こうして教会は(8)主にある交わりから得るもの

「心の貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」(マタイ5章3節)

「心のきよい人たちはさいわいである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5章8節)

わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」マタイ12章10節)

死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか」(1コリント15章55節)

このような私達の常識では理解できない聖書の言葉は机上で思索して知り得るものではないと思うのですが、いかがでしょうか・・・。

それではどうしたらこれらの言葉の真意を知ることができるのでしょう・・・。

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こうして教会は(8)主にある交わりから得るもの

2019年8月18日

先週の礼拝では「洗礼について」お話しさせていただきました。初めの教会が建て上げられていくにあたり、聖霊を受けたペテロは神の言葉を人々に語りました(使徒行伝2章14節-36節)。その言葉を聞いた者達はペテロにこう尋ねました。

「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」(使徒行伝2章37節)

この問いかけにペテロは答えました。

「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒行伝2章38節)。

そして、この「彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった」(使徒行伝2章41節)と使徒行伝は記しています。

さあ、この人達を核にして初代の教会が建てあげられていきました。はたしてその彼らは最初に何をしていたのでしょうか。彼らの姿がこのように記されています。

42そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。43みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。44信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、45資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである』(使徒行伝2章42節-47節)。

私達がこの箇所を読む時に、彼らがしていたことは私達にとりまして真新しいことではなかったことが分かります。そう、彼らは互いの交わりを絶やすことなくもっていました。

これから、この箇所から具体的に彼らが何をしていたかということを見ていきたいと思いますが、その前に今日はこれら「主の交わりから私達が得るもの」についてお話ししたいと願っています。

皆さんは思われるかもしれません。本来、信仰をもつということは極めて個人的なことだと。なぜなら信仰の決断とはあの人、この人の顔色をうかがってなされるものではなく、それは神様と自分との関係においてなされるものだからです。

しかし、この使徒行伝に記されている初代の教会の姿には明らかに人と人との交わりがあり、そして彼らはその中で養われ、育まれていったことが分かります。

ここで私達は考えます。それは人と関わるということは確かに私達の人生に最高の喜びと生きがいを与えてくれるものであると同時に、その関係は同時に私達にチャレンジをもたらすものでもあるということです。

このようなことはあえて言わずとも誰でも知っていることであり、またそれは実際にこの初代教会から始まったキリストの教会が各地に生まれ、成長していく時に彼らが必ず直面したことでした。

この時、教会開拓の最前線にいましたパウロは各地の教会に宛てた手紙をたくさん書き残していますが、その多くは教会の中にある問題に関することでした。言うまでもない、その問題は教会にねずみがいて困るとか、雨漏りを何とか修繕しようというような問題ではなく、全てが人に関わることだったのです。

その中の一つ、パウロが書いた「エペソ人への手紙」を今日は見ていきたいと思います。このエペソ人への手紙はローマにおいて投獄されていたパウロによって書かれたものであり、その名のごとくエペソにある教会の兄弟姉妹に宛てて書かれた手紙であると同時に、アジア地域にある教会において回覧された手紙であるといわれています。

その中にこのような言葉があります。そのから見ていきたく願っています。少し長いのですが、読んでみましょう。

1こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロ―2わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務について、あなたがたはたしかに聞いたであろう。3すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。4あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。5この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。6それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。7わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。8すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、9更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。10それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、11わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。12この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。13だから、あなたがたのためにわたしが受けている患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのである。14こういうわけで、わたしはひざをかがめて、15天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。16どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、17また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、18すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、19また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。20どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、21教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。(エペソ人への手紙の3章1節-21節)

パウロはここで、これから話すことは私が神から賜った「奥義」(3節、4節)なのだと言い、これまで神は主にユダヤ人との関わりの中でそのご計画を導いてこられたが、これからはユダヤ人以外の全ての者達、すなわち異邦人と共に我々は神の国を継ぐ者となり、共に神の約束にあずかるのだというのです。彼はそのことを神の啓示によって知ったというのです。

これは私達にとりましては大きな事とは思えませんが、神との関係を数千年来、続けてきましたユダヤ人にとりまして、このことは大きな変化でありました。なぜなら、このことは自分達とは全く異なる慣習や信仰をもった異邦人と共に神の国を継いでいくということだからです。それは多くの可能性と祝福が伴うものであると当時に、様々な人間的な試みを受けることでもあり、パウロはこの手紙を書くことにより、それらにこれから向き合っていく諸教会を励ましているのです。

そのような新しい始まりに対して、パウロはこれから自分はキリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すこと(8節後半、9節)に生涯を捧げていくのだというのです。

そして、そうすることの目的、「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである」(10節、11節)というのです。

パウロはかつて教会を荒らしまわっては、キリスト教徒を捕らえて獄屋にぶちこむことに使命と生きがいを感じていました。その彼が劇的な回心をし、今やユダヤ人、異邦人が隔たりなく集う教会を通して我々は神の中に世々隠されている奥義にあずかるのだ、神の多種多様な知恵を知るに至るのだ、そして、それは我々の主イエス・キリストにあって実現された神の永遠の目的に沿うものだというのです。

「聖書の教えはいいが、教会には馴染めない」と言われる方がいるかもしれません。「教会には行かずに、個人的に日夜、聖書を研究しています」という方がいるかもしれません。人との関係をもたないことが効率的に思われ、気を遣うこともなく、気楽でいいという方がいるかもしれません。

また今の時代は多くの教会が礼拝をインターネットで生放映しています。実際に私達の教会でもこの礼拝を生放送していますから、この礼拝はインターネットにさえつながれば、今、モンゴルでもエチオピアでも見ることができます。ですからもはや教会には行かずにいつも家でくつろぎながら礼拝を見ていればいいだろうと思われる方がいるかもしれません。

しかし、ここで皆さんにしっかりとご理解いただきたいことは、私共は皆さんがこれから教会に来ずとも各自、家庭で礼拝を捧げればいいですよというような、皆さんの便宜のためにこの放送をしているということではないということです。この放送は病気やしかるべき理由でやむをえず教会に来れない人のためにしているものなのです。

なぜこのようなことを言うかといいますと、教会に来て礼拝を捧げるということ、そして、その教会で多種多様なバックグラウンドを持っている方々と交わりをもつということが私達に何をもたらすかということが、このエペソ書にはっきりと書かれているからです。

すなわち、もう一度申し上げますが、私達が教会に来る理由は「神の中に世々隠されていた奥義にあずかる」(8節、9節)ためであり、また「教会を通して、神の多種多様な知恵を知るに至るためであり」(10節)、さらには「信仰によって、キリストが皆さんの心のうちに住み、皆さんが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって満たされるため」(17節―19節)なのです。

聖書はこれらのことは個人的な聖書研究や、人と関わることのない信仰生活では得ることのできないものなのだとここに書いているのです。

イエス・キリストが天に戻られる前とその後の最も大きな違いは、イエス様が天に戻られた後に、この世界にはお話ししておりますように「教会」というものが生まれてきたということです。そして、当時、このような「新しいもの」についてパウロは獄の中で祈り、黙想していたのでしょう。

その時点で彼は既に、教会の開拓と形成に注ぎこんでいました。獄に投じられているのもその理由によったのです。しかし、その彼の教会開拓は始まったばかりで、自分が今、していることにはどんな意味があるのだろうかと祈りの中で神に問い続けていたのでしょう。そのような中で彼は神からの啓示(3節)を受け、それをこの手紙に書き記したのです。そう、ここで今、お話ししていることは神の御心なのです。

すなわち、私達がここでしかと受け止めなければならないことは、このことは単なるパウロのひらめきや熟慮によるものではなく、このことは「主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものなのだ」(11節)ということなのです。
その神の永遠の目的にそうものとして、私達のサンディエゴ日本人教会は今、ここにあり、ここで私達は祈り、聖書に学び、そして兄弟姉妹との交わりをもっているのです。

これらの準備をしていながら、私は色々なことを考えさせられました。私は牧師ですから聖書を専門的に学び続けなければなりません。これは不可欠なことです。そして、その学んだことを皆さんに余すところなく伝えなければならない。そうすることにより私も目が開かれ、養われてきました。それはこれからもそうでありましょう。

しかし、私自身を思う時に、私の内に何か肉となっているものがあるとするのなら、それは聖書から学んだことだけではないということです。この教会において主にある兄弟姉妹と共に過ごしたこと、そのことが私を養ってくれているのです。

