こうして教会は(20):なぜサンディエゴに暮らしているのか?

大塚久雄(ひさお)という経済史を研究した元東京大学教授が「意味喪失の時代に生きる」という本を書いています。私達の回りにはたくさんの「喪失」というものがあるでしょうが、その中で私達にとって最も深刻な喪失は「意味を失うことだ」と大塚氏は書いているのです。

大沢たかおという俳優が主演しました「仁」(じん)というドラマがありました。このドラマには「神」という言葉が何度も出てきます。主人公の医者が現代から江戸末期の時代にタイムスリップし、そこで繰り広げられるドラマです。

その中で彼が自分に問いかけるのは「なぜ俺はここにいるのか。なぜ神は俺をここに送ったのか」ということなのです。

自分は医者であり、その自分が江戸時代の江戸に住むようになった。「神はいったい俺に何をさせようとしているのか」とその意味を彼は問うのです。そうです、その「意味」を見出さなければ、自分の全てがあった未来を捨てて江戸に生きているということに希望がもてないからです・・・。

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こうして教会は(20):なぜサンディエゴに暮らしているのか?
2019年11月17日

大塚久雄(ひさお)という経済史を研究した元東京大学教授が「意味喪失の時代に生きる」という本を書いています。私達の回りにはたくさんの「喪失」というものがあるでしょうが、その中で私達にとって最も深刻な喪失は「意味を失うことだ」と大塚氏は書いているのです。

大沢たかおという俳優が主演しました「仁」(じん)というドラマがありました。このドラマには「神」という言葉が何度も出てきます。主人公の医者が現代から江戸末期の時代にタイムスリップし、そこで繰り広げられるドラマです。

その中で彼が自分に問いかけるのは「なぜ俺はここにいるのか。なぜ神は俺をここに送ったのか」ということなのです。

自分は医者であり、その自分が江戸時代の江戸に住むようになった。「神はいったい俺に何をさせようとしているのか」とその意味を彼は問うのです。そうです、その「意味」を見出さなければ、自分の全てがあった未来を捨てて江戸に生きているということに希望がもてないからです。

なぜ、学んでいるのだろうか。なぜ、働いているのだろうか。なぜ、結婚しているのだろうか。なぜ、生きているのだろうか。大抵、このようなことを考える暇がないほどに私達は忙しく毎日を過ごしています。このようなことを考えても答えなどないのだと諦めに近い思いで暮らす方も多いと思います。

しかし、この「なぜ」に答えられないと私達は徐々に心にしんどさを感じるようになり、さらにはこの問いは私達の人生の根幹を揺るがすこともあります。

しかし、反対にこの「なぜ」に答えることができますと、私達の人生は全く違ったものとなります。今日という一日の目的が明確となり、その集大成である人生そのものが変わってくるのです。

そこで今朝、皆さんに問いかけたいことは「なぜ、皆さんは今、アメリカに住んでいるのか」ということなのです。既にアメリカで生まれ育った方は「なぜ、今、サンディエゴに暮らしているのか」。もっと言いますと「なぜ、サンディエゴ日本人教会に来ているのか」ということなのです。

私達は初代教会の姿を毎週、聖書の中に見ながら、私達の教会のあるべき姿を学んでいます。初代の教会の大きな特徴の一つは、それが多種多様な人々の集まりであったということです(使徒行伝2章5節)。

ですから、そんな彼らがまず取り組まなければならなかったこととして、ギリシア語を話すユダヤ人達とヘブル語を話すユダヤ達人の間に起きる問題が使徒行伝には記録されています(使徒行伝6章1節)。

それまではユダヤ人を中心としていた彼らのコミュニティーが異邦人(外国人)を受け入れていくにあたり、どのように彼らと共に信仰の共同体を形成していくべきかということに使徒行伝のページの多くが割かれています。

そして、このことはその時代に始まったことではなくて、聖書そのものがバイカルチャー、バイリンガルな人達によって導かれた物語と言っても過言ではないのです。

確かにその中心にはユダヤ民族という特定の民族がいるのですが、彼らは常に他民族との関わりの中におりましたし、彼らの歴史はすなわち海外移住や国際結婚の歴史であり、多文化の中に身を置いて生きるということが彼らの歴史でありました。

このような視点で聖書を読みますと、アメリカで日本人、あるいは韓国人、中国人、メキシコ人として暮らす移民である私達は聖書の時代の人々と共に似通った環境に生きていることになります。そうです、彼らがぐっと私達に近いものとなるのです。

