こうして教会は(7):洗礼について

2000年前の初代教会が「悔い改め」と「洗礼」というメッセージに応答した人達によって始まり、形成されていったということ、そして、そのことは今日の私達の教会も何ら変わりがありません。そこで、今日はこの「洗礼」ということについてお話ししたく願っております。

意外に思われるかしれませんが、聖書はイエス・キリストが公生涯を始めるにあたり、バプテスマのヨハネに自分に洗礼を授けるようにと願い、ヨハネから洗礼を受けられたということが聖書には書かれています。

なぜ「意外」と申し上げたかと言いますと、先週、お話ししましたようにイエス様ご自身もヨハネも、またペテロも「悔い改めて、洗礼をうける」ことをメッセージとして勧めてきたのであり、そうなりますとイエス様にも「悔い改めること」、すなわち「罪」があったのかということになります・・・。

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こうして教会は(7):洗礼について
2019年8月11日

先週、私達は「悔い改め」ということについてみてまいりました。この地球で最初の教会が建て上げられていくにあたり、聖霊を受けたペテロは神の言葉を人々に語りました(使徒行伝2章14節-36節)。その言葉を聞いていた者達は強く心を刺され、ペテロに尋ねました。

人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」(使徒行伝2章37節)

この問いかけにペテロはこう答えました。

38「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。39この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(使徒行伝2章38節。39節)


そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった
(使徒行伝2章41節)

ペテロの「悔い改めよ」という勧めに、強く心を刺された者達は、その勧めの言葉の通りに悔い改め、そして「バプテスマ」を受けたのです。

2000年前の初代教会が「悔い改め」と「洗礼」というメッセージに応答した人達によって始まり、形成されていったということ、そして、そのことは今日の私達の教会も何ら変わりがありません。そこで、今日はこの「洗礼」ということについてお話ししたく願っております。

意外に思われるかしれませんが、聖書はイエス・キリストが公生涯を始めるにあたり、バプテスマのヨハネに自分に洗礼を授けるようにと願い、ヨハネから洗礼を受けられたということが聖書には書かれています。

なぜ「意外」と申し上げたかと言いますと、先週、お話ししましたようにイエス様ご自身もヨハネも、またペテロも「悔い改めて、洗礼をうける」ことをメッセージとして勧めてきたのであり、そうなりますとイエス様にも「悔い改めること」、すなわち「罪」があったのかということになります。

しかし当然、神の子なるイエス・キリストには罪がなく、それゆえに悔い改めも必要ありませんでした。しかし、それでもイエス様は洗礼を受けることを望まれたのです。なぜでしょうか。

このことをさらに知るためにはイエス・キリストの生涯に起きた他の二つのことも含めてみていく必要があります。

まずイエス・キリストの「誕生」ということです。そうです、クリスマスの出来事です。このイエス様の誕生を神学的な言葉で「受肉」と呼びます。神なるイエスが人の肉体をとられて生まれたということです。

この受肉にはどのような意味があるのでしょうか。そうです、誰しも人たる者、この世界に生まれてきました。神の子なるイエス・キリストもそれに従い、マリヤを通して生まれてきたのです。そして、その受肉にはイエス様が「人類と合体した」という意味があります。

こうして誕生したイエス様はユダヤ人の間でなされていた「割礼」を受けました。割礼とはさかのぼること、創世記17章9節-11節においてユダヤ人の祖先であるアブラハムに神が命じたことで、ユダヤ人男子が生まれた場合、誕生八日目に男性性器の皮を切ることにより、ユダヤ人としてのアイデンティティーをあらわすものでした。

この儀式に従い、イエス様は親であり、ユダヤ人であったヨセフとマリアの信仰によって割礼を受けました(ルカ2章21節)。

「受肉」によって人類と合体したイエス様は、この「割礼」により「ユダヤ民族と合体」したのです。私達のアイデンティテイが私達の民族性と結びついていますように、イエス・キリストのアイデンティーはユダヤ民族と結びついたのです。こうして、その存在はしっかりと人間の歴史の中に足跡を残すものとなりました。

「割礼」は今日でも男子が生まれると病院で親の同意に基づきなされるものです。おそらく、この国の病院に共通することではないかと思うのですが、今日、この国で子供が生まれると、その子はすぐに母親のベッドの横の保温機に寝かされて、ケアーを受けます。そして特別な理由がない限り、誕生後の子供が親のいる部屋から離れることはありません。

