プロセスを大切にされる神

若い夫婦の口から出る言葉を一日録音してみれば、おそらく明らかになることがあります。彼らは一日に何度、子供に向かい「早くしなさい」と言っているかということです。朝食の時、「早く食べなさい」、玄関口で、「早く靴をはきなさい」。学校まで車で送っていけば、「早く、降りなさい」と言い残し、迎えに行けば「早く乗りなさい」。家に帰ればすかさず「早く宿題をしなさい」、シャワーから出れば「早く頭を乾かしなさい」。そして、極めつけは一日の最後の言葉です。「早く寝なさい」。そう、私達は「早く起きなさい」で一日をはじめ、「早く寝なさい」で一日を終えるのです。よくよく考えたら、このことはすごいことだと思いませんか。あたかも人生があと三週間しか残されていないので、時間を無駄にするなと言っているかのようです。

これでは家庭も学校も職場もストップウォッチをもった記録員と共にいる陸上競技場にいるようなものです。昔、「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」という看板をよく日本で見かけましたが、まことにそのとおり、私達はそんなに早く、どこに向かっているのでしょうか。何をそんなに急いでいるのでしょうか・・・。

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プロセスを大切にされる神
2018年10月21日

日本の大河ドラマを見ていますと坂本龍馬や西郷隆盛が「これから京(京都)に行く」とか「江戸に向かう」なんてセリフをよく聞きます。この時に私達の脳裏にかすめることは、彼らは徒歩で京都や東京に向かったということであり、少なくともそのために数日を要したということです。

しかし、今日、私達は東京から京都まで数時間あれば行くことができますし、それが福岡であっても、札幌であっても、日帰りで仕事をしてくることもできます。私達はかつて数日かけて移動していたところを一時間で移動できる時代に生きているのです。

その昔、日本人は井戸や川で洗濯をしました。しかし、その後、水道が普及し、洗濯機が発明され、今やタイマーをかけておけば、自分の時間を使うことなく、洗濯はいつでも好きな時にできるようになりました。半日かけて乾かしていた洗濯物もドライヤーに入れれば、瞬く間に乾燥してしまう、そんな時代です。

これらの技術進歩によって確実に私たちは便利になりました。私達は色々なことが短時間でできるようになりました。2時間かけてしていた作業が10分でできるようになったのです。

そして、このことは明らかに私達に“浮いた時間”が与えられていることを意味しています。しかし、不思議なことに、これらにより生じた時間によって、私たちの生活にゆとりが与えられるようになったかというとそのような実感は私達にあまりありません。それどころか、私達の身の回りは日進月歩、便利になっていますが、私達は増々、忙しい生活を送っているように感じています。

そんな状況ですから、いつも私達は時間が足りないように思われ、いつも何かに追われているように思います。いつも一つのことから別のことに、綱渡りをしているような気持ちなのです。ですから、私達の口からはいつも出てくるのです。「早く!早く!」。

おそらく若い夫婦の口から出る言葉を一日録音してみれば、このことは明らかになります。彼らは一日に何度、子供に向かい「早くしなさい」と言っていることでしょうか。朝食の時、「早く食べなさい」、玄関口で、「早く靴をはきなさい」。学校まで車で送っていけば、「早く、降りなさい」と言い残し、迎えに行けば「早く乗りなさい」。家に帰ればすかさず「早く宿題をしなさい」、シャワーから出れば「早く頭を乾かしなさい」。そして、極めつけは一日の最後の言葉です。「早く寝なさい」。そう、私達は「早く起きなさい」で一日をはじめ、「早く寝なさい」で一日を終えるのです。よくよく考えたら、このことはすごいことだと思いませんか。あたかも人生があと三週間しか残されていないので、時間を無駄にするなと言っているかのようです。

これでは家庭も学校も職場もストップウォッチをもった記録員と共にいる陸上競技場にいるようなものです。昔、「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」という看板をよく日本で見かけましたが、まことにそのとおり、私達はそんなに早く、どこに向かっているのでしょうか。何をそんなに急いでいるのでしょうか。

今日、私たちの前に開かれている聖書の箇所はピリピ1章3節―6節です。読んでみましょう。「③わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、④あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、⑤あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。⑥そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」。

 この手紙はパウロがピリピという地にある教会に宛てて書いた手紙です。読んですぐ分かるように、パウロはこのピリピにある教会の人達にとてもいい印象をもっていたようです。パウロは彼らを思うたびに神に感謝し、彼らのために祈る時に、すなわち、彼らの顔を思い起こしながら祈れば、その祈りが喜びとなったというのです。

このパウロとピリピの教会の関わりはどんなものであったのか。ピリピの教会が建て上げられていった背景が使徒行伝16章に書かれています。

このピリピの街には川があったと使徒行伝は記しています。そして、そこでパウロは数人の女性たちに会います。その中で染物を生業としていたルデアという女性とその家族とに福音が伝えられたのです。それが、このピリピ教会の始まりとなりました。

すなわち、このルデアとの出会いの時こそがパウロが6節で言っている神様が「ピリピの人々のうちに良いわざを始められた」時なのです。そして、そのわざを始められた神が「キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいない」とパウロは書いているのです。

このパウロの言葉から分かるのは「このピリピの教会には始まりがあり、そして、この教会には完成の時があるということです」。別の言い方をするならば「ピリピの教会はその始まり以来、完成を目指して歩んでいるその途上にある」ということなのです。

そして、これはピリピの教会の始まりと完成だけを言うのではなく、それは私達の教会にもあてはまり、私達のクリスチャンライフにも始まりがあり完成があるということです。それはすなわち、私達は今、完成へのプロセスを歩んでいるということです。

ここにいらっしゃる多くの方々はあの日、あの場所でイエス・キリストを己が人生の主として受け入れたという体験があると思います。はたして、私たちはその瞬間から完全な者になったのでしょうか。いいえ、違います。聖書を注意深く読む時に、私達が気がつかされることは、神様はプロセスというものをとても大切にされ、そのプロセスを経て私達を一つ所に導かれようとしているということなのです。

もし、イエス様が手っ取り早く、その教えを宣べ伝えるならば、何も馬小屋で生まれる必要はなかったでしょう。実際、イエス様の主な言動はその齢、30歳を過ぎてからのものですので、それまでの30年は「早く、早く」とスキップして、ある日、成人男子として世に現れ、スグにその教えを宣べ伝えればよかったと思います。

一人の女や一人の病人に関わるよりも、ローマの高官を回心させ、彼らの力を借りれば、もっと早く、もっと多くの人達にイエスのメッセージは届けられたでしょう。しかし、イエス様はそのような方法はとらず、じっくりと時間をかけ、まず自分の前にいる者に対して、そして、また次なる隣人というように福音を伝えていかれたのです。

このことはイエス様が語られた譬話を見ればさらによく分かります。イエス様は度々「種」を用いて譬話を語られました。また「家が造られていく様」なども譬としてお話しになられました。これらに共通していることは、これらのことは「一つ一つ、時間をかけて積み上げていくプロセス」を大切にしているということです。そこに「遅い!もっと早く」という考えはありません。

種をまき、芽が出てくれば、その芽が虫に食われたとか、雨が降らずに枯れてきたとか、色々な苦労があるのです。家を建てるのなら、時間をかけて穴を掘り、土台となる石を埋め、材木の調達から、寸法を測り、それを組み立てていくということ、色々なことがあるのです。これらのことは全てもれなく、植物が実りを得るために、家が完成しそこに人が安心して住むために必要不可欠なプロセスなのです。それは時間と手間がかかるのです。

そもそも聖書に記されていることこそ、長い年月を経たプロセスなのです。創世記があり、そこから一気にイエス・キリストにジャンプはしていないのです。ノアの洪水、アブラハムの選び、出エジプト、律法の授与、預言者たちの時代、これらを経て、時が満ちてキリストはこの世界に誕生し、そのキリストの後に聖霊が注がれたのです。これらの出来事は一連のプロセスの中でなされました。そのような意味で、この神の歴史の中にも「早く、早く、もっと早く」というかけ声はありません。

さらに神様がプロセスを大切にされるお方であるということは、私達を取り囲む自然界を見れば、明らかです。太陽は定められた時間をかけてのぼり、そして沈みます。季節に遅れがあるので、今年の夏は二週間で終わりますということはありません。ひよこが生後二日後に卵を産むことはなく、蒔いた種にむかって早く、早く、早くと言っても、大根は一日で実らないのです。

人間に関して言えば、母の胎の中に10か月もおり、誕生後も、おそらく全ての生き物の中で人間の成長が一番、時間と手間がかかるでしょう。人間の子は、一度、生まれればその子は100パーセント誰かに依存して生き始めます。おしめの交換から始まり、授乳、離乳食、ありとあらゆる手間と時間をかけ、子は育ちます。熱が出た、骨折した、問題を起こした。その度毎に奔走して、子供の送迎のために費やすマイルはいったい何万マイルになるのでしょうか。このように二十年もの年月を経て、紆余曲折して自立していくのは人間だけです。

