ダイナマイト!

ある科学者がある物質と他のものを化合するという実験をしていました。そうしましたら、実験室が爆破されてしまいました。彼は自分は「とんでもないものを発明してしまった」と思ったそうです。そして、彼はその発明したものにこのローマ人への手紙1章16節の「デュナミス」という名前をつけました。今日、私達はその発明品をダイナマイトと呼びます。そう、この科学者とはノーベル賞の名前にもなったアルフレッド・ノーベルです。

この「デュナミス」は先ほど読みましたコリント第一の手紙1章18節において「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」と書かれている「神の力」に使われているギリシア語です。

私たちがイエス・キリストの十字架の前にありのままの自分で立つ時に、本来、固い岩のような心を持つ私たちの魂の奥底において、このキリストの愚かさというダイナマイトがその心を砕き、イエスにある救いが明らかにされるのです・・・。

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ダイナマイト! 2017年7月16日

ローマ人への手紙1章14節から17節を読みましょう。

14わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。15そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。16わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。17神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである』(ローマ1章14節ー17節)。

私たちはパウロという人が書いた「ローマ人への手紙」を先週から見ております。ユダヤの寒村ベツレヘムで生まれたイエス・キリストの教えがパウロによって、世界に広く伝えられようとしていました。ガリラヤの漁師や取税人、遊女たちにイエス・キリストによって語りかけられた言葉がローマにもおよぼうとしていたのです。

このことを伝えるためにパウロはその相手が誰であろうとも、自分が信じている「福音を恥としない」という心構えをもって臨んだということを先週は見ました。そして、今日の箇所においてパウロは福音にはユダヤ人にもギリシア人にも、未開の人にも救いを得させる神の力があると書いています。

ギリシア人は「知恵を愛する人間」の代表です。ユダヤ人は数千年来「唯一の神を信じ続けてきた人間」の代表です。そして、未開の人というのは、「この人達以外の人間」です。この三種類の人達、すなわち全ての人に対して私は福音を伝える責任があるのだとパウロは言いました。彼はこの福音には全ての人に救いを得させる力があるという確信を持っていました。

そしてその「いかなる人達」の中には「私達」も含まれています。聖書は2000年前に書かれた古文書ではなくて、私たちの生涯に関わる命の言葉として、私たちにも迫ってくるのです。今、読みましたことに関連してパウロはコリント第一の手紙1章18節―25節でこんなことを書いています。

18十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。19すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。20知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。21この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。22ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。23しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 24召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

この手紙の背景にはパウロがギリシアのアテネの街中で経験したことが土台にあります。すなわち、かつてパウロはギリシア、アテネの街の中を歩いていたことがありました。その時パウロは「市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた」(使徒行伝17章16節)と聖書は記しています。すなわち、その様は「台所の神様」とか、「安産の神様」とか、果てには「トイレの神様」というような人の手によって作られた神々が日本のあちこちにあるように、パウロもそれと似たような光景をアテネの街中で見たのです。

ゆえに、このことに対してパウロは広場で行き交う人達と論じ合いました。当時のアテネは世界の学問の中心でした。すなわちパウロはその時代の知者達と論じ合い、彼らにも分かるように精力的にイエス・キリストを伝えました。新約聖書の使徒行伝によれば、アテネの人々は何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることにいつも関心があったようで、パウロの姿は彼らの好奇の目にとまったようです。

そこで、彼らはパウロをアレオパゴスという丘に連れてきました。その丘は私達の知る、アリストテレスやプラトン、ソクラテスとうような哲学者たちが議論をした場所であると言われています。そうそうたる知識人が議論の場とした丘の上でパウロは知的な論客を前にイエス・キリストについて話したのです。

しかし、その結果はといいますと幾人かの人はパウロの言葉を受け入れたのですが、特にその話がキリストの復活についてになりますと、多くの者はパウロをあざ笑い「このことは、またいずれ聞くことにする」(使徒行伝17章32節)と言い去っていきました。このようにアテネは彼にとって伝道の成功をおさめることができた地ではなかったようです。

また、ここに記されている唯一の神を信じているユダヤ人達は「しるし」を求めていました。何千年もの間、彼らは創造主なる神の存在を信じていたのですが、その神に彼らは常にしるし、すなわち奇跡を求めていました。ユダヤ人は自分達の常識を超えたしるしを神に求め、それを見せてくれるのなら信じるというような思いを持っていました。ですから、イエス様ご自身もかつてユダヤ人に向かい「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないであろう」(ヨハネ4章48節)と言われていたのです。

こう思う時にこのギリシア人とユダヤ人の特性がミックスされたのが私達日本人のように思えます。私たちは世界において高い教育を受けることができる環境におります。子供の教育番組や教養を高めるテレビ番組をいつも日本のテレビは流しています。しかし、反面、世界最高のテクノロジーを持ちながら、常識を超えた現象に尽きない興味を寄せているのも日本人なのです。スピリチャルなものへの関心はあまり他国では見かけないほどに大きく、世界で起きている超常現象とか、アンビリーバブルなことをテーマにしたテレビ番組が高視聴率をとっている国が日本なのです。我々は確かにギリシア的、ユダヤ的性質をもっているのです。

しかし、パウロはここでそうなんだ、「しるし」と「知識」によって神を知ればいいのだとは言っていません。彼はユダヤ人はしるしを、ギリシア人は知識をと言う。しかし、私は十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言っています。そして、その十字架によるところの救いについてパウロは「そこで、神は宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされた」(Ⅰコリント1章21節)と言っているのです。

 なぜパウロは十字架は愚かなものだと言っているのでしょうか。23節の後半には「このキリストはユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなもの」と書かれています。

ユダヤ人にとって神とは天地創造の至高の存在であり、人の常識を超えた方であり、思いもよらない素晴らしい奇跡をなして下さるお方でありました。その神が、名もなき大工の息子として片田舎のガリラヤに現れて、そのうえ彼らの間で「木にかけられる者は呪われる」と言われていた十字架にかけられた人などは目も向けたくない人であり、そんな人をメシアとするなどどいうことは狂気の沙汰としか考えようがなかったのです。このユダヤ人にとっての「躓(つまづ)き」という言葉には「不快、侮辱」という意味があったのです。同じ民族から十字架にかかる者が現れるということは彼らにとって最大の侮辱であり、この上もない不快なことだったのです。

ギリシア人にとっては十字架は愚かなものでした。いわゆる知者と呼ばれる人にとっては、人間の罪の責任は各人が負うものであり、他人がこれを負うなどということは、馬鹿げたことでありました。ゆえに彼らにとって、全人類の身代わりとなって、十字架で死なれたイエスというような話は滑稽に思えたのです。

それではイエスはユダヤ人を満足させるようなしるしの出来ないお方だったでしょうか。大いなる不思議をもって、群集を惹きつけることできないお方だったでしょうか。いいえ、イエスは二匹の魚と五つのパンをもって、5000人を養うことが出来たお方です。

イエスはギリシア人が求め喜ぶ知恵を提供できないお方だったでしょうか。イエスが口を開く前に、大群衆がその話しを聞くために多くの町々からやって来ました。子供から大人まで、食事すらも忘れるほど、イエスの話しに聞き入っていました。話し終え、立ち去ろうとした時も、その群集はぞろぞろとイエスについて行ったのです。子供も大人も惹きつけて止まない話をすることができる、しかもそれは神の領域の話であり、本来、高尚なものであるはずですが、それをあらゆる年代の者達に解き明かすことができる知恵をイエス様はもっていました。

このように人の「しるし」にも「知恵」にも答えることができるお方であるにもかかわらず、イエス様は十字架へと続く道を歩まれたのです。なぜでしょうか。

人間の救いは罪からの救いにあるというお方をイエス様は知っていたからです。私達に起こる問題は全て人の心が発信源です。親が子を、子が親を、祖父母が孫にどんなに悲惨なことをしても、もはや驚かない時代となりました。一番、身近な血の繋がりのある人に対してさえも人はとんでもないことをしかねないのであるならば、いかなる人にもその矛先は向けられています。これらはその人の性格の問題、環境の問題ではなく、その人の罪の問題です。