しかし、唯一、その部屋から離れることがあります。それは親の同意に基づいて男児が割礼を受ける時、子供は別室につれていかれて性器の皮にメスが入れられます。

私の二人の息子もそのように別室に連れていかれました。私は息子たちが別の部屋で大声で泣き叫んでいる声を聞いたのを今も覚えています。彼らの記憶にはないでしょうが、そりゃ、痛いでしょう。人生、最初の試練です(ちなみに今日、割礼の有無はキリスト教信仰とは何ら関係ありません)。

この割礼は今から4000年前に始まったのです。当時は石を削った小刀のようなものでその皮は切られたことでしょう。今のような衛生状態のいい時代ではありませんから、ある意味、命がけのことでした。

その命をかけた割礼によって当時は「我が子は全く神の所有なのだ」という信仰の告白がなされたのです。そうです、ユダヤ民族は神への全き服従として子に割礼をほどこしたのです。イエス様もこの割礼を受けることにより、その生涯を全く神により頼む者とし、自らをユダヤ民族に連なることをよしとしたのです。

そして、三つ目にイエス様が受けたこと、それが「洗礼」なのです。イエス様は公けにその宣教を始める前にバプテスマのヨハネからこのようにして洗礼を受けられました。

13そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。14ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。15しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。17また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3章13節-17節)

ここでヨハネは自らとイエス・キリストについてはっきりと一線を引いていたことが分かります。そうです、ヨハネにとりましてイエス様は全く別格のお方であり、その時、彼は神の子なるイエスが洗礼を受けるということに対して躊躇していました。

これらから分かることはイエス様の洗礼と私達の洗礼は同じではないということです。それではイエス様の洗礼とは何だったのでしょうか。

このところでイエス様は躊躇するヨハネに「全て正しいことを成就をすることはふさわしい」(15)と言われました。そう、その成就とは、この時からさかのぼること 750年も昔に、預言者イザが書き残した預言の成就でした。

『これは彼が死にいたるまで、自分の魂を注ぎだし、とが(罪)ある者と共に数えられたからである』(イザヤ53章12節)』

そうです、その時、イエス様は罪なきお方でありながら「罪人の一人として数えられること」を自らにふさわしいことして受け止められ、ヨハネから洗礼を受けることを良しとされたのです。

このことはすなわちこういうことです。イエス様にとりまして「受肉」が「人類との合体」であり、「割礼」が「ユダヤ民族との合体」であり、そして「洗礼」は「罪人である私達との合体」であったということです。

こう考えますとイエス・キリストの生涯が鮮明となります。そうです、まさしく神の子なるイエス・キリストの生涯は私達人間と同じ歩みであり、その生活と信仰をユダヤ民族の中に据えたものであり、そしてその公生涯において、その多くの時間を罪人と共に過ごすことに用いられました。

そして、罪人の一人として数えられたそのイエス様の公生涯は十字架によって終わります。そう、十字架とは処刑のことで、それは罪人に対してなされる極刑でありました。このイエスの十字架についてパウロはこう書いています。

20知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。21この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである』(コリント第一の手紙1章20節―21節)。

当時、ユダヤ人は「十字架にかかる者は神に呪われた者である」と考えており、それゆえに彼らは「その十字架によって我々が救われるというようなことは愚かさの極みだ」と考えていました。

そのことに対してパウロはイエス・キリストは人間の知恵と常識を超えた方法、すなわち我々が思う愚かさの極致である十字架に自らおかかりになることによって我々、人間を救おうとされたのだと語ったのです。

そして、ここに記されている『そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである』(21節)という「信じるものを救うこととされた」という「された」という言葉をパウロは新約聖書の原語であるギリシア語において裁判の最終決議が出される時に使われる専門用語を使っているです。

すなわち人々が愚かに思う方法、すなわち「神が十字架によって人間を救うことをよしとした」という決議は、イザヤよりはるか昔に父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神、すなわち三位一体の神があたかも「人をどのように救えばいいのだろうか」ということを議論するかのようにして導かれた最終決議なのだとパウロはここに書いたのです。

ですからイエス様が「罪人の一人として数えられて洗礼を受けた」ということも「罪人の一人として数えられて十字架にかかられた」ということも三位一体の神の意にかなうことであったのです。

