こうして教会は(26):神の物語の中に生きる

私達の教会のファウンダー達は1940年に最初の教会堂をサンディエゴに購入します。しかし、時、同じくして第二次世界大戦が勃発します。そのことゆえにカリフォルニアに在住している日系人は強制収容キャンプに入れられます。それはサンディエゴ日本人教会に集っている者達も例外ではなく、彼らは1942年から3年間、日系人収容所に入れられます。

想像してみてください。新しい教会堂が与えられ、さぁ、これからという時にもはや自分ではどうすることもできない世界の荒波に飲み込まれ、自由を失い、キャンプに収容される。自分の力の及ばない力によって願ってもいない場所に移される。

手に入れたばかりの教会の玄関には鍵と鎖がつけられ、いつ、その鍵と鎖が再び、解かれるのかも分からない。生活環境の厳しい収容所にいる自分達の行く末も分からない。この教会に通っていた兄弟姉妹はそのようなところを通りました。そして、そのことはあのエジプトでのイスラエルの民の日々を思い起こさせるのです。

そして、終戦を迎えます。その時、沖本牧師が当地で伝道を再開します。その年1945年、沖本牧師はキャンプから帰ってきた3人の教会メンバーと再び、この教会の灯を掲げたのです・・・。

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こうして教会は(26):神の物語の中に生きる
2020年2月23日

この教会にいつもいらっしゃっている方達はきっと牧師がいつも言っていることに気がついているかと思います。そうです、「あぁ、また言っているな」ということです。

私は自分でも認めますが「全体」という言葉をよく使います。これは私の信仰生涯で色々なことを経験しながらたどりついた言葉です。家族や友人の思いがけない困難や試練を知る時、人の病や死に直面する時に、不条理と思われることに直面した時に、目が開かれていったことが「全体に目を向ける」ということでした。

「全体に目を向ける」ということは「あなたが今、向き合っている、その一つの出来事が全てではない」ということです。

先週は初代教会がやもめ達の日々の配給に問題が生じた時に聖霊と知恵と信仰に満ちた七人をその問題に当たらせたということをお話ししました。彼らは教会の足元で起きていた問題に対して、最高の人材をそこに配置したのです。

なぜ?なぜなら、まずその足元をしっかりと固めなければ、その後に彼らが導かれていく世界宣教への道のりの足かせとなってしまうからです。

その時の七人の名前が聖書には記されているのですが、その筆頭にくるのがこれまでに何度もお話ししてきたステパノという人であり、彼は聖霊と神の知恵と信仰に満ちていたと先週、お話ししました。

今日はそのステパノが殉教する直前に語った説教についてお話ししたいと願っております。

その説教には経緯があります。ステパノはその時、嘘偽りの証言により捕らえられ、彼に敵対する律法学者や祭司達に囲まれながら、議会に立たされていました(使徒行伝6章8節―12節)。

そこで彼が証言すべきことは明確でした。そうです、彼はそこで「イエス・キリストはいかなるお方なのか」ということを証言する必要があったのです。

イエス・キリストに関する証言なのですから、当然、かつてイエス様が言われたことやなされたことを事細かに語り、イエス・キリストがどんなお方であったのかということを彼は説明したのではないかと私達は思います。

しかし、彼はそのようなことは一言も語らずに、思いがけない人の名前をあげてこの説教を語り始めたのです。

「兄弟たち、父たちよ、お聞き下さい。わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて3仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』(使徒行伝7章2節―3節)。

なんとステパノはイエス・キリストが生まれる約2000年前に生きた彼らユダヤ人の先祖であるアブラハムについて語り始めたのです。アブラハムはその年、75歳の時、「私がさし示す地に行きなさい」という神の言葉に従い、行き先も分からないのに信仰をもって、住み慣れた土地を出ていきます。

このアブラハムからイサクが生まれ、そのイサクの子ヤコブからはヨセフという子が生まれ、そのヨセフについてステパノはこう続けます。

9族長たちは、ヨセフをねたんで、エジプトに売りとばした。しかし、神は彼と共にいまして、10あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で恵みを与え、知恵をあらわさせた。そこで、パロは彼を宰相の任につかせ、エジプトならびに王家全体の支配に当らせた(使徒行伝7章9節-10節)。

 「族長」とはヨセフの実の兄弟達のことで、彼らはヨセフをエジプトに売りとばします。言うまでもなくそれはヨセフにとってとても辛い経験でした。しかし、神は不思議な方法で彼をエジプトで宰相にまで引き上げました。奴隷として売られていった者がエジプトの王に次ぐ者となったのです。

このことは「前代未聞のサクセスストーリー」と私達には思われます。しかし、聖書はヨセフの成功にスポットライトを当てているのではなくて、このことゆえに導かれていくことに重きを置いているのです。ステパノはそのことについてこう語ります。

11時に、エジプトとカナンとの全土にわたって、ききんが起り、大きな苦難が襲ってきて、わたしたちの先祖たちは、食物が得られなくなった。12ヤコブは、エジプトには食糧があると聞いて、初めに先祖たちをつかわしたが、13二回目の時に、ヨセフが兄弟たちに、自分の身の上を打ち明けたので、彼の親族関係がパロに知れてきた。14ヨセフは使をやって、父ヤコブと七十五人にのぼる親族一同とを招いた(使徒行伝7章11節-14節)

 ヨセフがエジプトの宰相になったことにより、彼は自分を売り飛ばした兄弟のみならず、その一族全てをエジプトに招き入れ、飢饉から救います。このことゆえにユダヤ民族は歴史から消え去ることを免れたのです。

ヨセフの人生の断片を取り上げるのなら悲劇と思われる出来事の連続でした。しかし、それら悲劇のピースをつなぎ合わせていくと、そこに一人の人間のみならず、ユダヤ民族を見守り導く神の壮大な救いの歴史が見えてくるのです。

しかし、このヨセフも人間、彼も土にかえり、時代が変わります。ステパノは続けます。

17神がアブラハムに対して立てられた約束の時期が近づくにつれ、民はふえてエジプト全土にひろがった。18やがて、ヨセフのことを知らない別な王が、エジプトに起った。19この王は、わたしたちの同族に対し策略をめぐらして、先祖たちを虐待し、その幼な子らを生かしておかないように捨てさせた(使徒行伝7章17節―19節)。

 ヨセフの子孫たちはエジプトに増え広がりました。そのことに脅威を覚えたヨセフを知らないエジプトの王パロは彼らを奴隷として、酷使し始めます。

時に人間の人生は自分の力ではどうすることもできない力により不本意なところに導かれていきます。こうしてユダヤ民族は400年もの間、エジプトにつながれます。

しかし、そのような中、モーセという一人の男が生まれます。ステパノはその時のことをこう記しています20モーセが生れたのは、ちょうどこの頃のことである』(使徒行伝7章20節)。

 人は「ちょうどこの頃」と言います。しかし、私達が言う「ちょうどその時」ということはすなわち「神が動いた時」のことを意味するのです。

このモーセを通して、神様は長い間、エジプトで奴隷となっていたユダヤ民族を救い出します。俗にいう出エジプトです。彼らはエジプトを脱出した後、40年の間、荒野に生きます。その数や子供を入れれば数百万とも言われています。

荒野は定住して暮らす場所ではありません。ましてや数百万もの人間が住む場所ではありません。彼らは常に青草と水を求めて移動しなければならず、明日、何を食べるのかというようなことを毎日、考えなければなりません。

神はそこで彼らを守り、彼らに必要な食物を与え、彼らに不足はありませんでした。そして、彼らが平和に生きていくために神は十の戒め、十戒を彼らに与えます。

私達は出口が見えないような試練に会う時にそれを「人生の荒野」と呼びます。しかし、神の目から見る時に、その荒野が実は神の恵みを受ける時となるのです。

・・・しかし、それにしてもユダヤの民の心は頑なでした。ステパノは続けます。

39ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて、40『わたしたちを導いてくれる神々を造って下さい。わたしたちをエジプトの地から導いてきたあのモーセがどうなったのか、わかりませんから』とアロンに言った。41そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。42そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた(使徒行伝7章39節―42a節)。

 草木など生えない荒野で神は彼らに必要なものを与え続けました。彼らは無償でそれを受け、養われたのです。しかし、その口からは不平と不満ばかりが出てき、彼らは自分の手で作った子牛の像や天に瞬く星を己が神として拝んだのです・・・。

このように彼らの民族の始まりからの歴史をステパノは祭司や律法学者を前に語り、さらにステパノは踏み込みます。彼は「この我々の先祖達の歴史とあなたたちは無関係ではないのだ」ということに言及するのです。

 51ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。52いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。53あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」(使徒行伝7章51節―53節)。

