こんな者が何になりましょう

誰しも得手不得手があるものです。それは嘆くことではなく、謙遜に受け止めるべきことです。私は音楽を聴くことは大好きなのですが、楽譜を読んだり、楽器を奏でることはからきっしだめなのです。

5、6歳の頃、母は私にエレクトーンを習わせました。ですから、今でもあの時に習った「ちょうちょ」だけは弾けます。問題は当時の私のヒーローは仮面ライダーであり、仮面ライダーのベルトを腰に巻いて野山で遊ぶことのほうが圧倒的にエレクトーンの鍵盤に向き合うよりも私には魅力的であり、私はエレクトーンに背を向けたのです・・・。

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「こんな者が何になりましょう」
2020年5月17日

私達は礼拝メッセージで出エジプト記からモーセの生涯に心を向けています。彼はエジプトの元王子、王子といっても、彼はエジプト人ではなく、ヘブル人であり、いつも召使いに囲まれて、世界最高の教育を受け、何不自由なく暮らしていました。

しかし、ある時、自分の同胞ヘブル人がエジプト人に打たれているのを見、内から熱い思いがわいてき、そのエジプト人を殺してしまいます。それを知ったエジプトの王パロは怒り、モーセは怖れ、エジプトから逃がれます。

行き着いた場所は何もない荒野。そこで彼はチッポラという女性に会い、彼女は彼の妻となり、家庭を築き、それから40年もの間、彼は荒野で暮らします。

荒野には何もありません。あるものは灼熱の太陽、乾燥しきった土地、一日の仕事は羊の世話。そんな日々が40年。

こうして、そろそろ一線を退き、子や孫に仕事を任すような齢、80となります。老後の保障もなく、妻とのフルムーン旅行もありませんが、のんびりと余生を送ろう、そんなことを考え始めていた矢先、神様が彼に声をかけます。

「さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」(出エジプト記3章10節)

モーセが考えてもいなかった語りかけでした。この言葉を聞いた時、モーセは「承知しました。それでは何から始めましょうか」とは言いませんでした。

モーセは即答したのです「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」(出エジプト記3章11節)

「わたしはいったい何者か」ということは、「わたしはそれにふさわしくない」ということです。どうして、80歳にもなった者があのおびただしい数のイスラエルの人々をパロの手から救い出すことができましょうか。主はこのモーセの言葉に答えます。

「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出した時、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう(出エジプト記3章12節)

モーセは続けざまに言いました。「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言う時、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」(出エジプト記3章13節)

モーセには40年前の苦い思い出がありました。彼は同胞の民の信任を得られなかったのです。それは彼の心の傷となっていたのかもしれません。彼には彼らも認める神様からのお墨付きが必要でした。

神様は答えます。「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」(出エジプト記3章14節)。

しかし、モーセはまた神様に聞くのです。「しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう、『主はあなたに現れなかった』と」(出エジプト記4章1節)。

モーセはよく言えば慎重、悪く言えば悲観的、不信仰、彼らは自分の声に聴き従わないだろうと自分で決めかかって主に訴えるのです。

主は答えます。「あなたの手にあるそれは何か」。彼は言った、「杖です」。3 また言われた、「それを地に投げなさい」。彼がそれを地に投げると蛇になったので、モーセはその前から身を避けた(出エジプト記4章2節、3節)。

主は言われますあなたの手を伸ばして、その尾を取りなさい。そこで手を伸ばしてそれを取ると、手のなかで杖となった(出エジプト記4章4節)。

しかし、モーセはまた神様に聞くのです。10 「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」(出エジプト記4章10節)。

モーセは言います「私は昔から今も、口下手なのです」と。彼は理解していました。自分は言葉をもって民の信任を得、彼らの心を鼓舞し続けなければならない。しかし、そんな力量は自分にはないと。この弱気な言葉に主は答えます。

11「だれが人に口を授けたのか。話せず、聞こえず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか。12 それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」(出エジプト記4章11節―12節)。

モーセは何度も、どんなに自分がふさわしくない者なのかということを神様に訴えます。しかし、それらに対して神様はことごとく、あなたがどんな者なのかは十分に分かっている。しかし、私が共にいるから大丈夫だと語りかけるのですが、モーセはそれでも、まだ言います。

13 「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」(出エジプト記4章13節)。

「自分にはふさわしくない」という確信と言いますでしょうか、その思いを彼は変えようとはしませんでした。この任は私には到底、無理だから他の人を探してくれないというのです。

14 そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた、「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている。見よ、彼はあなたに会おうとして出てきている。彼はあなたを見て心に喜ぶであろう。15 あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、16 彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代るであろう。17 あなたはそのつえを手に執り、それをもって、しるしを行いなさい」(出エジプト4章14節―17節)。

今日、私達は神様とモーセのやりとりを見てきました。モーセは自分が足りない者であること、すなわち「こんな者が何になりましょう」と4回も神様に言ったのです。

「わたしはふさわしくない」   (3章11節)
「わたしは必ずあなたと共にいる」(3章12節)

モーセは「わたしはふさわしくない」と言いました。しかし、主はすかさず「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われました。

