こうして教会は(22):天下にこの方以外に救いはない

イクイッパーカンファランスでは私よりもずっと若い方達に毎晩、メッセージを語らせていただきました。その多くは私の子供達の年齢です。この度、彼らに問いかけたかったことは「皆さんはどこに立って、これから生きていくのか」ということでした。

彼らにこう問うたのです。皆さんはこれからテレビのワイドショーやお笑い番組でひな壇に座っている芸能人が「ああでもない、こうでもない」と、番組から干されることがないように、互いに空気を読み合いながら、色々なことを語り合っている、その彼らの言動を生き方の土台として生きていくのか?そこに君たちの結婚生活の土台があるのか?そこに立って、君たちの子供達をこれから育てるのかと・・・。

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こうして教会は(22):天下にこの方以外に救いはない
2020年1月12日

1971年、シアトルのパークプレイスという場所にスターバックスの一号店がオープンしました。このスタバ、しばらくは大きな事業展開はなかったのですが、90年代の中ごろから急成長し、今や90か国に25000のカフェを有するようになりました。

スターバックスに火がついたのはエスプレッソを主体としたテイクアウトメニューの店頭販売を始めたことでした。これが地元で大人気となり、ブームに乗って北米全土に広がりました。こうしてシアトルの港町にあったカフェが世界中で知られるようになりました。

今から約2000年前、イエス・キリストが十字架につけられ、復活し、そして天にかえられてから、この地上にキリスト教会が誕生しました。

その始まりはゼロというよりマイナスからの始まりでした。キリストは極刑で殺され、それ以前に三年半、寝食を共にしながら訓練した12弟子の一人はイエスを売り渡し、他の11人は皆、逃げてしまったのです。ここから何かが始まるとは誰も考えませんん。

言うなればその時、イエス・キリストの教えは空前の灯でした。いいえ、その灯は全く消えてしまったかのように思われたのです。

しかし、今日、キリスト教会は全世界に広がり(イラスト)、その信仰者は20億人と言われており、キリスト教が私達の芸術、建築、法律学、文学、哲学、科学、医学等に与えた影響力に追随するものはありません。

それではキリスト教はどのような要因により、今日にいたっているのでしょうか。イエス様が殺され、復活され、天に帰られた後に残された弟子達の姿の中にそのヒントがあります。使徒行伝4章を拝読します。この時の状況はイエスの12弟子のペテロとヨハネが留置され、ユダヤの最高議会において尋問を受けていた時のことです。

1彼らが(ペテロとヨハネ)人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、2彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、3彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。4しかし、彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった。5明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに召集された。6大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。7そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。8その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、9わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、10あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。11このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。12この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。13人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、14かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。15そこで、ふたりに議会から退場するように命じてから、互に協議をつづけて16言った、「あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。17ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。18そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。19ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。20わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。21そこで、彼らはふたりを更におどしたうえ、ゆるしてやった。みんなの者が、この出来事のために、神をあがめていたので、その人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。 22そのしるしによっていやされたのは、四十歳あまりの人であった。23ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した。(使徒行伝4章1節-23節)

イエス様が十字架にかけられる前後に、聖書は特に一人の男の言動に注目しています。そうです、12弟子の一人、ペテロです。彼はイエス様が十字架にかかる直前、自らの身を守るためにイエスを「知らない」と三度も否みました。そこには恐れに支配されていた弱いペテロがいます。

しかし、今日、見ていきます使徒行伝に出てくるペテロはかつてイエスを否んだ男とは全く別人のような人間として記録されています。この時の彼はエルサレムの宗教指導者達を前に全く動じることなく自分が寄って立っていることを証言したのです。彼は確信と共にこう言いました。

「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4章12節)

このペテロを見聞きした人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った』(使徒行伝4章13節)と聖書は記しています。

そして、彼は「今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけない」とおどされ、「イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬ」(使徒行伝4章17節-18節)と言いわたされたのです

しかし、そのような脅しに対して、彼は毅然と答えました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。20わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」(使徒行伝4章19節-20節)

 この彼の態度も言葉も確信に満ちたもので、この彼の確信はやがて初代教会の確信となり、激しい迫害の中にありながらも、教会は力強く増え続けていったのです。

かつてのペテロは揺れ動きました。しかし、ここに描かれているペテロは内なる確信に満ちて動じません。なぜ、彼はこのように変わったのでしょうか。いくつかの要因を私達は知ることができます。

