こうして教会は(4):通じ合う言葉と心

10年ほど前にカリフォルニア・ピザ・キッチンに家族で食事に行きました。トッピングをオーダーしました。オリーブが好きな私達は「Black Olive」をオーダーしました。しかし、出てきたピザにオリーブの姿はなく、その代わりに「Broccoli」がのっかっていました。

二度、そのレストランに行き、二度、同じことが起こりました。日本人にとりましてRとLの発音はチャレンジです。私達は「Riceをください」と言いながら、「Liceをください」と受け止められているとしたら恐ろしくなります・・・。

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こうして教会は(4):通じ合う言葉と心
2019年7月7日

アメリカに暮らす私達は英語を公用語としている国にいます。相手の英語が分からない、自分の英語が相手に通じない体験をお話ししたら、きっと皆さんも色々な体験がありますでしょう。

今から30年も前、飛行機で「Atlanta」に行こうとカウンターで行き先を告げると「Toronto」と聞き取られ、「Atlanta」だと分かってもらうためにしばらくかかりました。皆が聞いている場所で、何度も日本語訛りで「Atlanta」と繰り返し言わなければならないこと、これはなかなか辛いものです。

10年ほど前にカリフォルニア・ピザ・キッチンに家族で食事に行きました。トッピングをオーダーしました。オリーブが好きな私達は「Black Olive」をオーダーしました。しかし、出てきたピザにオリーブの姿はなく、その代わりに「Broccoli」がのっかっていました。

二度、そのレストランに行き、二度、同じことが起こりました。日本人にとりましてRとLの発音はチャレンジです。私達は「Riceをください」と言いながら、「Liceをください」と受け止められているとしたら恐ろしくなります。

皆さんもきっとそんな体験をお持ちかと思います。でも、これらはまだいいのです。「まあ、しょうがいないよ、英語は自分の母国語じゃないんだから。日本語はしっかりと話し、読み書きできるんだから」。言い訳のような言葉ですが、そうです、私達には自由に操れる母国語があるのです。これが慰めです!、と言いましても、最近はこの母国語さえも怪しいのです・・・。

時々、二、三人の人が同時に互いに話しているのを見かけることがあります。よく観察していると誰も互いの話は聞かずに自分の言いたいことだけをひたすら、互いに話し続けているのです。おそらく互いの言葉は何一つ、心に残っていないのでしょうが、一応、皆さん、言いたいことは言ったという満足感を得てハッピーなお顔をしているので、まぁーいいだろうと眺めています。

しかし、いかかでしょうか、こんなことはありませんか。互いに同じ言語を完璧に話していながら、自分も相手もその言葉を聞いているのに、互いに心が通じ合わないということが。

今日、私達の前に開かれています創世記11章にはバベルの塔の出来事が記されています。聖書を読んだことのない人でも、このバベルの塔の出来事は聞いたことがあるかと思います。

1 全地は同じ発音、同じ言葉であった。2 時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。3 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。4 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。5 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、6 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。7 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。8 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。9 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。(創世記11章1節-9節)

なんと当時の人間は全て同じ発音、同じ言葉を話していたというのです。そんな彼らが天の頂に届くような塔を建てて、自分達の名を上げようと企てたというのです。そこには己の力で神に近づき、自分の名声を響かせようという人間の願望があります。

これらに対して神様は6節、7節で言われました。「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をし始めた。彼らがしようとすることは、もはやとどめ得ないであろう。さあ、我々は下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」

人の思い、欲は止めえないものです。神様は言われました「彼らがしようとすることは、もはやとどめ得ない」と。まさしく、その言葉の通り、今も当時と同じように自らの名声のために建設された建造物が世界いたるところにたくさんあります。

この人々に対して神様がなさったことは、彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにされたというのです(7)。このことゆえにこの後、彼らは全地に散らされていきました。

この時からもはや人は同じ発音、同じ言葉で語り合うことなく、世界の言語は多種多様になりました。しかし、それと同時に互いの言葉が通じなくなったということの背後には、もっと深刻な問題があるのではないかと思われます。

