この御恩を決して忘れてはならない。

十字架に磔にされるという痛みは到底、人間が耐えられる類の痛みではなく、実際にこの時のような痛みを表現する言葉が英語にはなかったために、Excruciatingという新しい単語が英語では作られたのです。これは極限の肉体の痛みを言い表す言葉で「耐え難い・極度の・猛烈な」という意味があります。この言葉の中には「十字架にかける」というCrucifyという言葉が含まれていることにお気づきでしょうか。

 

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この御恩を決して忘れてはならない。

2019年4月14日

今週から受難週となります。来週のイースターに向けて、イエス様が十字架への道のりを歩まれた一週間です。「落穂」にその一週間について聖書が記述していることが書かれていますので、黙想と共にこの一週間をお過ごしください。

そのイエス様が十字架の上で七つの言葉を語られました。その七つの言葉に対してこの金曜日の晩、七人の兄弟姉妹がシェアーをしてくださいます。こちらの集会にもどうぞお越しください。

今日はその七つの言葉のうちの一つ、「わたしは、かわく」という短い一言の言葉を見ていきたいと思います。

『28そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは聖書が全うされるためであった。29そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々はこのぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した』(ヨハネ19章28節-29節)

イエス・キリストというお方について2000年来、色々なことが言われ、様々なことが書き留められてきました。その中にはイエスはマグダラのマリヤの間に子をもうけていたというようなものがあれば、イエスの墓は青森にあるなんていうものまであります(言うまでもなくこれらのことはありえない話で、話題になることなく消え去りました)。

そして、この十字架につきましてもイエスは実際には死んでいなかったのだということを言う学者や小説家がいます。すなわちイエスは一時的に気絶をしていたというような類の話です。

このようなことに対して司法関係を専門として、シカゴ・トリビューンュの記者として活躍したリー・ストロベル(Lee Strobel)というアメリカ人のジャーナリストがおります。

彼は『ナザレのイエスは神の子か?』(いのちのことば社 The Case for Christ)というベストセラーを書き、その職業柄、先入観や感情に流されないように注意しながら、イエス・キリストに起きたことについて、その分野の専門家にインタビューをしています。

それでは十字架に磔にされましたイエス・キリストの死について最も客観的な検証をすることができる専門家とはどんな人なのでしょうか。

ストロベルはまず法医学者として、それまで二万件の検死解剖を行って、多くの事件の真相を探り出してきたロバート・J・ステインという博士と、アレクサンダー・メテルという国の医学機関においても働きをなし、メディカルスクールでも教授を勤めた医学博士から、医学的、科学的所見から十字架刑について話を聞いたのです。

聖書はイエス様が十字架にかけられる前後について記録しております。その内容、ことにイエス様の肉体の様についての記録には限りがありますが、ところどころにイエス・キリストはどのように死んでいったのかということが書かれており、その一つとしてイエス様は十字架にかかる前に鞭打ちを受けたということが記録されています。

「Passion of Christ」という映画を観た方はきっと、あのむごたらしい直視できない鞭打ちのシーンを思いおこしますでしょう。屈強なローマ兵が力いっぱい、イエスの背中に向かい、激しく鞭をうちます。当時、その鞭の先には肉体を引き裂くことができるように鉛や動物の骨がつけられていたといいます。

その時、イエス様は力一杯に振り落とされたムチにより深い傷を負いました。何度も動物の骨がイエス様の背中の皮や肉を引き裂き、その外傷は骨にまで達するようなものであったことでしょう。この映画はそのむごたらしさゆえに、子供が観るためには親の指導、助言が必要という制約をつけています。

イエス様が体で受け止めた鞭打ちの痛みは想像を絶するものであったでしょう。ずたずたに引き裂かれた背中の皮は避け、肉も割け、骨が砕かれ、血が流れたことでしょう。

エウセビオスという三世紀の歴史家は、この鞭打ちの様子を「鞭打たれた者の血管がむき出しになり、筋肉、腱、内臓までが飛び出ている」と表現しています。ゆえに十字架にかかる前にこのむち打ちで死んでしまう人もたくさんいたといいます。

