こうして教会は(28):新しいチャプターに生きる私達

イスラエルの首都、テルアビブの南、地中海沿いにヨッパ(Jaffa)という町があります。この町は何度か聖書にでてきます。まず旧約聖書に書かれていますヨナ書に大魚に飲み込まれたヨナが逃げこんだ町として出てきます(ヨナ1章1節―3節)。

そして、今日、見ていきます使徒行伝にもこのヨッパはでてきます。イエスの 12弟子の一人、ペテロが不思議な夢を見た場所もこのヨッパです(使徒行伝10章5節―6節)。

2011年にイスラエルを旅した時に、このヨッパに立ち寄りました。さすがにヨナの町、街中に巨大な魚のオブジェがありました。また、もしかしたらペテロが夢を見た、あの「皮なめしシモン」の家はないだろうかと探しましたところ、ありました、ありました。現在はザカリアさんという家族が実際に住んでいて中を見ることはできませんでしたが、確かにペテロが夢ごこちになったと言われる屋上がありました。

2000年前の話ですから、この家が確かにその家だったかというと分かりません。しかし、当時ペテロは確かにこの辺りにおり、キリスト教史を変えるような夢を見たのです。それがどんな夢であったのか、今日は使徒行伝10章を見てまいりましょう。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから

今日の礼拝メッセージ原稿、おもちかえりはこちらから ↓

こうして教会は(28):新しいチャプターに生きる私達
2020年3月8日

イスラエルの首都、テルアビブの南、地中海沿いにヨッパという町があります。この町は何度か聖書にでてきます。まず旧約聖書に書かれていますヨナ書に大魚に飲み込まれたヨナが逃げこんだ町として出てきます(ヨナ1章1節―3節)。

そして、今日、見ていきます使徒行伝にもこのヨッパはでてきます。イエスの 12弟子の一人、ペテロが不思議な夢を見た場所もこのヨッパです(使徒行伝10章5節―6節)。

2011年にイスラエルを旅した時に、このヨッパに立ち寄りました。さすがにヨナの町、街中に巨大な魚のオブジェがありました。また、もしかしたらペテロが夢を見た、あの「皮なめしシモン」の家はないだろうかと探しましたところ、ありました、ありました。

そこはこんな家で、現在はザカリアさんという家族が実際に住んでいて中を見ることはできませんでしたが、確かにペテロが夢ごこちになったと言われる屋上がありました。

2000年前の話ですから、この家が確かにその家だったかというと分かりません。しかし、当時ペテロは確かにこの辺りにおり、キリスト教史を変えるような夢を見たのです。それがどんな夢であったのか、今日は使徒行伝10章を見てまいりましょう。この箇所はまず、このような言葉で始まります。

さて、カイザリヤにコルネリオという名の人がいた。イタリヤ隊と呼ばれた部隊の百卒長で、2信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈をしていた(使徒行伝10章1節―2節)。

ここに記されているカイザリアの遺跡が今もヨッパの北、イスラエルの地中海沿岸にあります。ここにイタリア軍の百卒長であったコルネリオという人がいました。

彼は世界最強のローマ軍の歩兵部隊100人を束ねる長でした。彼に要求されることは勇気、知恵、高潔さ、忍耐、犠牲的精神であり、彼も部隊も厳しい規律の中にありました。

部下達にその規律を守らせ、さらには「この人に自分の命を預けてもいい」と思わせる人でなければ、最前線に遣わされる部隊を率いることなどはできません。

使徒行伝から、彼は部下からのリスペクトと信頼を得て、その任務を着実に全うしていたことがうかがい知れます(使徒行伝10章22節)。さらに彼は信心深い人で、その仕事のみならず、家族一同と共に神を敬っていたというのです(使徒行伝10章1節―2節)。

「職場」と「家庭」を神への信仰と共に治めることはとても難しいことでありますが、コルネリオはそれをなしていたのです。

その彼が三時の祈りをしている時に、主の使いが幻の中にあらわれます。当時、ユダヤ人は一日に三度、朝九時、正午、そして午後三時に祈る時間を決めており、彼は忠実にそれに従っていたのでしょう。そんな彼に御使いが語りかけます。「あなたの祈りや施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている」(使徒行伝 10章4b節)。

