その時には完全に知るであろう。

今は分かりませんがかつて日本の銀行は午後三時で閉店しました。そしてシャッターが閉まった銀行の中ではその日に取引きされた金銭が銀行員によって整理されているのだと聞いたことがあります。そうです、インターネットやカード決済がない時代、銀行のシャッターが閉まり、職員だけとなった銀行では、その日に預けられた現金が計算され、その日の取引きが帳面に記録されるのでしょう。でも、もしその最後に370円足りなかったら、それがピタリと合うまで帰宅することができない。そんな時に自分の財布の中から370円を足して早く帰ることがあるんだよなんて聞いたことがありますが、きっと、そんなことはないでしょう。あちこちを調べ、その足りない370円を見つけ出し、それらが加えられて、その日の帳簿の帳尻は合い、職員は安心して帰宅できるのです。

時に私達の人生の帳簿も私達の計算と合わないことがあります。このようなことは誰の人生にも一つや二つ、あるものです。そして、その時に私達は神を疑い、また神にたてつく事すらあります。しかし、私達は忘れていることがあります。この人生の帳尻は自分で合わせるのではなくて、それは私達の人生の営業時間が終わった後に神がその帳尻を合わせてくださるということです。そして、いつの日かその合わせられた帳尻を前に、私達は神をほめたたえる日が必ず来るというのが聖書の約束なのです。

マック

● 本日のプログラム

● Message “Then We Shall Know Fully”

 一日一生(2018/4/2-2018/4/8)

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その時には完全に知るであろう

イースター礼拝

2018年4月1日

その朝、数人の女性達がイエス様の墓に向かっていました。その体に香料を塗るためです。しかし、墓まで来てみますと、墓をふさいでいた大きな岩はどけられて、墓の中にイエス様のからだはありませんでした。思いがけないことに途方にくれていますと、輝いた衣を着たみ使いがあらわれ、彼女たちにこう告げたのです。

『あなたがは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ』(ルカ24章5節、6節)。

この日から全てが変わりました。この出来事は今、この場所にいる私達の人生に変革を与えました。イースターの朝、今日はこのイエス・キリストの復活が私達にもたらしたものについてお話しします。

もし、私が聖書の著者であり、「聖書を読む人達が皆、神という存在を信じ、その神と共に歩むなら、どんなに素晴らしい人生を送ることになるか」ということを伝えようと願いながら聖書の執筆をしているのなら、あえて聖書に書き残さなくてもいいかなと思うことがあります。

それは読者を悩ましたり、つまづかせてしまうようなこと、ほれみろ、やっぱり聖書はおとぎ話じゃないかと思わせてしまうようなことです。もし、それでも書く必要があるのなら、本当にちょっとだけ、さらりと短く書くだけにしておこうと思うのです。

しかし、実際の聖書を読む限り、聖書は我々、読者に対してそのような気配りを一切していないかのように思えます。すなわち、これを書いたら、人々はもっと神を遠い存在として感じてしまうかもしれないということが、あちこちに書かれているのです。

モーセというリーダーが聖書には出てきます。彼は偉大な神の器であり、彼ほど神に忠実に仕え、また同胞のイスラエルの民に貢献した人は後にも先にもいません。彼はエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民、数百万人を解放した英雄であり、忍耐の限りを尽くし、仕える僕としての生涯を全うしました。

そんな立役者には普通、相当の報いがあってしかりと私たちは思うのですが、彼はイスラエルの民と共に目指した約束の地、カナンに入ることを神によって許されずに、カナンを前にして息を引き取りました。これは人間的に考えたら理解に苦しむことです。諸々の困難の矢面に立って、民の先頭を歩いてきたのは彼なのですから、夢にまで見たカナンの地に入るという報いを受けるのは当然です。

バプテスマのヨハネはイエス・キリストが活動を始める前に生きた預言者です。彼ほどに自分の命の役割をわきまえていた人はいません。その生涯は、明らかに世の楽しみからかけ離れたものであり、ただひたすらにイエス・キリストの露払いをする僕として、生涯を歩みました。イエス様はそのヨハネをこう評価しています「女の生んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった」(マタイ11章9節)。