先のメテル医師によりますと肉体にこのような傷を負いますと、私達の体内にはこのようなことが起こるといます。

すなわち、1)血液量減少性ショックで大量の血液が失われ、心臓の活動が早まり、血圧が下がり気を失います。そして、2)大量に失われた血液のために、熱が生じ、喉が異常に渇くというのです。

イエス様はこの鞭打ちの後に自らがかかる十字架を背負い、カルバリの丘に向かいます。このようなことからイエス様が屈強な肉体を持っていたことがうかがい知れます。しかし、その途中で、十字架を負うことが出来なくなります。申し上げましたような症状がその肉体で起きていたからです。

そうです、既にイエス様の体からは大量の出血があり、意識も遠のいていったことでしょう。ゆえにその十字架はその場におりましたクレネ人のシモンという人がイエスに代わって背負ったと聖書は記録しています。

そして、カルバリの丘においてイエス様は十字架の上に寝かされ、およそ13センチから18センチの長さの釘がその手首に打ち込まれます。当時、十字架刑において釘が打たれる部位というのは手首と足の甲で、手首に関していえば、そこは正中神経(Median Nerve)という手の神経の中では最も太い神経がある場所です。

そこに釘が打たれる時に私達はどんな痛みを感じるかということについて先のメテル医師は「それは私達の神経がペンチでひねりつぶされるような痛みです」と答えています。

時々、私達の指先に小さな刺が刺さることがあります。私の場合、そのような刺が指先に刺さりますと、まず裁縫針を火で焼いて消毒し、指に突き刺しつつ、それを取り出そうとします。その痛いこと、私の額からは脂汗がポタポタと落ちます。数ミリの小さな刺を抜くことでも私達には困難なのです。

十字架に磔にされるという痛みは到底、人間が耐えられる類の痛みではなく、実際にこの時のような痛みを表現する言葉が英語にはなかったために、Excruciatingという新しい単語が英語では作られたのです。これは極限の肉体の痛みを言い表す言葉で「耐え難い・極度の・猛烈な」という意味があります。この言葉の中には「十字架にかける」というCrucifyという言葉が含まれていることにお気づきでしょうか。

さらにメテル医師によりますと、人が十字架にかけられると、腕が15センチほど左右に伸び、それから両肩が脱臼するといいます。既に血液量減少性ショック状態にあるイエスの心拍数は死を迎える前に異常に上がっていて心機能不全を起こしていたと考えられます。

この結果、心臓の周りには心外膜液という液体が、そして肺には胸水という液体が集まり、このことは医学的には出血多量によるショック状態を意味し、この後には心肺停止が現代の医学では予見されるというのです。

ヨハネはイエスが本当に死んだのかを確認するためにひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た』(ヨハネ19章34節)と記していますが、このところで血と水が出たということは、まさしく今、申し上げたようなことがイエス様の体内で起きていたことを証明するものであります。まさしくメテル医師が言った予見がそのままイエス様の肉体に起きていきました。

これまでイエスの復活を疑う者達はイエスは実際は死んではいないのだということを主張してきましたが、ストロベルがインタビューしました複数の医師達が証言することは、この状態で気絶していたイエスが後に気絶から覚めたということはおよそ考えられないということでした。

仮にもし百歩譲ってイエスの息が吹き返したとしても、現代ならその体はICUにおいて完全にケアーされなければ生きながらえないような重症で、この数日あとに弟子達と共に歩いたり、食事を共にすることなどは絶対に不可能であったということは言うまでもありません。

ここまでお話してきまして、この状態の中、なぜイエス様が「わたしはかわく」と言われたことがお分かりになられたと思います。その一言はまさしくイエス様の肉体が必然的に求める叫びでありました。体がずたずたに引き裂かれ、血液を大量に失われた者達は皆、この言葉を発するのです。

マタイ27章34節にはこのようなことが記録されています彼らは苦味を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった』。この文章の前後を見ますと、この時はまだイエス様が十字架に磔になる前の時であったようです。

すなわち、その場にいた兵卒が体中がずたずたに裂かれているイエス様を見て、あわれに思ったのでしょう、苦味を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたのです。この苦味を混ぜたブドウ酒には痛みを鎮める作用があったからです。

