返し「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束、すなわち聖霊を待ちなさい。この聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(PP上記、使徒行伝1章の下線の言葉)と弟子達に言い残したのです。

神学的な話になりますが私達クリスチャンは「三位一体の神:Trinity」を信じています。この三位一体という言葉は意外にも世の中でも知られていて、某総理大臣が「三位一体の構造改革」と言ったり、「俺の三味一体はラーメン、チャーハン、餃子だ」と言う方もいます(この場合の「み」は「味」なのですが)。

しかし、実際の本家本元の三位一体は「父なる神」、「子なる神キリスト」、そして「聖霊なる神」、これら三つを一つとする神なのです。

「聖霊」は既に聖書の初めの書、創世記に開口一番、書かれています『1 はじめに神は天と地とを創造された。2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた』(創世記1章1節、2節)。

「イエス・キリスト」について聖書はこう証言しています。『15御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである』(コロサイ1章15節)。

ゆえに神が最初の人間を創造するにあたり、こう言われたのです26 神はまた言われた「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記1章26節)。

神は人を創造するさいに「われわれ」(PP:黄色字)と言われました。言うまでもなく、これは神が三位一体であったからです。「創造者なる神」も「神の霊」も「キリスト」も世の始まり以前から、時間を超え永遠に存在しているのです。

そのイエス様はご自身が弟子達の前から姿をなくすにあたり、彼らがこれから宣教を始め、教会という信徒の集まりが誕生するにあたり「あなたに教えたことをがんばって守りなさい」とか「全てはあなたの経験と力量にかかってる」とは言わずに「聖霊を受けなさい」と言われたのです。そう、それは「これから神のわざを進めていくのは聖霊のはたらきによるのだ」ということです。

そして、このことはその時にイエス様がパッと思いついたことではなくて、かねてからイエス様のお心にあったことなのです。イエス様がまだ弟子達と共に活動をしていた時に度々、言っておりましたでしょう。

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは、真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない」(ヨハネ14章16節-17節)

「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それは私についてあかしをするであろう」(ヨハネ15章26節)

「しかし、わたしは本当のことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もしいけば、それをあなたがたにつかわそう。それが来たら、罪と義と裁きについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネ16章7節-8節)

「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊は私に栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」(ヨハネ16章13節-15節)

皆さん、イエス様は当初から“その時”に必要なのは聖霊だということを知っておられたのです。ここに全て「・・・あろう」と書かれているように、この後に弟子達の上にその言葉のとおりに聖霊が注がれ、彼らは力を受けて世界に出ていき、キリストの証人となったのです。

使徒行伝の冒頭に出てくるイエス様の弟子達は皆、既に復活したキリストに出会っていました。イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた』(使徒1章3節)と書かれている通りです。

 十字架に磔にされて絶命したと思われたお方が実際に自分達の前に姿をあらわし、数々の確かな証拠を彼らは目の当たりにしていたのです。それが40日続いたのです。このような類のない強烈な経験をした彼らには「このイエス・キリストを伝えて行く!」という情熱と確信がその心に違いありません。

しかし、イエス様は抑えきれない興奮で心が燃え、勇み足で世界に出ていこうとしている彼らにストップをかけて、エルサレムに留まり、かねてから言われていた聖霊を待ち望むように言われたのです。

この世には老舗旅館や老舗の和菓子店というものがあります。中には創業は江戸時代で300年、暖簾を下げていますというようなものもあります。そんな話を聞きますと私達はすごいなーと思います。

しかし、クリスチャニティーは2000年来、見えない神を信じ、この神と共に歩み、イエス・キリストの十字架を信じなさい、そうしたら救われるということを言い続けており、そのことに応答する人達が今も絶えることがないのです。こんなこと普通で考えたらありえないのです。

それではなぜ、そのありえないことが2000年もの間も継続されているのでしょうか。よほど2000年間、人間がしっかりしていたからでしょうか。いいえ、キリスト教会はこの2000年の間に多くの問題を起こしてきました。

そして、その主犯は言うまでもなく私達人間です。すなわち人間の力によってこの2000年もの間のクリスチャニティーが保たれているのではないのです。それではなぜか?答えはこのことに尽きます。すなわち2000年前に弟子達の上に注がれた聖霊がそれ以来、教会の上に注がれ続けてきたからです。

先にお話しましたようにそれはこうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増ていった(使徒行伝9章31節)の中に『主をおそれ聖霊にはげまされて歩みと書かれている通りです。

そもそも、私達がイエス・キリストへの信仰を決断する時、すなわち「イエスこそ私の主です」という信仰の告白をる時、そこには聖霊がはたらいているのです。パウロが書いている通りです。

『また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない』(コリント第一の手紙12章3節)。

「イエスは主である」という信仰告白は私達が自らの力では、言いえないものであり、それを告白する時には聖霊がはたらいているのです。

この聖霊がイエス様の約束通りに弟子達や使徒たちに臨んで以来、彼らの宣教のわざはこの聖霊の指示に従うものとなりました。パウロはその宣教の旅を続ける中、聖霊の導きというものに細心の注意をはらいました。彼が第二回の伝道旅行に出ている時、彼は聖霊のお導きに従い、自らが向かうべき場所を決めたのです。

『6それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。7そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。8それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った』(使徒行伝16章6節-7節)。

彼らの頭の中ではアジヤで宣教することが最善と思えたのかもしれません。しかし、聖霊様はそこに介入されて、その地に行くこをゆるしませんでした。まさしく彼らの宣教の秘訣はその御霊の細き御声に心の耳を傾け、それに従い生きていくことだったのです。

時に私達は「あの人に目をかけてもらえれば大丈夫」というようなことを言われると安心します。しかし、その人は私達と同じ人間なのです。聖書は言っておりますでしょう。あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか』(イザヤ2章22節)。

我々は天地創造の前からおられ、天地万物を支配している、その神なる霊と共にその人生を歩むことができるのです。いいえ、もっと言いますと聖霊に満たされて生きることができると聖書は言っているのです。

『15そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、16今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。17だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。18酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、19詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい』(エペソ5章15節―19節)

神がこの世界におられて、その神なる聖霊に満たされて生きる生き方があるとするのなら、私達が寝ても覚めても願い求めることは一つしかありませんでしょう。そうです、それは「私を聖霊で満たしてください」という願いではありませんか?

水曜祈祷会では最近「肉なる人間」について学びました。そう、私達は肉体を持つものであり、この肉体がある限り、私達の人生には色々なことが起こります。肉体をもつゆえに喜びというものがあります。おいしいものを食べた時、感動する光景を見たり、音楽を聞いた時、私達の肉体は喜びます。

しかし、この肉体を持っているということにより、私達は様々なチャレンジに向き合います。なぜなら、肉体はやがて朽ちていくものだからです。そうです、時に肉体はあちこちに病を負うものであり、その最後にはその肉体の命は失われるのです。

また私達のこの肉体は罪の温床ともなります。聖書はこの肉体をまとっている私達の心にある思いを「肉なる思い」といいます。聖書はその肉なる働きについてこう書いています。

『19肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、20偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、21ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない』(ガラテヤ5章19節-21節)。

言うまでもありませんでしょう、これらのことにより私達の人生は混乱し、最悪の場合、これらのことにより私達は破滅してしまうということを。初代教会において、もし教会が失われてしまう可能性があったとしたなら、その第一の原因は人間自身であったことでしょう。そうです、彼らが聖霊に満たされて、聖霊に導かれて教会を建て上げていなかければ、それを保ち続けることは困難を極めるのです。

最初の人間アダムは土から作られ、その土に神の息、すなわち神の霊が吹き入れられ人は生きるものとなったのです(創世記2章7節)。ですから私達の肉体には霊的なものを求める思いがあらかじあります。

我々、日本人は関心がありますでしょう、スピリチャルな話が。守護霊、地縛霊なる霊の話がなされますでしょう。なぜ?私達は神の息がかかった霊的な存在だからです。私達はスピリチャルな存在ですから、スピリチャルなことに無関心ではいられないのです。しかし、私達が本来、向けるべき関心は守護霊とか地縛霊とか、水晶玉ではありません。私達の思いは神の霊、聖霊に向けられるべきなのです。

もし、あの時、弟子達が復活の主に出会ったという自らの強烈な経験による興奮と情熱だけで宣教をしていたらどうだったでしょう。確かに興奮と情熱は人に伝染します。しかし、それはしばしの間なのです。

せめて、もっても10年、弟子達が死んでしまえば、その興奮を知る者など地上から全くいなくなってしまったことでしょう。これが肉の力の限界なのです。ですからイエスは聖霊を待ち望めと言われたのです。

