わが魂よ、主をほめたたえよ!

世界にあって、日本では見ることができない建造物があります。それは、城壁です。あえて言えば日本の城には城壁がありますが、その城壁はその地域の藩主がいる城を囲ったもので、町全体が城壁で囲まれているというような場所は日本にはありません。しかし、世界に目を向けますと、このような場所がたくさんあります。万里の長城というのはその最たるものでしょう。

このことが何を意味するのか、言うまでもありません。これらの城壁は外部からの浸入者を防ぐために造られたのです。そうです、世界の多くの国々は互いに地境によって区分された国々であり、日本という国は海に囲まれた島国なのです。

地境であるということは、その境をまたいで他国人が自分達の領土に入ってくる可能性があるということで、それが友好的な隣人であるならまだしも、奪略とから殺戮というような理由で彼らが浸入してきたというのが多くの国の歴史なのです。

幸いなことに日本の近海は時に荒波にもまれ、そのような他国人の侵略をほとんど受けませんでした。幕末に欧米の列強が日本を侵略するのではないかという恐れが蔓延しましたが、それも幸いなことに起こりませんでした。それに対して地続きで他国や他民族とつながっている国地域では有無を言わずに襲われたり、最悪の場合はその住民全てを虐殺、あるいは女性、子供達、財産を根こそぎ略奪されるというようなことが度々あり、それ故に彼らが城壁を造るということは必然だったのです。

そして、その「城壁ありき」という状況こそが私達が向き合っている聖書の世界なのです(写真はエルサレムの城壁)。

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「わが魂よ、主をほめたたえよ!」

2018年11月18日

世界にあって、日本では見ることができない建造物があります。それは、城壁です。あえて言えば日本の城には城壁がありますが、その城壁はその地域の藩主がいる城を囲ったもので、町全体が城壁で囲まれているというような場所は日本にはありません。しかし、世界に目を向けますと、このような場所がたくさんあります。万里の長城というのはその最たるものでしょう。

このことが何を意味するのか、言うまでもありません。これらの城壁は外部からの浸入者を防ぐために造られたのです。そうです、世界の多くの国々は互いに地境によって区分された国々であり、日本という国は海に囲まれた島国なのです。

地境であるということは、その境をまたいで他国人が自分達の領土に入ってくる可能性があるということで、それが友好的な隣人であるならまだしも、奪略とから殺戮というような理由で彼らが浸入してきたというのが多くの国の歴史なのです。

幸いなことに日本の近海は時に荒波にもまれ、そのような他国人の侵略をほとんど受けませんでした。幕末に欧米の列強が日本を侵略するのではないかという恐れが蔓延しましたが、それも幸いなことに起こりませんでした。それに対して地続きで他国や他民族とつながっている国地域では有無を言わずに襲われたり、最悪の場合はその住民全てを虐殺、あるいは女性、子供達、財産を根こそぎ略奪されるというようなことが度々あり、それ故に彼らが城壁を造るということは必然だったのです。

そして、その「城壁ありき」という状況こそが私達が向き合っている聖書の世界なのです。ヨシュア記や士師記などを見ますと、多くの戦(いくさ)が記録されており、神がイスラエルの民に向かって、他国人を徹底的に滅ぼせというようなことが書かれています。

このような箇所を読むと「なんと残忍な神だ」と思われる方達がいらっしゃるかと思います。しかし、その背景には、もしイスラエルの民が無防備であるのなら、彼らは根こそぎ、この地上から消滅してしまうという差し迫った危機があったのです。神様がアブラハムになされた「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」(創世記15章5節です)という契約は、イスラエル民族が滅亡してしまったら成就しないのです。その契約が守り通されるためには当然、イスラエル民族が存在しているということが大前提だったのです。

このような状況によりイスラエルの聖書時代の遺跡にも多くの城壁が発見されています。世界最古の町と呼ばれるエリコの町の城壁は有名でありましょう。ハルマゲドンの語源となっている聖書に出てくるメギドの遺跡も城壁が張り巡らされています。そして、ダビデ、ソロモンが建てたエルサレムも例外ではないのです。