しかし、イエス様はそれを飲まなかったのです。先ほどお話しましたようにむち打ちを受けたイエス様の肉体からは既に大量の血液が失われており、激しい渇きがあったはずです。その渇きはまさしく限界に近いものでした。

私達ならどうですか、できるだけそのブドウ酒を体内に取り込もうとはしませんでしょうか。しかし、イエス様は口にされませんでした。なぜならイエス様は自分が背負っている痛みを鎮めることをよしとせずに、その痛みを全て一身に負われることを覚悟していたからです。なぜ、そこまでしてイエス様はその痛みを受け止めたのでしょうか。

主にある皆さん、私たちはこのことを覚えなければなりません。聖書はこのイエス様の絶え難き渇きは、私達のためであったというのです。

もしイエス様がこの「われは渇く」という苦痛を忍ばれなかったら、ルカ16章に記されていますように、死んで黄泉に落ちたあの富める人と同じように私達が火炎の中から声をあげて『24わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』(ルカ16章24節)と叫び、懇願しなければならなかったのです。

そうです、イエス・キリストは私達の罪の身代わりとなり、私達の罰を全てその身に負われ、神の裁きを受けられました。そのためにExcruciatingという耐えがたい、極度の痛みを身に負いその肉が裂かれたのです。実にその渇きも痛みも差し引くことなく全て受けられ、イエス様は私達のために死なれたのです。

そして、このキリストの十字架はその時にたまたま起きたことではなくて、それは聖書の一番最初から暗示されていたことでした。なぜなら、聖書は一貫して「血」というものを人の罪が赦されるものとして欠かせないものとしているからです。

創世記に記されている最初の夫婦、アダムとエバの長男カインは、その弟アベルを殺します。その時にアベルの血が流されました。そのことについて神はカインに語りかけます。『あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます』(創世記4章10節-12節)。

ここで神様はアベルが土の中から叫んでいるとは言いませんでした。彼の血が土の中から叫んでいると言ったのです。これはすなわち、弟自身が叫んでいるということです。そう、皆さん、よくお心にお刻み下さい。私達の血はイコール私達自身だと聖書は言うのです。

旧約聖書、レビ記が記しているとおりです。『肉の命は血にあるからである』(レビ17章11節)。『すべて肉の命は、その血と一つだからである』(レビ17章14節)

よく言われることですが、皆さんの体内にある血管、毛細血管まで含めますとそれらの長さは地球七周分あると言われています。嘘だろうと思いますでしょう。私も信じられません。その長さの血管が私達のこの小さな体に詰まっているということは、この血管が体中に張り巡らされているということであり、すなわちそれは私達の体は血で満ちているということです。その証拠に私達の体は爪と神の毛を除いて、どこを切っても血が流れますでしょう。

だからあの歌を言いますでしょう「手のひらを太陽にすかしてみれば、真っ赤に流れる僕の血潮」。そう、私達、イコール血なのです。今日、この血の検査により、私達の肉体の状態が事細かに分かりますし、刑事事件ではしばしばこの血によって、私達の身元も判明させるのです。まさしく、私達の体、イコール血、ということは血は私達の命、否、私達そのものなのです。

「罪」と言ったって「そんなのはたいしたことないだろう」と思われる方がいるかもしれません。いいえ、人の罪が赦されるためには、命の代わりとして、命が求められているのです。旧約聖書の時代はそのために動物の血が流されたのです。

このように動物の命が私達の罪の身代わりとなり、その血により私達の罪が赦されることを聖書は「贖い」と言います。そうです、それは命という代価が支払われて、私達の命が買い戻されたということです。

当時はこのようなことが成されていましたから、エルサレム神殿の周りはまさしく人の罪の身代わりとして流された動物たちの血生臭い、あの独特な錆びた鉄のような匂いで満ちていたことでしょう。

この旧約時代から続くおびただしい量の血の匂いを知らずして、イエス・キリストが私達のために流された十字架の上での血の本当の意味は分かりません。

イエスの弟子であったペテロもこの先祖伝来、伝わってきた生き方に対してイエス・キリストがなしてくださったことを大胆に証言しているではありませんか。『ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、

傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです』 (Ⅰペテロの手紙1:18,19)。

へブル書はあのアベルの名を取り上げて力強く書いているではありませんか!新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である(ヘブル12章24節) アベルの血よりも力強くイエスの血は力強く今も、私達に罪からの赦しを語りかけているのです・・・!

