こうして教会は(25):足元に目を向ける

もし私達が遠くのものばかりを見て自らの足元に目を向けることがないのなら、そこに問題が生じていてもそれはそのまま放置されます。しばらくは何も問題はないでしょうが、足元がおぼつかなくなると転倒します。そして、転倒しますと体の各部位は大きなダメージを受けます。

車のタイヤのことを「車の足回り」と呼ぶことがあります。私はいつもその車のタイヤを気にかけています。釘が刺さっていないかとか、空気圧は大丈夫かと、その足回りに注意し、異変を感じたら、すぐに対処しています。なぜ?簡単です。フリーウエイで家族を乗せている車のタイヤがバーストして、激しくスピンしている光景を想像してみてください・・・。

*不覚にもインフルエンザにかかりまして、礼拝に行ける状態ではなく、今日は妻が私のメッセージ原稿を代読しました。

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こうして教会は(25):足元に目を向ける
2020年2月16日

今年の夏は東京オリンピックがもたれます。今、日本では誰が国の代表になるのか、水泳にしてもマラソンにしても、色々な競技で代表選手の選考がなされています。その中には野球やサッカーもありまして、代表監督が誰をチームに加えようかと色々な選手を視察しています。

オリンピックのような世界大会に出場する選手というのは言うまでもなく、その国でベストの力を持っている選手です。野球なら日本人最高のピッチャーが選ばれ、水泳なら日本人最速のスイマーが選ばれるのです・・・。

私達は毎週、礼拝で今から約2000年前に誕生した最初の教会の姿を見ています。その最初の教会は祝福され、その弟子の数が増えていきました。しかし、そのような時にある問題が起こりました。

1そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。2そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、 「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。3そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、4わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。5この提案は会衆一同の賛成するところとなった。そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、6使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた(使徒行伝6章1節―6節)。

彼らの間に起きてきた問題とは何だったのでしょうか。それは深刻な政治的圧力が教会に迫ってきたということでしょうか。異教的な惑わしが初代教会に襲いかかってきたのでしょうか。

いいえ、彼らが最初に向き合った問題は「やもめたちの日々の配給」使徒行伝6章1節に関することでした。 英語の聖書を見ますとDaily distribution of foodとありますから、それは日々の食事の配給だったようです。そうです、それは教会のキッチンに関する問題だったのです。

すなわち、弟子の数が増えてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだという苦情が出てきたというのです。

彼らの教会には二つの言葉を話すグループがありました。ギリシア語を使うユダヤ人とヘブル語を話すユダヤ人です。いや、どこかで聞く話ですね。そう、それはまさしく私達の教会と似ていますね。

言うなれば、こういうことなのかもしれません。英語を話す日系アメリカ人から日本語を話す日本人に「私達の中にカレーランチが与えられない人がいる」とか「私達に配られるカレールーは少ない」とか「タクアンが二つ、少ない」というような苦情が起きたということです。

皆さん、笑われるかもしれません。しかし、彼らはこのような類の問題を取り上げて、そのことを真剣に話し合ったというのです。

わたしは時々、申し上げます。「教会のキッチンに行けば、その教会の状態が分かる。もっと言いますとその教会の霊的な状態まで分かる」。これは冗談のように思われますが、本当です。

キッチンというのは食べ物を取りあつかうところです。そこでは人の胃袋におさめられるものが備えられ、サーブされるのです。「食べる」というのは人間の原始的な欲求です。そのような意味で人間の心が一番、現れうる場所なのです。

主にある皆さん、このキッチンの問題に対して初代教会はどうしましたか。彼らはな、なんと、そのところをしっかりと治めることができるように「御霊と知恵と信仰に満ちた人達、七人」(使徒行伝6章3節、5節)を選んだというのです。

思いませんか、教会に襲いかかる「異教の力」に対して、「迫害」に対して、それに対処するように御霊と知恵と信仰に満ちた者達が選ばれるのなら分かる。しかし、彼らはおそらく彼らの教会の中で一番、霊的にも人格的にも成熟した者達を「やもめの日々の配給」のために配置することに会衆一同が賛成したというのです。

この箇所は使徒行伝の6章です。まだ初代教会の始まりです。これから初代教会は世界に出ていきます。目まぐるしい宣教が為されていきます。

神様はそのことを始める前に、まず彼らの足元に心を注ぐようにと彼らの目を開きました。その足元にある現実問題を過小評価せず、それに対応するために、そこに自分達のグループの中で一番、御霊と知恵と信仰に満ちた者を置くようにと彼らにお示しになったのです。

なぜですか。なぜなら、私達の足元はとても大切な場所だからです。足元がおぼつかないと私達は転倒します。転倒しますと体の他の部位も大きなダメージを受けます。

私達が転倒する時というのは、私達が足元にある者に目を向けない時に起こるのです。私達は二足歩行をしていますゆえに、いつも前を向いて生きています。しかし、なかなか足元を見ないのです。

私はいつも車のタイヤを気にかけています。釘が刺さっていないかとか、空気圧は大丈夫かと、その足回りに注意し、異変を感じたら、すぐに対処しています。なぜ、簡単です。フリーウエイで家族を乗せている車のタイヤがバーストして、激しくスピンしている光景を想像してみてください。

初代の教会はこの後、すぐにコリントやローマというはるか彼方の宣教地に目を向けていきます。その時に彼らがしがちなことは、彼らの心がはるか彼方の宣教地だけに向けられていて、その足元に対して目が届かなくなることです。

もし、彼らの目が遠くばかりを見て、自らの足元を、すなわち、自分達の教会を見なくなったら何が起こりますか。

この問題に関して言えば、食事の配給の問題は「このようなことが成されるのは我々がギリシア語を話しているからなのか?」というようなさらに深い文化的、人種的な問題へと発展していく可能性をはらんでいるのです。

知らぬ間にこのやもめの配給問題が、別の問題に飛び火して、その鎮火にに多大なエネルギーと時間がかかることになったかもしれません。いいえ、もしかしたらもはや修復不可能な状態になってしまったかもしれません。

私達は遠くを見るべきです。しかし、私達はそれ以上にしっかりと私達の足元をいつも見ていなければなりません。足元がしっかりしていてはじめて、私達は遠くまで歩き続けることができるのです。

言うまでもなく、その時に選ばれた七人は「やもめの日々の配給の問題を専門に扱う人達」ではありません。彼らは教会の中で起きる、すなわち、その足元で起きる全ての問題を御霊と知恵と信仰によって解決するために選ばれたのです。

すなわちこのことは私達が教会の全てのミニストリーに関わる時に私達は御霊と知恵と信仰を必要としているということなのです。

書店に行きますと私達は「色々な問題にどう対処したらいいのか」ということを教えてくれる本をすぐに見つけることができます。

その時、どのようなコミュニケーションをとるべきか。どのように部下に指示をだすのか。ハラスメントの問題にどう対処したらいいのか、それらの書物は事細かに教えてくれます。

しかし、その本の目次の中に決して見出すことのないものがあります。そうです、そこには「神が与えてくださる知恵」とか「聖霊に満たされる」とか「信仰」という言葉は決して出てこないのです。しかし、私達が問題に関わる時に必要不可欠なことはこれらのことなのだと聖書は言うのです。

 ここまでお話ししてきましてお気づきかと思います。この足元の問題は何も教会だけの問題ではないのです。「やもめの日々の配給の問題」というのは「日常的な問題」であり、それはすなわち「私達の日常の問題」なのです。私達は日々、それに向き合って暮らしているのです。

正直に申し上げましょう。私達が体験しているこの日常の問題の多くは今、始まったものではないのです。それは既に起きていたのですよ。もしかしたら三か月前、2年前、5年前、10年前に起きていたのですよ。それは足元で始まっていたのですよ。その問題に今、私達は悩み、苦しんでいるのです。

もしそうであるのなら、私達は同じことをまた繰り返してはなりません。このことが分かっていながら、どうして同じことを繰り返すのでしょうか。同じことをしていましたら一年後、10年後にまた同じことで悩み苦しまなければならないのです。

どうかどうか、皆さんの足元をないがしろになさいませんように。「あなたの足元」と言えば、皆さんはそれぞれ、それが何を意味するか分かりますでしょう。そうです、今、皆さんの「頭に浮かんだもの」です。それです、それに無関心ではいけません。放っておいてはいけません。

確かにお仕事は忙しいでしょう。それは、とてもやりがいがあるお仕事かもしれません。でも、皆さんの一番、近くにいる伴侶や子供達のことをないがしろにしてはいけません。そこにこそあなたが持っている最高のものを注ぐべきです。

そうすることによって皆さんのお仕事は実りを得ていくのです。一発の打ち上げ花火のような成功を皆さんは求めていないでしょう。長く歩き続けることを願っておられるでしょう、そうであるのなら、いつも足元を注意深く、見つめていきましょう!

私達の足元、すなわち私達の家庭や職場では私達に代わってくれる「七人の神の賢者」はいませでしょう。それならどうしたらいいのでしょうか。その問題には誰が向き合うのでしょうか・・・?

そうです、あなた自身です。あなた自身が聖霊と神の知恵と信仰に満たされる必要があるのです。

私達はいつも何よりも「聖霊と知恵と信仰に満たされること」を祈り、願おうではありませんか。これらは牧師や教会のリーダーたちだけに与えられる特権ではないのです。これらはすべての人に公平に神様が与えてくださることなのですから。

イエス・キリストはかつて言われたではありませんか。11あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。12卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか(ルカ11章11節-13節)。

もし、私達の心に苦々しい思いとか、否定的な思いがあるとするのなら、それは私達がそのような思いに私達の心のスペースを与えてしまっているということです。

心にこれらの思いのためのスペースがあり、それらがそこにあり続けるのなら、やがて、それは私達の心にある思いだけでとどまるのではなくて、口や態度を通して外に出てきますよ。

それは毒のようなもので、それが混乱を生み出し、時にそれが私達が建てあげてきたものを壊してしまいますよ。

どうしたら、このようなことから逃れられるのか。そのスペースを他のもので埋めるのです。何によって?主にある皆さん、聖霊に満たされることによってです。

「主よ、今日も私を聖霊で満たしてください」と祈って、祈って、祈り続けるのです。そう、その聖霊に満たされる時に、主が私達を通して実らせてくださる実がなんだかご存知でしょう。

ガラテヤ5章22節、23節、『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない』

私達の足元にある問題はこれらのものを持ち合わせながら対処すべきことなのです。

主にある皆さん、そして、私達は神の知恵に満たされましょう。この知恵も神様に求めていいものなのですよ。そして、神様は求める者に知恵をくださると約束しています。

ヤコブ書1章5節、あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう

 自分が所有している“物”は確かに役に立ちます。しかし、それで足元の問題を全て解決しようとしてはいけません。子供や夫婦の問題をお金だけで解決しようとしてはいけません。私達に必要なものは神様が私達に与えてくださる天来の知恵なのです。

私達はあのソロモンが人類史上、最も賢い王となりました経緯を知っています。神はある夜、ソロモンに夢の中で語りかけました「あなたに何を与えようか、求めなさい」。彼は答えます。「わたしは数えることができないほど多くの民の中におります。ですから聞き分ける心を僕にお与えください。そのことによりあなたの民をさばかせ、私に善悪をわきまえることを得させてください」(列王記植え3章5節―9節)。

それに対して神はこう答えました。「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう(列王記上3章11節-12節)

ソロモンが求めた「善と悪をわきまえること」とはすなわち彼が「神の知恵」を求めたということです。そして、神様はそのことを喜ばれ、彼に「賢い、英明な心」、すなわち、神の知恵を与えることを約束されたのです。

主にある皆さん、神の知恵を求めましょう。この神の知恵は私達のこれからの人生に多くの祝福をもたらし、私達の直面する諸々のクライシスから私達を救ってくれることでしょう。

そして、最後に信仰に満たされましょう。「信仰に満たされる」とは少し、不思議な言葉です。信仰とは満たされる者なのでしょうか。しかし実際に先の使徒行伝6章5節には「信仰に満たされる」と書いてありますでしょう。

なぜ、私達は信仰に満たされる必要があるのでしょうか。私達の足元の問題は聖霊と神の知恵に満たされて向き合っても即座に解決するようなものではないことが多々あります。ですから、私達には信仰が必要なのです。神様に信仰を求めていいのか。いいのです。

かつてイエスの弟子達は自分の信仰の弱さを思い知ったことがありました。その時に彼らは何をしたのですか。

5使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。6そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう(ルカ 17章5節-6節)。

彼らは言いました「私達の信仰を増してください」。彼らは知っていたのです。我々の心に信仰がないわけではない。ある。しかし、その信仰が私の心に占めるスペースが少なすぎる。

その心の空きスペースに諸々の不信感が定着してしまう。だから、主よ、私の信仰を増してください。私の心があなたへの信仰で満たされますようにと彼らは願ったのです。そして、それと全く同じ祈りを私達がしてもいいのです。いいえ、私達もこの祈りを日々、すべきです。

主にある兄弟姉妹、初代教会では聖霊と神の知恵を信仰に満たされている人を七人、選びました。しかし、よくよく考えてみてください。それは七人でなければならないということはないのです。

この教会に集う私達の一人、そしてまた一人、そして全ての者達が聖霊と神の知恵と信仰に満たされたら何が起きるのか。その方達が教会に集い、この三つに満たされて家庭や職場に戻り、しかと足元を見つめ、そこに力を注いでいったら何が起こりますか。

私達の学歴、職歴、人生経験は確かに私達の助けとなります。私達の足元の課題にも確かに役に立つ何かを与えてくれるに違いありません。

しかし、聖霊と神の知恵、そして信仰に満たされるということの前にこれらが置かれるのなら、やはりそれらはかすんでしまうのです。

主にあるサンディエゴ教会の兄弟姉妹、我々も聖霊に満たされ、神の知恵をいただき、信仰を増していただこうではありませんか。教会の足元を強固なものとしようではありませんか。そのことゆえに私達はさらに遠くにでていくことができるのです。

私達が何かを成し遂げるためには私達の家庭がしっかりと治められていなければなりません。夫よ、妻よ、父よ、母よ、聖霊に満たされ、神の知恵をいただき、信仰に立ち、私達の足元なる家庭を治めようではありませんか。

主イエスは「あなた方は世の光、地の塩だ」と私達に語られました。私達が世でそのように生きることができますように私達を聖霊で満たし、神の知恵で満たし、信仰に満たしたまえと祈り願おうではありませんか。

お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年2月16日

1)使徒行伝6章1節-6節を読みましょう。初代教会で起きた問題は何でしたか。この類の問題は現代の教会ではどんな問題として存在していますか。

 

2)この問題(やもめに対する食事の配給)に対して、どんな人たちがそのために配置されましたか(使徒行伝6章3節、5節)。

 

3)なぜ食事の配給という問題のために御霊と神の知恵と信仰に満ちた七人が選ばれたのでしょうか。このことは何を意味していますか。

 

4)「あなたの足元にあるものは何ですか」と問われたら、あなたは何と答えますか?足元に注意を払うことはなぜ大切なのですか。

 

5)ルカ11章11節-13節を読みましょう。ここでイエス様はどんな約束をされていますか。

 

6)ヤコブ書1章5節、列王記上3章11節-12節を読みましょう。ここから知恵はどのようにして与えられるということが分かりますか。

 

7)ルカ17章5節-6節について信仰について何が分かりますか。

 

8)あなたにはあなたの足元の問題を解決してくれる七人の賢者がいますか。もし、いないのならどうしますか?


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