つまり、この言葉の乱れとは、彼らがそれぞれ異なった言語で話し始めたということと同時に、彼らの心と心がますます通じなくなったということを象徴しているのではないかということです。

それまでも人の心に罪がある限り、互いの心が通じ合わないということはあったことでしょう。兄カインが弟アベルを殺してしまったのも、そのことを示しているでしょう。ノアの時代の混乱もこのことが背景にあったことでしょう。人は言葉で解決できなくなると拳を振り上げるものです。

しかし、このバベルの時から、人が互いに同じ言葉を語っていても心と心が通じ合わないということが、いよいよ色濃くなっていったのではないでしょうか。このこと以前にはその動機はいかにせよ、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう」と言えば、彼らの心は堅く結びついたのです。

この時から、彼らが「あれをしよう」、「これをしよう」と意見を交換しても、そこに混乱が生じるようになったのです。お互いがお互いの言い分に耳を貸さない強情さ、相手の提案と忠告を聞くことができない頑なさというものが人間の根深い問題となっていったのです。

私達には皆、母国語があります。同じ母国語を話す者同士であれば、互いに通じ合う言葉を語ることができます。しかし、そこに本当の心と心のコミュニケーションがあるでしょうか。なぜ、同じ言葉を話すのに、相手の言葉は自分に届かず、自分の言葉は相手に伝わらないのでしょうか。

それは、このバベルの民たちが「町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう」と言ったように、「天に届くように自分が神のようになりたい」というような願望が私達の心にあるからではないでしょうか。

「自分が神のように・・・」というのは、すなわち「自分を中心として生きる」、「お前は俺の話だけを聞いていればいいんだ」というような思いがその心にあるということで、それが互いにあるのなら、もはやその言葉には人の心と心をつなげるものはありません・・・。

これらのことを思う時に、私達は考えます。「はたして私達はこのような状態を回避することができるのだろうか?」と。神様はこのことをバベル以来、未解決のまま、今にいたらせているのでしょうか。

いいえ、違います!創世記で起きたこの出来事はそのまま手つかずに放置されませんでした。この一件は後に再び、聖書の中で取り上げられているのです。

そのことが私達が毎週、見ております使徒行伝の2章に記されているのです。この使徒行伝にはバベルの塔と全く逆のことが記されているのです。それはバベルの塔の出来事から約2500年後に起きたことでした。

その背景は先週もお話ししましたようにイエス様が弟子達に「エルサレムに留まり、聖霊を待ち望め」と言われたとおりに、彼らがそれに従い、エルサレムにとどまり、ひたすら祈っていた時に起こりました。

そう、彼らは天に届く塔を作ろうとはしていませんでしたが、その時、彼らは福音を地の果てにまで伝えるという巨大な神のプロジェクトに取りかかろうとしていたのです。さぁ、その時に何が起きたのでしょうか。少し長いのですがお読みします。

1五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろな他の国の言葉で語り出した。5さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、6この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。7そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。8それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。9わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、10フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、11ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。(使徒行伝2章1節-11節)。

その時、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同が座っていた家いっぱいに響き渡りました。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上に止まりました。すると一同は聖霊に満たされて、御霊が語らせるままに、色々の他国の言葉で話し始めたと聖書は記しています。

時はちょうど五旬節の祭りの時、当時エルサレムには天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちが移り住んでいました。彼らの出身地がカタカナでここにはたくさん記されていますが、これはいわゆるディアスポラと呼ばれる各国に離散したユダヤ人達の出身国のことで、そのユダヤ人たちが、聖霊に満たされて、自分の生れ故郷の言葉を話している者達を見てあっけにとられてしまったというのです。

皆さんの出身地には何か方言がありますか。東北や関西、九州、沖縄、それぞれ素敵なその土地の言葉があります。そんな同郷の人と出会い、その方言を聴きますと心が和むでしょう。もし新潟の方言を話す人が、新潟の方言を話すアメリカ人に出会ったら驚き、親しみを感じますでしょう。