本来、神様のために何かをさせていただく時、それにふさわしくないと思う気持ちは健全なものだと思われます。しかし、どうか覚えてください。ふさわしくないと主張する私達に、主はそれでも「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われることがあるということを。

子供は神様が私達に与え、授けてくださったもの、神様が私達に委ねてくださったものです。その子供を育てるのに私はふさわしい親だと断言できる人がいるでしょうか・・・。「わたしは親としてふさわしくない」と思うこともある。それでも主は言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

確かに自分がふさわしくないと思われることに真摯に向き合うことは必要でしょう。そのことが自分の能力を超えたものであり、真にそれがふさわしくないのなら、謙遜に辞退しなければならないことも確かにありますでしょう。

しかし、私達以上に私達を知り尽くしたお方が、だいじょうぶと言われるのなら、私達はその言葉をそのまま受け入れるべきです。

「わたしはあなたの名を知らない」  (3章13節)
「わたしは有ってある者」      (3章14節) 

 モーセは「わたしはあなたの名を知らない」と言いました。しかし、主は「わたしは有ってある者」とご自身が何者であるかということをモーセに語りかけました。

しかし、それにしても「有ってある者」ということ、私達にはつかみきれません。しかし、神とは本来、私達が完全に理解できるようなお方ではないのです。

「わたしは有ってある者」。この言葉こそ神が神であるということを明らかにしています。このお方は私達の理解を遥かに凌駕しておられるお方。有るというお方は世の始まる前から永久に、今も私達と共におられるお方です。

「人々は私を信じない」  (4章1節)
「それを地に投げなさい」 (4章3節)

 モーセは「人々は私を信じない」と言いました。しかし、神様は「彼の手にある杖を地に投げるように」言いました。

彼は恐れていました。かつてイスラエルの民から拒絶されたことを。それは彼の傷となっていました。私達は誰しもそのような傷をもったまま生きているのかもしれません。

あの人、あの言葉、あの状況に置かれると私達は心を固く閉ざしてしまう、恐れに支配されてしまう、悲しみが心に押し寄せてくるということが私達にもあるのかもしれません。

モーセが杖を地に投げますと、それが蛇となりました。エジプトの黄金のツタンカーメンの額には蛇の飾りがつけられているのをご存知でありましょう。エジプト人は蛇を神的なものとして崇めていました。また、それはパロの王権を象徴していました。

しかし、神は杖を蛇に変え、再びその蛇の尾を取れと言われ、そうしますとその蛇は再び杖になりました。このことを通して、エジプト王朝の最高主権者パロといえども神の御手の中にあり、いかようにもなるということを神様はモーセに示されました。

私達が抱える頭痛の種、問題、それは神を凌駕するものではありません。全て神の御手の中に収まるものです。私達は神様がモーセに「杖を地に投げよ」「蛇の尾をとれ」と言われた通り、そのお言葉に従うまでです。

「わたしはうまく話せない」     (4章10節)
「あなたの口と共にあり、教える」  (4章12節)

モーセはエジプトで教育を受け、ミデアンの荒野で人生経験を積みました。彼には多くの知識と経験があったのですが、それを表現することを彼は苦手としていたのかもしれません。

誰しも得手不得手があるものです。それは嘆くことではなく、謙遜に受け止めるべきことです。私は音楽を聴くことは大好きなのですが、楽譜を読んだり、楽器を奏でることはからきっしだめなのです。

5、6歳の頃、母は私にエレクトーンを習わせました。ですから、今でもあの時に習った「ちょうちょ」だけは弾けます。問題は当時の私のヒーローは仮面ライダーであり、仮面ライダーのベルトを腰に巻いて野山で遊ぶことのほうが圧倒的にエレクトーンの鍵盤に向き合うよりも私には魅力的であり、私はエレクトーンに背を向けたのです。

話すことを苦手とするモーセに神様は彼の兄弟アロンを示されました。神様は言われました。「わたしは彼が言葉に優れているのを知っている」。

神様は人それぞれに賜物を与えておられ、アロンには話す賜物が与えられていたのでしょう。ですから神様はアロンをモーセの口とし、モーセは神に代わり、彼に語るべきことを告げる者として用いようとされたのです。

神様は奏楽のできる妻を私に与えてくれました。そして、教会には素晴らしい賛美チームがおります。私が足りないところは他の兄弟姉妹が補ってくれています。

この礼拝を皆さんにお届けするのには映像や音楽の編集が必要です。このよう分野も私は全然、だめなのです。でも、主はこのことに長けた兄弟姉妹をも私達の群れにお与えくださっています。

私は普通に話しているつもりなのですが、家族はいつも「あなたの声は大きすぎる」と言います。現在、日曜日の朝はリビングで家族と映像をみながら、礼拝を捧げていますが、賛美の時になると私の声があまりにも大きくて奏楽や賛美チームの声が聞こえないという家族のクレームを受け、私は賛美の時にリビングの端っこに移動し、そこで一人で歌うということが取り決められました。