この罪はあえて新聞の事件欄を見なくとも、私達の心を真実に見つめれば見えてきます。妬み、怒り、つぶやき、欲望・・・。新聞に書かれている人達はこの誰の心にもある思いを具体的に行動に移してしまった人達であり、新聞にその名が掲載されていない人達は心にある思いを具体的に行動に移さなかった人達です。

この私たちの心にある問題が、私達人間の問題です。核を積んだミサイルが発射され、どこかの国に落ちる時、そこでどんなことが起きるかを知っていながらも、それでもボタンを押すことをちらつかせるという現実・・・。その背後にいるのは化け物とか妖怪ではなく、私達と同じ人間がそのスイッチを握っているのです。

神が解決を与えようとしていることはこの人の心にある罪の問題です。そして、その罪からの救いをなすために神が選ばれた方法は「神の愚かさ」によるのだとパウロは言っているのです。そう、神は愚かと思われる方法により、それを信じる者を救うこととされたのです。考えも思いもしなかった愚かさ、すなわち神の一人子、イエス・キリストが十字架に磔にされるということ、ユダヤ人も、ギリシア人も「なんと愚かな!」と思うような方法を通して、イエス・キリストは私達の罪の身代わりとなり、私達に救いをお与えくださったのです。

1963年3月31日、東京都台東区入谷町当時四歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、身代金50万円が要求される事件が起きました。この時、日本ではじめてテレビを使った公開捜査が行われ、吉展ちゃんの写真が連日のように放送されました。しかし、吉展ちゃんはその日のうちに殺され、お寺の墓地に埋められていました。この事件の捜査は困難をきわめましたが、犯人の小原保が捕まったのは、二年後、1965年7月のことでした。

この犯人、小原保の母トヨさんは、次のような手記を残しています「村越様、ゆるしてください。わしが保を産んだ母親でごぜえます。保が犯人だと聞いて、吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、あまりの非道に足がすくんでだめです。ただただ針のむしろに座っている気持ちです。・・・保よ、だいそれた罪を犯してくれたなあ。わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、おまえをかわいがっていたつもりだ。お前はそれを考えたことはなかったのか。保よ、おまえは地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする。とうか皆様、ゆるしてくださいとは言いません。ただこのお詫びを聞き届けてくださいまし」。

この手記を読む私たちには母トヨさんの苦しみが伝わってきます。今や殺人犯となった息子。でも、トヨさんはその息子の母親なのです。息子がしたことに対して、彼女は「地獄へ行け」と言います。しかし、彼女は「わたしもあなたと一緒に行くから」というのです。

彼女は母親として息子の罪を共に背負っていこうという覚悟を持っていました。しかし、彼女が息子をその罪から解き放って、その罰の代わりを受けることはできないのです。

知恵のあるギリシア人にとって、人の罪を誰かが身代わりとなり、その罪を無罪とするようなことは考えられませんでした。しかし、そのことをなしてくださったのがキリストの十字架なのです。

ユダヤ人はしるしを求めました。旧約聖書に記録されているように、天から火を降らせるような事を彼らは期待していたのです。しかし、神の一人子イエスが人間の罪のために十字架にかかられ、私たちの罪の全てが完全に赦されるということ、これ以上の奇跡はありません。

まさしくパウロが指摘しているように、キリストは実に神の愚かさをもって私たちに救いを示してくださったのです。キリストは私達のために、罪に対する刑罰として、地獄の底にまで落ち込むかのようにして私たちを救って下さったのです。

ある科学者がある物質と他のものを化合するという実験をしていました。そうしましたら、実験室が爆破されてしまいました。彼は自分は「とんでもないものを発明してしまった」と思ったそうです。そして、彼はその発明したものにこのローマ人への手紙1章16節の「デュナミス」という名前をつけました。今日、私達はその発明品をダイナマイトと呼びます。そう、この科学者とはノーベル賞の名前にもなったアルフレッド・ノーベルです。

この「デュナミス」は先ほど読みましたコリント第一の手紙1章18節において「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」と書かれている「神の力」に使われているギリシア語です。

私たちがイエス・キリストの十字架の前にありのままの自分で立つ時に、本来、固い岩のような心を持つ私たちの魂の奥底において、このキリストの愚かさというダイナマイトがその心を砕き、イエスにある救いが明らかにされるのです。

小原保の母、トヨさんは息子に言ったのです「地獄に行け」。息子のしてしまったことの重大さを知る母の厳しい言葉です。そう、彼がしでかしてしまったことにはその母をして「お前は地獄に行け」と言わしめるようなことだったのです。

私たちも本来、自分の罪ゆえに神の前に立ち、裁かれなくてはなりませんでした。まさしく、神の前に「有罪」として「永遠の滅びに行け」と言われてしまう者でありました。しかし、イエス様は私達にそうはさせなかったのです。「私があなた達の罪を全て負い、私があなたに代わり罰せられよう。このことゆえにあなたたちは神の子として、天の御国の世継ぎとなりなさい」とイエス様は私達に言われるのです。

パウロはこのダイナマイトを携えて世界に出ていき、その絶大なる力により、多くの者達がキリストの十字架を信じ受け入れるにいたったのです。そして、神様は今日もその「十字架の愚かさ」というダイナマイトをもって、私達の心に迫ってきます。昔と変わらず今も十字架にはそれだけの力があるのです。どんなに私達の心が固くても、この十字架の愛は私達の心を砕く力があります。いかなる人もこのダイナマイトなる力により、神の子と変えられるのです。お祈りしましょう。

Dynamite!   July 16, 2017

Let’s read Romans 1:14-17.

14 I am obligated both to Greeks and non-Greeks, both to the wise and the foolish. 15 That is why I am so eager to preach the gospel also to you who are in Rome.16 For I am not ashamed of the gospel, because it is the power of God that brings salvation to everyone who believes: first to the Jew, then to the Gentile. 17 For in the gospel the righteousness of God is revealed—a righteousness that is by faith from first to last, just as it is written: “The righteous will live by faith.”

We have been looking at the book of “Romans” by Paul. The teachings of Bethlehem-born Jesus were about to be spread to the world. The words that were spoken to fishermen, tax collectors, and prostitutes in Galilee were about to reach the Roman Empire.

Last week we talked about how Paul was “not ashamed of the gospel”, in order to spread the gospel. This week we are looking at Paul’s statement that the gospel has the power to save Jews, Greeks, and non-Greeks.

The Greeks are characterized by their “love for wisdom”. The Jews are characterized by their “faith in the one and only God for thousands of years”. The non-Greeks are “everyone else”. Paul said he had an obligation for these three groups of people, or in other words-all of humanity. He had confidence that the gospel held the power to save all people.

And in this address, we are also included. The Bible is not just an old book written 2000 years ago, but also the word of life for our lives. Paul also writes this in 1 Corinthians 1:18-25.

18 For the message of the cross is foolishness to those who are perishing, but to us who are being saved it is the power of God. 19 For it is written: “I will destroy the wisdom of the wise;
the intelligence of the intelligent I will frustrate.”20 Where is the wise person? Where is the teacher of the law? Where is the philosopher of this age? Has not God made foolish the wisdom of the world? 21 For since in the wisdom of God the world through its wisdom did not know him, God was pleased through the foolishness of what was preached to save those who believe. 22 Jews demand signs and Greeks look for wisdom, 23 but we preach Christ crucified: a stumbling block to Jews and foolishness to Gentiles, 24 but to those whom God has called, both Jews and Greeks, Christ the power of God and the wisdom of God.25 For the foolishness of God is wiser than human wisdom, and the weakness of God is stronger than human strength.

Behind this letter is Paul’s experience in Athens, Greece. Paul has walked in the city of Athens before, and it is written in Acts that, “he was greatly distressed to see that the city was full of idols” (Acts 16:16). The city was full of gods, like the “god of the kitchen”, “god of safe delivery”, and even a “god of the toilet”. Similar to the handcrafted idols in Japan, Paul witnessed the same kind of scene in Athens.

And against these idols, Paul debated with people in the city. At the time, Athens was the center of intellect. In this city, Paul spoke energetically of the gospel. According to Acts, the people of Athens were always interested in new ideas, and listened to Paul with curiosity.

The people of Athens took Paul to the hill of Areopagus. Famous philosophers like Aristotle and Plato also have had discussions here. Paul shared about Jesus on this hill where many intellects have spoke before.

Some people listened to Paul and acknowledged Jesus, but when it came to the topic of the resurrection they said “We want to hear you again on this subject” (Acts 17:32) and left. In this way, Paul’s evangelizing in Athens was not a success.

Jews were characterized by their constant desire for “signs”. For thousands of years, they believed in the one true God, but always searched and demanded for miracles. They had the mentality of “I will believe if I see a sign”. It is written that Jesus said to the Jews, “Unless you people see signs and wonders, you will never believe” (John 4:48).

When we think of these qualities of Greeks and Jews, I think the Japanese are a mix of these two. Japan has an environment where high education is easily accessible. In Japan there are always educational shows for children and adults on TV. Yet, even with some of the best technology in the world, Japanese people also show high interest in spirituality. Shows which cover super natural phenomenon around the globe, have the most views on TV. We indeed have a shared quality with the Greeks and Jews.

However, Paul does not say that we are to know God through “signs” or “wisdom”. Paul addresses that Jews rely on miracles and Greeks in knowledge. But Paul states that he will preach of Jesus who was crucified on the cross. And through the salvation by the cross Paul writes, “God was pleased through the foolishness of what was preached to save those believe” (1 Corinthians 1:21).

 Why did Paul say that the cross was foolish? In verse 23, it is written “but we preach Christ crucified: a stumbling block to Jews and foolishness to Gentiles”.

To the Jews, God was the creator of the universe, transcended common sense, and capable of great miracles. That same God appeared in the rural city of Galilee as a son of a carpenter. It was also said among the Jews that, “anyone hung on a pole is under God’s curse”. So for the Jews, to accept Jesus who was crucified on the cross as the messiah was nonsense. The “stumbling block” for the Jews was unpleasant and insulting. To have someone of the same people to be crucified on the cross was a great insult.

To the Jews, the cross was a foolish story. For the people who favored wisdom and knowledge, sin was something each person had to bear on their own accord, and the idea of someone carrying sin for another was foolish. The fact that one man died on the cross to carry the sin of the whole world was comical to the Greeks.

So is Jesus incapable of satisfying the Jews desire for miracles? Was he not able to show many wonders or gather crowds of people? No, Jesus was able to feed 5000 people with 2 fish and 5 loafs of bread.

Was Jesus incapable of providing the wisdom that the Greeks loved so much? Before Jesus would open his mouth, crowds of people gathered from different towns to hear him speak. From children to adults, people came to listen to Jesus. Even as he was done speaking, the crowds followed Jesus. Jesus had the wisdom to share the high knowledge of God in an understandable way to people of various ages.

In this way, Jesus was capable of the wisdom and miracles that people desired. However, Jesus chose the way to the cross. Why is this?

This is because Jesus knew that the salvation of humanity depended on their salvation from sin. Every problem we encounter stems from our hearts. Parents to children, children to parents, grandparents to grandchildren, no matter how terrible of a thing is done, it is no surprise in this age. People do awful things to even those of their closest blood; so all people are target of this. These are not the problems concerning a person’s personality or environment, but a problem of sin.

We do not have to look in the newspaper to see these sins if we just look into our own hearts. Envy, anger, desire… The people written in newspapers are people who directly expressed these things in their actions. People who do not appear in the newspaper are just those who did not transfer the problems in their heart into action.

These problems in our hearts are the problems of us people. The entity that launches a nuclear missile with knowledge of its effects is not a monster or apparition, but a person. A person just like us is behind that switch.

The solution that God is providing is for the problem of sin in our hearts. And Paul says that the method of salvation that God chose is by “God’s foolishness”. Yes, God chose this seemingly foolish way to save those who believe. Foolishness that we would have never thought of, God’s son Jesus Christ’s crucifixion on the cross, something both Jews and Greeks would say “how foolish!” would be the way that God saves us through Jesus’s death for our sins.

On March 31st 1963, a four-year-old girl Yoshinori Murakoshi was kidnapped with a ransom of about 5000 dollars. In Japan, this was the first incident that was covered by public investigation utilizing TV. Everyday, Yoshinori’s picture was broadcasted on TV, but he was murdered on the first day and found buried in the graveyard of a temple. This investigation caused great trouble, but the criminal Tamotsu Ohara was found two years later in July of 1965.

The murderer, Tamotsu Ohara’s mother Toyo wrote to the child’s parent. Mr. and Mrs. Murakoshi, please forgive me. I am the mother who gave birth to Tamotsu. When I heard that Tamotsu was the murderer I was going to apologize to you but visiting was unfathomable to me. I feel like I am sitting on a carpet of needles. Tamotsu, you have committed a big crime. I thought I cared for you as much as Mrs. Murakoshi did for her daughter. Have you ever thought of that? Tamotsu, go to hell, I will go with you. Then I can apologize to Mr. and Mrs. Murakoshi and society. I do not ask for your forgiveness, just please listen to my apology.

We can feel the pain when we read Toyo’s note. Her son is now a criminal. But she is the mother of that criminal. To her son, Toyo says, “go to hell”, but she also says “I will go with you”.

Toyo had the resolve to hold responsibility of her son’s crime with him. But she cannot release her son from his sin and receive the punishment instead.

To the Greeks with wisdom, for someone to receive the punishment of another’s sin and take away one’s guilt was impossible. But the one who did this is Jesus Christ.

The Jews looked for signs. Like it is written in the Old Testament, the Jews expected fire to come down from the heavens. But there is no miracle greater than Jesus Christ, who was crucified on the cross for the forgiveness of our sins.

As Paul pointed out, Christ came to save us with God’s foolishness. Christ indeed like fall into the hell for us and saved us.

One chemist put together to substances in an experiment. When combining the two, a large explosion occurred. He thought to himself, I made something powerful, and named it Dunamis? From Romans 1:16. Today we call this invention dynamite. This chemist is the origin of the nobel prizes, and his name is Alfred Nobel.

Dunamis is the word used in 1 Corinthians 1:18 in Greeks to describe “the power of God” in “For the message of the cross is foolishness to those who are perishing, but to us who are being saved it is the power of God”.

When we come before Jesus Christ’s cross, the foolishness of Christ is dynamite that breaks our hardened hearts. This reveals the salvation we have in Jesus.

Tamotsu Ohara’s mother Toyo told her son “Go to hell.” These are very heavy and strict words from the mother. What Tamotsu did made his mother say the words “Go to hell”.

For us as well, we stood with our sin before God. We were deserving of judgment to go to hell. But Jesus did not allow this. He said that I will carry your sin and I will be punished in your stead. By this you will become God’s children and inheritors of the kingdom of heaven.

Paul went out into the world with this dynamite, and the power of the gospel led many people to believe in Jesus’s cross. Today God enters into our life with dynamite-that is the cross. The foolishness of the cross has power like dynamite both in the past and in the present. It has the power to break and take down our hardened hearts. Anybody can be changed into a child of God by this powerful dynamite. Let’s pray.

Translated by Kou Okura

本日のおもちかえり

2017年7月16日

1)コリント第一の手紙1章18節―25節を読みましょう。この聖書箇所の中に心に残る言葉がありますか。

 

2)「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める」(22)とありますが、このことは私達にも当てはまりますか?なぜ私達はしるし(奇跡)や知恵に惹かれるのですか。

 

3)この世が言う「知者・賢者」とはどういう人ですか。知識によって神を完全に理解することができますか。

 

4)「神はこの世の知恵を愚かにされたではないか」(20)とはどのような意味ですか。

 

5)なぜ神は「知恵」と「しるし」によって人を救おうとされなかったのでしょうか。

 

6)「このキリストはユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなもの」(23)とはどういう意味ですか。

 

7)「宣教の愚かさによって信じる者を救うこととされたのである」(21)とは、どんな意味ですか。なぜそのことは愚かと言われているのでしょうか。

 

8)私達の救いはどこにありますか。なぜ「認める・理解する・目撃する」というようなことではなく、神様は「信じる者」を救うこととされたのでしょうか(21)。

 

 


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