ここに起きた出来事は各地に離散していたユダヤ人が、聖霊を受けた者達の口から、自分達の生まれ故郷の言葉を聞いたということなのです。バベルで起きたことがこの使徒行伝の時代にひっくり返ったのです。

バベルの出来事で人々は世界に散らされたのです。しかし、この使徒行伝の時代にはその散らされた者達が再びエルサレムに移り住んでいたのです。

バベルでは互いの間に隔ての壁ができたのです。しかし、エルサレムでは彼らに聖霊が臨むことにより、彼らの隔ての壁が取りのかれたのです。

バベルの時に人々は自分の名をあげようと自我自賛しました。しかし、その日に彼らは一同、神を崇めるようになったのです。

バベルの時に彼らは神にはむかい天に届く塔を建て上げようとしました。しかし、その日、彼らは自分を低くして神に対する謙遜と服従を示したのです。

「お前の話などは聞いてられない。聞く価値がない」バベルの塔では、そんな光景がいたるところで起きたことでしょう。それに対して聖霊を受けた使徒たちはどうなったでしょうか。この後の使徒行伝2章42節-47節を見ると、バベルの塔とは異なる者達の姿をそこに見ることができます。

42そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。43みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。44信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、45資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである(使徒行伝2章42節-47節)。

彼らは一緒にいて、心を一つにして神を褒め称えていました。かってのように、自分たちの名をあげようという思いはそこにはなく、ただ自分達を通して神の栄光が現わされるようにという彼らの姿をここに見ることができます。

「日々、心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンを割き、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神を賛美し、すべての人に好意を持たれていた」という彼らの姿は互いに人の言葉に耳を貸さない人達を言い表すものではありません。

彼らはすべての人に好意をもたれていたといいます。すなわちそこには真なる心の通じ合いがあったのです。そこには己れを主張する前に、人の思いを聞く姿勢があったのです。ゆえに彼らは全ての人に好意をもたれていたのです。

使徒行伝はこのことが起きた日を「五旬節」(1)の日としています。この五旬節をギリシア語では「ペンテコステ」といいます。「ペンテコステ」とはギリシャ語で数字の50を意味する言葉です。

この五旬節はユダヤ人の祭りの一つでした。このことは旧約聖書にも記されていまして(レビ記23章9節、10節)、何が50かといいますと、ユダヤ人が大麦を収穫し、その大麦の初穂の束を神に捧げるお祝いがあり(レビ記23章15節、16節)、その最初の束を神に捧げた日から50日目に、小麦の刈り入れが始まるというので、その50日目の五旬節のお祭りを「刈入れの祭」とも呼んでいたのです。

そして、その時、彼らがエルサレムで迎えた五旬節は、イエス様が復活された日からちょうど50日目に当たる日だったのです。すなわち旧約聖書ではこの50日は初穂の束を捧げる日からの日数を意味していましたが、新約聖書ではイエス・キリストが人間の初穂としてよみがえられてから50日ということを意味しているのです。

なぜイエス・キリストは「初穂」なのでしょうか。そのことがコリント第一の手紙15章20節に『しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである』と書かれています。このことは、いつの日か私達もあずかることができる、復活の初穂としてイエス・キリストはよみがえられらということなのです。

そのような日にイエス様がかねてから約束なさっていた聖霊がエルサレムで待ち望んでいた弟子達の上に注がれたのです。かつての弟子達はイエス様の十字架にかかる直前まで、「俺たちの間では誰が一番偉いのか」というようなことを話していました。

そうです、彼らは互いに聞く耳をもたない者達だったのです。しかし、この五旬節の日に彼らが聖霊を受けることにより、彼らは変えられたのです。

これは一つの象徴でありますが、五旬節の日には麦からパンが作られ神様に捧げられます。彼らがパンを作るためにはまず、麦の殻を取り除き、実を粉にしてパン生地を練るのです。そこには麦の大きさとか、形とかはありません。全てが全く粉々にされて、一つの塊にされます。それがパンであり、それはちょうどキリストの教会を表していると言うことができます。

ペンテコステまでは弟子たちも「俺が!私が!」と言っていたのですが、この日を境に彼らの心は砕かれ、神が望まれる一つのかたち、一つのパンにかたち造られていったのです。

これから宣教のみわざが地の果てにまで及ぶ、そのような時に必要不可欠なことは何でしょうか。もし、このみわざがとん挫するようなことがあるとしたら、その原因はどこにありますでしょうか。おそらく、その原因人間でありましょう

バベルの塔を築き上げようとした者達がこの宣教のわざを担うことはできないのです。神様はこのことをよく承知して、彼らに聖霊を降り注ぎ、彼らを砕き、彼らを一つにしたのです。

主にある皆さん、私は思います。手つかずの人間というのは、どちらかというとバベルの塔を築き上げていった人達の性質を持ち合わせているのではないかと。人当たりはよくても、実際のところ私達の心には「人の話など聞いていられるか」というような思いがあるからです。

そんな私達には聖霊が必要なのです。そうです、何度もお話ししていますように復活のイエスに相まみえた者達にたとえ情熱と感動があったとしても、このところが神様に取り扱われていないのなら、彼らの宣教は遅かれ早かれ、必ず挫折していたことでしょう。

イエス様はかねてから、弟子たちに約束されていました。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝一章8節)

聖霊が下る時、力を受けると言われた主。その「力」は何だったのでしょうか。色々なことが考えられるでしょうが、その力の最たるものは「私達の心を砕く力」であり、「その心に届く言葉の力」だったのです。

聖霊が一同に臨んだ直後にイエス様の弟子の一人、ペテロが立ちあがってメッセージを語りました。そのメッセージを聴いた3000人もの人は「強く心が刺され、悔い改めて」(使徒行伝2章37節、38節)、イエス・キリストを主と受け入れたと使徒行伝は記しています。

なぜ、このようなことが起きたのでしょうか。聖霊によって心が砕かれた者達に聖霊で味つけられた言葉が語られたからです。

主にある皆さん、私達の語る言葉は互いに通じ合うものでしょうか。私達は夫婦や親子の間でこのような言葉を語っていますか。教会で私達が語り合う言葉は互いの心に届いていますか。

バベルのプロジェクトは続きませんでした。このところに問題があったからです。私達の教会のビジョンも私達の家庭の一致も同じ危険性をもっています。

しかし、私達の上に聖霊が臨む時に、私達の心には相手の言葉をまず聞いて受け入れる心と、相手の心に届く言葉を語る力が与えられるのです。主にある皆さん、これらのことの成就は一重に聖霊のはたらきによるのです。ですから、聖霊を求めましょう。聖霊の油注ぎを切に求めましょう!お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年7月7日

1)あなたはコミュニケーションの難しさを経験したことがありますか?互いに理解できる言葉を語っていながら、なぜ心が通じ合わないときがあるのでしょうか。コミュニケーションの秘訣は何だと思いますか?

 

2)創世記11章1節-9節を読みましょう。ここで起きたことはどんなことですか。頂を天に届かせるような塔を建てようとした者達の心にはどんな思いがあったのでしょうか。今日の私達の心にこの思いはどのように存在していますか?

 

3)神様はバベルの塔を建てようとした彼らに何をしましたか。「言葉が乱れる」ということはどんなことだと思いますか?

 

4)使徒行伝2章1節-11節を読みましょう。ここで起きたことはどのようなことですか。このこととバベルで起きたことの違いは何ですか。この二つの出来事は何を表していますか。

 

5)聖霊を受けた者達の姿が使徒行伝2章42節-47節に記されています。この姿はバベルの人々の姿と何が違いますか。

 

6)このことが起きた時は五旬節でした。五旬節はペンテコステとも呼ばれています。この日にユダヤ人はパンを食べました。パンを食べるためには麦の殻がとりのかれ、それを粉として引いてパンの生地が作られました。これは私達の心に関して何を象徴していますか。

 

7)ペンテコステの日、そこにいた者達の心が砕かれ、互いの心に届く言葉の力が彼らには与えられました。なぜ神様はこの力が彼らに起こることを望まれたのですか。このことなくして宣教のみわざが継続的に成されていくことは可能ですか?

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