神はコルネリオが日々なしていることを見過ごすことはありませんでした。そして、このことは言うまでもなく、私達の日々の言動も全て神のもとに届き、おぼえられていることを意味します。

御使いはそんなコルネリオに言うのです。5ついては今、ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。6この人は、海べに家をもつ皮なめしシモンという者の客となっている」(使徒行伝10章5節―6節)

コルネリオとペテロの間に面識はありません。しかし、彼はさっそく自身の僕と信心深い兵卒ひとりに一切のことを説明して30マイルほど先のヨッパに彼らを送り出します。

翌日、彼らがヨッパに近づいた頃、ペテロも祈りをするためにヨッパの家の屋上にあがっていました。そこで彼は非常な空腹を覚えて夢心地になりました。その時です。

 11すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。12その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。13そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」(使徒行伝10章11節―13節)。

その入れ物の中には色々な動物が入っていたようです。当時、ユダヤ人にはきよいものと汚れたものとが明確に区分されており、彼らが食べてはならない動物がいました。聖書、レビ記11章はそのことを記録しています(レビ11章5,6、12、13,14)。

ですから、その入れ物の中には岩たぬき、野うさぎ、うなぎ、はげわしのような動物がいたのではないかと思われます。

ペテロは、それらを見まして、こう言います。「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」(使徒行伝10章14節)

しかし、主はすかさず応えます「神がきよめたものを、きよくないと言ってはならない」こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられました(使徒行伝10章15節-16節)。

つり下ろされてきた動物はモーセの律法によれば汚れたものと言われていたものであり、ペテロの宗教感情はそれを食べることを許しませんでした。しかし、神ご自身がそれらをきよいものとされ、食べることを命じられたのです。こんなことが三度あったと記してありますから、ペテロは何度も躊躇したのでしょう。

この出来事はペテロに神が実際にラクダやナマズを食べるように勧めたということではありません。それまで関わりをもつことなくいた他民族を受け入れ、彼らにも宣教を広げていくようにというメッセージがこの夢の中に込められていたのです。

なぜ、ペテロはこのことをためらったのでしょうか。その時にペテロが置かれていた時代を思えば理解できます。

ご存知のように聖書には旧約聖書と新約聖書がありまして、旧約聖書はイスラエルに生きるユダヤ民族と神との歴史、文学、預言、詩歌などが記録されています。

旧約聖書にはユダヤ人以外の民族も多数出てくるのですが、やはりその中心には「神とユダヤ民族」がおります。旧約聖書において神が人間と交わされた契約はユダヤ人と神の間の契約なのです。

それに対して私達は日本人であり、韓国人であり、アメリカ人であります。すなわちユダヤ人ではありません。このようにユダヤ人以外の者達を聖書は異邦人と呼びます。

イエス・キリストが天に変えられてから後、残された者達がまず向き合わなければならなかったことは「イエス・キリストの教えを異邦人に宣べ伝えるべきなのか、否か」ということでした。

これはペテロのみならず、当時の教会リーダー達にとりまして最大の課題でした。それゆえに、彼らはこのことに対して慎重に協議している様子が使徒行伝に記されているのです。そして、そのとっかかりとなり、大切な証言となったのが、ペテロがここで経験したことなのです。

そして、このことは今を生きる私達にも語りかけてくるものなのです。私達は自分達が持ち続けてきたものを絶対化し、それによって自分とは異なる考えや慣習を拒み、さらには裁いてしまうことが多々あるからです。

私達に必要なのは、私達の「こだわり」ではなく、「神がそのことに対してどのように願われているのか」と言うことなのです。

この夢はユダヤ人ペテロのそれまでの民族感情を改めさせる神の御声であり、彼は、これらのことの後、しばし思案にくれていますと、「ちょうどその時、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家を訪ね当て、その門口に立っていた」(使徒行伝10章17節)と聖書は記しています。

聖霊はその時ペテロに語りかけます。御霊が言った、「ごらんなさい、三人の人たちが、あなたを尋ねてきている。20さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出かけるがよい。わたしが彼らをよこしたのである」(使徒行伝10章19節―20節)