ここにいらっしゃる多くの方達はアメリカ以外の国で生まれ育ったことでしょう。この国で生まれた方達の中でもサンディエゴで生まれ育ったという方はあまりいないのではないでしょうか。アメリカの51州はそれぞれにユニークさがあり、まさしくそれぞれが独立した国のように思えることさえあります。

カリフォルニアとモンタナではその風景も文化も人間も違います。アラスカとフロリダの間の違いは言うまでもありませんでしょう。いいえ、同じサンディエゴですのにラホヤとエルカホンでは、また環境が違います。

若い時、神奈川の藤沢から九州目指して自転車で野宿一人旅をしていた時、四国の松山の道後温泉で一日の疲れをとったことがありました。湯上りにこれからどうしようかと日本地図を眺めましたところ、松山の上には山口県がありました。

そう、それは本州の西の最果ての県です。その時、海援隊の歌ではありませんが、思わず「思えば遠くに来たもんだ」を口づさみました。

西海岸と日本を隔てるのは太平洋一つなのですが、最近はこの海の大きさが肌身に沁みます。時速800キロのスピードで飛行機は飛びますが、それでも日本に着くまでには11時間もかかるのです。

皆さん、アメリカに移り住んで何年になりますか。サンディエゴに移り住んでどれくらいになりますか。私は今年の夏からアメリカで暮らす年月が日本での年月を超えました。まさかこのような人生を送るとは考えてもいませんでした。思えば遠くへ来たもんです。

皆さんはそれぞれの思いをもってこの国に今、暮らしていることでしょう。ある方は半世紀以上、ある方は先週、この国に来た方もいるかもしれません。長さにかかわらず、なぜあなたはこの国に、サンディエゴに導かれているのでしょうか。なぜサンディエゴに今、暮らしているのでしょうか。

今日は出エジプト記に注目したく願っています。出エジプト記は紀元前1500年あたりにユダヤ民族に起きた出来事を記録している書です。そこには壮大なスケールのドラマが描かれています。

私たちは思うかもしれません。今から3500年も前に起きた出来事、しかも韓国やアメリカなど私たちに馴染み深い国ならまだしも、エジプトという私たちの日常生活からかけ離れている国で起きた出来事がはたして私達とどんな関係があるのかと・・・?

皆さんにお尋ねしたいと思います。皆さん、エジプトについて何か知っていますか?ぜいぜい私達が知っているのはピラミッドとナイル川、スヒィンクスぐらいで他は何も知らないでしょう。

しかし、私たちが心を開いてこの出エジプト記と向き合っていくならば、私たちは、その中に確かに自分に語りかけてくる神のみ声を聞くのです。

聖書の最初の書は創世記です。その創世記にいたっては3500年昔の出来事ではない、それよりさらに古い出来事について、すなわち天地が造られる時のことまでさかのぼって書かれています。そして、そんな太古の昔のことであっても、それは私たちと無関係ではなく、そこにも神から私達への語りかけが確かにあるのです。

少し聖書のおさらいになりますが、聖書の創世記に書かれている出来事を簡単にお話しします。創世記は神が天地万物を創造されたということから始まり、その中には人間の創造もありました。

最初の人、アダムとエバから始まった人類はその後、数を増やしていきました。そして、その中からアブラハム、イサク、ヤコブという人たちが誕生していきました。このヤコブは創世記32章においてイスラエルと神様から命名されています。つまり、彼こそが現在のイスラエル民族の父祖となった人であります。

そして、このヤコブ、つまりイスラエルの息子にヨセフという一人の男児が与えられました。彼は自分の兄弟に妬まれ、彼にとっては外国であるエジプトに血を分け合った兄弟たちに奴隷として売られていきます。

そしてエジプトにおいても様々な試練を体験していくのですが、彼の人生を見守っておられた神様は最終的にこの奴隷として売られて行ったヨセフをエジプトの王の次に位置する宰相にまで引き上げたのです。

エジプトの宰相となったヨセフは当時、壊滅的な飢饉に襲われていた自分の祖国に住んでいる家族を、エジプトの最高権力者であったパロ王の理解を得て、エジプトの中でも一番、豊かな土地へ移り住むようにと招くのであります。

その家族とはかつて彼を売り飛ばした兄弟のことであり、そこにはヨセフの兄弟たちに対する許しがあり、また神様の驚くべきはたらきがありました。こうして創世記全50章は閉じられていくのです。

