わたしの杯はあふれます。

kiddushcup私達は一人一人、神様から命をいただき、与えられている年月、すなわち人生があります。ここにいる皆さんの数だけ、この人生にも違いがあります。その違いはどこからくるのでしょうか。もちろん、生まれ育った環境や、その後の諸々の経験というものが現在の私達に大きな影響を与えることでしょう。

しかし、実際に私達の人生に大きな違いをもたらすものがあるとするなら、それは劇的な出来事や大きな決断ではなく、それは「私達が主の恵みに気がつく」ということなのです。私達はそのために残業する必要はありません。そのために特別な講習を受ける必要はないのです。

Enterprise Video

マック

「礼拝プログラム」、「一日一生」はこちらから。
本日の「日英メッセージ原稿」、「おもちかえり」はこちらから↓。

わたしの杯は溢れます。
2016年8月28日

私達はかつて羊飼いだったダビデの書きました詩篇23篇を毎週、みております。今日はそのうちの5節にあります「わたしの杯はあふれます」という一節に注目したいと願っております。まずは詩篇23篇全体を拝読させていただきます。

1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。3主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。6わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう

読んでお分かりのようにこの『わたしの杯はあふれます』というのは、これまで見てまいりました、その前の言葉とパッケージとなっています。そう、主は私達に敵対するような人や私達を悩ます事を前にしても、そのところで安心して、再び力を得ることが出来る、憩うことすらできる宴を私達のために備えてくださいます。さらには私達の頭に油、すなわち先週お話ししましたように聖霊を注いでくださるというのです。この聖霊の油注ぎにより、私達は己が能力や権勢ではおよぶことができない上からの力をいただくことができる。私達には到底、不可能と思われる御霊の実を結ぶことができる者とされるのです。

話しておりまして興奮してきます。なんとすごいことを主は私達のために備えてくださっているのかと。しかし、それはまだ続きます。そうです、敵の前に備えてくださったその宴において、主は私の前にある杯を満たしてくださる。否、満たすだけではない、それは溢れるというのです。今日はこの「杯が溢れる」ということについていくつかの事をお話しします。まず最初に皆さんにお話しすることは「溢れる恵み」ということです。

溢れる恵み

イエス様の愛弟子ヨハネはイエス・キリストがこの地上にお生まれになったこと、すなわちあのクリスマスの出来事を深い洞察力をもって書き残しました。

14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。15ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。16わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた(ヨハネ1章14節-16節)。

ヨハネは創世記に記されていますように、この世界は神の言葉によって創造され、その言葉が肉体となり、すなわちイエス・キリストとして私達の間に宿ったのだと書きました。

ヨハネは実際に3年半、イエス様と寝食を共にしました。その日々を振り返り、ヨハネはイエス様に間近に接し、そこに神のひとり子としての栄光を見、それのみならず、このお方には神の恵みが満ちいて、その恵みが溢れんばかりに私達にも注がれているのだと書き残しました。

同じ学校であいつとは三年、共に野球部でがんばったとか、あの人は会社の同僚で何年も辛苦を共にした、あの人のことは私が一番、よく知っているなんて友人を皆さんはお持ちかもしれません。しかし、そんな友人に対して「あの人は神の栄光をあらわし、恵みとまことに満ちていた。彼からあふれ出たものによって、私はどんなに大きな恵みをいただいたことだろうか」などという人物評をする人はいません。ヨハネが言っている言葉はまさしく、人間を超えた存在だけに対して向けられるべき言葉なのです。

少々、世的な話となりますが、ここでダビデが言っています「わたしの杯は溢れます」ということは、日本的に解釈するのならこういうことになるのではないかと思います。日本の赤提灯の店や屋台でお酒を注文しますと、目の前に空っぽのコップが皿の上に置かれてお客の前に差し出され、そのお客の目と鼻の先で、そのコップになみなみと、溢れるまでお酒が注がれます。その時のお客さんの顔はどんな顔でしょうか。注がれるお酒から目を離さず、ゴックンと生唾を飲み込みながら、コップの縁からあふれ出ていくお酒を嬉しそうに、うっとりとしながら見つめているに違いありません。その日の苦労も確かにありますでしょう。しかし、その時だけはそれらを忘れ、ただただ注がれ、溢れるものだけに思いは向けられているのです。