今日もエルサレムの旧市街に行きますと、この街は四方、高い壁で囲まれています。そのエルサレムの旧市街は実際にはダビデの息子ソロモンが広げた城壁でありまして、その外れのケデロンの谷(Kidron Valley)には父ダビデの城壁があります。今日もこの遺跡は残っていまして、この遺跡を歩いていて気がつかされることは、この城壁の中にはダビデの時代から湧いているギホン(Gihon)の泉があり、今も豊かな水が湧き出ており、この泉からわく水路の中を歩くツアーもあります。

泉は大地の力により地中から水が湧き出てくるものですから、人間が作りだすことはできません。ですから、ダビデはこの泉を城壁の中に取り込んで自らの街を作ったのです。城壁の中に水さえ沸いていれば、たとえ四方を敵に囲まれても戦い続けることが出来たからです。しかし、もし泉が城壁の外にあり、そこから水路を造り水を城壁の中に入れているのなら、その水路を敵にせき止められたら城壁内の人間の命は長くはもたないのです。

なぜ、今日、このようなことをお話したのでしょうか。それは水というものが、もっと言いますと、その水が沸くところが、どれだけ大切かということをお伝えしたかったからです。そこから私達の命を支えるものが、そこから出てくるからです。

イスラエルの民にとって泉とはまさしく自分が生きるか死ぬかを左右するものであり、彼らが城壁の内に泉をもつことを絶対不可欠とし、それを死守したように、イスラエルの二代目の王、ダビデやその後を継いだ息子ソロモンはそれは私達の心にも全く当てはまるのだという知恵を得ました。ソロモンは箴言4章20節から27節にこんな言葉を記しています。

箴言4章20節-27節

20わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。21それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。22それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。23油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。24曲った言葉をあなたから捨てさり、よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。25あなたの目は、まっすぐに正面を見、あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。26あなたの足の道に気をつけよ、そうすれば、あなたのすべての道は安全である。27右にも左にも迷い出てはならない、あなたの足を悪から離れさせよ。

 この23節を文語訳聖書はこう記しています。「すべての守るべき者よりもまさりて汝の心を守れ」。また新改訳聖書は「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」と記しています。すなわち心を守ることは、他の全てのことよりもまず第一に優先すべきことなのであり、私達は力の限り、自分の心を見守らなくてはならないと彼は書いたのです。

ソロモンはこのことを、おそらく父、ダビデの背中から学んだと思われます。そう彼の父、ダビデはこのような言葉を残しているのです。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103篇1節-2節(新改訳))

ここには普通に読めば読み過ごしてしまう言葉があります。それはダビデが誰に向かって「主をほめたたえよ。聖なる御名をほめたたえよ。主をほめたたえよ」と言っているのかということです。そうです「わがたましいよ、わたしのうちにある全てのものよ、わがたましいよ」と彼は自分の魂に、自分のうちにあるすべてのものに向かって叫んだのです。

なぜ、ダビデは自分の魂に繰り返し、語りかけたのでしょうか。なぜなら、彼は「自分の魂がどうあるかということの大切さ」を誰よりも知っていたからです。そして、その息子ソロモンはその魂とはすなわち命の水が湧き出る私達の心なのだと言ったのです。

ダビデの人生は波乱万丈です。ある時は自分が真実に仕えていたサウル王の妬みを買い、不当に命を狙われたため逃亡し、ある時は我が息子の謀反を受けて親として最も辛い悲しみの涙を流しました。そのような環境に身を置いた彼は、過酷な状況であればあるほどに、自分の魂に向かって、主をほめたえるようにと語りかけたのです。

そうしなければ、まさしく自分の魂は神をほめたたえるどころか、心の中は絶望や苦々しい思いで満ちてしまうということを彼は知っていたのでしょう。彼の息子の言葉を借りていれば、そこは命の泉なのですから。そここそが彼の言動を司っている場所なのですから、その出所に向かって彼は力を込めて自らの魂に声をかけたのです。

そして、その時にダビデが自分の魂に常に刻み込もうとしていたことは主の良くしてくださったことを何一つ忘れるなということでした。この言葉は言い換えますならば、神様が自分によくしてくださったことを思い起こし、それを忘れずに常に感謝せよということです。なぜ、彼は感謝することを自らの心に語りかけたのでしょうか。