今の時代、私達は一人で聖書研究をすることはできます。そのツールはいくらでも手にはいります。そのことにより聖書に関する知識を得ることができ、聖書に詳しい人になることはできますでしょう。しかし、聖書の本来の目的は聖書に詳しくなるということではないのです。

聖書は私達の頭を養うものではないのです。その聖書の言葉と共に人間と関わることによって、私達ははじめて神の奥義に目が開かれていくのです。

この教会で主にある兄弟姉妹との交わりを通して、こんなことを思うことがあります「今、学んだ聖書の言葉を、今、目の前でこのように実践しようとしている人がいる。私もこの人のようになりたいなー」。

またこんなことを思う時もあります「あぁ、人はこうして信仰を離れていくのだな。こういう思いには注意しないといけないな」。

このようなことに私達は日々、向かいながら、そのことを聖書に照らし合わせ、祈りの中で、私達は神の多種多様な知恵に目が開かれていくのです。

また教会には身体的な弱さを抱えている方達がおりますし、心の傷が癒しきれていない方達も当然います。私達はこのような方達の中に注がれている神だけが成せるみわざを見せていただくことができます。

「心の貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」(マタイ5章3節)とか「心のきよい人たちはさいわいである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5章8節)とか「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(マタイ12章10節)というような言葉、さらには「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか」(1コリント15章55節)というような我々の常識では理解ができない聖書の言葉は、机の上で哲学的に思索して自分のものとするのではないのです。

そのようにしてこれらの御言葉は会得できないのです。これらの言葉は人との関わりの中で私達が神様から教えていただくものなのです。私達はこれまで何度、兄弟姉妹の背中からこれらの御言葉の意味する深さと広さを教えていただいたことでしょうか。

今日の世界のキリスト教の力強いはたらきというものを考えます時に、かつては古い歴史をもったヨーロッパ周辺諸国がその中心にありましたが、今はアジアやアフリカ諸国に移ったといわれています。ヨーロッパにおいて毎週、教会の礼拝に出席している人の数は激減しています。

その中でかろうじてこの若い国、アメリカはかつてほどの様はありませんが、今も目に見える教会のはたらきがあり、そのような意味においては欧米諸国の中で最後の牙城ともいえる国なのかもしれません。

この国では、どの町に行っても教会があり、おそらく皆さんの住むコミュニティーにも複数のキリスト教会があるでしょう。このような恵まれた環境ですから、クリスチャンで新しい土地に引っ越した人はまず、その地域の教会をウィンドーショッピングするかのように一通りまわって、自分にとって一番、合う教会を探します。そうです、そこにはいくつものオプションがあり、チョイスがあるのです。

これはとても恵まれている環境です。しかし、この恵まれた環境は、ある教会で何か気にいらないこと、面倒くさく思われることがあると、その教会を離れて、次の教会に向かう。またそこで不都合なことがあると次のところに移って行く、中にはそんなことを繰り返して、あちこち一巡して、またここに戻ってきましたというようなことを起こしていきます。

「やめたほうがいいですよ」とは言いません。しかし、私は「もったいないなー」と思うのです。神様は教会を通して、そこで語られる聖書の言葉とそこにいる兄弟姉妹を通して、多種多様な神の知恵を私達に教えようとしてくださっています。私達の心は「聖書の言葉」と「人との関わり」の中で、「神の光に照らされて」私達の前に明らかになるのに、それが明らかになる前にその機会を自ら逃してしまっている・・・。

教会は自分の心が探られる場です。愛について学んでおりながら、兄弟姉妹との関わりの中で、主は私達のうちに愛がないことに気がつかせてくださいます。

それは周りにちらつくあの人この人への思い煩いから始まり、あなたはどうなのだという自分自身の心が明るみにされるようなことであり、自らに失望するような経験かもしれません。しかし、そのようなところからしか、私達はキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さというものを本当に知ることはできないのです。

私達の子が生まれる前、私達は思い描きます。こんなクリブを置いて、こんなかわいい服を着せて、いつも子供は私に微笑みかえてくれて・・・。しかし、現実は全く違う。悲しいほど違う。きれいに整えたクリブはすぐに汚れ、そもそもそのクリブで子供は寝ず、夜通し泣き続ける。いつも私に微笑みかけてくれる可愛いわが子を思い描いていたけれど、それどころではない、夜通し泣き続ける子供に疲労困憊する、イノセントな子供を怒鳴りつけてしまう衝動にかられる、そのようなところまでいってはじめて、私達は親とは何なのだろうか、人とは何なのだろうか、神の愛は何なのだろうかということを知るのです。育児書を何十冊、熟読してもこれらのことは分からないのです。

箴言を書いたソロモンは実に含蓄に富んだ言葉を残しました。「牛がいなければ飼い葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」(新改訳聖書:箴言14章4節)

牛がいない飼い葉おけはきれいです。そこでは床に頬ずりすることも、横になることもできるでしょう。しかし、そこには何の収穫もない。牛がいてこそ、そこから何かが生まれる。そして、当然生きている牛がいるということはその場所は汚れます。そもそも「生きる」ということはそういうことでありましょう。牛がいないきれいな牧舎で牛について専門書を読んで得られるものとはなんですか。

私達は牛がいるからこそ収穫を得るのです。同じように私達の教会に人と人との関係がなければ、問題は何も起こらないでしょう。しかし、同時にそこには何の収穫もありません。

神様は人を通して、神の御心を私達に教えてくださいます。気がつかせてくださいます。時にそれは私達の目にとても非効率なことに思われます。しかし、神はそれを良しとされている。そもそも、神がこのことを良しとされている証拠はどこにあるのでしょうか。

イエス・キリストの生涯に全て表されているではありませんか。神の子が赤子として生まれ、人として成長していく過程に年月をかけたこと、一人一人の人間の話を聞き、神の言葉を彼らに伝え、しかし、最後には彼らの自由意思にイエス様は委ねたのです。

神の全能について考えるのなら、これらのことをを非効率と呼ばず何と呼びますか。神であるのなら、これら一切のものを全てスキップして目指すべき目的に一気に着地することもできたでしょう。しかし、神はその道を選ばず、私達にもイエスと同じ生涯を送るように願われています。

パウロは今日、お話ししました神の啓示を受け、自分の心の中に一つの覚悟をもったようです。彼はコロサイ書の中にその彼の気持ちを書き残しています。

「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」(コロサイ1章24節)

なぜにパウロはそれまでして教会に全てを注いだのでしょうか。彼は神によって教会というものがどういうものなのかということに心底、気がつかされたからです。

彼は同じ目標をもって歩んでいる同労者に語りかけます。「どうかあなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」(使徒行伝20章28節)

 教会は神が御子の血であがないとられた神の教会なのです。どうして私達はその教会をないがしろにして、己が信仰生涯を全うすることができましょうか。教会をさけて通って、どうしてこの神の愛を知ることができましょうか。

10それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、11わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。

この言葉を受け止め、そこから無尽蔵の神の富を受け取ることができる人は何とさいわいなことでしょうか。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2019年8月18日

1)使徒行伝2章42節-47節を読みましょう。ここに初代教会の姿があります。この中に何か特別なことがありますか。私達の教会ではここに記されていることを具体的にどうしていますか。

 

2)エペソ人への手紙の3章1節-21節を読みましょう。パウロはここに記されていることをどのように会得しましたか。これらはパウロの経験や学びによって生まれたことですか。

 

3)パウロが生涯をかけて取り組んでいくことは何だとここに書かれていますか(8節後半、9節)。このことの目的は何ですか(10節、11節)

 

4)10節、11節において私達は何を通して神の多種多様な知恵を知ることが出来ると書いていますか。これは具体的にはどういうことですか。

 

5)マタイ5章3節、8節、12章10節、1コリント15章55節のようなことは私達が机の上で思索することによって知ることができることですか。何をとおして、これらの御言葉の真意を知ることができますか。

 

6)「牛がいなければ飼い葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」(新改訳聖書:箴言14章4節)という御言葉がありますが、これは真実ですか。この御言葉は何を私達に語りかけているのでしょうか。

7)使徒行伝20章28節には「神が御子の血であがない取られた神の教会」という言葉があります。私達が集う教会はどんなものだと聖書は言っていますか。この言葉は私達の教会に対する思いを変えますか?

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