しかし、そのヨハネの生涯の最後は悲惨なものでした。ユダヤの領主ヘロデは自分の誕生日に一人の娘がその祝いの席で踊った踊りに喜び、「お前の願いを何でも聞こう」と言ったのです。それに対して彼女は「バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、ここに持ってきてくれ」と求めたのです。そのおよそ受け入れられない愚かな願いをヘロデは人の前に誓った手前、自分の面子のために受け入れ、直後にヨハネの首ははねられ、それが盆にのせられました。

私たちは思います。なぜイエス様から最大の賛辞を受けている彼が、愚かで気まぐれな親子の酒の席でなされた願いによって、また王のどうでもいい面子によって、首をはねられなければならないのだろうかと。

このモーセとヨハネは、明らかに神のために生きた人達であり、神からの報いということにおいては、普通に考えれば神様から最大の報酬を受けることに異議を唱える人はいないはずです。しかし、彼らの地上での生涯において、神からの報酬はなく、かえって彼らの最後は、すなわちその人生の最後は「どうして、こんな最後なのか」というようなものだったのです。

そして、この「どうして、この人が、このように・・・」ということは聖書中の人物だけに起きることではなく、私やあなたの身近でも起きることなのです。

私の知っている宣教師にジョン・トロ-ゼンというアメリカ人がいます。正確に言いますと「いました」ということになります。パイロットであった彼は物流が行き届かない密林で宣教する宣教師達へ小型飛行機で聖書や生活必需品を運んだり、自らも宣教師として、南米にて働いていました。

パイロットの資格がありますゆえに、望めばそれなりに経済的に安定したよい職につくこともできたでしょう。しかし、彼はその宣教の思いを南米大陸に向けたのです。その彼が操縦する飛行機が、1998年9月28日、南米ボリビア奥地で福音宣教のために働いていた現地の牧師と神学生夫妻、パイロット宣教師一家ら7人を乗せ、アンデスの村を飛び立ったまま消息を絶ちました。

懸命の捜索にもかかわらず手がかりが得られないまま今年で20年がたちます。ジョンさんは当時28歳、妻の真砂子さんは35歳、二人の幼子、翼ちゃん、光ちゃんもその飛行機に同乗していました。あえて言うまでもなく、この家族の未来はこれからであったと誰もが思います。彼らは長い準備の末、現地に派遣されてからわずか9か月後に突然その働きが絶たれたのです。

12年前の3月21日、神奈川県相模原市でイーチョンヒさんという方の葬儀がもたれました。まだ40代で奥様とまだ小さい3人の子供を残して彼は天に帰りました。イーさんは日本で何をしていたのか。彼は韓国から日本宣教に重荷を感じて、こられていた宣教師でした。私は彼と共に神学校で学びました。静かな方でしたが、いつも顔に笑みをたたえ、日本宣教に対する情熱を持っていました。

住み慣れた国を離れて、異国への伝道に向かったこれらの人達の生涯は神に捧げられたものでありましたが、自分達の思い描く生涯を送ることはありませんでした。もし生きていればもっと神様のために、家族のために、友のためにできることがあったはずです。それはモーセやヨハネに通じる人生です。なぜ、聖書は隠すことなくこのような人たちの事を記録しているのでしょうか。なぜ、祈り送り出されたトローゼン宣教師家族やイー宣教師にこのような最期が訪れたのでしょうか。

神に人生を捧げた人たちであるなら、受ける報いは大きくてもいいのではないかと誰しも思います。なぜ彼らは報いどころか、あまりにも早い最後をこの地上で迎えたのでしょうか。

ここで、思うことがあります。私は今、彼らが受ける「報い」について語っていますが、果たして私達が言うところの「報い」とは何なのでしょうか。長寿でしょうか。その働きに見合った報酬でしょうか。人の称賛でしょうか。私達が普通に考える報いとは、おそらくそのあたりのことです。

しかし、聖書はこのような報酬をほんとうに価値あるものとしてはいません。この報酬についてヘブル書11章は私達に語りかけます。このへブル書11章は信仰列伝と呼ばれる箇所で、そこにはかつて神と共にその生涯を歩んだ者達の名前があげられ、彼らに共通することとして、こう書かれているのです。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした(ヘブル11章13節)。

