イエスはなぜこの世の王にならなかったのか?

米国の大統領選挙を見ていますと「支持者の勢い」というものがとても大切なのだなと思わされます。僅差の二人の候補者が最後に大統領の座を得るのはその支持者の勢い最後まで維持できた者です。

ですから候補者は最後まで国民を奮い立たせる言葉を語り続けますし、分刻みで全米各地を遊説するのです。支持者が勢いづいている時にコロラドの山中に籠もってしまうような大統領候補者は未だかつていないのです。

しかし、イエス・キリストは民衆の熱狂的な支持を得、彼らが大いに盛り上がっている最中に、しばしば群集から離れて一人寂しい場所へ退かれていたと聖書は記しています。なぜでしょうか?イエス様の心にあったことは、その時の人々が考えていることとは全く違ったからです。

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イエスはなぜこの世の王にならなかったのか?
2019年5月19日

私達は家のどこかにカレンダーをはり、時にそこに予定を書き入れます。例えば私のカレンダーには来週の日曜日のチャーチピクニックの予定や7月の修養会の予定が記されています。その日程を心にとめることにより私はそのために備えることができます。

レオナルド・ダ・ヴィンチと親交のあったチェザーレ・ボルジャ(Cesare Borgia)というイタリアの政治家は「私は生きている時に、死以外のあらゆるものに対して備えをしていた。今、私は死なねばならぬ。そして、まだなんの備えもない」と言いました。

彼はきっと準備周到な方だったのでしょう。カレンダーに記し得る諸々のことに対して備えていたのでしょう。しかし、一つだけまだ備えていないことがあると言いました。そう、それは「自分が死ぬ」ということ、そしてそのことに対しては何の備えもしていないというのです。

葬儀の準備なら生前のうちにしようと思えばできます。しかし、彼が言っているのは死に対する心の備えです。皆さんはいかがでしょうか。100パーセント、私達にやってくる死に対して備えができているでしょうか。

伝道の書にはこのような言葉が記されています「神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた」(伝道の書3章11節)。

とても不思議な言葉です。確かに牛が永遠について思いめぐらしているということはなく、カラスが永遠について考えながらゴミをあさっているとは思えません。ここに「人の心に」と書かれているように、神はこのことを人間に限定されたのです。

私達はこれから起きる自分の予定をカレンダーに書き記すことはできますが、私達の時間枠を超えた「永遠の時」についてはカレンダーに書き込むことができません。

しかし、そうであっても神様は私達に永遠の思いを与えておられるというのです。このことを英語聖書はGod set eternity in the hearts と書いています。すなわち神様がそのような思いを私達の心にセットしたのです。組み込んだのです。

パウロという人がいます。彼はかつてキリスト教徒迫害に情熱をかけた人でしたが、その後、回心して命をかけてキリストを伝えた人でありますが、その彼はキリストの死とその復活について、第一コリント15章14節において「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」と言っています。

この言葉は言い方を変えるなら「もしキリストがよみがえらなかったら、私達も当然、死に対しては無力であり、そうであるのなら私達が今している宣教も私達が抱いている信仰もむなしい」ということです。

そして、私達はこのパウロの言葉に強く同意するのです。本当にそうです。私達の心に神が予め「永遠」を思う気持ちを与えておりながら、それが実際には実在しないのなら、私達がイエス・キリストを伝えることも、そのイエスを信じることも空しいことです。

私達が死んだあと、誰かが記録としてカレンダーにその日を書き記すことはできるでしょう。なぜなら、その死はこの世界で起きたことだからです。このように死が世に属しているものであるかぎり、死に対する私達の諸々の考えや教えはこの世の処世訓にすぎません。

例えば「死とは諦めること」だとか「死とは無になることだ」という言葉は一見、深い教えのように思われますが、結局のところ「死ぬことはしょうがないことでしょ」と言っているだけなのです。

「たとえ私が明日、死ななければならなくても、私は今日、リンゴの種をまくであろう」というような類の言葉によって「あぁーそうだよなー」とは思うかもしれませんが、それは「死」そのものに対しては何も語ってはいないのです。

人生について沈思黙考した孔子が論語に書いておりますように「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」というのが我々人間の現実なのです。

しかし聖書はこの死に対して永遠の見地から私達にこのように語りかけます。『ちり(死によって分解が始まった肉体のこと)はもとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る』(伝道の書12章7節)。

神が地の土から造られた私達の肉体はその機能が止まれば、やがて土に帰ります。しかし、私達には霊なるものがあり、その霊は神に帰る、そしてそのことは私達が永遠に生きるということなのだと聖書は言うのです・・・。

私達がキリストの生涯を詳しく知っていく時にあることに気がつかされていきます。それはこのお方の言葉にも行いにも人知を超えた力があったということです。いつの時代もそうですが、このような力を持つ人間の周りには人が集まり、やがて、その人は多くの者達の上に立つようになります。

イエス様の時代も御多分にもれず、彼の12弟子の心の中にも、イスラエルの民衆の心の中にも、いつの日かイエス様が自分達の先頭にたって、当時、彼らを支配していたローマの圧制から自分達を解放してくれる、自分の生活をより豊かにしてくれると期待するようになりました。これは自然な成り行きです。しかし、聖書の中に弟子や民衆の期待に応えようとするイエス様の言動を見つけることはできないのです。

米国の大統領選挙を見ていますと「支持者の勢い」というものがとても大切なのだなと思わされます。僅差の二人の候補者が最後に大統領の座を得るのはその支持者の勢い最後まで維持できた者です。

ですから候補者は最後まで国民を奮い立たせる言葉を語り続けますし、分刻みで全米各地を遊説するのです。支持者が勢いづいている時にコロラドの山中に籠もってしまうような大統領候補者は未だかつていないのです。

しかし、イエス・キリストは民衆の熱狂的な支持を得、彼らが大いに盛り上がっている最中に、しばしば群集から離れて一人寂しい場所へ退かれていたと聖書は記しています。なぜでしょうか?イエス様の心にあったことは、その時の人々が考えていることとは全く違ったからです。

すなわち、イエス様は私達に整った政治体制や豊かな経済を提供することを第一の目的としてこの地にこられたのではなく、そのお心の中に常にあったことは「人は死ぬ」ということに対して希望がない限り、どんなに私達の生きる環境が整い、豊かになっても、決して私達の心に本当の平安と喜びは生まれることがないということだったのです。

故にイエス様の生涯は一国の王や大富豪や無敵の軍人として終わったのではなく(実際にイエス様はいかなる者にもなり得る力をお持ちでありながら)、その生涯はカルバリの丘に建てられた十字架で終わり、空の墓によって再び始まったのです。

イエス様は十字架にかかり、殺されるということを、それが起きる前から心に覚悟し、かつて弟子達にこのような言葉を残していました。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」イエス様は知っていたのです。よみがえるためには一度、死ななければならないことを。

世では私達の体が置かれるキャスケットが売られています。そのキャスケットは車のように安いものから高いものまであります。遺灰を入れる壺も同じです。鮮やかな色のものもあれば、シックなものもあります。

セメタリーではそれらを安置するスペースも売られています。死は誰にでもやってくるのですから、私達にはこれらの準備も必要でありましょう。しかし、これらのものよりもさらに大切なことは、私達が死んだ時、私達はどこに行くのかということです。

イエス様はヨハネ14章1節‐3節で書いています。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。

イエス様は王にもならず、政治家にもならず、将軍にもならず、私達が死んで行く場所を用意されました。今日の大統領候補者は医療保険のことを公約に入れますが、「あなたが死んだ後のこと」について公約を述べる人はいません。しかし、イエスはこのことを語っているのです。そして、このことを語ることができるのはイエス・キリスト以外にいないのです。

現実主義者は言うかもしれません。「キリスト教は天国、天国というけれど、その話はもういい。キリストが今、自分に何をしてくれるかを示してくれ」と。

不謹慎に聞こえてしまうかもしれませんが、教会でもたれる葬儀には希望があり、信じがたいことかもしれませんが、時に葬儀の場で喜びすら表現されることがあります。私達には天国が約束されているからです。そして、この天国の約束は今の私達にもとてつもないものを与えてくれるのです。

第一テサロニケ5章16節-18節においてパウロは言いました。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである』

聖書は私達にいつも喜べ、絶えず祈れ、全てのことについて感謝しなさいと勧めています。これを読む現実主義者はクリスチャンとは何と世間知らずで能天気な人達かと思うかもしれません。いつも喜ぶ、絶えず祈る、すべての事について感謝するなんてことは私達には非現実的に思われるからです。

でも、実際はそうではないのです。クリスチャンになるということは、現実から目をそらして「天国からあるから大丈夫よ」と慰め合って生きていくようなものではありません。私達はこの世の現実にしっかりと向き合い、一歩一歩、その生涯を歩いていくのです。

私達が信仰を持つ前と持った後には二つの違いがあります。一つ、「私達は自分がどこから来て、どこに行くのかを知る」ということ、二つ、そして、「その全行程に死んでよみがえったイエス・キリストが共にいる」ということを知るようになるということです。

先のパウロは「いつも喜べ、絶えず祈れ、全てのことに感謝しなさい」と言っていますが、これらの言葉のポイントは彼がここに一言、「これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」と言っていることなのです。

我々はイエスが約束しているように死んでも生きるのではないか、このイエスがいつも私達と共にいるから私達はいかなる時も喜び、感謝することができるのです。この「キリスト・イエス」にあってという言葉がないのなら、この言葉は非現実な戯言にしかすぎません。

イエス・キリストと共に約束された場所に向かって私達は生きている、そんな今を生きる私達に神は喜びと祈りと感謝を与えてくださる。これがキリストが今、私達にしてくださっていることなのです。ですから、このことを知っているパウロはしかと前を向き、こう言ったのです。

『13兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである』(ピリピ3章13節-14節)

そして、いよいよその最後の時にこういう言葉を自分が生きてきた人生に言い残すために私達は今を生きているのです。

⑥わたしが世を去るべき時はきた。⑦わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。⑧今や、義の冠がわたしを待っているばかりである』(テモテ第二の手紙4章6b節‐8a節)

主にある皆さん、もし私達の人生に「この一時に努めている」と言いうるものがあり、しかも、それは朽ちてしまうようなものではなく、永遠に残るものであるということを知ったら今の私達の生き方は変わりますでしょう!

自分の人生の行程を終えるにあたり、主イエスから私は賞与をいただけるのだという確信をもって人生を終えることができたら、それはなんとさいわいでしょうか!

このパウロは今も共におられるイエス・キリストのことを思えば思うほどに「生きる」ということと「死ぬ」ということの区別がだんだんとなくなってきたとピリピ書に記しています。

大抵、人は「死ぬ」ことよりも「生きる」ことに絶大な価値を置くのです。ですから言いますでしょ「死んだらおしまいだ」って。しかしパウロはキリストが死を打ち破り、復活し、今も共に自分とおられ、やがて私も主のもとに行くのだということを知った時に、彼は死ぬことは自分にとって益なのだということまで悟ったのです。彼は言っています。

そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしには分からない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。(ピリピ1章20節-23節)

イエス・キリストは私達の勝ち負けについて何度も語っています。しかし、その勝ち負けはこの世が言うような、どれだけの財産があるとか、どんな業績を残したのかということではないのです。

イエス様が勝つということに触れている時は全てが「世に勝つ」ということ(ヨハネ16:33「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、 1ヨハネ5:5)なのです。そして、この世に勝つということの究極は、その世の最後に待ち受けている死に打ち勝つということなのです。

皆さん、私達が生きている時に、意識していなくても心のどこかに常に据えていることは「死なないように」ということでしょう。私達はなぜ働くのか。究極を言えば飢えて死なないためにでしょう。雨風をしのいで生きながらえるためでしょう。なぜ高い医療保険をかけるのでしょうか。死なないように治療を受けられるためでしょう。私達はやはり心の中で思っているのです、「死ぬことだけは避けなければならない」と。

しかし、キリストは私達の人生において一番、避けたいこの死に対して、先回りして、ご自身が復活することにより勝利をとられたのです。そして、このイエス様の後に続く私達にもその復活の命、すなわち永遠の命が既に約束されているのです。

このことを知ったパウロの心からは「生きること」と「死ぬこと」の間の分け隔てすらなくなってしまったのです。そして、このことは私達にも約束されていることなのです。

これらことゆえに私達は今、イエス・キリストにあっていつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝することができるのです。「天国」の約束は実に、今の私達に驚くべき生き方を可能にしてくれるのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2019年5月19日

1)「神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた」(伝道の書3:11)とありますが私達は「永遠」についてどんなことを思いますか。

 

2)パウロは『もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい』(第一コリント15:14)と言いました。なぜですか?

 

3)「死ぬこと」について世ではどのように言われていますか。あなたが納得し、心に平安を得るような言葉がありますか?

 

4)『ちりはもとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る』(伝道の書12:7)ということは私達の死後について何を言っていますか。

 

5)イエス様は有力な政治家や無敵の軍人にはなり、経済を発展させたり、強国を作り上げようとはなさらずに十字架と復活に焦点を当ててその公生涯を歩まれました。なぜですか?

 

6)『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい』(第一テサロニケ5:16-18)という生き方は簡単ですか。何がこの生き方を可能にしますか→『これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである』(第一テサロニケ5:18)

 

7)ピリピ1:20-23を読みましょう。パウロにとって「生きること」と「死ぬこと」の違いは狭まり、かえって彼は死んで主と共にいることを望みました。なぜですか。

 

8)イエス・キリストが勝敗について語る時に、いつもそれは「世に対する勝利」でした(ヨハネ16:33、1ヨハネ5:5)。究極的に世に勝つということはどんな勝利を意味するのでしょうか。

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