もちろん、イエス・キリストの恵みはお酒ではありません。またそれはその時だけの慰めではありません。しかし、イエス様からあふれ出る恵みが私達の前にこのようになみなみと注がれている様を見るということは、私達にとりまして大きな喜びなのです。実際のところ、目には見えませんが主の恵みは私達の杯に今も注がれており、それは溢れているとダビデは書いたのです。私達はこのことを知っていますでしょうか。二つ目のこと、それは「溢れる恵みに気がつく」ということをお話しします。

溢れる恵みに気がつく

主が満ち溢れんばかりに私達に恵みを注いでくださること、それは「本当だろうか?」ということではなくて、既に主は今も私達に溢れんばかりの恵みを注いでいてくださっているのです。ということは、私達にとって大切なことは、私達がそのことに気がついているか、否かということです

私達がよく言いますように、私達の心には簡単に「不満」、「不平」、「不足」、「愚痴」が混入してきます。それに対して私達は「感謝」すべきことを見出すことをほとんどしません。「不満」、「不平」、「不足」、「愚痴」の存在は圧倒的で、感謝すべきことに私達が気がつくことはありません。同じように神が私達に与えてくださっている恵みは既に溢れているのに、私達はそれに気がつくことがありません。

私達はそんな「不満」、「不平」、「不足」、「愚痴」を持ち合わせつつ、幸いな人生を送ることはないだろうと思います。これは確かなことでしょう。ですから、どうにかそれらの思いを心からなくそうと努力します。がんばります。しかし、それを心から拭い去ることは容易なことではありません。私達が見ること、聞くことから、これらのものは次から次へと私達の心にわいてくるからです。

ですから不本意ではありますが、私達はこれらのことを生涯、持ち続けていかなければならない可能性がおおいにあります。しかし、もしこのことから免れることを願いますのなら、私達は主が私達の杯に注いでいてくださる溢れんばかりの恵みに気がつくことです。私達の目の前で、なみなみと注がれ、そこから溢れ流れているる神の恵みに目を向けることです。

私達は一人一人、神様から命をいただき、与えられている年月、すなわち人生があります。ここにいる皆さんの数だけ、この人生にも違いがあります。その違いはどこからくるのでしょうか。もちろん、生まれ育った環境や、その後の諸々の経験というものが現在の私達に大きな影響を与えることでしょう。

しかし、実際に私達の人生に大きな違いをもたらすものがあるとするなら、それは劇的な出来事や大きな決断ではなく、それは「私達が主の恵みに気がつく」ということなのです。私達はそのために残業する必要はありません。そのために特別な講習を受ける必要はないのです。

使徒パウロの生涯は諸々の試練に満ちた生涯でした。そのような意味で彼が聖書に書き残した言葉は苦労を知らない者のたわごとではありません。彼はキリストゆえに受けた試練の数々を書いています。そう、それはあっという間に不平、不満、愚痴が心に満ちてしまうような状況です。しかし、彼はそこに目を向けるのではなく、それらを圧倒的に凌駕して彼の上に注がれている神の恵みの豊かさに目を留めたのです。

彼はその書簡の中で好んで「あらゆる」「どんなことでも」「さらに」「はるかに」「すべて」「・・・を超えて」「はかり知ることのできない」と言うような言葉を用いて神の恵みの豊かさを讃えています。あたかもその神の圧倒的な恵みが彼の不平、不満、愚痴を押し流してしまったかのようです。その溢れている恵みゆえに、それらのものは既に彼の視界に入ってこないのです。

私達はいつも「あれさえあれば」とか「こうでなければ」というような思いと共に生きています。しかし、私達はこのような思考から抜け出て、神の恵みに目を向けるように自分を整えていかなければなりません。「あれさえあれば」「こうでなければ」は止めどもないものです。止めどもないと言いましたのは、一つのことを達成すれば、その後にはまた別の「あれさえあれば」「こうでなければ」という囁きが私達の心に聞こえてくるからです。

私達が主の溢れんばかりの恵みに気がつき、そこに目を向ける時にこれらの思いは主の恵みによって押し流されてしまうのです。それは幻を見るとか、夢想家になるということではなく、実際に既に神が私達に溢れんばかりに与えてくださっているものに私達が気がつくということなのです。三つ目のことをお話ししましょう。それは「必要が満たされる」ということです。

必要が満たされる。

使徒パウロはピリピ人への手紙4章でこうも述べています。19わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。20わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン(ピリピ4章19節-20節)。

主の恵みは溢れんばかりに私達に注がれると同時に、パウロは神はご自身が有する栄光の富から私達の一切の必要という杯をキリスト・イエスにあって満たしてくださると言いました。そう、パウロは言うのです、「私の神は私の一切の必要をキリスト・イエスにあって満たしてくださるだろう」と。これは本当なのでしょうか。

アメリカ人のクレジットカードのローン額は一家族あたり、数千ドルにもなるといいます。そうです、クレジットカードはお金がなくても買えるという魔法のカードです。しかし、言うまでもなくそこには大きなリスクつきまといます。このことゆえに破産してしまう人の数は膨大です。

私達は物を買う時に自らに問うべき‶あの質問″を知っています。そう、「それは、あなたが欲しいものなのか。それともあなたに必要なものなのか」という質問です。パウロはここで「あなたの欲する一切のものを」とは言わずに、神様が私達をご覧になって「私達に必要な一切のもの」と言いました。私達はこのところを間違えて受け取らないようにしなくてはなりません。

確かにこの言葉に従って私自身の人生を振り返りますと、主は私の欲しているものを一切くださるお方ではありませんでした。そのことは確かです。しかし、振り返ります時に主は私が必要としているものは一切、くださったということを思うのです。

この「必要」には深い意味があります。時にその「必要」は私達にとりまして「チャレンジ」となるものもの含まれるからです。「かわいい子には旅をさせよ」という言葉は、その子が旅をして、そこで直面する諸々の苦労が我が子をよく知る親としては、この子には「必要だ」ということです。その子は快適な旅をしたいでしょうが、思いどおりにいかなくなるのが旅であって、しかし、そのような経験がこの子には必要だという親心をもって、「かわいい子には旅をさせろ」と私達は言い伝えてきたのです。

主は私たちの必要の一切を満たしてくださるお方です。そして、このことに気がつく時に、私達の人生は変わります。最後に「恵みが注がれる余地」ということについてお話しします。

恵みが注がれる余地

私のお気に入りの某ハンバーガー屋さんに行きますと裏メニューがあります。裏メニューとは公に掲示されているメニューには記されていないのですが、それをオーダーすれば受けてくれるというまさしく裏のメニューです。ところで私達の人生にも裏メニューがあることをご存知ですか。それはあまり私達が見聞きしないものです。そのような意味で私達の前に隠されているものと言ってもいいかもしれません。今日は特別、皆さんにそんな人生の裏メニューをお話しします。それは「多く与える者は多く与えられる」ということです。この裏メニューに今から3000年前に生きましたソロモンは気がついていました。そう、こういうことです。

24施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。25物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される(箴言11章24節ー27節)。

そして「ソロモンよ、あなたがいたった思いは正しいことなのだ」と、それを裏づけるようにしてイエス・キリストは言われました。

「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカ6章38節)

ソロモン、イエス・キリスト、そしてパウロもこの裏メニューを見出してこう書き残しました。

6わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。7各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。8神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである(コリント第二の手紙9章6節―8節)。

パウロはここで「わたしの考えはこうである」と言っています。そうです、そこにはパウロの経験が含まれているのです。実際に表のメニューでこのような考えを見聞きすることはほとんどありません。しかし、パウロはソロモンやイエス様の言葉を受けて、彼らの言葉は本当だろうかとこの世界を観察したに違いありません。そして、実際にそれに生きてみたに違いありません。そして、分かったのです。ですから彼は自分自身の結論として「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」と言ったのです。

私達を取り囲む自然環境には法則があります。その法則は確固たるものです。その中には植物や動物が互いに命を与えあって生きているという法則があります。自然界では生き物の死は、次なる命のために不可欠なものとなります。死ぬことにより、他の生き物が命を得ているのです。これが自然界の法則です。このことなくして私達の生きる自然環境は成り立ちません。そして、その法則を私達人間の生き方にも明らかにしているのがイエス様のあの言葉なのです。

24よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。25自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう(ヨハネ12章24節)。

これは種をもつ食物に当てはまる法則です。種から芽が出るということはその種の死を意味します。しかし、その種が死ぬことにより、種からは芽が出て、実が実るのです。これ以外に実りはありません。このことは人間にもあてはまります。そのことをイエス様はここで言っているのです。私達もかき集めるのではなくて、それを与える、地に落ちて死ぬということをするのなら、そこから驚くべき実が結ばれるというのです。

「私の杯は溢れます」ということは「無条件に恵みが注がれます」ということと同時に、そこには「私達が手離すことによりさらに注がれる」ということが含まれるのです。すなわち、満ち溢れるためには、その杯が空でなくてはならないということです。

よく教会で食事をしていますと親切な方がお茶を入れにくてくださいます。そこで取り交わされる会話はいつも同じです。「お茶いかがですか」「ありがとうございます。でも、まだありますので」。そう、確かにコップにはまだお茶が残っています。せっかく持って来ていただいても入れる余地がないのです。

もし私達が手に何かを握っていたら、どうして他のものを掴むことが出来ましょう。しかし、それを手離すのなら、そこには次なるものを握ることができるスペースができます。その開かれた手に主は溢れんばかりに祝福を注いでくださいます。イエス様はその様を「おし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして」とまで言われたのです。

私達は与えられた一度の人生、一粒の麦のまま、そのままこの地上での人生を終えるのでしょうか。その種は地に落ちることなく、どこかに置かれたまま、誰にも見出されずに一粒のまま、そこにあり続けるでしょう。

今日の午後、試みてみてください。夜まで手を握り続けてみてください。辛いでしょう。疲れるでしょう。もしかしたら今、私達が抱えている虚しさや疲労感は私達が手をかたく握り続けている生きているところからきているのかもしれません。私達の体は無意識のうちに手を広げて生きるように作られているように、私達はその手を開き、神様の溢れんばかりの恵みをいただくことができるように造られているのです。主の前に手を閉じて何かを握り続けているのなら、どうしてそこに神様は恵を注いでくださることができましょうか。

今朝、私達は聖書の言葉からこれからの人生を全く変えてしまうような、すごいことを聞いたのだと思います。主は私達に溢れんばかりの恵みを注いでいてくださっています。しかし、私達はそれに気がつかずに生きています。もし、このことに私達が気がつくのなら、私達の心からは喜びと感謝がわきあがってくるでしょう。神様は私達の一切の必要を満たしてくださっているということに気がつくのなら、私達の心には喜びと感謝がわきあがってくるでしょう。私達が手離し、与えることにより、神様はさらに私達を祝福してくださいます。この裏メニューを知り、確かにその通りだということを私達が経験して行く時に、私達の杯が溢れんばかりに満たされていくことを私達は日々、目の当たりにするでしょう。このような神の祝福に満ちた生涯、それは遠くにあるのではなく、私達の手の届く、すぐ目の前にあるのです。お祈りしましょう。

My cup overflows

August 28, 2016

 

Every week, we have been studying Psalms 23 written by David who was once a shepherd. This morning, I would like to talk about the phrase “My cup overflows” in verse 5. First, let us read the entire Psalms 23.

The Lord is my shepherd, I lack nothing. 2He makes me lie down in green pastures, he leads me beside quiet waters, 3he refreshes my soul. He guides me along the right paths for his name’s sake. 4Even though I walk through the darkest valley, I will fear no evil, for you are with me; your rod and your staff, they comfort me. 5You prepare a table before me in the presence of my enemies. You anoint my head with oil; my cup overflows. 6Surely your goodness and love will follow me all the days of my life, and I will dwell in the house of the Lord forever. (Psalms 23)

As you can see, this phrase “My cup overflows” follows the preceding sections which we have already studied. God protects us even when we face our enemies and when we are troubled. God provides us with a table for us to rest and regain our power. Furthermore, God pours oil over our head. He pours the Holy Spirit over our head. When the Holy Spirit is poured on us, we get a power from above that we cannot obtain ourselves otherwise. This Holy Spirit will turns us into someone who can bear the fruits of the Holy Spirit.

