こうして教会は(18):湧き上がる喜び

昔、日本には「ドブ」というものがありました。最近、このドブにはフタが置かれ、目にすることがなくなりました。しかし、当時はまだいたるところにドブがありました。私も目を閉じれば、あのドブ、このドブと目に浮かびます。小さい頃はそんなドブまでもが私の遊び場で、よくドブの中をよくのぞき込みました。そこには無数のボウフラがおり、糸のように細い、赤いイトミミズが泥の中から半分を身を乗り出して、ユラユラと揺れていました。

時々、町内会ではそのドブを掃除しました。底にたまった泥がドブの側溝に出されるのです。これ、昭和の風景ですよね。その時の匂いときたら、これは悪臭です。「ヘドロ」という言葉はもう死語かもしれませんが、「ヘドロ」と聞けば、私はあのドブの泥の匂いを思い出します。

私は今でも覚えています。幼いころ、そんな泥が底にたまっている、町のはずれのため池一面に蓮の花が咲き乱れていたのを。その蓮の花の美しさときたらため息が出ます。・・・しかし、その根は誰もみたくない暗黒の泥の中にあるのです。

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こうしうて教会は(18):湧き上がる喜び
2019年10月27日

私達は先週、初代教会の姿として彼らが「絶えず宮もうでをなしていた」というところから、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を礼拝すべきであると、私達が礼拝する時の心についてお話ししました。今日はさらに初代教会の人々の姿を見ていきたいと思います。

46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。(使徒行伝2章46節)

このところには「よろこび」という言葉があります。使徒行伝を書いたのはルカと言われていますが、彼が初代の教会の兄弟姉妹を見た時に、彼はそこに「喜び」を見たのです。

聖書の中でこの「喜び」という言葉はとても大切な言葉とされ、多く使用されていま す。旧約聖書では525回、新約聖書で189回、合計714回もこの言葉は聖書に出てくるのです。

喜んでいる人達というのはどういう人達なのでしょうか。皆さん、どうでしょうか、「ちょっと喜んでいるお顔を見せていただけませんか」(会堂を見回す)。

いかがでしょうか。「喜んだ顔を見せてください」と言われた時、きっと皆さんは思ったと思うのです。「そんなこと急に言われてもできないよ」。

それでは「笑った顔を見せてください」(会堂を見回す)。いかがですか、これなら皆さん、できたのではないでしょうか。「作り笑い」という言葉があるように、笑いはとっさに作れるのです。

知人がくれたプレゼント、それが意にかなわないものであっても、私達は笑顔で受け取ることができますでしょう。そして、その知人はあなたが好意的にそれを受け取ってくれたと思うでしょう。

また「笑い」は、なぜ今、笑っているのか説明できます。「あぁ、このコメディー、おもしろいねー。あの人はおもしろいこと言うねー」というように。喜びに関していえば、その喜びを説明することが難しいことがあります。

私はこう思いました。「笑い」は心の表面にあるもので、それなら私達は自分でコントロールできる。しかし「喜び」は心の底から湧いてくるもので、それは自分のコントロールの範疇にないもので、自力で喜ぶことは難しい。

初代の教会にはこの湧き上がる喜びがあったというのです。それは周りの者達が見て「楽しくしているな」というようなこととは区別されるものでした。ですからルカはその彼らの姿を「彼らは楽しんでいた」としたのではなく、「彼らは喜んでいた」と記録したのです。

ヨハネ4章には有名なサマリアの女の記事があります。サマリアのスカルの井戸辺でイエス様はこの女と出会います。イエス様はこの女にはかつて五人の夫がおり、今は別の男と暮らしていると彼女に指摘します。このような事情があり、彼女は人目をさけて、誰もいない日中の暑い時間を見計らって井戸に水を汲みに来ていたのです。

彼女がどんな人生を歩んできたのかは分かりません。当時はまだ男尊女卑の時代でありますから、男達に弄ばれ、捨てられるということを繰り返したのかもしれません。もう、男はいいと思いながらも、それでは生きていくこともできす、不本意でありながらも今も夫ではない男と共に暮らしている・・・。そんな彼女にイエス様は語りかけました。

13「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4章13節―14節)。

今まで彼女が聞いたことのない言葉でした。かつての男達の口からもこのような言葉を聞くことはありませんでした。そして、この言葉を聞いた瞬間からイエス様が言われたように彼女の心の底から水が湧き始めました。

それまでの彼女の心は何をもっても潤されず、渇ききったものであったことでしょう。イエス様と話しているうちに、彼女の渇いた心に水が染み出てきて、やがてそれが彼女の心に満ち、溢れでるようになりました。そこで彼女は何をしたか。

28この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、29「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。30人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。

彼女は町で後ろ指をさされ、ゴシップネタになるような女性であったことでしょう。人込みに出ていき、人々に何かを語りかけるなんてことはありえないことでした。ましてやこの女の言葉をまともに受け止める人などはいないはず。しかし、彼らは彼女の証言を聞いて、続々とイエスのところに向かったというのです。

なぜですか?・・・彼らは彼女の内から湧き出てきている喜びを見出したからに違いありません。言葉では言い表せません。しかし、彼女を見た人達は彼女の内に自分にはないものを見い出したのです。そのように考える以外にこの女の言葉を聞き、それに従い、彼らがぞくぞくとイエスのもとに出ていくということは考えられないのです。

この度、日本を襲った台風19号による震災であらためて思ったことは水の力のすさまじさです。日本の59の河川で90か所の堤防が決壊したというのです。それらの堤防は人間が知恵と力を結集して造られた堤防だったことでしょう。

しかし、水の力はいとも簡単にそれを破壊しました。激しい水圧の前に人間が作ったものは無残にも壊されてしまいました。

ホースの口から勢いよく出る水を指で押さえきることはできません。ましてや地面から湧く水を止めることなどできないのです。

なぜなら、その泉の背後には深い地中があり、湧き水はそこから大きな水圧と共に湧き出ているからです。その泉、自らが枯れない限り、その泉は湧き続けます。たとえ何らかの方法で、その泉の出どころを人の力でとめることができても、その水圧は別の地殻を突き破り、別のところから水は湧き出てくることでしょう。

泉が湧くというのはそういうことです。そして、主がくださる命の泉もそのようなもので、私達の喜びもそのようなものなのです・・・。

今から2000年前にキリストの使徒、パウロという人がいました。彼はイエス・キリストへの信仰ゆえに獄に捕らわれていたことが何度もありました。その命さえも失いかねない環境に彼はいたのです。

常識的に考えれば、そのような劣悪な環境から喜びなどは決して生まれてこないものです。しかし、彼はそんな獄屋にいながら、その心には喜びがありました。なぜですか、なぜならその喜びの出どころは彼自身ではなく、イエス・キリストにあったからです。

先にサマリアの女が水瓶を置いて、町に出ていき、イエスに出会った喜びを人々に伝えたということと同じことがこのパウロにも起こりました。そうです、彼はそのような場所におりながらも、内から溢れてくる喜びを抑えておくことができずに、獄中で書き記したピリピ人への手紙にこう書き記したのです。

14すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。15それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。16このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。17そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。18同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。 ピリピ2章14節-18節

さらに彼は繰り返します。

4あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。 5あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。 6何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 ピリピ4章4節-7節

パウロはここでたとえ私の血が流されることがあっても、私は喜ぶ。あなたがたも喜びなさい。私と共に喜びなさい。主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言います。喜びなさい。

彼は自分だけではなく、あなたたちも喜びなさいと繰り返し語りかけるのです。ここに、溢れ出てきている喜びを抑えきれないでいるパウロの姿があります。

そして、それは喜びだけではないのです。6何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 ピリピ4章4節-7節

そう彼は喜びと共に人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るであろうというのです。そう、それはこの世のスケールでは測れない平安だというのです。すなわち、その平安は人間がプロデュースしたものではなく、神様から直々に与えられる平安だというのです。

昔の大和言葉(古い日本語)によりますと、花が咲くの「咲く」という言葉と「幸い」という日本語は同じ言葉から分かれたものだと言われています。すなわち「幸い」とは大和言葉で「さきはひ」という言葉で、この「さき」は「咲く」を意味しており、すなわち「幸い(さきはい)」とは「心の中に花が咲いている状態」だというのです。

イエス・キリストはあの山上の教えの中で、言われました「わたしのために人々があなたがたを罵り、また迫害し、あなたがたに対し偽って、様々の悪口を言う時には、あなたがたは幸いである。喜び、喜べ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい」(マタイ5章11節-12節)

このところにおいて、イエス様は「幸い」と「喜び」ということが一つであるかのように書いています。すなわち、この箇所を日本的に解釈しますと、私達の心に喜びがある時、それは私達の心に花が咲いている状態だということができるでしょう。

そう考えますと、サマリアの女もパウロも私達とは異なる、彼らの人生を生き、その人生において自分だけの花を咲かせたと言うことができますでしょう。

ロッキー山脈に生息する高山植物は山の上で花を咲かせます。高山植物ははジャマイカのビーチでは花を咲かせません。このアリゾナのサボテンの花はインドネシアの密林では咲きません。

サマリアの女は人目を避けて井戸に水を汲みに来ていました。後悔と投げやりな人生を生きてきた、そのような環境の中にありながら、彼女はイエス様と出会うことにより、彼女の花を咲かせました。

パウロの花は、誰もが避けたい、じめじめとした暗い獄で咲きました。そのような環境にありながらも彼の心には喜びが湧き上がってきたからです。彼らは置かれた場所で自分だけの花を咲かせ、人々はその花を見、神を知り、神を崇めたのです。

蓮という花があります。蓮の根は水中にあり、その底には大抵、泥が蓄積されています。

昔、日本には「ドブ」というものがありました。最近、このドブにはフタが置かれ、目にすることがなくなりました。しかし、当時はまだいたるところにドブがありました。私も目を閉じれば、あのドブ、このドブと目に浮かびます。小さい頃はそんなドブまでもが私の遊び場で、よくドブの中をよくのぞき込みました。そこには無数のボウフラがおり、糸のように細い、赤いイトミミズが泥の中から半分を身を乗り出して、ユラユラと揺れていました。

時々、町内会ではそのドブを掃除しました。底にたまった泥がドブの側溝に出されるのです。これ、昭和の風景ですよね。その時の匂いときたら、これは悪臭です。「ヘドロ」という言葉はもう死語かもしれませんが、「ヘドロ」と聞けば、私はあのドブの泥の匂いを思い出します。

私は今でも覚えています。幼いころ、そんな泥が底にたまっている、町のはずれのため池一面に蓮の花が咲き乱れていたのを。その蓮の花の美しさときたらため息が出ます。・・・しかし、その根は誰もみたくない暗黒の泥の中にあるのです。

そのような中から蓮は見事な花を咲かせるのです。なぜなら、泥の中に沈んでいた種には命があり、その命はヘドロを突き破り、天に向かって伸びたからです。その内なる力を誰も止めることはできないのです。

パウロはコリント第二の手紙6章10節で言いました「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている」。

彼のこの言葉はこうは言っていないでしょうか。「私は悲しみに沈むような、貧しさに打ちのめされるような、何も持ち合わせていないような環境に我が身をおいているけれど、私はいつも喜び、人を富ますことができる、全てを持ち合わせている、そんな花を私は今、置かれているこの環境の中、主イエス・キリストにあって咲かせている」。

主にある皆さん、あなたもイエス・キリストにあるならば、その置かれている場所で花を咲かすことができます。

花が咲くのは、プランターの中だけではないのです。よく整ったビニールハウスの中だけではないのです。たとえ、それが崖っぷちであっても、数センチの舗装道路の隙間からでも花は咲くのです。花は皆、天に向かって咲くのです。天に向かって、あなただけの花を咲かすのです。

私達は皆、この人生に何かを期待して生きているのだと思います。人それぞれ、その期待するものは違うことでしょう。あの場所に家を買うとか、あの会社に就職するとか、素敵な人と結婚するとか、社長になるとか、将校になるとか、色々ありますでしょう。

それぞれの生き方を他者が決めることなどはできないことを承知の上で申し上げますが、ここでパウロが言っている「環境に関わらずに湧き上がる喜びと人知を超えた平安」というのは、私達が思い描いている人生の夢を叶えたからといって与えられるものではないのです。なぜなら、それらは神様が私達にくださるものなのですから。

そして、実際のところ、もしこの喜びと平安が心にあるのならば、私達はもはや「私の人生にこれこれがあれば」というようなことによって、自分の人生がコントロールされることはなくなるのです。

「そんな生き方があるのか」と思われる方がいるかもしれません。しかし、聖書は明らかに「このような生き方をすることができるのだ」と2000年来、私達に語りかけているのです。

私事になりますが、人生50年を過ぎ、自分の人生というものを省み、多くの方達の人生を見させていただき、私は心の底から、このような生き方を今、切に求めています。皆さんはいかがですか?

現在、ノートルダム清心女子大学の名誉学長を勤めていらっしゃるシスターである渡辺和子さんがベルギーの神父の詩としてこんな詩を紹介しています。

置かれた場所で咲きなさい

神様が置かれたところで咲きなさい
置かれたところで咲きなさい
仕方がないと諦めるのでなく咲くのです
咲くということは、自分が幸せになり(喜びに満ち溢れ)
周囲の人を幸せにすることです(喜ばせることです)
咲くということは私は幸せなんだということを(喜んでいるんだということを)
周囲に示して生きることなのです

蓮は「俺なんて泥水の中にいるのだから、きれいな花なんか咲けないよ」とは思っていないでしょう。蓮はその泥に根ざしながらも神が与えたもう無尽蔵の力により、ため息が出るほどに美しい花を咲かせるのです。

同じように私達も主イエスが私達の心の底から喜びの泉を湧き上がらせてくださることにより、今、置かれている場所で花を咲かすことができます。

あなたがたは、主にあっていつも花を咲かせなさい。繰り返していうが花を咲かせなさい。たとえそれが好ましく思えない環境であっても、そこであなただけの花を咲かせなさい。

そして、それを喜びなさい。蓮が濁った水の中から天に向けて、その見事な花を咲かせるように、あなたも今、置かれているそのところで、あなただけの花を咲かせなさい。

これらのことを可能にする主イエス・キリストにある人知を超えた無尽蔵の力が私達一人一人の上に注がれますように祈り求めようではありませんか。教会に集う私達を見る方達が、ここには何かがあると心に感じて下さる、そのような教会を私達は主に求めていこうではありませんか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり

2019年10月27日

 

1)使徒行伝2章46節を読みましょう。初代教会には「よろこび」がありました。ここからどんな人々の姿を思い浮かべますか。

 

2)あなたにとって「楽しむ」と「喜ぶ」の違いは何ですか。

 

3)ヨハネ4章13節―14節を読みましょう。イエス様はサマリアの女に「あなたの内で永遠の命にいたる泉が湧きおこる」と言いました。心に泉が湧くということから、あなたはどんな心の変化を思いますか。

 

4)ヨハネ4章28節―30節を読みましょう。ここから女のどんな変化を知ることができますか。彼女はどんな表情をしていたと思いますか。なぜ人々は彼女の言葉を受けとめ、イエスのもとに行ったのでしょうか。

 

5)ピリピ2章14節-18節、4章4節-7節を読みましょう。この言葉をパウロは獄屋の中で書きました。なぜ彼は獄屋のなかで喜び、さらにはそれを人々にも勧めることができたのですか。

 

6)『人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安』(ピリピ4章7節)という言葉もパウロは獄中で書き残しました。この平安はどんなものだと思いますか。

 

7)サマリアの女もパウロも置かれたところで喜びの花を咲かせました。その環境は望ましいものではありませんでした。なぜそのことは可能だったのでしょうか。

 

8)「人知でははかり知ることのできない神の平安」、そして「心から湧き出てくる喜び」、これらの特徴はどんなものですか。あなたはこの平安と喜びを欲しいとどれだけ願っていますか。どうしたらこれらを得ることができますか。

 

9)あなたは今、置かれた場所であなただけの花を咲かせていますか。

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