こうして教会は(6)悔い改めよ。

今日、伝道メッセージが語られる時、このような語りかけがなされることがあります「さぁ、今、あなたの心の扉を開き、あなたの王座にイエス様に座っていただきなさい。あなたの心の扉のノブは外側にはなく、イエス様はそのドアを開けられないのです。そのドアは内側からしか開けられないのです。ですからあなたの手をノブにかけ、扉を開け、イエス様を心にお招きしましょう。その時にあなたは救われます」。

この言葉は大方、正しいことを言っています。なぜなら、この言葉はあのヨハネ黙示録の御言葉を念頭においたものだからです。すなわち聖書が記していることだからです。しかし、一つのことが不足しています・・・。

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こうして教会は(6)悔い改めよ。
2019年8月4日

私達は「地境を動かさず、幕を張り広げ、綱を長く!」という標語を掲げて新しい一年を歩み始めています。

そして、この標語を堅固なものとすべく、使徒行伝から「こうして教会は」というテーマで毎週、メッセージをお話しをさせていただいております。この「こうして教会は」というテーマは使徒行伝9章31節からきています。

こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増ていった

使徒行伝に記録されている教会とは、この地上に最初に生まれた教会のことであり、その教会がどのようにして世界に広がっていったのかということがここには記されています。このことは今から約2000年前の出来事ですが、そこに2019年の私達の教会がならうべき姿があります。

これまで私達はここから五回のメッセージを聴いておりますが、最初に四回かけて「聖霊」についてお話ししました。なぜなら、聖霊こそが最初の教会が誕生する時に、絶対不可欠なものであったからです。教会の始まりはまさしく聖霊のはたらきによったのです。

そして三週間前には聖霊を受けた者達が神の言葉を語りはじめ、このことが後の彼らの宣教の中心に据えられていくようになったということをお話ししました。彼らは聖霊に満たされ、神の言葉をエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで伝え、イエス・キリストの証人となったのです(使徒行伝1章8節)。

そして、その時に聖霊を受けたペテロは立ち上がり、神の言葉を人々に語りました(使徒行伝2章14節-36節)。その言葉は彼の考えに従ったものではなく、旧約聖書に記録されている預言者ヨエルやダビデの言葉を彼は語りました。彼がこの聖書の言葉を語った時、人々はその言葉に応答し、ペテロにこう尋ねました。

37人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った(使徒行伝2章37節)

この問いかけにペテロはこう答えました。

38すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。39この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。40ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。41そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。(使徒行伝2章38節―41節)

今日はこのところから一つのことに注目をしたいと思います。それは「わたしたちはどうしたらよいのか?」と問われた時にペテロが開口一番、語りました「悔い改めなさい」ということです。

私達はもともと、神と共にあるべき存在として、神から命を授けられました。この命は自分で勝ち取ったものではなく、自分の意思ゆえにこれまで保たれてきたものではありません。

人類で一番最初にこの命が与えられたアダムとエバは神が彼らのために備えた完璧な環境、エデンの園に暮らしておりました。しかし、彼らの心に「神のようになりたい」という思いが起こりました。

そうです、その時、彼らは自分の命は神から与えられたものであり、その神の恵みとあわれみによって生かされているということ、すなわち自分達は被造物であるということを忘れ、自らを神と等しいものとなることを望んだのです。こうして彼らの心に罪が入りました。

その結果、罪なきお方の前に罪ある者が留まり続けることはできず、彼らは神に対する恐れと共に、神を避けるように、逃れるようにして園を出て行きました。

以来、人間はアダムとエバのように、本来おるべき所に留まらず、神から逃れるようにして、各々が自分の好むままに生きています。その人間の有様をイエス様はあの有名な「放蕩息子」のたとえ話で余すところなくお話しになりました(ルカ15章11節ー32節)。

本来おるべき父のもとにおることをよしとせず、自分の思うがままに生きたいがために、父の遺産を早々に受け、家を出て行った息子。行った先々で好き放題の放蕩生活を送り、遺産は尽き、最後には豚の世話をするようなところにまで墜ちた息子がそこにいました。

しかし、ある時、彼は自らの姿をかんがみて「本心に立ち返り」(ルカ15章17節)、父のもとに立ち返る決心をします。そう、その様は「人間」と「父なる神」の関係をあらわしています。

はたして彼は自分の何に気がついたのでしょうか。彼はこう言っています。「立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」(ルカ15章18節)。彼がここで言っていることは、自らの罪に対する明確な自覚であり、またそのことに対する「悔い改め」です・・・。

イエス様の先駆者にバプテスマのヨハネという人がいます。彼はイエス様に先立って荒野で神のメッセージを人々に伝えました。彼が荒野で伝えたメッセージは何でしたか。マタイはこのように記しています。

1そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、2「悔い改めよ、天国は近づいた」』(マタイ3章1節-2節)。このヨハネのメッセージに人々はどのように応答したのでしょうか。

5すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、6自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた(マタイ3章5節-6節)。

私達は大抵、互いの関係がスムーズにいくことを願い心を配ります。ですから、相手を動揺させるようなことは言わないように心がけます。しかし、ヨハネは違いました。

ヨハネは人を恐れず、神を畏れ、真実を語る人でした。実際にこのことゆえに、この後、彼は当時のユダヤの領主、ヘロデ・アンティパスによって捕えられ、獄に入れられます。ヘロデが自分の兄弟の妻を奪い、妾としたことをヨハネが指摘したからです。

そのヨハネは荒野にぞくぞくとやってくる者達に向かい、「悔い改め」を力強く迫ったのです。なぜなら、彼はそのメッセージは神からのものであると受け止めていたからです。その確信がある限り、彼は人目をはばからずに誰を前にしても語り続ける人でした。そして、それを聞いた者達は自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたのです・・・。

このヨハネより少し遅れて世に出てきたイエス・キリストはヘロデによってヨハネが捕らえられたということを聞き、ガリラヤへ退かれ、そこで神の言葉を語りました。

12さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。13そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。14これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。15「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、16暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。17この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた(マタイ4章12節-17節)。

主にある皆さん、バプテスマのヨハネ、そしてイエス・キリストがその宣教を始めるにあたり、スローガンのようにして民衆に語りかけたことは何ですか。そう「悔い改めよ」(マタイ4章17節)ということです・・・。

今日、伝道メッセージが語られる時、このような語りかけがなされることがあります「さぁ、今、あなたの心の扉を開き、あなたの王座にイエス様に座っていただきなさい。あなたの心の扉のノブは外側にはなく、イエス様はそのドアを開けられないのです。そのドアは内側からしか開けられないのです。ですからあなたの手をノブにかけ、扉を開け、イエス様を心にお招きしましょう。その時にあなたは救われます」。

この言葉は大方、正しいことを言っています。なぜなら、この言葉はあのヨハネ黙示録の御言葉を念頭においたものだからです。すなわち聖書が記していることだからです。しかし、一つのことが不足しています。そのことをヨハネの黙示録はこう記しています。

「そこで、あなたに勧める。裕福になるように火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれか私の声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3章18節-20節)

ここに私達が好んで使う「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」という御言葉があります。

しかし、この言葉の前に何が書かれていますか。「熱心に努めよ。悔い改めよ」。そうです、ヨハネは(彼はパプテスマのヨハネではなくてイエスの12弟子のヨハネです)、御霊にうながされてこのことを書き記したのです。

「ありのままのあなたでいいのですよ」という言葉に私達は安心感を得ます。誰でもそう言ってもらいたいでしょう。確かに放蕩息子はありのままの姿で帰ってきました。彼はその時、豚の世話をしており、豚の餌を食べたくなるほどに飢えていました。

その彼が実家に帰るにあたり、体を洗い、身なりを整える余裕などなかったでしょう。悪臭を放ち、垢にまみれ、着の身着のまま家に戻ったことでしょう。そう、それはありのままの彼の姿です。確かに身なりはそれでいいのです。実際にその息子に父はかけより、ありのままの彼を抱きしめ、接吻しました。

しかし、息子の心はどうなのでしょうか。かつて遺産を父親に求めた時、彼はその心に思ったことでしょう。「こんな親父のところに居ては息が詰まりそうだ。まとまった金をもらって、自分で事業でも始めよう」。

彼が得た遺産とは本来、親が死んでから分けられるものです。しかし、彼は父がまだ生存中にそれを求めたのです。これは当時の慣習から考えれば親に対する冒とくです。そこには親に対するリスペクトと感謝はありません。

彼はそんなかつての自分の心に対して、本心に立ち返り、自分が父にも神にも罪を犯したということを認め、それを悔い改め、そして父のもとに帰ってきたのです(ルカ15章18節)

主にある皆さん、「ありのままでいい」ということは「神様からかけ離れていた時の心のまま、父なる神のもとに立ち返ってもいいということではないのです」・・・。

私達はパウロという人を知っています。かつて彼はキリスト教を迫害することに情熱を注いでいましたが、ダマスコに向かう途上で天からの強い光を受け、イエス・キリストの語りかけを聞いて回心し、キリストを伝えることに命をかける者となりました。

彼はイエスの12弟子がもっていないものをもっていました。すなわち12弟子は「無学な者達」と呼ばれる者達でありましたが、彼は律法について、熟知していた知識人でした。これからキリスト教を世界に伝えていくにあたり、それまでのユダヤ人の信仰とイエス・キリストの教えを一つにしなければならない必要をこのパウロが担ったのです。

その彼は回心後、当時の地方都市をめぐり、命をかけて宣教をしたのです。その彼が自分は何を伝えていたのかということを端的に一言で言い尽くしている言葉が使徒行伝に記録されています。そう、彼はこう言っているのです。

「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである」(使徒行伝20章21節)

主にある皆さん、パウロが伝えようとしたことは二人のヨハネ、イエス、そしてペテロと全く合致しているのです。そうです、彼も人々に「神に対する悔い改め」を強く勧めたのです・・・。

聖霊がペテロの語った御言葉をそこに居合わせた者達の心に伝えた時、そこに居合わせた3000人あまりの人達は「強く心が刺され、悔い改めて」(使徒行伝2章37節、38節)、イエス・キリストを主と受け入れたのです。そうです、彼らは強く心が刺されて悔い改めたのです。

彼らは心が刺されたのです。自分の身の程が分かったのです。今までのままの自分の心では父なる神の前に立ち返ることなどできないということを彼らは示されたのです。

私達、クリスチャンは洗礼式と聖餐式というものを執り行います。この洗礼式と聖餐式について教会は色々な受け止め方をもっています。ある教会は「今日、イエスを心に受け入れた方は洗礼を受けましょう」と洗礼をすぐその場でうながします。確かに聖霊のはたらきというのは私達の思いに限定されるものではありませんから、そのようなこともあり得ることかと思います。

聖餐式に関しても「洗礼を受けていない者であっても、その時に心にイエス様を迎え入れた者は聖餐にあずかりましょう」という教会もあります。霊の世界は見えるものではなく、確かにその時、その人の心が悔い改め、主を信じ受け入れているということもありますでしょう。

確かに「善は急げ」、すぐに洗礼、聖餐を受ければいいだろう。その方がその人の気持ちも満足するだろう。互いの関係にも支障がないだろう。その方も、その方のために祈ってきた者達の間にも喜びがあるでしょう。

しかしながら洗礼や聖餐を「今日、受けるのか」、それとも「次回にするのか」ということはそんなに大きな問題ではありません(もちろん余命、数時間の方を前にした場合は状況は異なります)。

一番、大切なことは洗礼や聖餐にあずかる私達が、まず神の御前に悔い改め、イエスの十字架を信じ、そして、そのイエスを心にお招きして、心の王座に座っていただいているかということです。

私達が日本語で言うところの「悔い改め」という言葉は、今日、お話ししました新約聖書の原語であるギリシア語では「メタノイア」と言われる言葉です。この言葉が意味することは「立ち返る、向きを変える」という意味です。

すなわち、私達が悔い改める時に、私達はそれまで神なく生き、ただ自分の願望だけで生きていた人生をあらため、そこから向きを変えて神と共に歩み始めることを意味しているのです。この自覚なくしてイエスを心にお迎えすることは難しいでしょう。

ヨハネ、イエス様、ペテロ、そしてパウロの「悔い改めよ」というメッセージを聴いた者達は、それまでの自分の人生の歩みを神に向き直して歩み始めたのです。そう、それはさかのぼること、あのアダムとエバが神を背にしてエデンの園を出ていったということによって象徴される、この世界に生きる全ての人間が神に立ち返るために唯一、不可欠なことなのです。

主にある皆さん、我々が神に背を向け、未解決の罪を内にもっている間、私達の心には何を持っても埋め合わせることができない闇があります。それはお金とか、自分の功績とか、善行によって埋め合わせることができるようなものではないのです。私達が神から離れている限り、私達はその闇を心から取り除くことはできないのです。

人間が同じ人間に向かって「悔い改めなさい」ということ、それは真にふてぶてしいことです。しかし、今日、お話ししてきましたことは、人が言っているのではない、それは神様の私達に対する大切なメッセージなのです。私達が神とかけ離れて生きているのなら、その神と共に生きるためのまず第一歩が「悔い改め」なのです。

キリストの復活後に「悔い改めなさい」と語ったペテロは後に書きましたペテロ第二の手紙の中でも再度、この悔い改めについて語っています。そう、その言葉は、人々が「主イエスの来臨の約束はどうなったのか。主はまだ来ないではないか」という問いかけに対してなされました。

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」(ペテロ第二の手紙3章9節)

主イエスは再びこの地に来ると言われました。しかし、その日はまだ来ていません。なぜですか?その日が昨日、また今日ではないということの理由がここには明確に書かれています。そう、それは神の前に私達がひとりも滅びることなく、全ての者が悔い改めに至ることを神が望んでおられるからなのです。皆さん、考えたことがありますか、そのことのために今日という一日があり、明日はそのためにやってくるということを。

かつて取税人や罪人達と食事を共にしていたイエス様に対してパリサイ人や律法学者が「この人は罪人達を迎えて一緒に食事をしている」と苦々しい言葉をつぶやいた時、イエス様は彼らに向かってなんと言いましたか。

「よく聞きなさい。罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。(ルカ15章7節)

主にある皆さん、もう「悔い改め」についてこれ以上、申し上げる必要はありませんでしょう。もしかしたら「悔い改め」は、これまで皆さんの心の端っこにあったことなのかもしれません。しかし、このことに対して、どれだけ神様が注目しておられるか、私達は今日、見てきました。私達はこのことの重大さを否定することはできないのです。

初代の教会は心が強く刺され、悔い改めた者達によって始まったのです。それはそのまま私達の教会も同じです。主の前にこれまでの自分の罪を悔い改め、それまでの生き方を転換し、共に主と共に歩む者達の集まり、それが私達の教会、サンディエゴ日本人教会です。

初代の教会はこのことをとても大切なこととしました。そして、神様はそのことを何よりも喜ばれました。そうです、我が子が心を改めて、自分のもとに帰ってきたのですから。このことゆえに神は教会を祝福し、教会は地の果てにまで広がっていったのです。主にある皆さん、私達もそれらの教会に連なるものなのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年8月4日

1)使徒行伝2章14節から41節を読みましょう。ここで「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」(37節)という問いに対してペテロは何と答えましたか?

 

2)ルカ15章11節―32節に記されている弟息子は放蕩に明け暮れた日々を送っていましたが、ある日、本心に立ち返り、ある決意をして家に帰ります(18節)。彼の決意の中には何が含まれていますか。

 

3)バプテスマのヨハネが荒野で伝えていたことは何でしたか(マタイ3章1節-2節)。これに対する人々の反応はどのようなものでしたか(5節-6節)

 

4)ヨハネより少し遅れて世に出てきたイエス・キリストが伝えたメッセージは何でしたか(マタイ4章12節-17節)。

 

5)ヨハネ黙示録3章18節-20節には私達がよく知る「イエス様が私達の心のドアを叩いている」ということが書かれています。ヨハネはその前に何を書き記していますか(19節)。

 

6)パウロがその伝道生涯において力を注いできたことは何ですか(使徒行伝20章21節)。

 

7)今日、私達が注目していることは神様は私達に「悔い改める」ことを強く望んでいらっしゃるということです。なぜですか。なぜ、このことをないがしろにしてはいけないのですか。

 

8)ペテロ第二の手紙3章9節を読みましょう。今日、まだ主の再臨がないということはなぜですか。神が忍耐して待っておられることは何ですか?

 

9)ルカ15章7節を読みましょう。私達が何をする時、天の御使い達の間で歓声があがりますか?

 

10)悔い改めはクリスチャンになる時だけ必要なものでしょうか。「悔い改め」はあなたの日常の中に取り込まれていますか。なぜ、このことは必要なのでしょうか。

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