This is an exciting news. We are amazed how the Lord has prepared for us generously. But, this story continues on. At this table God has prepared for us, God would fill the cup placed in front of us. The cup is not only filled, but it overflows. This morning, I would like to talk about this overflowing cup.The first point is the Overflowing Grace.

Overflowing Grace

John, the disciple of Jesus, wrote about the birth of Jesus Christ, namely, about that Christmas event.

14 The Word became flesh and made his dwelling among us. We have seen his glory, the glory of the one and only Son, who came from the Father, full of grace and truth. 15 (John testified concerning him. He cried out, saying, “This is the one I spoke about when I said, ‘He who comes after me has surpassed me because he was before me.’”) 16 Out of his fullness we have all received grace in place of grace already given. (John 1:14-16)

This world was created by the word of God. John said that the same word became flesh, Jesus Christ, and dwelled among us.

John had spent three years and a half living and working with Jesus. During his close encounter of Jesus, John had witnessed the glory of son of God in Jesus. John also said that God’s grace was with Jesus abundantly and we are also given this grace.

Some of you might have a friend with whom you had spent 3 years in a baseball team at school. Or you might have worked closely with a friend at your office. You know such people intimately. But, no one would say about another person: “He revealed the glory of God and was filled with grace and truth. I have benefitted greatly from the blessings he generously provided to me.” These words John expressed were about someone who was far superior to ordinary human.

We could try to understand David’s words “My cup overflows” in our daily life setting. In Japan, there are small drinking pubs with red lantern hanging at the entrance that are frequented by working class people. When a customer orders sake, the bartender produces a cup and pours sake until the cup begins to overflow. Imagine the customer at such a time. His eyes would be glued to the sake being poured. He can hardly wait for his chance to drink up the sake. He is filled with excitement and expectation.  Perhaps his day was difficult. But, he can forget everything at that time and his eyes would be glued to the sake overflowing from the cup.

Of course, the grace of Jesus Christ is not sake. It is not a momentary joy, either. But, it is a great joy to see that the grace of Jesus is being poured generously to us. This is a great source of happiness. Although we cannot see the grace with our naked eyes, David wrote that the grace is being poured into our cup and it is overflowing. But, are we aware of this joyful fact?

The second point is to become aware that the overflowing grace is being given to us.

Be aware that overflowing grace is given to us

There is no question that God’s grace is poured upon us. No one can doubt this fact. God continues to pour his overflowing grace to us. If so, an important question for us is: Are we aware of that overflowing grace or not?

We are dissatisfied and unhappy because we feel that we are not as rich as other people, we are treated unfairly, and so forth. We fail to realize that we have many things we should be grateful about. We are so preoccupied with our dissatisfaction and unhappiness that we often forget to be thankful. God provides us with overflowing grace. But we fail to take time to acknowledge that. As long as we harbor such negative feelings as dissatisfaction, unhappiness, and grudge, we can never find a happy life. Perhaps we all know that. And that is why we continue to try to get rid of such negativity from our mind. But, it is very difficult. Everything we see and hear trigger such negative feeling again and again.

So, are we predestined to carry on such hopeless life? Is there a way to get out of that vicious cycle? But, when we look up to God, we realize that God is pouring his overflowing grace for us. Our cup is overflowing with grace from God. We must turn our eyes to the grace of God that is overflowing in front of our eyes.

We have received our life from God, and we are given this chance to live our life on this earth. Of course, everyone lives a different life. Perhaps such difference comes from our circumstances, up-bringing, and different experiences. All of these factors influence and color our life.

But, the greatest influencing factor in our life is not any traumatic experience or big decisions. The greatest change comes when we realize God’s grace is poured on us. There is no need to work long hours to earn that grace or to take a special lecture.

The life of apostle Paul was full of tribulations. What he said and wrote in the Bible comes from his personal experience and insight obtained through his hard life. He wrote about numerous hardships he faced on behalf of Christ. To ordinary people, such hardship could have caused unhappiness, grudge and complaints. But, he was not preoccupied with hardships he had undergone. Rather, his eyes were focused on the richness of the grace of God.

He praised the overflowing grace using such words as “always”, “whenever”, “overwhelming”, “far above everything”, and “beyond measure.” Paul felt that he was truly blessed. To Paul, his personal frustration, grudge, and hardship were nothing compared to overwhelming grace from God. It was as if he could see nothing but the overflowing grace.

We tend to wish and hope that “only if I had that”, or “only if the situation were different”. But, we must free ourselves from such binds. We must learn to focus our eyes on the grace of God. As long as we keep saying “if only so”, or “if only I had that”, there is no end. As soon as we have one wish granted, we immediately feel frustrated that we do not have that other thing.

But, when we realize and acknowledge that God is providing us with overwhelming grace, such negative thoughts would be blown away. I am not talking about day-dreaming, or fantasizing. I am talking about realizing that God is truly providing us with overflowing grace. The third point is “our needs are filled.”

Our needs are filled

The Apostle Paul said in chapter 4 of his letter to Philippians:19 And my God will meet all your needs according to the riches of his glory in Christ Jesus. 20 To our God and Father be glory for ever and ever. Amen. (Philippians 4:19-20)

When God pours his grace, he fills our cup of needs with glorious wealth that God possesses. That is why Paul said: “My God will meet all our needs according to the riches of his glory in Jesus Christ.” It is said that an average credit card loan per household in USA amounts to several thousands of dollars. Credit cards allow us to fill our needs even when we do not have any money. But, if we spend beyond our means, we are risking bankruptcy.

When we make purchases, we must ask one key question. We must ask if what we are trying to buy is what we want or what we need. Paul said that God will meet all our needs. He did not say that God will give us all we want. We must understand this distinction.

When we look back at our life, we clearly see that God did not provide us with all we wanted. That is true. But, it is also true that God had provided us with all we needed.

This word “need” carries deep meaning. Some of the times, this “need” challenges our decision. We say that if we love our children, we should let the children leave parents and take on a journey of their own. This is a need. We hope that such a journey children take would be enjoyable and safe. But, journeys are bound to run into unexpected situation. We are told that such experience is needed for our growing children.

God will fill all our needs. When we realize that fact, our life would change completely.

Lastly, let me talk about making a room for receiving grace.

Making a room for receiving grace

I have one favorite hamburger restaurant. They have a hidden menu. I am talking about items that are not on the ordinary menu. If you know this hidden menu, you can order items that are not listed on the ordinary menu.

By the way, did you know that there is a hidden menu of our life? Many of us are unaware of its existence. Such menu is usually hidden from our eyes. This morning, I would like to talk about this special hidden menu of life. This menu says that those who give generously would be given generously. Solomon, who lived over 3000 years ago knew about this hidden menu. He wrote:

24 One person gives freely, yet gains even more; another withholds unduly, but comes to poverty. 25 A generous person will prosper; whoever refreshes others will be refreshed. (Proverbs 11:24-25)

Jesus Christ concurred with Solomon and said:38 “Give, and it will be given to you. A good measure, pressed down, shaken together and running over, will be poured into your lap. For with the measure you use, it will be measured to you.” (Luke 6:38)

In addition to Solomon and Jesus Christ, Paul also was aware of this hidden menu and wrote: Remember this: Whoever sows sparingly will also reap sparingly, and whoever sows generously will also reap generously. Each of you should give what you have decided in your heart to give, not reluctantly or under compulsion, for God loves a cheerful giver. And God is able to bless you abundantly, so that in all things at all times, having all that you need, you will abound in every good work. (II Corinthians 9:6-8)

Paul said “remember this”. He was speaking from his personal experience. If you look at only the ordinary menu, you cannot find this way of thinking. But, the words of Solomon and Jesus must have caused Paul to look carefully at the truth. He found the answer in his personal experience. He understood the hidden menu. That is why he said: “Remember this: Whoever sows sparingly will also reap sparingly, and whoever sows generously will also reap generously.”

