こうして教会は(29):なぜヤコブは殺され、ペテロは生きたのか?。

そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、ハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。そして、それがユダヤ人たちの意にかなったのを見て、さらにペテロをも捕えにかかった』(使徒行伝12章1節―3節)

イエスの12弟子の一人、ヤコブは首をはねられ殺されました。しかしながら、捕らえられ同じ結末を迎えるはずだったペテロの命は救われ、生きながらえました。

私達はヨハネを「雷の子」とか「愛の使徒」と呼びます。しかし、彼を「首をはねられ殺された兄をもつヨハネ」と呼ぶことはありません。そうです、ヨハネの兄は殺されたのです。このヨハネの気持ちを私達は考えたことがあるのでしょうか。

「あの人は召され、自分は生きている」。このような局面に私達も立たされることがあります。このようなことに対して私達が聴く神のメッセージは何なのでしょうか。

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こうして教会は(29):なぜヤコブは殺され、ペテロは生きたのか?
2020年3月15日

聖書を読んでいますと、一族総出でイエス・キリストや教会の前に立ちはだかった者達がいたことに気がつかされます。それはローマ帝国の承認を得てユダヤを統治したヘロデ一族です。

その初代はヘロデ大王(Herod the Great)と呼ばれ、彼はイエスの誕生に際して、ベツレヘムとその近辺にいる二歳以下の男の子をことごとく殺しました(マタイ2章16節)。

彼にはアンティパス(Antipas)という息子がおり、アンティパスは異母兄弟の妻、へロデヤを妻としました。彼はそのことを非難したバプテスマのヨハネ首をはねて殺しました(マタイ14章9節,10節)。

 さらにヘロデ大王の孫にはアグリッパ (Agrippa) という男がいます。アグリッパはユダヤ人たちがキリスト教徒を異端視して嫌っていたのを知り、キリスト教徒を迫害すればユダヤ人の間で自分の人気を回復できると考え、あることをしました。使徒行伝12章1節から4節にはこう記してあります。

1そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、2ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。3そして、それがユダヤ人たちの意にかなったのを見て、さらにペテロをも捕えにかかった。それは除酵祭の時のことであった。4ヘロデはペテロを捕えて獄に投じ、四人一組の兵卒四組に引き渡して、見張りをさせておいた。過越の祭のあとで、彼を民衆の前に引き出すつもりであったのである(使徒行伝12章1節―4節)。

アグリッパは12弟子の一人、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で切り殺します。これは斬首であったろうと言われています。

このヤコブとヨハネについて聖書はこう記録しています。

『そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった』(マタイ4章21節)。

彼らは兄弟そろってガリラヤ湖の漁師でした。そんな彼らにイエス様は声をかけられ、この時から彼らはイエスの弟子となり、イエスと共に生活をするようになります。

そんなある日、ユダヤ人であるイエスと12弟子にとりまして、何百年も嫌悪しあっていたサマリア人の町に彼らが近づいた時、そのサマリア人が彼らを歓迎しなかったということがありました。

その時、弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」(ルカ9章54節)とイエス様に進言しているのです。

兄弟そろって彼らは過激なことを言いました。そう、彼らは気が短く、すぐに手が出てしまうような粗削りの男達でした。

このような二人の性格をイエス様は全てお見通しだったのでしょう。彼らに雷の子というニックネームをつけました(マルコ3章17節)。

私達は確かにヨハネが「雷の子」であったと知っています。彼は電光石火、雷のように怒りやすい人だったのです。しかし、実はそれはヨハネだけではなかったのを皆さん、ご存知でしたか。イエス様はヨハネとヤコブを雷の子と呼んだのです。そうです、彼らは「雷兄弟」だったのです。

この兄弟、しかしながらいつも共にいて、なかなかしたたかで、仲がよかったようです。雷兄弟というニックネームもあながち気に入っていたのかもしれません。彼らはある時、こんな会話をしました。

『よう、ヨハネ、ちょっと今度、イエス様に話そうと思っていることがあるから知恵をかせや』「何だ、兄貴」「いや、このままいくと、俺達の親分はそれなりに偉くなるだろうと俺は見ている。たからそんな時が来たら、俺とお前がその右と左の座につけるよう今から言っておこうと思ってんのさ」、「いや、兄貴、それはグッドアイデア!他の奴らを見ててもパッとしないし、俺と兄貴でがっちりと固めようぜ」。そして、実際に彼らはイエス様に取り入るのです(マルコ10章35節―37節)

これらの話し、皆さんは聞いたことがあると思います。でも、皆さん、考えたことがありますか。いつも一緒にいて、将来も力を合わせていこうと誓い合った兄をヨハネは殺されたということを。

ヨハネは自ら書き記した福音書にも手紙にも一切、その時の自分の気持ちについては触れてはいません。そのヨハネの気持ちを考えたことがありますか。

私達は彼を「雷の子ヨハネ」、「愛の使徒ヨハネ」とは呼びます。しかし、私はこれまで彼を「兄を殺されたヨハネ」と呼んだことはないし、そう呼んだ人に出会ったことがないのです・・・。

さて、視点を少しペテロに向けてみましょう(使徒行伝12章1節―4節)。アグリッパがヤコブを殺して後、それが「ユダヤ人の意にかなったのを見て」、今度は教会の中心人物であるペテロを捕らえて投獄します。

しかし、今日は詳細をお話ししませんが、結論から言いますと、そこに神が介入して、超自然的な現象が起こり、ペテロは獄屋から逃げ、その命が救われました。そうです、ヤコブは殺され、ペテロの命は救われたのです。

ここで一つの疑問がわきます。それは「なぜ、ヤコブは殺され、ペテロは生かされたのか」ということです。この問いかけは私達も抱えているものです。「なぜ、あの人は亡くなり、私は生きているのか」。

このことを思いめぐらしている時に気がつかされることがあります。それはイエス様は生前、今日、お話ししている三人、すなわちヤコブ、ヨハネ、そしてペテロに特別に目をかけておられたということです。

新約聖書はそのことを記録しています。かつて、こんなことがありました。

49イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人がきて、「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と言った。50しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。51それから家にはいられるとき、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母のほかは、だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった。52人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた、「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」。53人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。54イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、「娘よ、起きなさい」。55するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与えるように、さしずをされた。56両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた(ルカ8章49節―56節)。

イエス様はその時、明らかな意思をもってヤコブ、ヨハネ、ペテロ以外には共にくることを許されなかったとここには記されています(51節)。その時、イエス様は彼らに何を見せたのでしょうか。

誰が見ても息絶えて亡くなっている少女を前にイエス様は言われたのです「この娘は眠っているのだ」。そして言われたのです「娘よ、起きなさい」。彼女は三人の弟子達の目の前で目を覚まし、起き上がったのです。

なぜ、イエス様はその現場にこの三人だけをあえて立ち合わせたのでしょうか・・・?。

さらにこんなことがありました。

2六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、3その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。4すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。

ある日、イエス様はヤコブ、ヨハネ、ペテロだけを連れてある山につれていかれた。この山は現在のイスラエル、ゴラン高原にあるヘルモン山と言われています。そこでイエス様の姿がまばゆいほどに変わりました。

そこで、ユダヤ人である三人にとりましては伝説の人、エリアとモーセがあらわれたのです。この出来事についてルカもこのことを記録しているのですが、その中でイエス、モーセ、エリアは「エルサレムでイエスが遂げようとしている最後のこと、すなわち十字架について話し合っていた」としています(ルカ9章30節-31節)。

そして、9一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。10彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った(マルコ9章9節―10節)とマルコは記しています。

なぜ、イエス様はその現場にこの三人だけをあえて立ち合わせたのでしょうか・・・?。

さらにこんなことがありました。

32さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。33そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、34「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」(マルコ14章32節―34節)。

それはまさしくイエス、モーセ、エリアが話し合っていた「エルサレムにおいて成し遂げられること」、数時間前のことでした。

なぜ、イエス様はその現場にこの三人だけをあえて立ち合わせたのでしょうか・・・?。

彼らは後日、思い起こしたに違いありません。

イエスは俺達三人だけを連れて出かけられたことが度々、あった。俺達は目の前で娘がよみがえるのを見た。イエスは彼女は眠っているのだから起こすと言われた。そう、死んでいた少女は再び生き返ったのだ。

ヘルモン山で俺達はまぶしくて直視できないほどに変貌したイエスとモーセとエリアがエルサレムでイエスが成し遂げられる最後のことについて話していることを聞いた。

なぜ何百年も前に死んだ者がイエスと共にいるのか。それは明らかにこの世の日常を超えた光景であり、その時には知りえませんでしたが、彼らが「イエスの十字架」のことを話し合っていたことが今なら分かります。

その十字架を前にイエスは俺たちだけをゲッセマネの園につれていき、共に祈っているようにとイエスは言われた。しかし、俺たちはそんな時に眠りこけていた。時折、イエスの叫び声が聞こえた。

「アバ、父よ、あなたにはできないことがありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、み心のままになさってください」(マルコ14章36節)

 ヤコブとヨハネは後になってあの日の言葉を思い起こしたに違いない。「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」(マルコ10章37節)と彼らがイエスに願った時、イエスが言われた言葉を・・・。

彼らはその時、「できます!」と答えました。するとイエスは言われました「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう(マルコ10章39節)。

 なぜヤコブは殺され、ペテロは生きながらえたのか。このことに対する明確な答えは聖書に記されていません。しかし、イエス様がこの三人だけに何を聞かせ、何を見せたかというところに私達は彼らに対する神の返答を見るのです。

そう、それがたとえ首がはねられるというようなことであっても、「死ぬ」ということはイエスにとっては、私達の魂が眠っているようなことであり、我々は再び目覚めるのだということを彼らは見ました。

モーセとエリアが数千年、数百年の年月を経て、イエスのもとに姿をあらわしたということ。イエスの輝く姿はやがて私達に約束されている栄光のからだであるということを彼らは見ました(2コリント3章18節)。

苦き盃、すなわ神の御心として受け止めたイエスの十字架は、その後に続く復活のために不可欠なことであったということ。彼らはこれらのパズルのピースをつなぎ合わせたに違いありません。

ヨハネが愛する兄ヤコブを失った時、彼が何を考えていたのか私達には分からない。その記録もありません。しかし、明らかなことは彼は兄の死によって、神に失望して、宣教から離脱せず、最後にパトモス島において「ヨハネの黙示録」を書き残したこと。

かつての雷の子なら、彼は兄を殺したヘロデに対する復讐を企てたことだろう。しかし、そのようなことも彼はしませんでした。

「死んでしまえば全てが終わり」と私達は思います。しかし、この三人にイエスが見せたものは、明らかに死は終わりではないということだったのです。

この確信を持っていたヨハネは「この杯をあなたも飲めるか」と言われたイエスの言葉を受け止め、その杯を彼も飲みました。そして、復活の命を信じ・・・、前を向いた。天を仰ぎつつ、主からその名を呼ばれる時まで歩き続けました。

12弟子の中でヨハネだけが殉教せずに90歳になるまで生きたと言います。その彼は自ら筆を執りヨハネ第一の手紙を書き残しました。その中で彼はその手紙を書いた理由を書いています。

『これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである』(1ヨハネ5章13節)。

「なぜ、ヤコブは殺され、ペテロは生かされたのか」。この問いに対して、今朝、神様ご自身が皆さんの心に何かを語りかけてくださったと信じます。その確信を大切に、最後まで持ち続けて、あなたを今も生かしたもう主を見上げて、主から名を呼ばれるその時まで、この地での歩みを全うしていこうではありませんか。お祈りしましょう。

 

 

本日のおもちかえり
2020年3月15日

1)使徒行伝12章1節―4節を読みましょう。ここにはヨハネの兄弟ヤコブが剣で殺されたと書かれています。実の兄(ヤコブはヨハネの兄と言われています)が剣で殺されたヨハネの気持ちはどんなものだったと思いますか。

 

2)結論から言いますとヤコブは殺され、獄に捕らえられたペテロは救い出され、生きながらえます。あなたは「亡くなる方」、「生きながらえる方」、その違いや理由について考えたことがありますか。

 

3)ルカ8章49節―56節を読みましょう。彼らはそこで何を見聞きしましたか。イエス様はなぜこの場にヤコブ、ヨハネ、ペテロだけを連れていったのでしょうか。

 

4)マルコ9章2節―4節を読みましょう。彼らはそこで何を見聞きしましたか。イエス様はなぜこの場にヤコブ、ヨハネ、ペテロだけを連れていったのでしょうか。

 

5)マルコ14章32節―34節を読みましょう。彼らはそこで何を見聞きしましたか。イエス様はなぜこの場にヤコブ、ヨハネ、ペテロだけを連れていったのでしょうか。

  

6)イエス様は3)4)5)の出来事を全て意図的にヤコブ、ヨハネ、ペテロだけに見せました。この三つの出来事を一つにまとめると、どんな神様からのメッセージがあると思いますか。

 

 7)この三つの出来事は殺されたヤコブと兄を失ったヤコブにとってどんな意味がありましたか。ペテロはこの三つを思い起こし、何を考えていたと思いますか。

 

8)ヤコブとヨハネがかつてイエス様に取り入った時にイエス様は彼らに「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」(マルコ10章38節)と尋ねました。彼らがイエス様のゲッセマネの祈りを後日、思い起こす時に、彼らはこの言葉をどのように受け止めなおしたと思いますか。


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