そして、後の新しい時代について書かれているのが出エジプト記なのです。創世記の終わりからこの出エジプト記の間には約400年の間隔がありました。

その出エジプト記の始まりには、エジプトの宰相となったヨセフを頼りにして、飢饉を逃れてエジプトに移住してきたヨセフの父、ヤコブとその一族の名が記されています。彼らは豊かな生活をエジプトで送ったのではないかと思います。

しかし、これが人間の定めです。ヤコブは死に、ヨセフは死に、これらの移住して行った人たち、私たちアメリカに住む日本人にとって身近な言葉ですが、これら“一世”の人たちは皆、世を去りました。

そして、次の世代が続々と誕生していったのです。それは、このアメリカにおける日系二世、三世、四世というジェネレーションとも通じるのかもしれません。もはや同族であっても自分達の祖先であるヤコブやヨセフを知らない世代が台頭してきたのです。

私達の教会はかつては「FOUNDER」と呼ばれる方達がおりました。しかし、その方達は皆、天に召されていきました。かつて70年代、80年代、私達の教会に精力的に仕えてくださった多くの方達も天に召されていかれました。

目を閉じれば「あの人、この人」とお顔が目に浮かびます。10年前にこの教会に来ていた人が、今日、教会を訪ねましたら、おそらくかつて教会の中心にいた方達のほとんどがいなくなっていることに驚かれると思います。

かつてはエジプトの最高権力者のお墨付き、守られてエジプトに暮らしていたイスラエルの民でしたが、時がたち、彼ら、特にヨセフを知らない新しい王がこのエジプトの権力を握るようになりました。それによって、このイスラエル民族にとっては試練の時代が始まりました。

出エジプト記によると、神様はこのイスラエルの民を祝福されました。故に彼らはその数が増し、その力ははなはだ強くなってきて、国に満ちるようになりました。そのことをヨセフを知らないエジプトの王は恐れました。そこで王は彼らの上に監督をおき、思い労役を彼らに課しました。彼らは王の奴隷となり過酷な労働が強いられたのです。

しかし、それでもこのイスラエルの民は増え続けるので、王はさらなる恐れをいだき、さらに辛く厳しい労働を彼らに課しました。さらにそれだけではなく、パロは『ヘブル人に男の子が生まれたならば、みなナイル川に投げこめ。しかし、女の子はみな生かしておけ』(出エジプト1章22節)という冷酷な命令をくだしたのです。

ここに書かれている「へブル」という言葉ですが、実はこれは先ほどから触れている「イスラエルの民」のことを指します。そして、この「ヘブル」という言葉には「渡ってきた者」という意味があります。

それは、おそらく異国エジプトに住むイスラエル民族に対してエジプト人が彼らを呼んだあだ名のようなものではなかったのではないかと言われています。

そして、この「ヘブル」という言葉ですが、この出エジプト記一章に何と4回(15、16、19、22)も書かれているのです!

あたかもそれはエジプト人に対して彼らは異国の民だということを強調するかのごとくに!そして、おそらくエジプト人達は日常的に彼らを「おい、ヘブル人!」というように呼んでいたのではないかということがうかがい知れます。

渡り人、渡り人」と呼ばれていた彼らは、ますます強く自分達はこのエジプトに渡ってきた者なのだ、自分はイスラエル民族なのだということを意識したのではないでしょうか。

皆さん、ここまでお話してきまして、何か遠い昔の話しではないような気持ちになってこないでしょうか。なぜなら、これらは先にも触れましたように私達、移民の歴史と重なるところがおおいにあるからです。

自分の祖国を離れて異国に住み、自分の慣れ親しんだ文化とは違う異文化に向き合い、移民であるが故に、様々な困難に合う、そして、その地で家族が増えていく。そのような中、エジプトに捕らわれていたヘブル人のように、戦時中には日系人に対する強制収容がなされていきました。

そこには当時の敵国であった日本人に対するアメリカの恐れがあったことでしょう。そう考えると、まさしくこのイスラエルの民の歩みは日系人が経験してきたことと無関係とは思えないのです。

皆さん、海外に住む日本人が何か特別だとは思いません。しかし、私達はこのイスラエルの民たちの思いを、日本に定住していた時以上に今、この国において強く感じることができる状況に置かれているのです。

このことに気がつかなければ何事も起きませんが、このことに気がつき、このことを意識して聖書に向き合うのならば、まさしくこの書は外国で暮らす私達のために書かれているガイドラインとなります。

このイスラエルの民たち、すなわちへブル人達は、当初、私たちと同じように母国語が通じないという歯がゆさを感じたに違いありません。

祖国の人たちと違う考え方をもつエジプト人たちに適応していくことにとまどいを持ったに違いありません。エジプトで子を生んだ親たちが、やがて祖国の文化や言葉を忘れて、エジプトの言葉と文化に同化していくわが子を複雑な思いで眺めていたに違いありません。そうです、それはまさしく私達の生活そのものです。

私たちは思うことがないでしょうか。日本にいればこんな苦労はなかっただろうに。日本にいればこんな悲しみを経験することはなかったろうに。それでも私達はこの国に生きている。

なぜ、この国で働いているのか?なぜ、この国の学校で学ぶ機会が与えられたのか?なぜ、ここで家族が与えられたのかということを考えます。幼い頃からアメリカ移住計画をたてていた人はおそらくいないと思います。

よくよく考えると不思議なのですが、そこには自分の計画や思いを超えた大きな力によって導かれてきたのではないかというような思いを持たれた方いないでしょうか。

なぜ、ヨセフはエジプトに奴隷として売られていったのか。なぜ、様々な試練に遭遇していったのか。長い間、彼は辛い悲しい生活を送りましたが、それらの中に確かに生ける神様が介入していました。

最終的にヨセフゆえに、彼の家族たちは飢饉から救われていった、そこに確かに神様の計画がありました。彼が一足先にエジプトの力ある者となることにより、その家族が救いと恩恵を得たのです。

そして、それだけではありませんでした。その後にヨセフの子孫達はエジプトで今日お話したように過酷な試練に合うのです。これが400年も続きます。そして、その苦役の中からモーセという指導者が起され、このイスラエルの民たちはエジプトを脱していくのです。

そして、このイスラエルの波乱万丈の歴史は一つの事に向かっていくのです。そうです、このイスラエルの末裔、すなわちユダヤ人としてイエス・キリストは誕生し、そのユダヤ人から初代の教会は始まり、それがさらに諸外国に広がっていったのです。

迫害と苦役に満ちていたエジプトから脱出したイスラエル民族の歩みは、苦しみと悲しみに満ちた罪から人類を解放して下さったイエス・キリストの十字架の模型となりました。渡り人、イスラエルの民達が祖国を離れて、異国に住んだということには、確かに神様の深い計画があったのです。

聖書を見る時に思わされることは彼らの人生は常に過去と未来につながりをもっていたということです。かつての人達は一人残らずこの地に分かれを告げました。しかし、その命は次なる世代につながれていき、今日あるのです。

私達一人一人が成せることは小さなことでありましょう。しかし、私達は神から使命を受けています。そして神の不思議な導きによりこの国に渡ってきて、この広大な国の一地域、サンディエゴに暮らし、そしてこのサンディエゴ日本人教会に来ているのです。このことを自覚する時に私達の人生は変わります。

最後に、度重なるイスラエル民族の困難な歴史の中に生きた一人の「イスラエルの子孫であったヘブルの女性、すなわち渡り人なる女性」についてお話して終わりましょう。

私たちが歴史を学べば容易に知ることができますように、何度となく、危急存亡の出来事に直面して今日あるのがイスラエル民族、すなわちユダヤ人です。そのユダヤ人がまさしく滅亡してしまう民族最大の危機の中を通ったことが紀元前470年頃にありました。

その時代、エステルというユダヤ人の一人の女性が、異国のペルシャ王国のアハシュエロス王の王妃として迎えられました。しかし、時同じくして、その王のもとに仕えている一人の部下の策略により、ユダヤ民族はまさしく滅亡されようとしていたのです。

その時にユダヤ人でありながら、その王妃であったエステルに対して、彼女の叔父、モルデカイはこう訴えるのです。「あなたは王宮にいるゆえ、全てのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。あなたがもし、このような時に黙っているならば、他の所から助けと救いがユダヤ人のために起こるでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたが、この国に迎えられたのは、このような時のためでなかったと誰が知りましょう」(エステル4章13節)。

彼女はその言葉を自分に語りかけられた言葉として受け止めたのです。もっと言いますと、この国に迎えられた意味は、この時、すなわち同胞の民を救うためであると彼女は自覚したのです。そして、彼女は命をかけて立ち上がりました。そして、それによってユダヤ民族は滅亡の危機を免れたのです。

「あなたがアメリカ、サンディエゴに迎えられたのは、このような時のためでなかったと誰がしりましょう」今日、この言葉をそのまま皆さん、お一人お一人におたずねしたのです。

アメリカに移り住んでいる者として、神様があなたに与えておられる使命は何でしょうか。私達が祖国を離れて、この国に住んでいるのは偶然なのでしょうか。もっと言いましょう。