・・・この十字架におかかりになる二日前、イエス様はエルサレムから6マイルほど離れたベタニヤにおりました。。そこに一人の女がやってきて非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏の壺を壊し、イエスの頭に香油を注ぎかけました(マルコ 14章3節)。

そうしましたらそれを見ていた者達が互いに憤っていったのです。「なんのためにこの香油をこんなに無駄にするのか。なぜこの香油を300デナリに売って、貧しい人達に施さなかったのか」(マルコ14章4節)

この言葉に対してイエス様はこう言われました「この女はわたしにできる限りのことをしたのだ。すなわち、わたしの体に油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである」(マルコ14章8節)

この女はその霊的な洞察力からイエス様の死が近いということを感じ取っていたのではないかと思われます。そして、いよいよその日が間近だということを感じ取り、自分が最も大切にしていた香油をすべてイエス様のために使ったのです。

この14章には「それを300デナリ以上で売ればいいのに」というような人々の発言があります。300デナリは当時の一人の人間の年収に値するものでした。女性の場合、その香油は結婚の資金のために人生をかけて貯めてきたものでした。

彼女はそんな高価な香油を一滴、二滴、イエス様に降りかけたのではなく、それを惜しみなくイエス様の頭に注いだのです。人々はその光景を見て言ったのです。「なんと無駄なことをするのか!」言い換えればこういうことです。「あー、この女はなんともったいことをしたのだ!」。

皆さん、もし私達がその場所に居合わせたらどう思ったでしょうか。おそらく私達もこの人達と同じことを考え、口に出したに違いありません。そうです、この思いはクリスチャンになった今でも、私達の心にあるものなのです。私達は思うことがありませんか。「あぁー、この時間を主のために用いるのは何ともったいないことだ!」「あぁー、この汗を主のために用いるのは何ともったいないことだ!」

確かに当時のナルドの香油はとても高価なものでした。しかし、イエス様が私達のために流されたものは香油ではありません。イエス・キリストが私達のために流されたものはその血なのです。血、すなわちその命、イエス・キリストは私達のためにその命を手放してくださったのです。

主は私達のために一時間の時を割いてくれたのではありません。その人生の持ち時間を全て私達にくださったのです。主が流されたものは数時間の汗ではありません。主は私達のためにその血を流し尽してくださったのです。

このことは私達の健康を害しても、家族との関係を壊しても、主の御愛にお応えするというよにと私達に迫るものではありません。それは私達を愛してくださっている神の御心ではありません。

香油を捧げた女に対してイエス様は「この女はわたしにできる限りのことをしたのだ」(マルコ14章8節)とお語りになりました。そうです、このことはこの女が心に迫られてなした彼女のできる限りのことだったのです。

私達も各々の置かれている場所で、この主の御恩を決して忘れることなく、私達一人一人に語りかけられる主の言葉に耳を傾けてまいりましょう。私達ができる最善をもって、主のご愛にお応えしてまいりましょう。その時の私達の心の動機は、私達に対して注がれた身に余る主の御愛に対する私達の感謝の応答なのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2018年4月1日

1)もしイエス・キリストの復活がなければ、キリスト教はどうなっていたと思いますか。

 

2)聖書の中には私達の理解できないこと、つまづいてしまうようなことが書かれています。モーセとバプテスマのヨハネの最期についてあなたは何を思いますか。

 

3)あなたは理不尽な出来事に直面したことがありますか。そのことと信仰をどう結びつけていますか。

 

4)『これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした』(ヘブル11章13節)という言葉は私達に何を語りかけますか。

  

5)『わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかし、その時には、顔と顔とを合わせて見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかし、その時には私が完全に知られているように、完全に知るであろう』(コリント人への第一の手紙13章12節)という言葉は私達に何を約束していますか。

 

6)あなたが自分の人生に起きるすべての事を理解し、帳尻を合わすことは可能ですか。神が帳尻を合わしてくださるということはどういうことですか。

 

7)イースターはあなたにとってどんな意味がありますか?

 

8)これらのことを踏まえて、あらためて「信仰」とは何ですか?

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