まず最初に目に留まることはペテロはこれらの発言を聖霊に満たされて語ったということです使徒行伝4章8節)。

「自力」という言葉があります。文字通り、それは自分の力です。自分の力で物事に当たるということです。かつてのペテロは自力だけに頼って生きた人です。かつて彼は「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」(ルカ22章33節)と威勢のいいことを言いました。でも、それは自分の覚悟でした。自分の力でした。この言葉を言ったすぐ後に、その彼の自力はもろくも打ち砕かれたのです。

しかし、この度は違いました。彼は聖霊に満たされていました。神の霊が彼を満たしていた故に、彼はいかなる脅しにも動じることがありませんでした。このことはあらかじめ、イエスが預言していたことが成就したことを意味しています。

「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1章8節)。

イエス・キリストは私達の力の限界をよくご存じでした。ですから、あなたたちの上に聖霊が下る時、すなわち、あなたたちが聖霊で満たされる時に、あなたがたは力を受けて、地の果てまで、わたしの証人となるだろうと予め、言われていたのです。

教会の始まりは綿密な伝道戦略によって進められたのではなく、人々の不屈の精神と共に始まったのではなく、聖霊に満たされた者達のはたらきによって始まったのです。そして、この聖霊のはたらきは今も私達の内に継続されているのです。主にある皆さん、私達の力はいかほどのものでしょうか、私達も聖霊を求め、聖霊に満たされなければなりません。

さらに、ここで注目したいことは、このペテロは復活されたイエスに出会っていたということです。ですから、ペテロとヨハネのメッセージの中心は「イエス自身に起った死人の復活を伝えること」(使徒行伝4章2節)だったのです。

私達は考えます。死人が復活するなんてことはありえない。それは極めてまともな考えです。私も生まれてからこの方、死んで生き返った人に会ったことなどありません。でも、もし本当に死から復活してきた人に出会ったら、私は生涯、そのことを人に伝えることでしょう。そのことはそれほどインパクトのある出来事だからです。

ある人達は言います。イエスの弟子達は「復活したイエスに出会った」とウソの証言をしたのだろうと。皆、そのことについて「口を合わせていたのだろう」と。しかし、そんな嘘には何の力もありません。

そんなことで始まった宣教が長続きするはずがないのです。しかし、彼らは本当に復活のイエスに出会ったという経験をしていたので、そこに自らの命をかけたのです。そして、その数は一人、二人ではないのです。

ですからペテロは言ったのですわたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない』(使徒行伝4章20節)

嘘に命をかける価値はありません。それでは、このことはどう説明できるのでしょうか。そうです、イエスは本当によみがえられたのです。実際に体験したことには力があります。その経験を私達は心から取り除いたり、否定することはできないのです。

6、7週間前、私は東京で、母を看取るべく毎日、病院に通っていました。一日、母の傍らにいて、ホテルに戻ると刻一刻と近づいてくる年末のイクイッパーカンファランスのメッセージの準備をしました。

日に日に、死に近づいている母と向き合いながら一人、主の前にメッセージを備えております私に主は色々なことを語りかけてくださいました。主は私の過去の色々な出来事、すなわち私が経験してきたことを思い起こさせてくださいました。

そのような中、私の50年の人生を振り返りました時に、自分の神様への「信仰」が神様への「信頼」へと変化してきていることに気がつかされていったのです。

「信頼」とは今日、明日で築かれるものではありません。そこにはしばしの年月が必要となります。ある意味、私は教会で生まれ育ったような人生を送ってきました。その道のりは紆余曲折、色々あったのですが、今、それらの年月を振り返ります時に私の心に残ることは「神は常に真実であられた」ということを証明する多くの経験でありました。

確かに私の祈りと願いがきかれないことは数多くありました。しかし、そのことゆえに「神は不真実である」というのは極めて自己中心的な考えであることに気がつかされました。もし、私の過去の祈りと願いが全てきかれていたら、私は今頃、どうしようもない人間になっていたということを主は教えてくれました。