あなたがこのアメリカ合衆国、サンデェイゴに住んでいるのは偶然なのですか?いいえ、そうではありません。ヘブル人、すなわち、渡り人なる彼らに神様が使命を与えられたように、私たちにも神様は私たちがなすべきことを聖書の言葉を通して語りかけているのです。

神の御計画がどのように動くかご存知ですか。歴史は常にこの神からの問いかけ、すなわち「あなたが、この国に迎えられたのは、このような時のためではなかったか」という問いかけに対して、その言葉を「おぉ、主よ、そうです、この時のためでした」と受け止める者達によって主のご計画は動き出すのです。

そして、このことは私達の信仰のリスポンスによってのみ成せるわざなのです。

時々、聞きます。「私は日本にいたなら、教会に行くことはなかったかもしれない」。その人は神様に出会うためにアメリカに来たのではないでしょうか。「日本にいればこんな苦労はしなかったに違いない」。その人はその苦労を神がこれから豊かに用いようとしている。だから今、ここのいるのかもしれない。

そして、その方がこの国で信仰を持ち、また諸々の苦労をされたのであるのなら、神様は必ずそれらに意味を与えてくださっているに違いありません。あなたが与えられているギフトは何ですか。あなたが通ってきた人生はどんな人生でしたか。その人生の歩みで経験したことは全て、主のために用いることができるのです。

皆さんのお手元にある礼拝プログラムの表紙には『あなたがたの先祖が立てた古い地境を移してはならない』(箴言22:28)という箴言の言葉、そして、『あなたの天幕の場所を広くし、あなたの住まいの幕を張り広げ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ』(イザヤ54:2)というイザヤ書の言葉から私達の今年の標語、「地境を動かさず、幕を張り広げ、綱を長く!」が記されています。

私達は私達の先祖が立ててくれた信仰の地境を移すことなく、ますますその杭を強固にし、しかし同時にその天幕と幕を広げ、惜しむことなく綱を長くしていくことに心と力を注ぎます。皆さんがこれらのことに関わることができることはないでしょうか。

また私達の教会のミッションステイトメントをご存知でしょうか。そこには私達の教会がこのサンディエゴに存在している意味が書かれています。

「私達の使命は神様から与えられている賜物を用いて日本、アジア、そして全ての国の人々とキリストにあって共に成長し、神の言葉を分かち合うことである」 “Our mission is to grow in Christ and share the Word of God with all; having special resources to reach Japanese and Asian people.”

このサンディエゴにおいて、私たちの同胞の日本人のために、あなたが出来ることは何ですか。あなたの家族や親しい友に、あなたは何か伝えることがあるために、このアメリカに住んでいるのかもしれません。あなたがこのアメリカにいるのは偶然ではありません。あなたが、このサンディエゴに暮らしサンディエゴ日本人教会に迎えらたのは何のためですか?お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2019年11月17日

1)自分は「なぜ、学んでいるのだろうか」、「なぜ、働いているのだろうか」、「なぜ、結婚しているのだろうか」、「なぜ、生きているのだろうか」というようなことを考えたことがありますか。

 

2)あなたはどのようにして導かれて今日、サンディエゴにいますか。あなたをここに置かれた神様の目的について考えたことがありますか。

 

3)なぜ「理由」や「目的」を知ることは大切なのですか。それを知らないとどういうことになりますか。

 

4)使徒行伝2章5節、6章1節を読みましょう。初代教会にはどんな特徴がありましたか。聖書の中に記されているイスラエルの民は海外移住を繰り返し、常に色々な言語や文化に接していました。彼らがエジプトで奴隷として過ごした400年間、彼らは「ヘブル人」と呼ばれました。それは「渡ってきた者」を意味しました。ヘブル人、すなわちユダヤ人に対する神様の目的と使命は何だったと思いますか。

 

5)彼らと私達が共通することは何ですか。聖書の中に記されている渡り人、ユダヤ人の生き方を学ぶことは、なぜ私達に有益なのですか。

 

6)あなたは神様が「日本人に与えている使命」、「あなたに与えている使命」、「教会に与えている使命」「サンディエゴ日本人教会に与えている使命」はなんだと思いますか。

 

7)エステル4章13節を読みましょう。あなたがアメリカに迎え入れられた目的は何ですか(あなたの目的ではなく、神様のあなたに対する目的のことです)。あなたはなぜサンディエゴに暮らしているのですか。神様の御心は何だと思いますか。

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