 ここに記されている「約束のもの」とはまさしく私達が今、言っている「報酬」です。すなわち、彼らはその報酬をこの地上では受けなかったということがここには記されているのです。この言葉に従えば、私達が考えるこの地上で考えている報酬は神の御目には報酬に値するものではないということです。本当の報酬はこの地上ではないところで与えられるということです。でも、そんなこの地上ではないところで与えられるといっても、それはいったいどういうことなのでしょうか。あまりにも私達には飛躍した話のように思われます。

モーセ、ヨハネ、トローゼン家族、イー牧師がこの地上で送った生涯に対する「なぜ?」について聖書は何か答えを持っているのでしょうか。もし、このことに対して聖書が答えをもっていないなら、私たちの信仰は空しいものです。

聖書はこれらのことに対して答えをもっています。どこにその答えがあるのでしょうか。その答えは一つの出来事に集約されます。そうです、それはイエス・キリストの復活です。イエスの復活により、私たちにも復活の命が約束されているということ、そして、その復活の命を得た私たちはこの地上で歩んだ人生で経験する全てのことにおいて、最後に帳尻が合わせられるのです。

皆さん「帳尻が合わせられる」ということはどういうことなのでしょうか。そもそも、この言葉はどんな意味なのか。それは帳簿に記載した収支決算の結果が最後にピタリと合わせられるということです。私たちのこの地上での生涯においては、まだこの帳簿の収支は出ていないのです。地上の生涯においては、何度計算しても計算が合わないことがあるのです。それが私達の人生であり、時にそのことを私達は「人生の不条理」と呼びます。

今は分かりませんがかつて日本の銀行は午後三時で閉店しました。そしてシャッターが閉まった銀行の中ではその日に取引きされた金銭が銀行員によって整理されているのだと聞いたことがあります。そうです、インターネットやカード決済がない時代、銀行のシャッターが閉まり、職員だけとなった銀行では、その日に預けられた現金が計算され、その日の取引きが帳面に記録されるのでしょう。でも、もしその最後に370円足りなかったら、それがピタリと合うまで帰宅することができない。そんな時に自分の財布の中から370円を足して早く帰ることがあるんだよなんて聞いたことがありますが、きっと、そんなことはないでしょう。あちこちを調べ、その足りない370円を見つけ出し、それらが加えられて、その日の帳簿の帳尻は合い、職員は安心して帰宅できるのです。

時に私達の人生の帳簿も私達の計算と合わないことがあります。このようなことは誰の人生にも一つや二つ、あるものです。そして、その時に私達は神を疑い、また神にたてつく事すらあります。しかし、私達は忘れていることがあります。この人生の帳尻は自分で合わせるのではなくて、それは私達の人生の営業時間が終わった後に神がその帳尻を合わせてくださるということです。そして、いつの日かその合わせられた帳尻を前に、私達は神をほめたたえる日が必ず来るというのが聖書の約束なのです。

まさしくそのことをパウロはコリント人への第一の手紙13章12節にこう記しているのです「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかし、その時には、顔と顔とを合わせて見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかし、その時には私が完全に知られているように、完全に知るであろう」。そう、私達が今、見ている人生の帳簿は一部分にすぎないのです。その時にはその帳簿を完全に知っているお方が、私達にその全容を完全に知らせてくれるのです。

時に私達の命はとてもはかないものです。私達は当然、明日もやってくると思って今日を生きていますが、その確証はどこにもありません。そして、不意にその日が来ますと、「なぜ、このようなことが起きるのか」と私達は打ちひしがれます。なぜなら、そのことを「その人の人生の結末」として、私たちは見るからです。

しかし、聖書は言うのです「その人の人生が、この地上でどれだけ長かったか、どんなものを獲得して生きたか、どんなに辛く、悲しい余生を送ったかということが、その人生の結論ではない」と。先ほどのヘブル人への手紙は言っていますでしょう。私達はこの人生において旅人であり、寄留者であるということ。その旅路では分からないことも私達の永遠の住処に帰る時に全て明らかにされるのです。

私達がその住処に帰宅する時、この人生の旅路で不条理に思えた出来事や疑問が全て解き明かされて「そうか、こういうことだったのか」ということが分かる日が必ず来るのです。そして、その日を私達が確実に迎えるためにイエス・キリストは復活されたのです。

すなわちイエス様が復活されたということは、私達にもその復活の命が与えられるということであり、その時には私達がこの地上で経験したことの背後にある神の御心を完全に知ることができるのです。

イエス・キリストが復活したということは、私たち人間が理解できない悲しみや不条理という疑問に神が目をそむけずに向き合っていてくださるということであり、その悲しみ、不条理を私は未解答のままにしておくことはないという神の愛です。

そして、驚くべきことに、これらのことは全て後になって分かるということではなく、私たちは今、生きているこの時にも、このことに確信をもつなら、全てのことはイエス・キリストにあって希望となって、その神の恵みを先行的に受け止めて生きることができるのです。

先にお話しました李宣教師の奥様は崔(チェ)さんといいます。このチェさんが夫、李さんと病床で話した時のことを、当時、仲間がメールで知らせてくれました。彼女はあまりにも苦しむ夫の姿を見て、彼に尋ねたそうです「あなたこの病気の中でもイエス様を愛しているの?」 李さんはニコッとして「あー、私はイエス様を愛しているよ」と答えました。崔さんが、もう一度、聞きました。「あなた、こんなにも苦しんでいるのに(!)、本当にイエス様を愛しているの?」また、ニコッと李さんは笑顔を返して答えました。「あぁ、私はイエス様を愛しているよ」。言い終えると、血圧が上がり、痙攣が起こり、がくがく震え、その痛みで、李さんは気を失ってしまうそうです。その気を失っている夫を見て、崔さんは、思ったそうです。「この人は、本当にイエス様を愛して、そしてイエス様の愛を、なんとか、日本人に伝えたいと思っているんだわ」。

李さんは地上での自分のミニストリーを止めなければならない瞬間にいたのです。愛する家族との別れの瞬間に置かれていたのです。しかし、李さんの心にはイエス・キリストの愛に対する絶大な信頼がありました。なぜですか。なぜなら、イエス様も李さんと同じところを通られたところです。背骨が露出するほどにムチ打たれ、両手両足に釘が打たれたイエス様の肉体の血圧は乱れ、気絶するほどの痛みに全身が震え、度々、気を失われたイエス様、しかし、その十字架を通られ、一度、死ななければ私達に復活の命を与えることができないということを知っていたイエス様。このイエス様の愛を李さんはその病床でも疑わなかったのでしょう。

彼のイエス様に対する信頼とは自分のために十字架にかかられ、そして、自分のために死を打ち破り、よみがえられたイエス様に対する信仰と希望であったのです。私は思うのです。その彼の信仰は「たとえ私が今、このような形で全てに別れを告げなくてはならなくとも、神様は全てを最善に、帳尻を合わせて下さるお方なのだ」という神への信頼ではなかったかと。

皆さん、もし、皆さんの心の中に、自分の人生を振り返り「なんて自分は不幸なのだ」とか「あの人の人生はいったい何だったのか」というような疑問を持っている方がいるとしたら、その方は今朝、知ってください。全ての答えは今日、このイースターにあるのです。あの女性達が目の当たりにした空の墓にあるのです。主イエス・キリストが復活なさったということが、これらのことの答えなのです。この事実がある限り、私たちの現在の人生に対して、私達は結論を引き出すことはできないのです。その一人子を与えるほどに私達を愛された父なる神は、最後に必ず、私達の人生の帳尻を合わせてくださるのです。このことを信じて、やがて私達の名が呼ばれ、父が待つ家に帰る、その日まで、この地上での旅路を主と共に生きる者はさいわいです。お祈りしましょう。

“Then We Shall Know Fully”
April 1, 2018

It was morning and several women were heading to Jesus’ tomb, carrying spices for His body. But when they reached the tomb, they found the large stone that sealed the tomb rolled away and Jesus’ body was not there. While the women were perplexed by this, two angles in bright shining clothes appeared to them and said, “Why do you look for the living among the dead? He is not here; he has risen!” (Luke 24:5-6).