ここで言われている「ためらわず」という言葉は「差別をつけず」ということです。すなわち自分は正真正銘のユダヤ人であり、古の昔から先祖伝来の伝統と習慣をもっている。

それに対して「今、私を訪ねてきている者達は、それらに全く関与してこなかった異国人なのだ」というような思いは捨てて、彼らと共に出かけなさいと聖霊は言うのです。

彼らはペテロに会うと、彼らがコルネリオから受けたミッションを彼に伝え、その夜はシモンの家にペテロと共に宿泊し、翌日、こうして一行はカイザリアに向かうのです。

彼らがその時に宿泊した家は「皮なめしのシモンの家」です。「皮なめし」という職は動物の毛や皮をはぐもので、ユダヤ人社会では特に卑しい仕事とされていました。

そうしたシモンの家にペテロが滞在していたということは、彼がイエス・キリストの内に見た、その生き様を心に刻んでいたからなのでしょう。

ユダヤ社会で白眼視され、町の片隅にひっそりと住んでいたであろう皮なめしシモンの家に、異邦人の僕、ローマの兵卒、それにキリストのユダヤ人の使徒たちが共に夜を過ごす構図は、まさしくペテロの夢が具現化される将来の教会の姿でありました。

こうしてペテロはカイザリアに赴き、コルネリオと出会います。ペテロは率直に語ります「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。29お招きにあずかった時、少しもためらわずに参ったのは、そのためなのです。そこで伺いますが、どういうわけで、わたしを招いてくださったのですか」(使徒行伝10章28節―29節)。

 コルネリオはペテロを厚く歓迎し、自分がペテロを招くようになった経緯を話し、こう言います。「今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです」(使徒行伝10章33節)。

このペテロとコルネリオの間に取り交わされた会話は先週、お話ししたエチオピアの宦官とピリポの間に成されたことと基本的には同じです。

「ペテロとピリポは伝える者」。「エチオピアの宦官とコルネリオは伝えられる者」。どちらにも神に対する信仰がありました。

ユダヤ人であるピリポとペテロにとりまして異邦人は本来、汚れている人達であり、近づくことすらしなかったのです。しかし、ピリポは異邦人の馬車に自ら近づき、ペテロは自分から異邦人の家に向かったのです。これは本来、ありえない驚くべきことなのです。神は彼らの心をこのように変えたのです。

宦官とコルネリオにはピリポやペテロから聞くことに対する猜疑心は一切なく、彼らが自分に話してくれることを全て受け入れる心の備えができていました。

宦官はピリポに言いましたでしょう。「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」(使徒行伝8章31節)。そして、馬車に一緒に座るようにピリポにうながしましたでしょう

コルネリオもペテロに言ったのです。今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです」(使徒行伝10章33節)。彼らの心にも聖霊の豊かなはたらきがあったのです。

これらを受けてペテロはコルネリオに語りかけました。ここで私達が心に留めなければならないことは、このペテロの語りかけは異邦人に向けてなされたということです。その場所にはコルネリオの家族や知人も多くいました。

これまではイエス・キリストにしても12弟子にしても彼らが語りかける会衆はユダヤ人だったのです。しかし、この度は違うのです。ペテロはこの異邦人に向けたメッセージに何を託したのでしょうか。彼はこう言っています。

34「神は人をかたよりみないかたで、35神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。36あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう(使徒行伝10章34節-36節)。

ペテロははっきりと言いました。神はイタリア人であるとか、ユダヤ人であるというようなことで我々を片より見るようなお方ではない。神はすべての者の主なるイエス・キリストをとおして全ての者に語りかけてくださったのだと。イエス・キリストは私達だけの主なのではなく、全ての者の主なのであり、彼は私達の主イエスであり、またあなたたち異邦人の主イエスなのですと。

これらのことについて私達は思います。神は突然、ここにきてご自身の思いを変えたのだろうかと。神は気まぐれなお方で当初、ユダヤ民族を選んでおきながら、異邦人への宣教を突然、願われ、その戦略を変えたのでしょうか。ペテロも他の使徒たちも皆、神のこの気まぐれな変更に、振りまわされていたのでしょうか。

いいえ、このことは最初から言われていたことなのです。ペテロは続けてこう語りかけます。神はまずイスラエルの子ら、すなわちユダヤ人である私達に語りかけておられたということをあなたたちは知っているだろうと。

そう、それは神が旧約聖書においてユダヤ民族に語り続けた言葉です。そこで既に、神は全ての者の神となるということが最初から既に語られていたのです。

「最初からだって!?」と皆さんは思われるかもしれません。そうです、最初からなのです。これらのことは全てあの古の日に、ユダヤ民族の父祖となりましたアブラハムに神が語りかけたあの言葉によって約束されていたことなのです。

創世記12章2節―3節、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される

ここで神様がユダヤ民族の父祖となったアブラハムに言われたことは、わたしはあなたを祝福し、地の全ての民族はあなたによって祝福されるということなのです。

今日、お話ししています出来事は紀元30年前後に起きたことです。しかし、その日のことが起こることは既に創世記に書かれていることの成就だったのです。

これらのことに目が開かれたペテロは彼らに語りかけます。38神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。39わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。40しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、41全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。42それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです(使徒行伝10章34節-42節)。

ペテロが私は「このすべてのことの証人です」と言っていますように、彼はここで自分が実際にイエスと共にいて見聞きしたことを書いているのです。彼はイエスが復活された後に共に飲食したとまで語り、キリストの十字架による彼らの救いについて語っているのです。

どうして自分が見聞きしたことを否定することができましょうか。彼は力強く確信を込めてこの言葉を語ったことでしょう。

そして、これらのことがまだ語り終えないうちに、それを聞いていたコルネリオをはじめ、そこ場にいた異邦人の上に聖霊が注がれました(使徒行伝10章44節)。

この光景を見たペテロは言います。47「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」(使徒行伝10章47節)。そして、彼らはイエス・キリストの名によって洗礼を受けたのです。

地上のすべての民族はあなたによって祝福される」(創世記12章3節)。古の昔にそう語られた神の言葉のとおりに、エチオピアの宦官もイタリアのコルネリオもこの祝福にあずかったのです。そして、言うまでもなく、その中の一人が彼らと同じ異邦人であるあなたであり、私なのです。

私達はこれらの神の完璧な物語の筋書きを知る時に神の前に畏れの思いを持ちます。先週もお話ししましたように使徒行伝は28章で終わりますが、こうして

こうして神の物語の新しいチャプターが始まっているのです。私達は次なるチャプター、29章を今、生きている者です。

私達も今、あの晩、皮なめしシモンの家にユダヤ人とイタリア人が共に一夜を過ごしたように、私達のこの主にある教会で、聖霊によって導かれつつ、この教会で養われ、この教会で祈り、励まし合い、この主をあらゆる民族に伝えていくのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2020年3月8日

1)あなたには「こだわり」がありますか。客観的に考えてみて、それは絶対に譲れないことですか。なぜですか。

 

2)使徒行伝10章1節―2節を読みましょう。ここからコルネリオのどんな人となりを知ることができますか。

 

3)使徒行伝10章4節にはコルネリオの祈りや施しは神のみ前にとどいていると書かれています。このことは私達にどんな励ましをくれますか。

 

4)使徒行伝10章11節―13節に記録されている夢で、これらを食べるということは何を意味していますか。神がきよめたものを拒むことができますか。

 

5)あなたは民族的、宗教的な特別な感情をもっていますか。それらを変えた経験がありますか。なぜ、このような感情を変えることができるのでしょうか。

 

6)使徒行伝10章34節の気持ちにペテロがなって、自ら異邦人の家を訪ねたということは、なぜ驚くべきことなのですか。

7)使徒行伝10章33節のコルネリオの言葉は彼のどんな思いを言い表していますか。
8)創世記12章2節―3節において神様がアブラハムに言われた言葉はペテロとコルネリオの出来事にどう関係していますか。このような神の壮大なご計画を知る時に私達の心に去来する思いは何でしょうか。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援クリックをお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください