こうして教会は(15):神を畏れることが、なぜ必要なのか?

誰でも最高の人生を送りたいものです。そのために色々と計画をたてます。人生設計をたてます。しかし、最高の人生というのは手に入らないものです。私達はあせります。いらだちます。追い込まれます。なぜだ、なぜだ。何が足りないんだ。どうしたらいいのだ!

こうなると、私達が次に直面することは罪への誘いです。「だんな、いい話がありまっせ」。「あなた、何をがまんして、そんな生活しているのよ。こう人がいるのよ、会ってみない」。この先、どうなるか言うまでもありませんでしょう。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

私達の教会では「こうして教会は」というメッセージ・シリーズを毎週、お話ししています。このシリーズを通して、私達一同が教会とは、どういう場所なのかということについて共通の理解をもちたいと願っています。

ですから、もしこのシリーズを聞き逃した方がいましたら、ぜひ、教会ウエブサイトから録画、録音を通して、またはCDを通してキャッチアップしていただけたらと願っています。

先週は初代の教会の中心にはいつも「祈り」があったということをお話ししました。もし、私達の教会から祈りがなくなってしまったら・・・、はっきり申し上げましょう、私達には何の力もありません。

祈りなくして、たとえ何かを成すことができたとしても、それはしょせん、人間の努力の範疇で起きることのみなのです。しかし、祈りを通して、神のみわざがこの地に成されます。ですから皆さん、祈りましょう!これからも祈り続けましょう!!

さて、今日は初代の教会の人々が大切にしていたことについて、さらにフォーカスしたいと思います。使徒行伝から二つの言葉をお読みします。ここに共通して描かれていることを注意して聞いてください。

42して一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた43みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた』(使徒行伝2章43節)

『こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った』(使徒行伝9章31節)

そうです、初代の教会には「神へのおそれ」がありました。「みんなの者におそれの念が生じ」、彼らは「主をおそれて聖霊にはげまされて歩んだ」と書かれている通りです。

このことを私達の教会に当てはめて考えてみましょう。私達の教会に主に対する畏れがありますでしょうか。畏れとは何でしょうか。いつもお話ししますように、それは日本語では「恐れ」、英語では「Fearと書かれていることもありますが、それは恐怖というようりは「畏れ」、「Aweという方がふさわしいと思います。

自分を超越したお方の前に自分はいる、人間などが持ちえない圧倒的に聖なるお方の前に私達はいるのだ、このお方を前に自分は申し開きなどできないのだ、完全に無力なのだという自覚的な思いです。

もし、私達の教会にこの神への畏れがないのなら、私達は初代教会がもっていた大切なピースを一つ持ち合わせていないということになります。私達はこの畏れを教会の中に取り戻さなければなりません。

今日は私達の内に神に対する畏れが生じる時に、そこから何をいただくことができるのかということを見ていきたいと思います。第一に「畏れは私達を守ってくれる」ということをお話ししましょう。

畏れは私達を守る。

使徒行伝5章1節―11節を読みたいと思います。

1ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、2共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持って来て、使徒たちの足元に置いた。3そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。4売らずに残して置けばあなたの物であり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人をあざむいたのでなく神を欺いたのだ」。5アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常な怖れを感じた。6それから、若者たちが、立って、その死体を包み、運び出して葬った。7三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、入ってきた。8そこで、ペテロが彼女に向って言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。その通りか」。彼女は「そうです。その通りです」と答えた。9ペテロは言った、「あなたがた二人が、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口に来ている。あなたも運び出されるであろう」。10すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちが入ってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。11教会全体並びにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。 使徒5:1~11

当時の最初の教会でなされていたこととして「資産を共有する」ということがありました。それに倣ったのでしょうか、アナニアとサッピラという夫婦は自分の資産を売り、その一部を使徒たちのもとに持ってきたというのです。

しかし、この夫婦は共謀して、その代金をごまかしていたというのです。このことにおいて彼らは夫婦団結したのです。人は良きことに団結しますが、悪しきことに対しても団結します。

そして、結論から言いますと、このことゆえに彼らの命が取り去られました。彼らに欠けていたことはなんでしょうか。彼らに欠けていたことは神を畏れるということでした。

ペテロはアナニアに言いました。「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。4売らずに残して置けばあなたの物であり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人をあざむいたのでなく神を欺いたのだ」(3-4)

 この直後、アナニアは命を引き取りました。その三時間後、妻のサッピラが夫の死を知らずにやってきました。ペテロの問いかけに対して、予め夫と口合わせをしていたのでしょう、嘘の証言をしたのです。ペテロはこう言います。

「あなたがた二人が、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口に来ている。あなたも運び出されるであろう」(9)。

この後、サッピラもその場に倒れ命を引き取ったのです。そして「教会全体並びにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた」(11)というのです。

主にある皆さん、私達は人を欺くことができます。人を試みることはできます。しかし、神や聖霊は別の話です。私達は「誰も見ていない」「誰にも知られない」と思うかもしれません。しかし、その悪事は明らかに神様の目の前でなされていることであり、誰も見ていないという、その傍らに聖霊はおられるのです。

この世には諸々の倫理・道徳があります。この倫理・道徳の最大のチャレンジは「誰も見ていない時」です。そして「神を侮る」とは「神は見ている」と分かっていながら、悪しきことをしてしまうということです。

すなわち、その時は私達が神への畏れを失った時なのです。私達が言う「魔が指す時」というのは、「神への畏れを失った時」なのです。

しばしの間、私達の悪事は人の前に隠されているかもしれません。しかし、神を欺くことはできませんし、神はそれを見逃すことはありません。私達は自分で蒔いたことを遅かれ、早かれ、刈り取ることになるのです。アナニヤとサッピラの場合、それが直後に死というかたちをとって起きたのです。

箴言を書きましたソロモンはこのことをよく理解しており、このような言葉を残しました。

主を畏れることによって人は安心を得、その子らは逃れ場を得る。主を畏れることは命の泉である、人を死のわなから逃れさせる」(箴言14章26節、27節)

ここには古の昔から今日まで変わることのない真理が書かれています。これは私達のみならず、私達の子供達、孫たちが引き継いでいくべき言葉です。

主を畏れることは、ビクビクすることではないのです。主を畏れることによって我々は安心を得、さらには害悪から逃れることができます。さらに主を畏れることは命の泉だといいます。そう、そこから命の泉が湧き出て、我々は死のわなから救われるのです。まさしく主を畏れることは我々を守ることなのです。

今朝、特にアナニアとサッピラが夫婦であったということに注目してみましょう。この夫婦は二人で共謀して御霊を欺きました。彼らは神の存在を知っていたのです。しかし、彼らはその神を欺いたのです。

どちらかが「このことはすべきではない」と言うことができたでしょう。しかし、彼らはそれができませんでした。彼らに子供がいたのか、どうか分かりません。しかし、もしいたとするのなら、彼らはこのことゆえに子供を孤児としなければなりませんでした。ソロモンは書いていますでしょう。

主を畏れることによって人は安心を得、その子らは逃れ場を得る」とあります。そうです、主を畏れることにより夫婦は安心を得る。これはまさしくイエス様が言われた平安と置きかえてもいいでしょう。周りの状況はいかなるものであり、私達は神を畏れ、それに従い、生きているという確信からくる平安です。

そして、注目すべきはそのことにより、その子供達も逃れ場を得るというのです。

子供達のために逃れ場を得ましょう。そして、それは私達が主を畏れることにより得ることができるものなのです。

教会には多くの国際結婚カップルが来られます。私達は英語でメッセージをお届けします。なぜ、そうしているのか。その一つの理由は夫婦で共に礼拝に出席し、今朝のように、聖書の御言葉に夫婦共々に触れ、神がくださる平安を得、家庭を守るためです。

そして、それは言うまでもなく国際結婚だけではありません。全ての夫婦が週の初めの一時間を聖別する。我々は互いの上に立つのではなくて、二人は神の前にあるということを自覚して歩むことを私達は願います。

一週の初めの礼拝に夫婦共々に神の前に頭を垂れる。同じ神の言葉を共に預かるということ、このことがどれだけ祝福であり、そのことによって家庭が守られてるのか、そのことを言葉で言い尽くすことはできません。そして言うまでもなく、それは夫婦に限らず、この場にいる私達、全ての当てはまるのです。

神を畏れること、そのことゆえに得る平安、初代の教会はこの平安と共に前に進みました。そして、それが彼らの歩みを守ったのです。

畏れは私達を最高の人生へと導く

誰でもできることなら「最高の人生」を歩みたいと思います。「最高の人生」とは何か?と問われれば、人それぞれの考えがあります。私達、信仰者は最高の人生とは「神に祝福された人生」と答えるでしょう。それでは神に祝福された人生はどのようにしたら与えられるのでしょうか。

私達が畏れという言葉を聞くときに思い起こされるのは箴言1章7節です。

「主(神)を恐(畏)れることは知識のはじめである」(箴言1章7節)

ユダヤ人は迫害の歴史をもっています。その彼らは知識というものを他のいかなる民族よりも大切にしました。なぜなら、蓄えたものや建て上げたものが根こそぎもっていかれる、壊されるというのがユダヤ民族の歴史であり、その彼らにとって、誰も奪うことができないものは彼らの内に蓄えることができる知識だけだったからです。

たとえ彼らが敵により世界に散らされても、その財産を全て没収されても、彼らの知恵は片時も離れずに彼らと共にあり、それをもって彼は散らされた場所で生活を再建してきたのです。

その知恵についてソロモンは知恵を蓄えるにあたり、その大前提をここに書いているのです。すなわち「神を畏れることこそが知識のはじめである」と!

これは知恵というものを築き上げるものであるとするのなら、神を畏れることがその土台にあるべきだということです。この土台の上に知恵を蓄えない限り、それは真の知恵とはなっていないのです。

先のアナニアとサッピラは代金をごまかしました。代金をごまかすということは彼らは人には分からないような計算上の細工をしたということです。そうです。当時、計算ができた人がどれだけいたか分かりませんが、今のように計算ができる人は少なかったことでしょう。

彼らは計算という知識を罪のために用いたのです。なぜ?神を畏れなかったからです。もし、彼らの土台が「神を畏れる」ということであったのなら、このことは起きなかったでしょう。彼らは「これで得する!」と計算していたのですが、神への恐れがなかったので、彼らはその代償として命を失いました。

私達の人生は今までも、これからも決断の連続です。その時にこそ私達の知恵や経験が大いに用いられるべき時です。しかし、その知恵や経験を総動員して用いた決断も、その前提に神を畏れるということがなければ、それは私達にとりまして災いとなることがあります。詩篇記者は書いています。

『主を恐れる人はだれか。主はその選ぶべき道をその人に教えられる』(詩篇 25編12節)。

神を畏れ、神からいただいている知恵を用いて決断をしていくのなら、私達の決断は自ずと私達をよき所へと導いてくれることでしょう。なぜなら、神がその選ぶべき道を教えてくださるからです。ソロモンは言いました。

『謙遜と主を畏れることとの報いは富と誉と命とである』(箴言22章4節)

旧約聖書にはヨブ記という書があり、そこにはその書名となったヨブという人が出てきます。彼には莫大な財産がありました。そして、彼の家庭も祝福されていました。その豊かさは東の人で最も大いなるものであったといいます。

そして、その彼の大きな祝福は神様から与えられたものでした。ヨブはいったいどんな人だったのでしょうか。ヨブの評価についてヨブ記は開口一番、こう書いていますか。

ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神をおそれ、悪に遠ざかった』(ヨブ1章1節)

やがてこのヨブについて神とサタンの間に取引きがあります。その時にあたかも神様がヨブを自慢するかのようにサタンに直々に言う言葉があります。

主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神をおそれ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」(ヨブ1章8節)。

主にある皆さん、天地万物を造られた神が人間を評価する基準がある。その基準の最初に出てくることは「神を畏れるということです」。私達が神を畏れるということを神様は何よりも評価され、喜ばれるのです。それが第一のチェックポイントなのです。

皆さん、最高の人生を歩みたいでしょう。その方法を今、お話しています。そうです、それは「神を畏れて生きること」です。私達が神を畏れていきるということは、神が自慢するようなことなのです。今、私達はすごいことを聞いています。

誰でも最高の人生を送りたいものです。そのために色々と計画をたてます。人生設計をたてます。しかし、最高の人生というのは手に入らないものです。私達はあせります。いらだちます。追い込まれます。なぜだ、なぜだ。何が足りないんだ。どうしたらいいのだ!

こうなると、私達が次に直面することは罪への誘いです。「だんな、いい話がありまっせ」。「あなた、何をがまんして、そんな生活しているのよ。こう人がいるのよ、会ってみない」。この先、どうなるか言うまでもありませんでしょう。

ソロモンは再び言います。(箴言23章17節―18節)

『心に罪びとをうらやんではならない。ただ、ひねもす主を恐れよ。かならず後のよい報いがあって、あなたの望みは、すたらない』

新共同訳はこの箇所をこう言っています。

『罪人らのことに心を燃やすことはない。日ごと、主を畏れることに心を燃やすがよい。確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない』。

鼻から息する人間のことについてうらやむな。心を燃やすな。燃やすべきことは主を畏れることだ。これに徹しなさい。そんなあなたには確かに未来がある。あなたの希望が絶たれることはないことを私が保証する。

全ての祝福の源は神にあるのなら、神に喜ばれる生き方をするべきです。神に喜ばれる生き方は何か。それは既に太古の昔から私達の前に神様によって明らかにされていることなのです。

「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主につかえ、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである」(申命記第10章12-13節)。

神があなたに求められることは何か。それはこれだけだという。10も20もないのです。そして、その冒頭に神は何を言っているのか。その最初に「主をおそれよ」と神様は言われる。

皆さん、このことをしかと心にとめましょう。いいえ、心に刻みましょう。この場に家族がいるのなら、家族で心に刻みましょう。そして、教会として、このことを土台に据えましょう。

このことにより私達は、教会は平安を得ます。私達は守られます。そして、祝福されるのです。さいわいを得ることができるのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2019年10月13日

 

1)使徒行伝2章43節、9章31節を読みましょう。ここに共通していることは何ですか。「主を畏れる」ということはどういうことだと思いますか。

 

2)なぜ「主を畏れる思い」が初代教会に生まれたのでしょうか。なぜ、このことは初代教会が前進していくために不可欠なことだったのでしょうか。

 

3)使徒行伝5章1節―11節を読みましょう。なぜアナニヤとサッピラは地所の代金をごまかしたのですか。このことが、なぜ「聖霊」と「神」を欺くことなのですか(3,4)。

 

4)神を畏れない時に私達が抱え込む問題にはどんなものがありますか。

 

5)箴言14章26節、27節を読みましょう。「主を畏れる」ことにより、私達はどんなことを得ることができると書かれていますか。どうして親が安心を、子供は逃れ場を得ることができるのですか。

 

6)「主(神)を恐(畏)れることは知識のはじめである」(箴言1章7節)とは、どういうことですか。なぜ知識のはじまりは「主を畏れること」であるべきなのですか。

 

7)多くの祝福を受けていたヨブの人となりはどうでした(ヨブ記1章1節、8節)。主を畏れる人が受ける報いは何ですか(箴言22章4節)。

 

8)神様が私達に求めていることは何ですか。申命記第10章12-13節を読みましょう。主を畏れることにフォーカスして毎日を過ごしましょう。

 

『罪人らのことに心を燃やすことはない。日ごと、主を畏れることに心を燃やすがよい。      確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない』

(新共同訳:箴言23章17節―18節)。

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