 彼らの祖先のユダヤ人は神様のメッセンジャーとして送られた預言者たちを軽んじ、彼らを迫害し、彼らを殺しました。そのことが何度も繰り返されました。そこで神様はいよいよ「その正しい方」(52)、すなわちイエス・キリストを彼らのもとに送りました。しかし、彼らはそのイエス・キリストをも十字架にかけて殺したのです。

ステパノがここで誰に向かってこのことを言っているのかを、そこにいた者達は知っていました。そうです、その正しい方を殺したのは自分達であるということは明白でした。ステパノもそれを知ってこの言葉を突きつけたのです。

ですから、このステパノの説教が終わった後に何が起こるかは明白でした。そう、この説教を聞いた者達は心の底から激しく怒り(使徒行伝7章54節)、それゆえにステパノは石に打たれ死んでいくのです(使徒行伝7章57節、58節)。彼らの先祖が預言者を殺し続けてきたように彼らも全く同じことをしたのです。

 ステパノは「イエスとはいかなる者なのか」ということを説明するために、イエスに言及せずにユダヤ民族の歴史を最初から語ったのです。神はアブラハムを選び、アブラハムは信仰と共に行き先も知らずに住み慣れた土地を離れた。そこから始まったイスラエルと共におられた神、しかし、彼らは神に背き、罪を犯し続けた。

それが彼らの歴史であり、そのような彼らに救いへの道であるイエス・キリストを神は私達にお与えくださったのにあなたたちはこのキリストをも十字架にかけて殺したのだとステパノは語ったのです。

イエス・キリストについて説明するためにステパノが神の歴史の全体を話したということは、このイエス・キリストはユダヤ民族の全体の物語の中におられ、イエス・キリストの生涯はその歴史とつながっていたということを示しています。

そして、それはそのまま私達のこの教会にも、私達の人生にも当てはまるのです。この神の物語の中に身を置いているということに私達の目が開かれていく時に、私達には人生に起きてくる諸々の出来事に対して天来の光が照らされていきます。

皆さん、教会玄関に掲示されているこの教会の歴史年表を見てください。その年表は1923年、当時、LAホーリネス教会の学生牧師であったカシタニ・ジュンロウ牧師がサンディエゴを訪れたということから始まります。

この場所は厳密にいうとエルカホンであったと言われています。今から100年前のエルカホンがどんな町だったのか想像できませんが、ロサンゼルスから来られたカシタニ先生にエルカホンは小さな田舎町に見えたでしょう。

先生はこのような田舎から何が始まるのかと思われたかもしれない。しかし、先生はあのアブラハムと同じ神への信仰をもって、イエス・キリストを伝えたに違いありません。まさか自分のこの田舎町への訪問が、この教会の始まりへとつながっていくということなど考えもしなかったでしょう。

こうして、その中から向井タサブロウ、フサエ夫妻が最初のクリスチャンとなり、1930年、七名のチャーターメンバーによりサンディエゴ日本人教会として創立されます。

そして、彼らは1940年に最初の教会堂を購入します。しかし、時、同じくして第二次世界大戦が勃発します。そのことゆえにカリフォルニアに在住している日系人は強制収容キャンプに入れられます。それはサンディエゴ日本人教会に集っている者達も例外ではなく、彼らは1942年から3年間、日系人収容所に入れられます。

想像してみてください。新しい教会堂が与えられ、さぁ、これからという時にもはや自分ではどうすることもできない世界の荒波に飲み込まれ、自由を失い、キャンプに収容される。自分の力の及ばない力によって願ってもいない場所に移される。

手に入れたばかりの教会の玄関には鍵と鎖がつけられ、いつ、その鍵と鎖が再び、解かれるのかも分からない。生活環境の厳しい収容所にいる自分達の行く末も分からない。この教会に通っていた兄弟姉妹はそのようなところを通りました。そして、そのことはあのエジプトでのイスラエルの民の奴隷の日々を思い起こさせるのです。

そして、終戦を迎えます。その時、沖本牧師が当地で伝道を再開します。その年1945年、沖本牧師はキャンプから帰ってきた3人の教会メンバーと再び、この教会の灯を掲げたのです。

このような過去を通り、その時から75年の年月が経ち、今、私達はここで礼拝を捧げているのです。私達はこの教会に鍵と鎖がかけられた時に、そこに居合わせたわけではありません。しかし、私達はそんな教会の物語の中に身を置いているものなのです。すなわち、私達はその物語につながる今を生きているのです。

ユダヤ人にとりましてアブラハムは今でも彼らの偉大な先祖です。彼らはヨセフの度重なる試練を通してユダヤ民族を救われた神の物語に自分達は属しており、その不思議なみわざを成されたお方が今も自分の人生にも介入しているということを知っています。

今も神がモーセを用いてなされた出エジプトの出来事は彼らの日々の生活と直結しています。彼らはその偉大な神の物語の全体の一部であるという自覚と共に生きているのです。

そして、このことはそのまま私達の人生にも当てはまります。我々はそれぞれの人生を送っています。その中であのこと、このこと、なぜあんなことが起きたのかと私達は人生を振り返ります。

さらには今も私達はそれぞれが色々なことに向き合っています。「正念場」というような時を過ごしている方もいるかもしれません。時にその「正念場」は私達の目に全てと思われ、私達を全く打ちのめしてしまうかのように思えます。しかし、実際に目を転じれば、それが必ずしも全てではないことが分かります。

アブラハムが神の言葉を受けて静かに荷造りを始めた夜、自分を売った兄たちの冷ややかな目をヨセフが見た時、働けども働けども終わることがないエジプトでの奴隷労働に彼らが従事していた時、それは彼らの全てではありませんでした。それは神の物語の一部であり、神はそのことをも用いて大いなることをなされたのです。

ユダヤ民族ほど世界から憎まれ迫害を受けた民族はありません。まさしく彼らは長い間、国土を持たずに世界をさまよったのです。しかし、彼らは決して失われることはありませんでした。

それどころか、あんなに小さな国なのに、世界において、その影響力がとてつもなく大きいことを私達は知っています。なぜ、彼らは自らの存在を保ち、さらにこの世界においてかろうじて存続しているというようなことではなく、その影響力を保ち続けることができるのでしょうか。

私はこの度のメッセージを準備していながら思わされました。それは、彼らが自分達が通ってきた迫害も離散も、それら全てを神の物語の中に置いて、その時々を受け止めてくることができたからではないかと。そして、彼らの将来もその神の物語の中にあるということを彼らは知っているからなのでしょう。

それゆえに彼らの身に何が降りかかっても彼らはそこで打ち負かされたり、民族性を失い、自暴自棄に陥ることがなく今日もあり続けているのではないでしょうか。物語をもつ民族は強いのです。ましてやそれが神の物語であるのならいかがでしょうか。

主にある皆さん、驚くべきことに私達もこの神の物語の中に生きているのです。ですから今、向き合っていることで心が圧倒されることがありませんように。それが私達の全てではなく、神はそのことをも用いて、私達の人生を一つ所に向かわしめているのだということをどうかお心に刻んでください。

そして、このようなことを可能にさせるのが私達の「信仰」なのです。ステパノの説教はアブラハムという人から始まりましたが、彼は「行き先も知らずに出ていった」のです。その一人の老人の信仰からこの神の物語は始まったのです。

私達が信仰をもって神の物語の中に自分を見出していく時に、私達は今、向き合っていること、これまでに経験してきたあのことこのことに新しい解釈を見出すことができるようになるのです。そして、それは私達にとりまして悲しいことではなく、それは私達に将来と希望を与えてくれるものなのです。

お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2020年2月23日

1)自国のことだけを考えていればいい時代は既に過ぎ去りました。経済問題にしても、環境問題にしても、世界全体の中で自国のことを考えなければなりません。あなた自身を考える時、「人生の全体に目を向ける」ということは、なぜ大切ですか。

 

2)使徒行伝7章1節―53節を読みましょう。ステパノは「イエス・キリストについて」説明するために使徒行伝7章1節―53節の説教を語りました。なぜステパノはイエス様を説明するために彼らの先祖の歴史の全てを語ったのですか。

 

3)この説教からステパノが特に伝えたかったことは何ですか。

 

4)ヨセフとモーセの人生は神の物語の中でどのような位置づけを得ていますか。彼らが今、自分の人生を全容を知ったらどんなコメントを話すと思いますか。

 

5)なぜ、今、直面している出来事を神の物語の中に位置づけることは大切なのですか。

 

5)ステパノの説教から私達は人間について何を知りますか?当時の人間と私達との間に何か違いがありますか?

 

6)サンディエゴ日本人教会の歴史を知る時に、2020年にこの教会に属しているあなたは教会の歴史とどのような繋がりを感じますか。

 

7)神の物語の中、あなたは神様から与えられている年月を生きているということを知る時に、あなたの人生観はどのように変わりますか。

 

8)あなたの人生の主役は誰ですか?説明してください。


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