The natural world is regulated by its basic principle. This rules the natural environment. Such principle allows the vegetation and the animal kingdoms to coexist. In the nature, the living would die, and provides source for other life. Other living creatures obtain life from the dead. This is the rule of the nature. Our nature cannot exist without such rule. There is a basic principle in our human life, too. Jesus speaks about it this way:

24 Very truly I tell you, unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it produces many seeds. 25 Anyone who loves their life will lose it, while anyone who hates their life in this world will keep it for eternal life. (John 12:24)

This rule applies to all vegetation producing seeds. For a new life to spring out from the seed, that seed has to die. But, with the death of the seed, a new life shoots out, and produces fruit. This is the only way to bear fruit. The same principle applies to human. Jesus is talking about this basic principle. He says that, instead of receiving, we should give up our life for God so that an amazing fruit can come into existence.

When we say that our cup overflows, we are saying the grace is poured to us limitlessly. This implies, however, that more would be pours only if we let go what we have. In other words, for our cup to overflow, that cup has to be empty to accept the grace.

At our church lunch, some kind members would come and offer to pour tea into my cup. This conversation goes like this.  “Would like more tea?” “Thank you. But I still have some tea in my cup.” If some tea is still left in the cup, there is no room to receive more tea even when offered.

If we are holding on to something in our hands, we cannot hold any other things. But, when we let go the thing in the hands, a new room is crated to receive new things. When we open our hands, the grace from God will fill our hands. Jesus said that God will pour his grace generously until it overflows our hands.

Are we going to live our life on this earth without changing from the seed state? The seed will not even hit the ground and will be forgotten and remain out of sight until it rots away.

Try this experiment this afternoon. Try to maintain tight grip of your hands until evening. It would be hard. You will tire out soon. Perhaps our feeling of void and fatigue are caused because we have continued to keep tight grip of our hands. Our hands are made to open so that we can receive the overflowing blessing from God. If you keep your hands tightly closed, how can God provide his blessing to you?

This morning, we have learned an important lesson from the Bible. God has been pouring out overflowing grace to us. But, many of us are not aware of that. When we realize that we are given God’s grace, our heart will be filled with joy and grateful feeling. When we find out that God is filling all of our needs, our heart will be filled with joy and thankfulness. When we let go of things we possess and freely give, God will bless us with even more grace.

When we learn about this hidden menu and experience the blessing God provides us, we will be able to see that God indeed fills our needs with overflowing blessing. The life filled with God’s blessing is within our reach. It has always been placed in front of our eyes.

Let us pray.

Translated by Dr. Yasuhisa Hosomatsu

本日のおもちかえり
2016年8月28日

1)詩篇23篇を読みましょう。「わたしの盃は溢れます」という言葉からあなたはどんな光景を思い浮かべますか。

 

2)ヨハネ1章14節-16節を読みましょう。ヨハネがイエス・キリストの内に見たものは何ですか。そのイエス様が私達に与えてくださったものは何ですか。それは微々たるものでしたか。

 

3)「溢れる杯」をイメージします時に「私達に溢れんばかりの恵み」が注がれているということはあなたをどんな気持ちにさせますか。

 

4)なぜ私達の心には簡単に「不満」、「不平」、「不足」、「愚痴」が満ちていくのでしょうか。「感謝」で心を満たすことはなぜ難しいのですか。

 

5)「感謝に気がつく」ということは、既にそこにある感謝に気がつくということです。なぜ、このことは大切なのですか。日々の生活の中でイエス様が溢れんばかりの恵みを私達に注いでいてくださっているということに気がつくことにより、私達はどのように変えられていきますか。

 

6)私達はある日突然、「主の恵みに気がつく人」になることはありません。どうしたら「主の恵みに気がつく人」になることができるでしょうか。

 

7)「欲しいもの」と「必要なもの」とは何が違いますか。時に「私達に必要なもの」の中には「私達にとってチャレンジとなるもの」も含まれます。『あなたがたのいっさいの必要をキリスト・イエスにあって満たしてくださるであろう』(ピリピ4章19節)という言葉にあなたは同意できますか。なぜですか。

 

8)箴言11章24節ー27節、ルカ6章38節、コリント第二の手紙9章6節―8節、ヨハネ12章24節を読みましょう。ここから私達は神様の定められたどんな法則を見出しますか。満ち溢れる祝福の秘訣は何ですか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください