エマオの途上を歩く私達

1989年、Back to the Future 2という映画が公開されました。マイケルJフォックス扮するマーティーが未来の世界にやってくるというストーリーです。当時、20歳の私はその未来の世界に驚きと期待を抱いたのを覚えています。

ところで皆さん、その映画が未来として設定していた日をご存じですか?その未来は 2015年10月21日だったのです。

そう、その未来は私達にとりまして5年前の過去となりました。私達は映画のストーリーを追い越してしまったのです。どうりで年をとったわけです。

今、最新のI phoneは何と呼ばれているのですか。Iphone10 ?, I phone 11? 私にはわかりません。

私達の身の回りのものはどんどん変化します。どんどん新しくなるのです。しかし、変わらないものがあります。何ですか?私達、人間です。もちろん、年をとれば私達の肉体は変化します。しかし、私達の心は変わりません。エマオの途上の弟子達をHuman5と呼び、私達が Human9と呼ぶことはないのです・・・。

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『エマオの途上を歩く私達』
2020年1月5日

今年もこうして日英合同で新年、最初の礼拝を捧げることができますことを感謝します。私は年末年始にイクイッパ―・カンファレンスという集会に参加し、世界各地から来られた方たちと、とても恵まれた時を過ごしました。

今年のカンファランスのテーマはTrust…どんな時でも主に信頼する!でした。

そこでルカ24章13節―32節に書かれていることをお話ししました。この出来事はイエス・キリストが十字架に磔にされ、殺害された後にエマオに向かう二人の弟子に現れた時の記事です。

13この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、14このいっさいの出来事について互に語り合っていた。15語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。16しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。17イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。18そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。19「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、20祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。21わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。22ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、23イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。24それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」」(ルカ24章13節―24節)。

1989年、Back to the Future 2という映画が公開されました。マイケルJフォックス扮するマーティーが未来の世界にやってくるというストーリーです。当時、20歳の私はその未来の世界に驚きと期待を抱いたのを覚えています。

ところで皆さん、その映画が未来として設定していた日をご存じですか?その未来は 2015年10月21日だったのです。

そう、その未来は私達にとりまして5年前の過去となりました。私達は映画のストーリーを追い越してしまったのです。どうりで年をとったわけです。

今、最新のI phoneは何と呼ばれているのですか。Iphone10 ?, I phone 11? 私にはわかりません。

私達の身の回りのものはどんどん変化します。どんどん新しくなるのです。しかし、変わらないものがあります。何ですか?私達、人間です。

もちろん、年をとれば私達の肉体は変化します。しかし、私達の心は変わりません。エマオの途上の弟子達をHuman5と呼び、私達が Human9と呼ぶことはないのです。

ここに記されている二人の弟子達の心は恐れと悲しみに包まれていました。「このお方こそ」と信じ、全てをかけて従っていたイエス・キリストが処刑されてしまったからです。そんな二人にイエス様は近づき、彼らと共に歩き始めます。

この一年余りの間に、私達は教会に関係する17名の方達を天に送りました。皆さんの中にも愛するご家族やご友人を亡くされた方達がいらっしゃいますでしょう。個人的には、その中に私の妻の妹もおり、また私の母もおります。愛する者を失い、望みを失ってしまうということを私達は経験しました。

まさしく私達も今、エマオの道を歩いています・・・。

イエス様は希望を失い、肩を落とす彼らと共に歩き、彼らにこう語りかけました。25「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。26キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。27こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた(ルカ24章25節-27節)。

イエス様は彼らに聖書全体に(旧約聖書)書かれていることは、「私のことである」と語りかけ、それを彼らに説き明かしたのです。

言うまでもなく、今から2000年前にイエス様の生涯を記録した新約聖書はこの世界にはありませんから、ここで聖書と言われているものは今も私達の手元にある「旧約聖書」のことを指します。そして、その旧約聖書には一度も「イエス・キリスト」という名前は出てこないのです。

しかし、イエス様は聖書は私について書き記しているのだというのです。今日は「小羊」という言葉をキーワードにこのことをお話ししたいと思います。

今からさかのぼること4200年前、紀元前2200年頃、アブラハムはモリアの山にイサクを燔祭の捧げものとすべく向かいました。その道中、イサクは父アブラハムにたずねました。

父よ、火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」(創世記22章7節)このイサクの問いかけは「我々の罪の身代わりとなる燔祭はどこにいるのか?」ということで、この問いかけは、続く旧約聖書全体のテーマとなりました。

このアブラハムとイサクの時から約700年後の紀元前1500年頃、アブラハムを祖先とするイスラエルの民はエジプトの奴隷となり、その奴隷解放のためにエジプトの初子が殺されました。

しかし、神は一家族に一頭、傷のない雄の小羊をほふり、その小羊の血を、その人が住む家の入り口の2つの柱と、鴨居にそれを塗るのであるならば(出エジプト記12章21節、22節)、それが目印となって、その家における初子の死は過ぎこされる、免れると言われました。

そして実際に、小羊の血を柱と鴨居に塗ったヘブルの民たちは神の審判を逃れることができたのです。彼らが神様の罰を免れるためには一匹の傷なき羊の命が必要とされたのです。

さらに出エジプトの出来事から約750年後の紀元前750年頃、イエス・キリスト誕生の750年前、イザヤという預言者が驚くべき預言を書き残しました。イザヤ53章、「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれていく子羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」(イザヤ53章7節)

イザヤはここでほふり場に黙って連れていかれる羊のことを書いています。その小羊は抵抗せずに、殺されると書いているのです。そしてイザヤはその羊を「彼と呼びました」。そして、その彼について、こう言ったのです「その代の人のうち、誰が思ったであろうか、彼はわが民のとが(罪)のために打たれて、生けるものの地から絶たれたのだと」(イザヤ53章8節)

このイザヤの預言から780年が経ちました。今から約1990年前、紀元30年頃です。イエスよりも少し早めに世に出たパプテスマのヨハネは荒野で「悔い改め」を叫び、その彼のもとに続々とやってくる群衆の中にある人を見つけ、彼を指さして、「みよ、世の罪を取り除く神の子羊」と叫びました。

この瞬間、イサクの「はん祭の小羊はどこにいますか」という問いかけ、初子の命が救われるためにエジプトの町の柱に塗られた子羊の血、イザヤが呼んだ「」という小羊が誰なのか明らかになりました。そして、それはイエス・キリストであったのです。

さらにこの「小羊」という言葉はここで終わりません。

聖書全巻の中において一番「小羊」という言葉が出てくる箇所をご存知ですか?それは聖書の一番最後に記されているヨハネの黙示録です。そこには「小羊」という言葉が何と29回も書かれている。この数は尋常ではない。この数は聖書の中でだんとつです。

ここまで、今から4000年前とか2000年前に起きた過去の出来事について話してきましたが、聖書の一番最後の「ヨハネの黙示録」はまだ起きていない、これからの私たちの未来について預言している書物なのです。

そのヨハネの黙示録の一番最後の22章、すなわちこのぶ厚い聖書の一番最後のページにはやがて、私たちが憩う神の国についてこう記しています(22章1節―4節)。

天の国を流れる川は小羊のみ座から流れ、その小羊を人々は礼拝し、その顔を仰ぎ見ているというのです。説明するまでもなくこの小羊とは天におけるアブラハム、モーセ、イザヤ、バプテスマのヨハネが指し示したイエス・キリストであり、このことはこれから起こることなのです。

エマオの途上、イエスはこのように聖書全体の中に記されているご自身についてこの二人の弟子にお話しになられたと想像します。

そして、かの二人の弟子はイエス様が自分たちの傍らを歩いていてくださったことを思い起こし、こう言いました。

32彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」(ルカ24章28節―32節)。

彼らはその道々、何をイエスから聞いたのか。イエス様は聖書を解き明かされ、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされたのです。

このことは何を物語っているのか。「私は初めから終わりまであなたと共にいるのだ」というメッセージです。全ての事は神の御手の中にあるというメッセージなのです。そして、彼らがそのことを聞いた時、彼らの心は燃えたのです。

彼らは悟ったのです。私の人生も一部を切り取って結論づけることではない、私の人生もその全体をもって受け止めるべきものなのだと。

そして、このことは彼らだけではないのです。彼らの心はそのまま私達の心となるのです。今日、お話ししたことを整理して聖書の出来事と私達について言い表すのならこういうことになるのです。

~天地創造

~BC2200年頃(モリヤの山でのイサクの犠牲)~

~BC1500年頃(出エジプトの鴨居)~

~BC750年頃(イザヤ53章)~

~AD30年頃(バプテスマのヨハネの証言)~

~AD30年頃-33年頃(イエス・キリストの公生涯)~

~AD2020年1月5日(今日の私達)~

~???(ヨハネ黙示録)~

そう、私達はこの神の時の中の今を生きているのです。あなたが生まれてからこの方、これまでに通ってきたこと、今、直面していること、そしてこれから経験するであろうこと、全ては神の御手の中にあり、そこから私達がもれることは決してないのです。

この世界の歴史の始まる前から、この世界が終わる時にまで神はこの世界を見つめ、私達と共にこの人生の旅路を歩き、私達に聖書の言葉の解き明かしをもって、私達を支え、力添えをくださるお方です。

このことを心にかみしめる時、私達の心は燃えてきませんか。それは一気に燃えつきてしまう炎ではない、決して鎮火してしまうことがない、私達の心の中で燃え続ける炎です。

確かに我々は皆、時間の枠の中に生きている。私達の人生の全てはこの枠の中にあるのだ。墓石にはいつの日か私達の生きながらえた時が刻まれる。そして、その誕生と死の間の時は全て神の御手の中にあるのだ。

その間に何が起きても、すなわち、どんな時でも神の御手から我々がこぼれおちることなどないのです。一時も離れることなく、主は私達と共にあり、神の言葉の全体を語り続けてくださるからです。

ここに私達がこの世界をあきらめない、この人生を捨てない、根拠があるのです。そうです、私達は自分の人生に降りかかる一つの出来事に心が捕らわれるべきではなく、神の御手の中にある、神のみわざの全体を見つめるべきなのです。

私達のエマオの道のりにおいても主イエスは我らの牧者として、私達と共にこのエマオの道を歩いてくださる。そして、私達が様々なことに直面する時に、その度に神の言葉を語りかけ、解き明かしてくださる。

私達は時にうなだれる。打ちのめされる。しばし、前に進めないこともある。しかし、主は私達を離れない。そして、神の言葉を解きあがし続ける。私達はこの主の言葉を聞き、心が燃やされ、再び歩き続けるのです。

新しい一年、この先に何が起こるか私達には分かりません。全ての事は変化していきます。しかし、その中で、この神のはたらきを思い起こしましょう。時代がどうなろうとも、私達には微動だにしないものがあるのです。この世界もあなたの人生も全て神の御手の中にあるのです。

心を尽くして主に信頼せよ、自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を畏れて、悪を離れよ(箴言3章5節7節)。

お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2020年1月5日

1)聖書に登場する人間と私達の心のあり方に何か違いがありますか。私達の心は進化してさらに良き心になっていますか。

 

2)ルカ24章13節―24節を読みましょう。彼らは何を悲しんでいたのでしょうか。彼らの心にあった思いはどんなものだったのでしょうか。

 

3)あなたも私も今も「エマオの途上」を歩いています。あなたはどんな思いでこの道を歩いていますか。

 

4)この二人の弟子にイエス様に近づき、彼らと共に歩きはじめ、語りかけました(ルカ24章25節-27節)。なぜイエス様はその時に「聖書全体からご自身について書いてあること」を弟子達に語られたと思いますか。

 

5)「小羊」をテーマに聖書は何を私達に示していますか。アブラハム&イサク(創世記22章7節)、出エジプト(出エジプト記12章21節、22節)、イザヤの預言(イザヤ53章)、バプテスマのヨハネ(ヨハネ1章29節)、ヨハネの黙示録(22章1節―4節)。

 

6)上記の聖書の記述は以下のことを明らかにしています。

~天地創造

~BC2200年頃(モリヤの山でのイサクの犠牲)~

~BC1500年頃(出エジプトの鴨居)~

~BC750年頃(イザヤ53章)~

~AD30年頃(バプテスマのヨハネの証言)~

~AD30年頃-33年頃(イエス・キリストの公生涯)~

~AD2020年1月5日(今日の私達)~

~???(ヨハネ黙示録)~

あなたの人生は全て神の御手の中にあるということを知る時に私達は何を感じますか。このような人生を生きているあなたはどう生きるべきですか。

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