これらの成就に踏まえて、この時のイエス様の洗礼にはもう一つの意味がありました。それはイエス様が洗礼を受けました時に天が開け、神の御霊が鳩のようにイエス様の上に下ってきて「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなうものである」という天からの声が聞こえてきたとあるように、このイエス様の洗礼は「メシアとしての就任式」であったということです。

これからイエス様は公生涯に入られ、宣教を始められる。その前に洗礼を受けた。その就任式には天からの神の声があり、そして洗礼を受けた瞬間に天からは聖霊が注がれることにより、その就任は三位一体の神の了承することが明らかになっているのです。

そして、驚くべきことに、その三位一体の神がイエスの洗礼に立ち会ったように、神は私達の洗礼にも立ち会ってくださるのです。

ですから今日、私達が洗礼を受ける時、すなわちいよいよ水の中に全身が浸る直言に牧師はなんと言いますか。「我、父と、子と、聖霊の御名により、汝にバプテスマを授ける」と言いますでしょう。

これは牧師が決めたことではないのです。それは主イエスご自身があたかも私が受けたように、あなたたちもバプテスマを受け、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」(マタイ28章19節)と命じられていることなのであり、私達はその命令に従っているのです。洗礼を授ける者も、洗礼を受ける者も、その時、三位一体の神が私達と共にいてくださるのです。

このような就任式によって始まりましたイエス様の公生涯は、この後のイエス・キリストがどのように人の間で生きたかということと全く合致しているのです。

これらのことをパウロは驚きと感動をもって書き残したのです。6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9[それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである』(ピリピ2章6節―11節)

ここにはイエス・キリストの受肉、割礼、そして洗礼が書かれています。この三つの道を従順に歩まれたお方であったがゆえに、神はこのイエス様を高く引き上げ、すべての名に勝る名を彼にお与えくださいました。

それはこの世の全ての者がこのお方の前に膝をかがえ、全ての被造物がイエス・キリストは主であると告白して、栄光を父なる神に帰するためなのです。

主にある皆さん、これがイエス・キリストが洗礼を受けた理由であり、またそのことゆえに私達がイエスの名のもとに洗礼を受けるということは私達にとりまして喜び以外のなにものでもないのです。

ましてや私達はイエスとは違い、神の前に明らかに罪人であるのですから、イエスの十字架を前に自分の罪を悔い改め、罪の赦しを受け、イエスにとりまして洗礼が就任式であったように、私達もその時、神の子とされたということを父なる神、子なる神、聖霊なる神、お立合いのもと、この全世界に宣言するのです。

このイエス様はこれまでお話ししてきました全てのことを成就したのち、すなわち誕生し、ユダヤ人として育ち、罪人を愛し、彼らに赦しを宣告し、最後に罪人の一人として数えられ十字架で殺され、そして聖書が記しているように復活し、天にかえられる直前、私達にこういう言葉を残したのです。

18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章18節-20節)

このイエスの言葉ゆえに私達の教会はこれからもイエス・キリストの権威のもと、全ての人にイエスに命じられているいっさいのことを守るようにと教え、彼らをキリストの弟子とし、父と子と聖霊との名によって彼らにバプテスマを授け続けていくのです。

私達はこのミッションを神から委ねられている者であり、またそのミッションは私達だけで成し遂げられるものではないのです。ですからイエス・キリストは世の終わりまで、いつも私達と共にいてくださるのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年8月11日

1)なぜ「悔い改め」と「バプテスマ」は二つで一つなのですか。

 

2)悔い改めに続く洗礼であるのなら、イエス様にも罪があったのでしょうか。なぜイエス様は自らも洗礼を受けることを望まれたのでしょうか。

 

3)マタイ3章13節-17節を読みましょう。ここからイエス様の洗礼と私達の洗礼のどんな違いを読み解くことができますか。

 

4)なぜイエス様が洗礼を受けることにより、それをメシアの任職式としたのでしょうか。その時、どなたがそこに臨まれていましたか(ヒント:マタイ28章19節)。

 

5)ピリピ2章6節―11節を読みましょう。今日、お話ししましたイエス様の「誕生:人類との合体」、「割礼:ユダヤ民族との合体」、「洗礼:罪人との合体」がここにどのように記されていますか。

 

6)マタイ28章18節-20節を読みましょう。イエス様は天に戻る時にこのように言い残しました。ここから私達がすべきことは何だと分かりますか。

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