自分の力が尽きたという方がいますか。そうです、肉の力には限界があります。それは明白です。しかし、私達はそれでもこれ以外にないとばかりに、この肉に頼ります。そう、それはたとえ私達がクリスチャンであってもです。「聖霊様」と口では言いながらも、それは単なるかけ声に過ぎず、そのおはたらきに信頼せずに来る日も来る日も自分の肉の力だけに頼る。

肉の力でがんばっていますと、心身の疲労が積み重なりますから、心の中からは不満や愚痴がでてき、それが自分を悩まし、人との関係を混乱へと導きます。そして、最後にはバーンアウトしてしまいます。

もし、私達がそのような生き方に終始しており、限界を感じていますのなら、そんな私達にはまだ一つ、希望があります。その希望は当初、なによりも先に置くべきものだったのです。何かを言う前に、何かをする前に、このお方により頼むべきものでした。そう、それが聖霊です。

先に読みましたガラテヤ書は「肉のはたらき」を明白にして、その後に聖霊が結ぶ実について書いています。そう、それは人間の力によって結ばれる実なのではなくて、聖霊に満たされる時に私達が結ぶことができる実なのです。

『22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない』(ガラテヤ5章22節、23節)。これらのものが私達の心に結ばれることを望まない人はいませんでしょう。これらが私達の人生を良き方向に向かわせる、これらが人との関係に祝福をもたらし、壊れた人間関係を築き上げることができるということを否定する人はいないでしょう。

申し上げていますように私達人間は神の息、すなわち神の霊を受けて命あるものとされたのです。クリスチャンは御霊によってイエスを信じてクリスチャンになったのです。すべて私達の命も私達のクリスチャンライフも御霊によって始まっているのです。しかし、それがいつの間にか自分以外に頼る者はない、この肉の力で全てを成し遂げていくかのごとくに私達は生きています。

パウロはそんな人々に言ったのです。「あなたがたは、そんなに物わかりが悪いのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか」(ガラテヤ3章3節)。

最初の教会が生まれる前に、イエスは聖霊を待ち望めと言いました。そして、あのエルサレムの二階座敷でイエスの弟子達はその約束の聖霊を受けました。地上最初の教会が誕生した瞬間です。教会は聖霊降臨と共に始まったのですから、我々は聖霊と共にこの教会を建て上げていかなければならないのです。

このメッセージを準備しており、深く反省しました。それは私自身、この聖霊のはたらきというものを忘れてしまったり、過小評価していたことがあったということです。「聖霊、聖霊」と言いながら、自らの肉の力に頼っている自分の姿が示されたのです。

主にある皆さん、私達も教会も神の霊によって始まりました。そうであるのなら、私達はその聖霊と共に歩むべきです。これが私達の原点であり、私達の原則です。聖霊に満たされて生きるということ、これ以上の生き方はありません。聖霊に導かれ、聖霊に励まされ、聖霊に満ちている教会、それが私達が教会に対して第一に願い求めるべきことなのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年6月16日

1)使徒行伝1章1節―11節を読みましょう。ここでイエス様は何について語っていますか。これらのことはいつイエス様によって語られましたか?

 

2)ヨハネ14章16節-17節、ヨハネ15章26節、ヨハネ16章7節-8節、ヨハネ16章13節-15節においてイエス様は何について語っていますか。なぜ、イエス様は繰り返しこのことを語られたのですか?

 

3)使徒行伝1章3節から復活されたイエス様は度々、弟子達の前にあらわれたことが分かります。このことは弟子達にとっては衝撃的な経験です。なぜイエス様はその経験と情熱をもって弟子達を世に送らなかったのですか?

 

4)コリント第一の手紙12章3節、使徒行伝16章6節-7節、エペソ5章15節―19節を読みましょう。ここから聖霊のどんなはたらきを知ることができますか。

5)ガラテヤ5章19節-23節を読みましょう。「肉のはたらき」は「自分のはたらき」であり、「御霊の実」は「御霊によって結ばれる実」のことを指していますが、この違いは何ですか?

 

6)最初の人間アダムは土から作られ、その土に神の息、すなわち神の霊が吹き入れられ人は生きるものとなりました(創世記2章7節)。このことは私達人間はどう生きるべきかということを示していますか。

 

7)「あなたがたは、そんなに物わかりが悪いのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか」(ガラテヤ3章3節)。私達の何が御霊によって始まっていますか。肉で仕上げるとは具体的などのようなことでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください