こうして教会は(14):教会の祈りの力

私達の教会では、緊急の祈りの課題があると、それがメールで一斉に発信されます。多い時には一週間の間にこのようなメールが何度か送られます。こうして瞬く間に祈りの連鎖がひかれます。

そして水曜日、木曜日の祈祷会では出席者が祈りの課題をあげて毎週、祈っています。ここにいらっしゃる皆さんの身の上に何かが起きている時に、私達はその皆さんのために毎週、祈っています。

皆さんがお座りになっている座席の前にも「祈りの課題」を書き込む封筒があるかと思います。よかったらそちらに祈祷課題を入れて、献金袋にお入れください。私達はいつもあなたのことを覚え、お祈りしています。

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こうして教会は(14):教会の祈りの力

2019年10月6日

私達は今から2000年前に産声をあげた最初の教会の姿を礼拝メッセージの中でみています。使徒行伝はそのことを記録している書であり、そこには短い文章ですが、このような記述があります。

13彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。14彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた(使徒行伝1章13節―14節)。

同じく使徒行伝2章。そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた(使徒行伝2章42節)。

これらのことに共通することはなんでしょうか。そう、初代の教会は祈りをしていたということです。人々が教会に集まる者達を見れば、いつもそこには祈っている者達の姿があったということです。

ここから初代の教会が力強く前進するために不可欠なものは祈りであったということが分かります。この祈りなくして教会は立ち続けることはできませんし、そこから成長していくことも不可能なのです。

かつてイエス・キリストは「まだこの世界に存在しない教会」について弟子たちにこのように語られたことがありました。

13イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。14彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。15そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。16シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。17すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

ピリポ、カイザリアとは今日のイスラエル北部にある町です。そこには巨岩があり、その前には泉がわき、その水はガリラヤ湖に流れます。そこでは昔と変わらず今もその泉からはコンコンと水が湧き出ています。

2000年前にもありましたでしょう、「この岩の上」とイエス様が言われたように、おそらく、この巨岩を前にイエス様は弟子達に尋ねたのでしょう。「人々はわたしのことを何と呼んでいるのか」。

それに対して弟子達は「人々はあなたを古の預言者の一人だろう」と言っていますと古の幾人かの預言者の名前をあげました。

それに対してイエス様は「それでは、あなた方は私を誰と思うのか」と弟子たちに問います。これに対してすかさず、ペテロが答えます「あなたこそ生ける神の子キリストです!」。

皆さんの人生の中で「あの人は神であったに違いない」と今も気になっているという人がいますか?今、テレビに出てくる有名人、国や企業のリーダーの中に「私はかねがね、この人は神に違いない」と思っているという人がいますか。皆さんの夫や妻、子供に対して、この人は神に違いないと思っている方がいますか。

おそらくそんな人はいないでしょう。そう思う時に弟子ペテロがためらうことなくイエス様に向かって「あなたこそ生ける神の子キリストです」と言ったこの一言がどんなに驚くべき言葉であったかということが分かります。

そうです、彼はあり得ないことを言ったのです。彼はユダヤ人ですから、人の姿のイエス様に向かって「あなたは神だ」というような発言は、神に対する冒とく罪とされ、当時なら命をも失いかねないことです。しかし、彼はこの言葉を撤回しないばかりか、この後、「イエスこそ神の子である」という信仰告白ゆえに殉教したのです。そうです、彼はこの告白を命よりも尊いものとしたのです。

このペテロの言葉に対してイエス様は言いました。「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」(17)

イエス様はペテロに行ったのです。「ペテロ、あなたは幸いだな!あなたがこのことを知ったのは、あなたの持ち合わせている人間的な力とか知恵などではないのだぞ。それは天におる私の父があなたにこの思いを与えてくださったのだぞ」

主にある皆さん、よく私達はあらゆる努力をして、研究をして、神を知ろうとします。しかし、神に関することは人間の頭で理解にいたることはできないのです。

宇宙に関する本を全て読破し、その研究に人生を捧げても、土星の地中1メートルに、どんな鉱物があるのか私達は知りえないのです。宇宙にまで思いをおよばせずとも、この地球にはまだ私達が知りえない神秘が無限にあるのです。

庭に転がっているの拳大の石の下で日夜、繰り広げられているミクロの世界を私達は知らないでしょう。そのミクロの世界のバランスと共に宇宙の全てを手中に収めているお方の英知をどうして私達が知り得ることができましょうか。

今朝、ペテロと同じように「イエスは神の子なのだ」ということを告白する私達は、それを自分の力で獲得したのではないということを心に刻みましょう。それは天地万物を支配しておられるお方が私達にあらわしてくださった恵み深きことなのです。

イエス様はこのペテロの言葉を喜ばれたのでしょう。ペテロはせっかちで多くの失敗をした男でしたが、このようなことにおいて霊的に鋭い感覚を持っていました。そのペテロに向かい、イエス様は言われました。

18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

イエス様はここでこの岩の上に教会を建てようと言われました。この時点でまだ教会なるものはこの地上にはないのです。しかし、イエス様は予め、このことを語ったのです。そして、その岩とは「あなたこそ生ける神の子キリストです」という私達の信仰の告白なのです。

さらに驚くべきことは、その信仰の告白の上に建つ私達の教会に主イエスは「天国の鍵を授けよう」と言われるのです。

私はサンディエゴ日本人教会の鍵を持っています。ですから自由にこの教会に出入りできます。私以外にも教会に出入りする必要がある方達には教会の鍵が託されています。そこには信頼と責任がともないます。

見知らぬ人に家の鍵を預ける人はいませんでしょう。主はなんと教会に天国の鍵をくださったというのです。そして、驚くべきことにその鍵をもって、この地上でつなぐことは、天でもつながれ、地上で解くことは、天でも解かれるという特権をくださったというのです(マタイ16章19節)

それでは、私達に与えられているこの「天国の鍵」とは何でしょうか。イエス様はこの後、ペテロに言われた言葉を念頭に置いてこう語りました。

マタイ18章18節―19節に「まことにあなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちの二人が、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」という御言葉があります。

皆さん、心に刻んでお帰り下さい。主が教会に与えてくださっている天国の鍵は私達の祈りであり、私達はその祈りをもって地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天でも解かれるのです。私達の祈りはこの地上のみならず、天国にも影響を与えるというのです。

そして主は言われます。もし、あなたがたのうちの二人が、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」

 私達の教会ではメールアドレスのある方だけにしか実現できていないのですが、緊急の祈りの課題があると、それがメールで一斉に発信されます。多い時には一週間の間にこのようなメールが何度か送られます。こうして瞬く間に祈りの連鎖がひかれます。

そして水曜日、木曜日の祈祷会ではまさしく二人、もしくは数名のものたちが祈りの課題をあげて毎週、祈っています。ここにいらっしゃる皆さんの身の上に何かが起きている時に、私達はその皆さんのために毎週、祈っています。

皆さんがお座りになっている座席の前にも「祈りの課題」を書き込む封筒があるかと思います。よかったらそちらに祈祷課題を入れて、献金袋にお入れください。

私達はいつもあなたのことを覚え、お祈りしています。

先に弟子達がイエス様に応えた預言者の中にエレミヤという人が出てきます。彼を預言者として神が用いられた時代は聖書の歴史の中でも最暗黒の時代でした。

既にその時にイスラエルは北イスラエルと南ユダに分裂し、北イスラエルはすでにアッシリアによって滅ぼされ、南ユダの民たちもそれまでに数えきれないほどに神に守られ、恵みを受け、今日があるのに、彼らは完全にその恩を忘れ、神の存在など全く省みない、目をふさぎたくなるような生き方をしていました。

その民の傍若無人な獣のような様がエレミヤ書には記録されていますが、そのような中でエレミヤは「神に立ち返ること」を民に何度も訴えますが、彼らはエレミヤをあざわらい、攻撃し、彼は家族にもに見捨てられ、人々は彼の命をも奪おうとします。それゆえに人は彼を「涙の預言者」と呼びました。そうです、彼はそんな同胞の民のために涙と共に祈り続けたのです。

そのエレミヤの時代から650年後にイエス様はピリポ・カイザリアで先の「人々は人の子を誰と言っているか」とお尋ねになったのです。

そして、その時に弟子達はこのエレミヤの名前をあげたのです(マタイ16章13節、14節)。

なぜ、人々はイエスを見てエレミヤを思い起こしたのでしょうか。それはこの涙の預言者の姿をイエス・キリストにも見たからに違いありません。エレミヤの涙と同じ涙を流された方がイエス・キリストなのです。

主イエス・キリストは、ある時、イスラエルの民への思いを抑えきれずにこう言われました「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、私はおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう」(マタイ23章37節)。

どれだけ彼らのために神はその愛を注ぎ、彼らの過ちを許したであろうか。何度、わが子を守るめんどりのようにあなたたちを翼の下に集めようとしたことだろうか。しかし、あなたたちはそれに応えることがなかったとイエス様は悲しみを言い表しました。

またルカはこのような出来事も記録しています。「いよいよ都の近くにきて、それが見えた時、そのために泣いて言われた、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら・・・しかし、それは今おまえの目に隠されている」(ルカ19章41節、2節)。。

このようにエレミヤの同胞の民達へと流された涙はイエスの人々への涙へと引き継がれていくのです。どちらにも共通していることは、二方とも自分のために泣いたのではなく、自分以外の人達のために涙を流したのです。そして、このことは私達も共有することなのです。

もし、皆さんの中で誰かのためにその人生を用い、その人のために涙を流して祈っている人がいるとしますならば、その方はエレミヤとイエス様と同じ所に立っていることを知ってください。そして、その涙が無駄になることはないということを知っていただきたいのです。

エレミヤが神から受けて民に語り続けた預言は「南ユダが滅亡するだろう」ということでした。確かに「あなたたちは滅ぼされる」と聞いて、喜ぶ人はいません。それゆえに民はますますエレミヤを憎みました。しかし、彼はこれから彼らに起こることを主に代わって語り続けました。

主は言われる、あなたたちは必ずバビロンによって滅ぼされ、彼らのもとに捕らわれていく。この町にとどまるものは剣や、飢饉や、疫病で死ぬ。しかし、バビロンに捕らわれる者は死を免れる。(エレミヤ38章2節)

エレミヤの涙の祈りは一見、何も報われなかったように思われます。なぜならイスラエルの民の頑なさがこの後に変わることはなかったからです。しかし、神は確かに彼の祈りを聞かれていました。このエレミヤの預言は紀元前587年に成就します。南ユダの民はエレミヤが預言したようにバビロンに捕らわれていきます。

しかし、この捕らわれたユダヤ人達は、そのことが起こる前からエレミヤが預言していたように(エレミヤ29章10節)、バビロン捕囚から70年後にペルシャ王クロスによって解放され、再びエルサレムに帰還することが許されるのです。

彼らは深い神の摂理の中、エレミヤの預言どおり、「捕らわれることによって救われた」のです。そして、それゆえにユダヤ民族の歴史は途切れてしまうのではなく続き、それゆえにその歴史の先にイエス・キリストが誕生し、その救いのみ業がなされていったのです。そうです、エレミヤの涙の祈りは決して無駄ではなかったのです。

イエス様の涙はどうでしょうか。イエス様が十字架にかかり、殺されることにより、その涙は無駄になってしまったのではないかと思われました。しかし、このイエス様の涙も無駄ではありませんでした。

どこにその証拠がありますか?私達一人一人がその証拠です。イエス様の流された涙によって、私達は今、永遠の希望をいただき、ここに集ってきているのですから。そう、私達は皆、イエスの涙のとりなしによって導かれた、イエスの涙の祈りによって救われた者達なのです。

それでは皆さん、私達が他者のために流す涙はどうでしょうか。私達が誰かのために流す涙は無駄なのでしょうか。いいえ、それが無駄になることはありません。キリスト教の世界には「涙の子は滅びない」という有名な言葉があり、その一つの出来事としてこんな話があります。

紀元300年代、ロ-マ帝国にアウグスチヌスという人がいました。「告白」という有名な書を書いた人で、今日、信仰者でなくともその名前がよく知られる、キリスト教史を語る時に避けて通ることができない人です。そんな彼でしたが、若い日には自堕落な日々を延々と過ごしていました。

彼は17歳から家を出て放蕩し、色欲におぼれ、色々な女性関係を重ね、ある女性と同棲し若くして子供をもうけました。その著書の中で彼は当時のことを振り返り「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と記しています。その様はまさしくエレミヤの時代のユダの民の姿と同じであります。

さらに母モニカの素朴なキリスト教信仰に反発し、マニ教と呼ばれていた異端宗教へと進んでしまいます。その息子の荒廃した生き方に心を痛め、日々涙を流し彼のために祈っていたモニカに対して司教のアンブロシウスは「あなたは本当に真実に生きています。このような涙の子は滅び得ないのです」と彼女を励ましました。この一言を母モニカは心の支えとしたのです。

アウグスチヌスはやがてこのアンブロシウスに出会い深い感化を受け、今までの放蕩三昧な生活を悔い改めるようになります。そんなある日、ミラノの自宅で隣家の子供達が遊んでいる声を聞きます。その子供達の声の中に「取って読め」という言葉を聞き、近くにあった聖書を開きますとローマ13章が開かれました。

なお、あなたがたは時を知っているのだから、特にこの事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは闇のわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ローマ13章11節-13節)。

主にある皆さん、ここにはすごいことが書かれています。そう、「わたしたちは闇のわざを捨てて、光の武具を着ようではないか」と力強くここには書かれているのです。

文字が読める人ならこの聖書の言葉は誰にでも読むことができます。しかし、その言葉が本当に自分に語られているのだ、そうだ、自分はこのままではだめなのだということに気がつかされる、我に返るということは、文字が読めるからといって誰にでも起きるものではないのです。

そうです、まさしくこのことは先にペテロの告白の時にお話ししましたように神がその人にはたらき、あきらかにされなければ起こりえないのです。そして、そのことのために私達のとりなしの祈りが必要なのです。アウグスティヌスは母の背後にある祈りによって、このローマ書の言葉に完全にとらわれてしまったのです。

アウグスティヌスはこの御言葉によってついにイエス・キリストを信じて救われました。後に彼は自分の身に起きた事柄に対して母モニカが成してくれていたことを思い、こう告白しました「母にできる唯一のことは私のために祈ることでした」。

その言葉は彼の母は祈ることしかできなかった無力の人であったというのではなく、母は母がなしうる最大に力あることを、来る日も来る日も続けてくれたのだという母に対する感謝の言葉なのです。

母モニカがわが子のために涙を流しながら祈った祈りは彼女が56歳で天に変える一年前に応えられたのです。わが子がアンブロシウスによって洗礼を受けた時、母モニカは、息子にこう言ったといいます。

「私がこの世に少しでも永らえたいと思った望みは一つだけでした。それは、死ぬ前にクリスチャンになったあなたを見ることでした」。このような母に対してアウグスティヌスは「自分を二度産んでくれた人」と評し感謝の意を表明したのです。

エレミヤもイエス様も自分のためではなく、民のために負いきれないほどの試練を受けました。そして、そのために涙を流しました。そして、そのようなことは私達にもあるのです。自分のためではなく、あの人、この人のために様々な痛みを負う人生、そして祈り、それが私達の人生です。

皆さんには、その人のことを思って祈っていると涙が流れてきてしまうという人がいますか。それはモニカのような息子のことかもしれない。娘のことかもしれない。夫、妻のことかもしれない、父母のことかもしれない。教会の兄弟姉妹のことかもしれない。

もし私達にそのような人がいるのなら、私達も彼、彼女のために祈り続けましょう。エレミヤが、イエス様が、モニカがそうであったように、涙の祈りを主は聞き届け、その人の心に強く、強く、働いてくださることを信じて、私達は今日も明日もこの教会を主の祈りの宮として祈り続けようではありませんか。

私達がこの地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるのです。主はこのような私達の身に余る特権を私達に授けてくださっているのですから。天の扉を祈りによって開け続けましょう。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年10月6日

1)使徒行伝1章13節-14節、2章42節を読みましょう。ここから初代の教会に集う人たちが何をしていたことが分かりますか。あなたにとって祈りとは何ですか。祈りのない教会はどうなりますか。

 

2)マタイ16章13節―19節を読みましょう。イエス様はここで教会にはどんな特権が授けられていると言っていますか(18,19)。その特権が何を意味すると思いますか。これらが与えられていると聞く時にあなたは何を感じますか。

 

3)マタイ16章17節の言葉にはどんな意味がありますか。どうして、ペテロの言葉はペテロ自身から出たものではないのでしょうか。あなたが主イエスを信じ、クリスチャンになったのはあなたの力によるのですか?

 

4)マタイ16章13節、14節に記されているエレミヤとはどんな人でしたか。このエレミヤとイエス様にはどんな共通点がありますか。(マタイ23章37節、ルカ19章41節、2節)。

 

5)あなたには毎日、顔を思い浮かべて祈っている人がいますか?

 

6)アウグスティヌスは放蕩三昧の生き方をしていましたが、母モニカの祈りにより神様に立ち返りました。モニカの祈りはどのようにアウグスティヌスの上にはたらいたと思いますか。

 

7)もし、あなたがたのうちの二人が、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」という約束は教会で祈り合う時にどんな励ましとなりますか。

 

8)あなたにとって祈りとは何ですか?

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