牧師となり、人生の諸々のチャレンジを受けている方達をたくさん見てきました。しかし、彼らが主の御言葉と共に再び、立ち上がり、その信仰の旅路を歩き続けている姿を見させていただくという経験は私の確信にさらなる力添えを与えてくれました。

ペテロが大胆になったこと、それは彼が聖霊に満たされ、復活のイエスに出会ったという誰も否定のできない経験が彼にはあったからです。主にある皆さん、主は皆さんに、これまでにどんな経験を与えてくださいましたか。そこから主は皆さんに何を語り掛けているのでしょうか。

さらにもう一つのことを見てまいりましょう。

これらに加えてペテロには、それらのことを裏づける「約束の言葉」がありました。ペテロはこう証言しました。このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである(使徒行伝4章11節)

 聖霊に満たされ、自分の経験による確信となりますと、非常に主観的で感情的なものと思われがちです。確かにこれらから生まれる情熱はとても大切なもので、これがなければ何事も始まらないのですが、ペテロはこれらのことに冷静に神の御言葉を添えました。そうです、このペテロが言った言葉は詩篇118篇22節からの引用なのです。

この詩篇の言葉はペテロの時代より1000年余り昔に書かれたものであり、その言葉はメシア・イエス・キリストの出現を預言する言葉です。そうです、人々はイエスを十字架につけ、まさしく彼は一時、世から捨てられたように見えましたが、その彼が今やすべての事の中心に置かれているではないかということをペテロはここで言っているのです。

彼は聖霊に満たされつつ、また自らの経験に立ちつつ、しかし、それにより熱狂的になるのではなく、これらのことも全て神のご計画の中で起きたことなのだということを冷静に受け止めていたのです。

主にある皆さん、私達の信仰が盲目的に突き動かされたり、あの人は洗脳されていると思われるようなものであってはなりません。心は燃やされつつも、同時に頭では冷静に神の言葉を保有していなければなりません。

こうしてペテロの心には確信が与えられたのです。「天下にこの方以外に救いはない」という言葉は「聖霊」に満たされた彼の「経験」と、それを裏打ちする「神の言葉」というフィールターを経て彼の口から出できた言葉なのです。

それにしても今の世界で、この「天下にこの方以外に救いはない」というような言葉が受け入れられることは難しいということを私達は知っています。そうです、全てのことが相対化される世にあって、このような断定的な言葉は敬遠されるのです。排他的だと言われるのです。

しかし、我々にとりまして「イエスが主であり、このお方以外に救い主はない」という言葉は「太陽は一つで、他にはない」ということと等しいことなのです。「人間」の本質を知り、その人間に対して神が何をなされてきたかという聖書の物語を読む時に、私達のこの確信はますます堅固なものとなります。

私達が「このお方以外に救い主はない」という言葉を表明する限り、私達は謙遜であるべきです。非常に残念なことですが、この言葉を振りかざして罪を犯してきたという歴史がキリスト教会にはあるからです。私達はそのことを悔い改め、本当に謙遜に、しかし、大胆にこの言葉への確信をかかげ、この言葉に生きようではありませんか。

イクイッパーカンファランスでは私よりもずっと若い方達に毎晩、メッセージを語らせていただきました。その多くは私の子供達の年齢です。この度、彼らに問いかけたかったことは「皆さんはどこに立って、これから生きていくのか」ということでした。

彼らにこう問うたのです。皆さんはこれからテレビのワイドショーやお笑い番組でひな壇に座っている芸能人が「ああでもない、こうでもない」と、番組から干されることがないように、互いに空気を読み合いながら、色々なことを語り合っている、その彼らの言動を生き方の土台として生きていくのか?そこに君たちの結婚生活の土台があるのか?そこに立って、君たちの子供達をこれから育てるのかと。

また彼らに「神の定めた一線を越えてはならない」と話しました。聖書ははっきりと私達人間が超えてはならない一線を書き記している。その一線の内にとどまろうではないかと語り勧めたのです。

なぜなら、正直に申し上げなければなりませんが、牧師のもとにくる人の問題の多くはこの堅固な土台がなく、また神の定めた一線を超えてしまったがゆえに、引き起こされた問題ばかりだからです。

ああ、何でもいいよ。好きなように生きていけばいい。こんなことばかり聞いていますと、私達の良心はマヒします。そして、我々は神が定めた一線を知ることもなく、何の良心のとがめもなく、その一線を超えます。

その時は一時的な快楽や得をしたと思われるようなことを経験するかもしれません。しかし、聖書が言うように、自分で蒔いたものは自分で刈り取らなければならない時が必ず来るのです。

いつも人の目ばかりを気にして、自分がとこに立っているのか、何を信じているのか、この世の中に確信が置けるものが何もないという生き方こそが、私達の人生の諸々の悩みの根源にあるのです。

アーサーホーランドという宣教師が真っ赤なスーツを着て、新宿歌舞伎町のアルタ前のガードレールの上に立ち、路傍伝道していたことがありました。アルタはテレビスタジオでもあり、タモリの「笑っていいとも」という番組を放映していた場所でもあり、そのタモリが番組の中で「今日はあの赤いスーツの人はいるのか」とまで言いました。

アーサーは一分の信号待ちをしている方達に一分の辻説法をもって福音を伝えました。

夜になると酒に酔ったビジネスマンもいました。ある時、一人の青年がそこで信号待ちをしていると、酒で顔を赤らめた見知らぬおじさんが彼にこう言いました。「あんたにはこの新宿のガードレールに立ってまでして、人に伝えたいと思う確信が心の中にあるか」と聞いたといいます・・・。この青年は後に牧師になったと聞いたことがあります。

イクイッパ―でメッセージを語り終えた後、私の心には言い知れぬ平安と語り終えたという充実感がありました。普通、メッセージというのは語った後に、それがどう受け止められたかということが気になるのですが、この度はそのようなものが一切ないのです。

この気持ちはどこから来るのだろうと思いめぐらしていた時に気がつかされたことは、私が五日間に語らせていただいたことは全て自分なりに、人生の諸々の出来事を通りながら、時に失敗し、挫折し、それでもそこから主に引き上げられというようなことを通して与えられた確信であったということでした。自分が確信していることをお話しさせていただくということ、これは幸いなことなのです。

主にある皆さん、皆さんには「我、ここに立つ」という確信がありますか。その確信は時間の経過と共になくなってしまうものですか。それとも、そのことを知れば知るほどその確信は増していきますか。

「天下にこの方以外に救いはない」。初代教会の兄弟姉妹は聖霊に満たされ、否定しようもない神が与えてくださった自らの経験と共に、そして、それらを裏打ちする聖書の言葉と共に宣教をし続けました。神はそれらに答えてくださり、今日、私達の教会もここにあるのです。

私達の教会は来月90周年を迎えます。90年もの間、私達はこの地で主イエスに対する信仰を語り継いできたのです。「イエスこそ主であり、このお方以外に天下に救いはない」ということに私達は生き続け、これからもこのことを伝えていきます。

主にある兄弟姉妹、私達はこれからもますます聖霊を求め、神が共におられるという諸々の人生経験をさせていただき、主の御言葉に心の目を開いていただき、動じない確信と共に信仰生涯を歩み続けていこうではありませんか。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2020年1月12日

1)極刑で処刑され、全ての弟子達からも見捨てられたイエス・キリストから今日、全世界に無数にあるキリスト教会が生まれる可能性は常識的にありますか。

 

2)使徒行伝4章1節-23節を読みましょう。ここにペテロのどんな言動をあなたは見ますか。そこからペテロのどんな心を読み取ることができますか。

 

3)かつてペテロは人を恐れ、イエス様を否みました。当時の彼の姿と使徒行伝4章に記されている彼の姿の違いを決定づけたことは何だと思いますか。

 

4)聖霊に満たされることはなぜ大切ですか(使徒行伝4章8節)。

 

5)ペテロはイエス・キリストの復活を伝えました(使徒行伝4章2節)。ペテロ自身が復活のイエスと出会っていたからです。私達が経験したことはなぜ大切ですか。経験を偽ることができますか。

 

6)使徒行伝4章11節は詩篇118篇22節からの引用です。聖霊に満たされ、自らの経験を語ったペテロはそれらに聖書の言葉を加えました。なぜ、このことは大切なのですか。

 

7)ペテロの大胆な信仰の確信はどこから来ましたか。私達も「聖霊」、「経験」、「御言葉」に裏打ちされた確信を表明しながら信仰生涯を歩みましょう。

 

 

 

 

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