なぜなら自分に襲いかかる様々な事柄の中で、そのことは自らの心を神様に結びつけ、主をほめたたえ続けるために最も大切なことだからでした。彼の心が主に喜ばれるために、このことを自分の魂に語り続けることは不可欠なことだったのです。

皆さん、私達の心はどうですか?私達を取り巻く環境は日々、目まぐるしく変わります。

多くの人達は生活が便利になったものの、ますます自分たちは忙しくなっていると感じています。そんな日々を送る私達は自らを省みる時間をもつことが難しく、とにかく一日一日のノルマをこなすことで精一杯に暮らしています。そして余裕がなくなってくると神への感謝を失い、かえって気持ちのあせりからか、不満というものが心におこってきます。

そもそもこの世界は、私達の心に不満を呼び起こそうとする力が強くはたらいている場所で、私達がどれだけ不足しているか、どれだけ不相応な環境にいるかということを、手を変え品を変えアピールしてくるのです。すなわち「あなたの能力は正等に評価されていない」、「あなたが今、使っているものは古い」、「あなたはあの人よりも働いている」などなど絶え間ないメッセージを常に私達は耳にしながら暮らしているのです。

このような状況にいますと、そこから感謝の思いが起こる可能性はとても少ないのです。

これらダビデ、ソロモンと引き継がれてきた「心」についてイエス・キリストはさらにそれを具体的に説明されました。イエス様はマルコ7章18節‐23節においてこう言われました。

18すると言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。19それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。20さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。21すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、22姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。23これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。

まずここでイエス様は当時、人々の間で重要とされていた食物規定に関して一石を投じました。すなわち食べ物にきよい、きよくないということはない。それはただ私達の体内に入って、出て行くだけのものであり、どの食持ちもきよいとイエス様は言われました。そして、後半を見ますとそれが食べ物だけを言っているのではないということに私達は気がつかされるのです。

この世界に生きる私達は、その五感を通して諸々のことを私達の内に入れます。そのことをその前に書かれている食物の件に照らし合わせて考えますならば、実際のところ、その諸々のこと自体は私達を汚すものではないのです。すなわち、目に飛び込んできたある出来事、耳に聞こえてきた囁き、それ自体はまだ私達を汚してはいません。しかし、それらが私達の魂に達し、そのことに対して私達の魂が反応し、苦々しい思いや不満となって外に出て行く時に、それが人を汚すというのです。

ヤコブはこの内から出ていく最たるものとして「私達の口から出る言葉」を取り上げてこう書いています。

7あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。8ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。9わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。10同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。11泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか。       ヤコブ3章7節-11節

ヤコブはここで私達の口から出ていく言葉は制しにくい悪であり、死の毒で満ちていると言っています。また、この自分の言葉を完全に制しうる人は一人もいないと断言しています。私達は何であれ誰かから何かを断言されると、それに反発を感じますが、このヤコブが言う「自らの言葉を制している人はいない」という言葉に対しては、しばし我が身を振り返れば納得いくのではないでしょうか。

そして、ここまでお話ししていますように、自分の口から出る言葉を制し得ないということは、その源なる心をも制していない、その心において既に苦い水があり、それが口から溢れでてしまったということです。

そしてこのことは、これまでダビデが自らの魂に語りかけた、ソロモンが何よりもあなたの心を見張れと言っていたその要所を私達は自力では完全に守りきれないということを意味します。それでは、私達はどうしたらいいでしょうか。一つの希望をお話しましょう。その希望は思いがけないところに、思いがけない出来事によって啓示されています。出エジプト記15章22節‐25節

22さて、モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった。23彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。24ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。25モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった・・・。

 ここに記されている出来事はモーセというイスラエルの指導者がエジプトで奴隷となっていた民を救い出し、荒野をさ迷った時のことです。彼らはその荒野で水を得ることができませんでした。やっと見つけたと思ったメラという場所にあった水は、苦くてとても飲めたものではなかったのです。その様はあたかも、この荒野にいる間、いつもモーセに向かい悪態をつき、苦々しい言葉ばかりを発していたイスラエルの民のようです。しかし、モーセが神様に示された一本の木をその苦い水に入れるとそれは甘くなったというのです。

このメラで起きた出来事はその後に起こる、あることの型となっています。すなわち、この苦い水とはイエス様が私達の心の中から出てくる不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴のようなものです。これらの諸悪はすべて私達の内から出てきて、人をけがすのであると言われたものであることが分かります。