自覚はないのですが、神様は声のボリュームは私にくださったようです。私が何を差し置いても第一にすべきことは御言葉を語らせていただくことですので、この声のボリュームは役に立っているようです。

「これが何になりましょうか」それはあなたの思惑であり、神様はそのことを問題とはされず、ふさわしい助け手を与えてくださいます。このことをもって私達は教会を「キリストのからだ」と呼ぶのです。私達はこの教会の各器官なのです。

あなたはキリストのからだの目であり、私はそのからだの薬指です。こうして教会は一つなのです。

モーセの時代から約1500年後、このようなことがありました。

1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った(ヨハネ6章1節―14節)。

場所はガリラヤ湖、群衆がイエスのもとに集まってきました。イエス様は彼らに何かを食べさせたいと願われました。

しかし、数千もの人達にその場で提供できるものなどあるはずがありません。そのような中、弟子達は一人の少年を見つけ、その子が持っていたパン五つ、魚二匹をイエスのもとに持ってきました。

この状況でこれだけの人達に食事を与えたいなんて無謀なことを言われる師、イエスに「私達の手元にあるのは二匹の魚と五つのパンだけですよ」と伝えることにより、イエス様に諦めてもらおうという気持ちがあったのかもしれません。ですから、彼らは言ったのです。

「こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう」(9)。

「そうか、それぐらいしか見つけられなかったか。仕方ない、残念だけど、じゃーここでお開きにしよう」という言葉を弟子達は期待していました。

しかし、主は群衆を草の上に座らせました。「こんなもの何になりましょう」と弟子達が持ってきた「こんなもの」はその少年が持っている全てでした。イエス様はその魚とパンを受け取り、父なる神に感謝され、群衆に配られたのです。

主にある皆さん、「こんな者、こんな私」と私達はそう思うかもしれない。しかし、イエス様はそんな私達を「神に感謝すべきもの」と見なしておられるのをご存知ですか。

私達は神様が「良しとしてくださるもの」を「こんなもの」と呼ぶのでしょうか。これからもそう、呼び続けるのでしょうか。

人間を観察していますと世の中には二種類の人間がいるように思われます。与えられているものを全て「こんなもの」とする者。そして、与えられているものを全て「神に感謝すべきもの」とする者。

「こんなもの」と私達が思う時に、それはまさしく「こんなもの」止まりとなります。このことにより、私達はいったいどれだけ主のみわざの成就を失ってきたことでしょうか。

しかし、それを「神に感謝すべきもの」とするのなら、二匹の魚と五つのパンにより数千の人間が養われたようなことが起きてきます。そう、神様は私達と共におられ、杖を蛇に、蛇を杖に変えることができる、有ってあるお方だからです。

イエス様はパンと魚を一度、その手に受け取られ、それを感謝して、群衆は十分に、あり余るほどに養われたのです。

同じように、主は私達が主に差し出させていただくものを一度、御手におさめ、それを感謝して、祝福して用いてくださいます。

その時、弟子達は何も持参していませんでした。しかし、一人の少年はその時、パンと魚を持っていたのです。弟子が足りないところを、名もなき少年が支えました。

私達も同じです。神様は私達が足りないこところは、他の人をお用いになって補ってくださいます。私達は自ら足りないことを知ることにより謙遜にされ、そこを補い、支えてくれる方達への感謝が生まれます。こうして、主のみわざはこの世界に成されていくのです。この神様の戦略は昔も今も有効なのです。

「こんな者が何になりましょう」とあなたは思うかもしれません。しかし、そんなあなたを主の御手の中に収めていただきませんか。

そこから新しいことが始まるのです・・・。

お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年5月17日

1)もし、あなたがミデアンの荒野で暮らして80歳となったモーセで、「あなたをパロにつかわし、イスラエルの民を導かせよう」(出エジプト記3章10節)と神様に言われたら何と答えますか。

 

2)「わたしは、いったい何者でしょう」(出エジプト記3章11節)というモーセの言葉にはどんな気持ちが込められていると思いますか。

 

3)上記の言葉に対して神様は「わたしは必ずあなたと共にいる(出エジプト記3章12節)と言われました。このことは何を意味していますか。

 

4)「わたしは、有って有る者」(出エジプト記3章14節)という神様の言葉からそのどんなご性質をうかがい知ることができますか。

 

5)モーセの手の中にあった杖が蛇と変わり、蛇が再び杖になりました(出エジプト記4章2節-4節)。この御業を通して、神様はモーセに何を示されたのですか。

 

6)モーセが感じていたコンプレックスは何ですか(出エジプト記4章10節)。あなたの得手不得手は何ですか。不得手をあなたはどのように受け止め、それを克服していますか。

 

7)語ることに弱気を感じていたモーセに神様は何と言われましたか(出エジプト記4章11節―17節)。時に神様は私達の不足を何をもって補おうとされますか。

 

8)「キリストのからだなる教会」から私達がイメージする教会はどんな姿をもっているでしょうか。

 

9)ヨハネ6章1節―14節を読みましょう。「それが何になりましょう」(9)という弟子の懐疑的な言葉に対してイエス様は何をなされましたか。


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