On that day, everything changed. Our lives today have been changed by that event. This Easter morning, I would like to talk about what has been given to us through the resurrection of Jesus Christ.

If I was the author of the Bible, and my goal was to tell readers of how wonderful life could be if you believe in God and walk with Him, there are some passages that I probably would leave out.

These passages may confuse readers, cause them to stumble, and give proof to naysayers that the Bible is only a fairy tale. Even if I had to write them down, I would make them as brief as possible.

But when we read the actual Bible, it is apparent that the Bible makes no concessions of this kind to its readers. In other words, we find passages all over the Bible that may cause people to feel even more distant to God.

In the Bible, we find the story of a leader named Moses. He was a man greatly used by God, and no other leader before or after him served God so faithfully or contributed more to the well-being of the people of Israel as Moses. He was a hero who freed his people from slavery in Egypt and was a faithful servant til the very end.

We would assume that a great hero like Moses must have been richly rewarded, but instead it says that he was not allowed to enter into Canaan, the promised land that he longed to see with his people, and he took his last breath just outside of Canaan. From a human perspective, this is does not make sense. He was always on the front line leading his people, so we naturally think that he had every right to enter the land he dreamed about.

John the Baptist was a prophet who appeared before Jesus began His earthly ministry. No one had a better understanding of their purpose in life as he did. He lived a life completely separated from worldly pleasures, and dedicated his entire life to preparing the way for Jesus Christ’s appearance. Jesus commended John by saying, “Truly I tell you, among those born of women there has not risen anyone greater than John the Baptist” (Matthew 11:11).

But John’s life ended in a tragic way. Herod, the ruler of Judea, had a birthday banquet, during which his daughter danced for the guests, and this pleased Herod so much that he promised to give her whatever she asked. She replied to this offer by saying “Give me here on a platter the head of John the Baptist”. This was a disturbing request, but Herod had to comply to save his face in the presence of his guests, and as a result John was beheaded and his head put on a platter.

We wonder, why did this man who received the highest praise from Jesus, why did he have to be beheaded, all because of a foolish request during a drunken feast, and to save the face of an impulsive king?

It is clear that Moses and John lived their lives for God, and I think all of us would agree that they deserved the utmost reward from God. Yet they never received their reward from God while they were alive, and both of their lives ended in a way that leaves us asking, “Why?”

And these things that make us wonder “why” are not only found in the Bible, but these are things we hear about today that happen to people we know.

There is an American missionary I know named John Trosen. To be more precise, I have to say there “was” a missionary named John Trosen. He was a missionary pilot who delivered Bibles and other supplies on a small plane to other missionaries working in remote jungles and he himself served as a missionary in South America.

As a licensed pilot, he could have chosen a career path that would allow him to live a relatively comfortable life. But his heart for missions led him to South America. On September 28, 1998, John Trosen’s plane flew out of a small village in Bolivia, carrying seven people which included a local pastor, a young seminary couple, and the pilot’s own family. Shortly after they took off, the plane disappeared and they were never heard from again.

Despite search and rescue efforts, not a trace was found of these missionaries and it has been twenty years since they went missing. At the time John was 28 and his wife Masako 35, and their two young children Tsubasa (Isaiah) and Hikari (Sophia) were also on the plane. Needless to say, everyone would have thought that this family’s best days were still ahead of them. They were sent to the mission field after a long period of preparation, but only after 9 months their work was abruptly ended.

Twelve years ago, on March 21 in Sagamihara, Kanagawa, a memorial service was held for a man named Lee Chung-hee. Still in his forties, he went to be with the Lord and left behind his wife and three children. Why was he in Japan? Originally from Korea, Mr. Lee had a burden for Japan and came as a missionary. He and I studied together in seminary. He was a quiet person, but always had a smile on his face and was passionate about reaching Japan with the gospel.

