クレイジーラブ

我々日本人は「1つを言われて10のことを察する」と言われています。さすがに10は無理でも、一つのことから、その他2つ、3つのことを察して、互いの関係を保っています。

これができると「空気が読める人」と呼ばれ「気が利く人」と評価され、これができないと「空気が読めない人」と呼ばれ「気が利かない人」とされます。こういうことをサラリとやってのける人を「粋な人」といい、それができないと「野暮な人」と言われます。

しかし、察することにも限界があります。なぜなら、それはあくまでも私達の感覚であり、そこから具体的な、そして確信的な指針を得ることはできないからです。私達の互いの関係は「気配を感じとる」とか「察する」ということだけでは成り立ちません。

元旦にのぼる太陽から「職場で直面している人間関係の難しさ」や「夫婦の間に抱えている問題」をどうしたらいいのかという具体的なメッセージを聞くことはありません。「気配」だけで人生の諸々の大切なことを決めていく人はいないでしょう。

そうです、それでは私達には何が必要なのでしょうか。それは「言葉」です。「言葉」がなければ私達は互いの思いを相手に伝えることができないのです。また相手の思いをはっきりと理解することもできないのです。

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クレイジー・ラブ
2020年12月15日

私達日本人の宗教心とは「気配の宗教心」だということを聞いたことがあります。たとえば山に深く入れば、そこに何かしら人間を超えた気配を感じたり、ふっと祖先が傍にいるような気配を感じたり、身の上に不吉なことが起こると、これまた悪しき霊の気配を感じるというのです。

日本では「パワースポット」という、そこに行くと何かしらのパワーを感じるというような場所があり、それをわかりやすく説明している地図が売られたりしています。そして、このスポットはもはや日本国内にとどまらず、例えばアリゾナ州にもパワースポットと呼ばれているセドナという場所がありますが、そこも日本人の間では秘かに人気の観光地となっているようです。

元旦の朝、極寒の中、多くの人達は初日の出が出てくるのを待ち、陽が昇り始めると、それに手を合わせます。その時、太陽は燃え盛る火の塊なのではなく、神聖さを感じさせる崇拝の対象となるのです。

クリスチャンの方達が「ご来光を眺めてきました」と言っているのを聞くことがあります。その方は深い意図なく「ご来光」と言っていると思うのですが、「ご来光」という言葉にはどこか太陽を神聖なものとして感じているという意味が含まれているのではないかと思います。意識することなく、そのような言葉を使ってしまうほどに私達日本人には「気配の宗教心」というものが心に沁みついています。

この度、母を訪ねさせていただき、毎日、彼女のベッドの傍らにおりました。いつ召されてもおかしくないと言われていましたので、ずっと母の横顔を、特に小さく息を吸い、そして、小さく息を吐いている彼女の口元を見つめていました。

創世記には神が天地を創造され、諸々の生き物を作られたということが書かれていますが、そこに最初の人間、アダムを作った時のことがこう記されています。『主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった』(創世記2章7節)

この創世記の言葉によれば88年前に神様は神の息を彼女に吹き込んでくださり、それにより彼女は生きる者となりました。以来、いったい幾つの呼吸がなされたかは分かりませんが、この88年間、それは止まることなくなされ続けました。このように考えますと一回、一回の呼吸というものがなんとありがたいものなのかと思わされます。

人が亡くなると「息を引き取る」と言いますが、まさしく、人に息を吹き入れた神がその息を引き取ります時に、私達は神のもとにかえります。

創世記によりますと、この「命の息を吹き込む」ということは他の動植物の創造においては触れられていません。そのことは神様が人間と他の生き物との間に明確な区別を置いたことを暗示しています。

よく自分の恩師の薫陶に預かっている人に対して、あの人は「○○先生の息のかかった人だ」と言います。その意味するところは、それゆえに○○先生の考え方、生き方を継承している人だということを意味します。

創世記によれば「全ての人間は神の息がかかった者」です。しかし、多くの者たちはそのことを知らずに、考えもせずに、あたかも自分でこの命を獲得したのだというような顔をして、命の源なるお方を脇に置いて生きています。

人間は誰しもが神の息がかかった者でありますから、この世界で神聖なるものを感じる感覚というものが私達には予めインプットされているのです。ですから、地球上、どこに行きましても、いかなる民族も宗教心を持ち合わせているのです。

我々日本人は「1つを言われて10のことを察する」と言われています。さすがに10は無理でも、一つのことから、その他2つ、3つのことを察して、互いの関係を保っています。

これができると「空気が読める人」と呼ばれ「気が利く人」と評価され、これができないと「空気が読めない人」と呼ばれ「気が利かない人」とされます。こういうことをサラリとやってのける人を「粋な人」といい、それができないと「野暮な人」と言われます。

しかし、察することにも限界があります。なぜなら、それはあくまでも私達の感覚であり、そこから具体的な、そして確信的な指針を得ることはできないからです。私達の互いの関係は「気配を感じとる」とか「察する」ということだけでは成り立ちません。

元旦にのぼる太陽から「職場で直面している人間関係の難しさ」や「夫婦の間に抱えている問題」をどうしたらいいのかという具体的なメッセージを聞くことはありません。「気配」だけで人生の諸々の大切なことを決めていく人はいないでしょう。

そうです、それでは私達には何が必要なのでしょうか。それは「言葉」です。「言葉」がなければ私達は互いの思いを相手に伝えることができないのです。また相手の思いをはっきりと理解することもできないのです。

「お腹すいたな~、さぁ、この気配を感じて食事を準備してくれ」とか、「私は今、落ち込んでいるの、この空気を察して慰めてちょうだい」と心の中で念じても、そのことが相手に伝わることはありません。

なぜ、神様は私達の身体に耳と口をとりつけたのでしょうか。私達が口で言葉を語り、耳でその言葉を聞くためです。

このことゆえに神様は天地創造を始めるにあたり、その創造を全て言葉によってはじめました。聖書の第一ページ、その冒頭に書かれているとおりです『神は「光あれ」と言われた。すると光があった』(創世記1章3節)。以後、神は「言葉」を通して天地万物の全てのものを創造され、さらにはその言葉をもって、人との関わりを持ち続けたのです。

そして、そのことゆえに今、私達の手元にはその膨大な神の言葉を記録した聖書があるのです。今日、全世界に数多くの教会があるのは、キリスト教が「言葉」を中心としているからです。

もしこの「神の言葉」がなく「神の気配」だけしかないのなら、キリスト教なるものは誕生していないでしょうし、たとえ誕生したとしても早々に失われていたことでしょう。「気配」に人の人生を根本から変える力はありません。

これらのことを踏まえて、イエスの愛弟子、ヨハネは神が言葉をもって人との関わりをもとうとしているということを熟考して、その書を書き始めるにあたり、その冒頭にこう書き記しました。

1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は初めに神と共にあった。3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった(ヨハネ1章1節‐5節)。

ヨハネが「初めに言葉があった」と言った時、彼の心には先にお話した天地創造における神の言葉が(創世記1章3節)念頭にあったことでしょう。彼はその言葉こそが神であり、その言葉には命があり、その言葉により全てのものができたと言ったのです。

ぶ厚い聖書は旧約聖書と新約聖書の二つに区分されています。旧約聖書において神様はその姿を人に見せることはほとんどありませんでした。しかし、その代わりに神は選ばれた王や預言者を通して、その御心を言葉にして彼らに託し、彼らはその神の言葉を預かり、それを民に取り次ぎ、語りました。

すなわち神は気配によるのではなくて、その言葉をもって具体的にご自身の想いを人に伝えたのです。そしてヨハネが記すように、その言葉には命があり、それは人の光となりうるものでした。その言葉が私達の足を照らす光となるはずだったのです。

当時、その神の言葉の代表的なものは「律法」でした。律法とは「これをしてはならない」「こうしなければならない」というルールです。その言葉は私達、人間があるべき生き方を具体的に語りかけました。

神様は彼らが幸いに生きるようにと、この言葉に積極的に従うこと、そして超えてはならない一線を語り続けました。その言葉に従っている限り、あなた方は命を得、またそれはあなた方の幸いとなるだろうと人に語り続けたのです。

その神の言葉の代表的なものは「十戒」で、そこには私達が守るべき言葉が十、並べられました。人はそれを受けて、自分が何をすべきなのか、何をすべきではないのかということを知りました。そして、それを守ろうとしました。

しかし、その結果、数千年をかけてはっきりと分かったことは私達人間というものは、心に罪があるために、それを守ることができないということでした。旧約聖書はその神の言葉に従い得ない人間がどのような道を歩くことになるのか、その歴史が記録されていると言っても過言ではありません。

神様は繰り返し、繰り返し人に言葉を語り続けました。しかし、人はその言葉を聞くことなく、己が道をその欲に従い歩みました。そして、そこにはいつも混乱と破滅がともないました。そのような時が何千年も続き、ある時、神様は次なることをなされました。

そのことはベツレヘムという誰も注目することのないような小さな寒村で人知れずに起きました。そのことを先に取り上げたヨハネはこう記しています。

14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた(ヨハネ1章9節‐14節)。

ヨハネがここで言っている「言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」ということは、私達がこのクリスマスのシーズンに街中や近所の家に飾られているあの光景のことなのです

この出来事をルカは具体的に記録しました。その一つとしてベツレヘムの草原に野宿していた羊飼いに語った御使いの言葉をこのように書き記しました。

10「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。 このかたこそ主なるキリストである。12あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。(ルカ2章10節‐13節)。

 このルカの言葉で皆さんが理解できないことがありますか。私達はここに記されていることをイメージすることができます。なぜなら、この出来事は天で起きた出来事ではなく、私達が住んでいるこの地球で起きたことだからです。

ルカが記しているように、当時、その場に居合わせた者達はその幼子の気配を感じたのではなく、確かに飼葉桶に寝かされた幼子が布にくるまれて寝かされているのを実際に見たのです。それはまさしく言葉が肉体となった姿でありました。その光景を御使いは私達に与えられる、私達が見て、理解することができる「しるし」であると言ったのです。

かつて燃える柴の中から、つむじ風の中から、月や星を通してその気配を人に感じさせ、言葉を語り続けた神は私達が見ることができる、触れることができる人の子の姿をとられたイエス・キリストを私達の前に置かれたのです。

ここにクリスマスの祝福があります。言葉なる神は私達が見て理解できる人の姿としてその一人子イエス・キリストをこの地に送ってくださったのです。

主人公の名前をそのままタイトルにした「John Q」という映画があります。この映画を見るたびに私は泣きます。主演の父役はデンゼル・T・ワシントンです。

舞台はシカゴ郊外。決して裕福ではない夫婦と一人息子がいます。ジョンは工場のフルタイムからパートタイムに格下げされ、妻も仕事をしつつ家計をささえる。

生活は苦しく、つつましい生活をしているけれど、家庭は温かく、彼らの言動の節々に彼らがクリスチャンであることが分かります。彼らにとっての楽しみと喜びはその年、12、3歳の一人息子の成長。ある日、その息子が所属する野球チームの試合を夫婦で観戦中、ヒットを打って、ベースを走っている息子が突然、倒れます。

ジョンは息子に駆け寄り、彼を抱きかかえすぐに病院へ。診察の結果、分かったことは息子には心臓移植が必要だということ。すぐに自分の保険会社に問い合わせます。しかし、彼は最近、パートタイムになっていたために、もはや彼の保険は手術に適応されず、国からの支援もなく、家の家財を全て売り、職場の仲間たちはカンパをしてくれるのですが到底、莫大な心臓移植の費用には足りません。

入院費用が払えないのなら、これ以上は入院させておけないと病院からは迫られます。デンゼルは精一杯、自分のできることをしようとすますが、多額な医療費を前にしては微々たるもの。息子は日に日に死に近づきます・・・。

その時にジョンが何をしたと思いますか。彼は銃をとり、息子が入院している病院に立てこもったのです。そして、息子に手術を受けさせるように訴えるのです。

 彼は善良な市民。誰かに危害を与えようとは最初から考えていません。ただ息子の命を救うために彼は病院にたてこもり、心臓移植を要求したのです。でも移植者がいない。心臓移植はその移植がなされる数時間前に何かしらの理由で亡くなられた方の心臓が必要だからです。息子は昏睡状態。いつどうなるかわからない。ジョンは追い込まれます。

そこで、彼は人質としている心臓外科医に迫り、言います。「今から俺が自分の頭に弾丸をぶち込むから、その俺の心臓を息子に移植してくれ」。幸い、彼の心臓は息子に移植できるものでした。

当初、医師は医療倫理上、それはできないと拒否しますが、最後にはジョンの願いを聞きます。片手に自分の頭をぶちぬく銃を持ちながら、ベッドに眠る息子に父としての最期の言葉を語りかけます。

「まず、母さんの言うことをいつもよく聞くこと、将来、出会うだろうパートナーをプリンセスのように大切にすること、悪いことからは遠ざかること、父さんは絶対にお前を一人にはしない、いつもお前の心の中にいる・・・」。

そして、ガタガタと震える手に握った銃口を自分の口に入れ、引き金を引こうとします・・・。ここから先は映画をみてください。

この一人の息子の父、ジョンの“やり方”を観る時に私は一人子を飼い葉おけに寝かせることを良しとした父なる神の心を思うのです。なぜ?それはジョンの“やり方”がわが子を救うために手段を選ばなかったように、神様も私達を救われるために、その手段を選ばなかったからです。

時に愛は言葉を超えます。愛とは言葉だけではなく、とんでもないことをするということをこの映画は私達に見せています。同じように神は言葉を私達に語るのみならず、とんでもないことを私達のためにされました。それは神の言葉が肉体をとって、この地に生まれたということなのです。

創造者が被造物としてこの地にお生まれになったということ、このとんでもないことをヨハネ3章16節がこう書き記しているではありませんか。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。

人に優しくしたり、労りの心をもつことは愛です。しかし、愛がさらに、さらに強いものとなる時に愛はどのような形をとるか知っていますか。愛は愛する者のために手段を選ばなくなります。「体裁を考えないと」と言っている間はまだ究極の愛には達していないのです。

神が人のためにイエス・キリストを送られたこと、私達はそれをありがたいと思うことでしょう。しかし、それがどんなことなのか、私達人間は完全に知りえないでいます。それほどに神の御心と私達の思いはかけ離れているのです。

このことをおそらく一番、よく分かっていたのは天において神に仕えている御使いであったことでしょう。彼らは神のお心を一部始終、見聞きしているからです。

いよいよ神が一人子イエスをこの地に、生活能力すらも持ち合わせていないような年若きマリアの胎に宿らせ、人すらもわが子を置くことなどない飼い葉に寝かそうとした時、神を知る御使いは思ったに違いない。

「ああ、わが大いなる神よ、あなたはなぜそんなとんでもないことをこの神の国の王子になさるのですか?。あんな地べたをはいつくばっている者達に対して、そこまでする必要がどこにあるのですか。彼らのどこにそんな価値があるのですか?」

神は御使いにこう答えるでしょう。「私は彼らを愛しているのだ。彼らは地上での生涯がどんなに短く、それが一時的であるかを悟ることができない。しかし、お前たちは分かるだろう、それは確かに瞬きに過ぎないことを。私は彼らがそのことに気がつこうが、気がつかまいが、彼らが一人も滅びることなく、私と共にここで永遠に生きることができるように、彼らの罪の身代わりとなるイエスをあの処女の胎に宿らせるのだ」。

それは御使いには正気の沙汰とは思われないクレイジーと思われることでした。しかし、愛が行きつくその極みには私達がクレイジーと称する愛があるのです。

皆さん、この愛は気配や感覚だけで知ることはできません。そのことは、私達が見て理解できるしるしとして、この地に起き、そしてそれは言葉によって今日、私達に語られているのです。

このクリスマス、皆さんに何よりも知っていただきたいことは、神は皆さんを愛し、愛し、愛し、そして愛するがゆえに、私達には到底理解のできない、考えられない、想像できないことを2000年前になされたことなのです。

神様がありったけの想いを、私達に示された、このクリスマスのクレイジーなギフトを今日、ここに集った私達一人一人がしっかりと受け取ることができるようにと心から願ってやみません。

この神のギフトは私達がこれからどんな人生の局面に立つことがあっても、私達を支え、私達を生かし続けることでしょう。このギフトは喜びなど起こりえない時に喜びを、感謝なと沸きえない場所に感謝を、祈りなど成しえない時に祈る心を私達に与えてくれることでしょう。

これらのことは到底、常識では理解できないことのように思われます。しかし、覚えてください、私達が受け取った愛は神のとんでもない愛なのですから、私達の生涯にも常識を超えたことが起きてくるのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2020年12月15日

1)日本人に見受けられる宗教心にはどんなものがありますか。「気配を感じる宗教心」の限界は何ですか。

 

2)「神様から命の息を入れられて人は生きたものとなった」(創世記2章7節)ゆえに人が持ち合わせている性質にはどんなものがありますか。

 

3)『神は「光あれ」と言われた。すると光があった』(創世記1章3節)と記されているように、神様は言葉で天地万物を創造されました。私達の信仰にとって神の言葉はなぜ大切なのですか。

 

4)旧約聖書では神様は律法(言葉)をイスラエルに語りました。しかし、彼らはその律法(言葉)を守ることができませんでした。なぜ人は神の言葉に従うことができないのでしょうか。

 

5)「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1章14節)は何を意味していますか。なぜイエス・キリストは肉体を伴ってお生まれになったのですか。

 

6)クリスマスの出来事にはなぜ神の「クレイジー・ラブ」があらわされているのですか。

 

7)究極の愛とはどんなかたちをもちますか?

 

8)神の愛を受けて生きることはなぜ大切なのですか。

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