このような苦々しい水が私達の心からわき、それがやがて外に出ていきます。その苦水は飲めたものではないのです。本人は気がつかないかもしれませんが、その水しぶきを受けるもの、その水を浴びせられるものはたまったものではありません。

しかし、そのメラの苦水は一本の木によって甘い水に変えられたというのです。この出来事を再びやがて起きる一つの型として見ますならば、一つことが分かります。

そうです、その木とはカルバリの丘に建てられたキリストの十字架という木なのです。私達の心がイエス・キリストの十字架によって支配されるのならば、私達の心に変化が起きるのです。その変化とは私達の心の表面の泥水を十字架がすくってきれいにしてくれるというようなものではなく、その心の源に新しい命の泉をわきおこしてくださるという変化なのです。

あのヨハネ4章にはスカルの井戸辺でイエス様がサマリアの女と出会われた時のことが書かれています。かつて五人の夫と会い別れるということを繰り返し、今は人目を避けて暮らす悲しい過去をもっていた女性です。その女性にイエス様は言われました「この(スカルの井戸辺の)水を飲む者は誰でも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命にいたる水かわきあがるであろう」(ヨハネ4章13、14節)。

この時、イエス様がこの女性に語りかけた言葉は、強烈に彼女の心を貫き通しました。この女にはかつて五人の夫があり、今は違う男と暮らしている。この事実はそのまま彼女の心の渇きをあらわしているようです。その渇きを満たすために、異性を求めた。

しかし、その渇きはなくならない。渇きが満たされないという現実ゆえに、おそらく彼女の心の泉からは苦々しい言葉や行いが出てきたことでしょう。そのことが彼女と五人の夫との関係に悪影響を及ぼすことになったのかもしれません。しかし、その彼女にイエス・キリストは決してかわくことがない、心からわきでる命の泉を与えたのです。

なぜ、今日、このようなことをお話したのでしょうか。それは感謝祭を前に、私達の感謝というものは私達を取り巻く環境が自分にとって良いと思われる時に起きてくるものではなく、私達の心からわいてくるものだということを確認するためです。

それゆえ、お話ししましたように、私達の内に入ってくるものにたいして、私達はダビデのように主がよくしてくださったことを日々、忘れることなく、自分の魂に向かいその主をほめたたえよと語りかけ、ソロモンのように、その心を何を差し置いても、力の限り守る必要があるということを知るためです。

そして、このことに対して絶大な力添えを与えてくださるのがイエス・キリストなのです。今や私達はイエス・キリストの十字架により、その心が変えられ、その内からキリストによって永遠の命にいたる泉をわかせていただくことができるのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2018年11月18日

1)世界の多くの国には城壁があります。どんな城壁をあなたは思い浮かべますか。城壁の必要がなかった日本とこれらの国々では、そこに住む者達の生き方(考え方)にどんな違いをもたらすと思いますか。

 

2)箴言4章20節-27節を読みましょう。なぜ、ソロモンは「油断することなく心を守れ」と言っているのですか。「心」とは私達の生き方にどのような影響を与えるものですか。

 

3)ソロモンの父、ダビデは「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103篇1節-2節(新改訳)と言いました。「たましい」を「心」とするのなら、なぜ、ダビデは自分の心に何度も「主をほめたたえよ」と語りかけているのですか。

 

4)なぜ「主の良くしてくださったことを何一つ忘れない」ということは大切なのですか。あなたはいつも感謝できる環境に置かれていますか。なぜ、感謝することは私達には難しいのでしょうか。感謝はどこで生まれますか。

 

5)マルコ7章18節‐23節を読みましょう。これらの事の出所はどこだとイエス様は言われますか。あなたの言動はそれを聞く者を励まし、力づけ、慰めていますか。

 

6)このイエスの言葉と先のソロモンとダビデの言葉はどう関係していますか。私達の言動に向かい合う時に大切なことは何ですか。

 

7)ヤコブ3章7節-11節を読みましょう。なぜ舌(言葉)を制するのは難しいのですか。

 

8)出エジプト記15章22節‐25節を読みましょう。ここで言われている「主が示された一本の木」は何の予表となっていますか。

 

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