These missionaries left their home land for the mission field and devoted their lives to God, but they never got to see the life they envisioned for themselves. If they were still alive, they must have been able to do so much more for God and for their families and friends. They remind us of Moses and John the Baptist. Why does the Bible not shy away from telling us about these kinds of people? Why did the lives of the Trosen family or Pastor Lee have to end that way?

Anyone would agree that a person who devoted their life to God should be rewarded for their sacrifice. But why did they have to die so soon without ever seeing their reward?

There is something I want to make clear. I have been speaking on the topic of reward, but what exactly do we mean when we use the word reward? Is it long life? Financial compensation? Praise from others? Our idea of a reward is mostly along these lines.

But the Bible does not consider these kinds of rewards as truly valuable. This is addressed in Hebrews 11. This chapter of Hebrews is called the Hall of Faith, and lists the names of people who walked with God and had the same outlook on the reward they shall receive:

“All these people were still living by faith when they died. They did not receive the things promised; they only saw them and welcomed them from a distance, admitting that they were foreigners and strangers on earth” (Hebrew 11:13).

The words “things promised” are referring to the reward that I have been speaking about. It says here that they did not receive their reward on earth. We can draw from this passage that the things we on earth consider to be rewards are not valuable in the eyes of God. This means that our true reward will be received outside of this earth. But what could all of that mean? It sounds too out of the ordinary to have any relevance to us in real life.

Does the Bible have an answer to our “why’s” about the lives of Moses, John the Baptist, the Trozen family, and Pastor Lee? If the Bible cannot give us an answer, our faith would be vain and hopeless.

But the Bible does have an answer. Where could this answer be found? The answer is found in a single event. The answer is the resurrection of Jesus Christ. Through Jesus’ resurrection we too are promised eternal life, and in that life, everything we experience here on earth will be set straight, and the books will be balanced.

What do I mean by balance the books? What is the meaning of this phrase? It refers to a practice in accounting when the difference between earnings and expenditures on a ledger is balanced out. During our life here on earth, our ledger is still not finalized. In this life, there are moments when the numbers just don’t add up, no matter how many times we try to calculate the balance. This is the reality of life on earth and we sometimes call this the “absurdity of life”.

I don’t know how it is today but as far as I remember, all the banks in Japan closed at 3PM. I have heard before that after they close the shutters, the clerks inside have to count all the cash that have been exchanged during that day. Back in the days when there was no internet or credit cards, these bank clerks had to count all the cash that were deposited and record the transactions of the day on their ledger. But if they were 370 yen short at the end of the day, they won’t be able to go home until they found that 370 yen. Someone once told me that when this happens, the bank clerks will pay out of their own pocket, but I don’t believe this is often the case. The clerks would look all over until they find that missing 370 yen and only after they settle the balance for the day can they go home in peace.

In life, there are times when the balance on our own ledger does not add up the way we think it should. Everyone experiences this at least once or twice in their lifetime. And when this happens, we doubt the goodness of God or even become defiant towards Him. But when we do this, we are forgetting something. We forget that it is not up to us to balance the books, but after our life on earth is over and the shutters are closed, God is the one who will settle the balance. And the Bible promises us that the day will come when we will praise God for settling the balance and making everything right.

Paul tells us about this in 1 Corinthians 13:12 where he says, “For now we see only a reflection as in a mirror; then we shall see face to face. Now I know in part; then I shall know fully, even as I am fully known”. Right now, we only see life’s ledger in part. But a time will come when the One who knows us fully will let us see the whole picture.

At times we are reminded of how fleeting life on earth is. In our complacency we believe that there will always be another day, without any guarantee. But when an unexpected death occurs, all of a sudden we become overwhelmed with grief and cry out, “how could this happen?” This is because we falsely believe that death is the ultimate end of a person’s life.

But the Bible tells us that no matter how long a person lives, or how much they achieved in this life, or how painful or sad their last days were, these things do not have the final word on that person’s life. The passage we read from Hebrews tells us that in this life, we are “foreigners and strangers on earth”. There are things we don’t yet understand in the middle of our journey but when we reach our eternal home the truth will be revealed to us.

That day when we finally reach that place, all of our questions and doubts in this life will be answered and we will know the purpose behind each event in our lives. And to guarantee us that we will indeed see that day, Jesus Christ died and rose again.

The resurrection of Jesus promises us of our own resurrection and eternal life, and on that day we will clearly see God’s purpose behind all of the things we experience here on earth.

Jesus’ resurrection proves to us that God does not ignore the sorrows and frustrations we experience in the midst of circumstances we don’t yet understand, and because of His great love, God will not leave our questions regarding these things unanswered.

And the great news is that we do not have to wait until the end of our lives, but if we trust that one day God will answer all of our questions, we can claim this promise today and be confident that no matter what we are facing, we can find hope through Christ.

Pastor Lee whom I mentioned earlier was survived by his wife Che (崔). A mutual friend once told me in an email about a conversation between Che and Pastor Lee at the hospital. Seeing how much her husband was suffering, she asked him, “When you are suffering like this, do you still love Jesus?” To this Pastor Lee smiled and said, “Yes, I love Jesus”. She asked him again, “You are in so much pain! Do you really still love Jesus?”. Again, he smiled and replied, “Yes, I love Jesus”. After saying this, Pastor Lee’s blood pressure rose and his body started to shake violently in a seizure, and the pain was so severe that he passed out. As she saw her husband laying unconscious, Che thought to herself, “This man really does love Jesus, and wants the people of Japan to know about Jesus’ love”.

At that moment, Pastor Lee was nearing the end of his ministry on earth. Soon, he had to say goodbye to the family he loved. But in his heart was his unwavering trust in the love of Jesus Christ. Why was Pastor Lee able trust Jesus amidst his suffering? It is because he knew that Jesus Himself suffered. They scourged Jesus until His bones were exposed; as His hands and feet were pierced, His blood pressure swung and His body shook in excruciating pain, as He fell in and out of consciousness; but Jesus knew that He must endure the cross and die once in order to give us eternal life. It was this love of Jesus that Pastor Lee trusted in as he laid on his sickbed.

His faith and hope was in this Jesus who died on the cross for him, he trusted in the One who conquered death and rose again for him. Even as his illness forced him to leave everything behind, he trusted in God, the One who works all things for our good and settles the balance on our behalf.

If there is anyone here today who is struggling with questions about the pain and suffering in your own life or the lives of people you know, please know this one thing: The answer is found in Easter. The answer is found in the empty tomb witnessed by those women. Jesus Christ’s resurrection is the answer to all of our questions. As long as this truth stands, we cannot and must not draw any conclusions about our lives. God loves us so much that He gave His only Son to us, and He will settle the balance of our lives to make everything right in the end. Blessed are we when we trust in this promise and walk with God as we journey through this life, until the day He calls our name and we go home where our loving Father is waiting. Let’s pray.

本日のおもちかえり

2018年4月1日

1)もしイエス・キリストの復活がなければ、キリスト教はどうなっていたと思いますか。

 

2)聖書の中には私達の理解できないこと、つまづいてしまうようなことが書かれています。モーセとバプテスマのヨハネの最期についてあなたは何を思いますか。

 

3)あなたは理不尽な出来事に直面したことがありますか。そのことと信仰をどう結びつけていますか。

 

4)『これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした』(ヘブル11章13節)という言葉は私達に何を語りかけますか。

  

5)『わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかし、その時には、顔と顔とを合わせて見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかし、その時には私が完全に知られているように、完全に知るであろう』(コリント人への第一の手紙13章12節)という言葉は私達に何を約束していますか。

 

6)あなたが自分の人生に起きるすべての事を理解し、帳尻を合わすことは可能ですか。神が帳尻を合わしてくださるということはどういうことですか。

 

7)イースターはあなたにとってどんな意味がありますか?

 

8)これらのことを踏まえて、あらためて「信仰」とは何ですか?

 

その時には完全に知るであろう。” への2件のコメント

  1. 1円、合わなくても合うまで帰れないし、1円でも自分の財布から足したら厳罰だそうです。

  2. やっぱりそうかい。でも50円を2時間探し続けているのなら、財布から出したくなっちゃうな。誘惑だ。

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