これらのプロセスには大きな苦労が伴いますが、同時にそれは喜びと希望と隣り合わせなのです。泥にまみれて、汗水垂らして蒔いた種から新芽が出てくる時、家の土台を定めるのに苦労しつつも、それが定まった時の喜び、そして、苦労しながらも我が子の成長を見ることができる時の喜び。これらのことは、成長の途上で私達が体験する喜びです。

先に申し上げましたように今日、飛行機に乗れば数日かかっていたところに一時間で行くことができます。しかし、数日、かけて黙々と歩くことにより、人は色々なことを思いめぐらし、その間に諸々のひらめきやアイデアが生まれたのではないかと想像します。

幕末の志士たちはとにかく長崎、京都、江戸と歩き回りましたが、彼らが生み出した諸々の驚くべきアイデアはそんな旅の道中に何度も何度も思いめぐらす中で獲得したものであったのかもしれません。今日「他には何もしないで、ただひたすら考える」というような贅沢な時間を確保している人はほとんどいません。

かつて女性や子供が井戸べに集まり、水を汲んだり、家事をしていた時、確かにそれは今日の状況と比べれば大変に不便なことでした。しかし、そのところで互いに交わされる人と人との交流が彼らの心を癒し、支えていたかもしれません。今日、私達は便利な生活をしていますが、家事や育児に孤独を感じ、自分の話を聞いてもらうために多額のお金を払っているのです。最先端の洗濯機や車であっても、私達の話に耳を傾けてはくれませんから。このように時間と手間がかかると思われる中にも、実は数多くの収穫があったのではないでしょうか。

他の子供の成長に比べて、自分の子供の成長が少し遅かったりすると、私たちは心配します。しかし、その子の成長のペースが遅くても、少しくらい学業についていけなくても、その子供は神様の御手の中で、その子にとって一番いいペースで進んでいるのかもしれません。

それを大人たちが世の中の動向や、知り合いの親たちから見聞きしたことで不安となり、その子供の成長のペースを崩してしまい、それにより子供は混乱してしまい、その子が持っているいいものすらも奪われてしまうというようなことがあります。

私は子供をアメリカの教育によって育てていますが、時々、嬉しくなるようなことを聞くことがあります。それは、「うちの子はもっとじっくり勉強させたいから、もう一年、同じ学年をさせるわ」と親がサラリと言ってのける、そんな言葉を聞く時です。これには感動すら覚え、この国で子供が学べることは幸いだなと思います。これがこのようなことに対する許容のない国だったら大変です。見栄っ張りの親だと体裁がよくないとか、恥かしいということで、あたかもその子の人生が既に決まってしまったかのように悲観するのです。

皆さん、子供が一年や二年、その学びが遅れたら、その子の人生はもう終わりでしょうか。いいえ、とんでもない、子供は本来、それらのことを乗り越えることができる、驚くべき力を内にもっているのです。子供の成長は競争ではありません。子供の成長には時間がかかるのです。全ての子供が同じ年月で同じように成長するなんてことは本来、まともに考えたらあり得ない話だと思いませんか。

同じように、イエス・キリストによって新生した私たちの成長も時間をかけて、なされていくものです。私達は時に信仰と不信仰の間を私たちは行き来するのです。しかし、それらの間を行き来することにより、紆余曲折して私達は本当の信仰へと導かれていくのです。

私はクリスチャン三世です。それは名ばかりで心から神様を締め出して暮らしていた時がありました。聖書に何が書かれているかは一応は知っている。しかし、とにかく自分の思うことをしてみたい、試してみたい、そんな思いがありましたから、色々と時間がかかりました。人はそれを遠回りと言うかもしれませんが、今思えば、その遠回りが自分にとってはなくてはならない経験となりました。私達はすぐに決着をつける短距離を走っているのではなく、長き道のりを歩いているのです。

世界には万物の法則があるように思われます。それは時間をかけて作られたもの、あるいは長い時間、存在している物は私達の間では価値あるものと見なされています。ホートンプラザの建物を見るために人はやってきません。しかし、アテネにあるパルテノン神殿を見るために人は世界中から集まってくるのです。ダウンタウンでは多くの開発がなされていて、地中深く、穴が掘られていますが、その工事現場を見学する人はいません。しかし、グランドキャニオンには世界中から観光客がやってきます。

三か月前にバイオリンを始めましたという人の演奏をお金払って聴きにくる人はいません。しかし、3歳の頃からバイオリンを弾いていて、それが今の私の職業ですという人のバイオリンであるなら、お金を払ってでも聞かせてくれという人がいるのです。良きものは全て時間がかけられているのです。

このように、いいもの、最高にいいものについてヤコブ書はこう言っています。ヤコブ書1章4節、「だから、なんら欠点のない完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせなさい」。

ここには「なんら欠点のない完全な、でき上がった人となるように」という言葉が書かれています。そして、そのために必要なのは忍耐だというのです。ここで言われている「忍耐」とは、すなわち「そこにいたるまで時間と手間がかかる」ということを意味しています。時にじっと耐えつつも、成長の途上にあることを信じて私達はなすべきことをし続けるのです。

また、エペソ書には、私達信仰者が到達すべき目標があることを明らかにしています。「わたしたち全ての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ち満ちた徳の高さまでに至るためである」(エペソ4章13節)。

それは私達、全てのものが神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となることであり、キリストの満ち満ちた徳の高さまでに至るということです。この目標はとんでもなく崇高な目標です。しかし、私達が目指すべき高嶺としては、これ以上の目標はありませんでしょう。

人生の目標には色々なものがあげられます。ある技術を磨く、お金を儲ける、事業を成功させる。しかし、これらはあくまでも第二、第三のものであって、私たちにとって本当に生涯をかけて、すなわち時間をじっくりかけて取り組むに値する最高の目標は、私たちがキリストのようになるということ、キリストにあって全き人となるということではないでしょうか。エペソはその目標は「到達すべきもの」、「至るべきもの」と、そこにたどり着くにはそれ相応の時間とプロセスが必要であることを示しています。

これらは今日、明日に到達するものではないのです。この目標はまさしく山の頂上を目指して、時間をかけて一歩一歩前に進むような地道なものです。一日の歩みを考えれば何も前進していないように思われます。しかし、ある時、自分が歩んできた道のりを振り返れば、確かに私達は確実に山頂に近づいているのだということに気がつかされるのです。

大木が成長するためには年月がかかります。その成長のプロセスの中には暖かな日差しに照らされる日もあり、暴風によって葉という葉が吹き飛ばされてしまうようなこともあることでしょう。山火事により多くの枝が燃やされてしまうという危機も通るでしょう。しかし、その木はそれでも成長し続けます。

この世に生きる限り、私達には色々な思い悩みがあります。この思い悩みというようなものすらも神様は用いられて、じっくりと時間をかけて、私たちを完成へと導いてくださるのです。

日本語には「チャチャチャとする」という言葉がありますが、キリストのようになるという偉大な目標は「チャチャチャ」とはできないのです。

アメリカでは通常、トマトはまだ緑のうちに収穫されると言います。輸送中に傷がつかないようにするためだそうです。そして、それらの緑のトマトは店先に並べられる前に炭素ガスを噴きかけられて一気に赤いトマトへと変貌するそうです。もちろん、このトマトは食べられますが、畑の中でじっくりと育てられた完熟トマトの味とは比べものになりません。

緑のトマトと炭素ガスの組み合わせはとても合理的です。それらは極力、問題を排除して、人の手を煩わさないようにするために考えられた短い時間でできる処置です。しかし、それに対して完熟トマトを収穫するということは苦労の連続であり、時間がかかります。完熟であるがゆえに柔らかく、傷みやすく、出荷にも気を配ります。炭酸ガスのトマトの味と栄養はこの完熟トマトには到底、かないません。私達が目指しているのは、時間がかからず、見た目は一応、オーケーですというような生き方ではなく、私達は内なる成熟を時間をかけて目指すのです。

そして、そんな私達は先のパウロの思いを自分の確信とするのです。「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと確信している」(ピリピ1章6節)。

私達の内によいわざを既に始めてくださっておられるお方が、必ずや私達を完成させてくださる、そのことを私達も確信して今日も一歩一歩、前に進みます。

主にある皆さん、私達は短期決戦に臨んでいるのではないということを自覚しましょう。じっくり時間をかけ、一つ一つのプロセスを経て、私達が目指すべきところに向かいましょう。主は必ず、私達を完成へと導いてくださるでしょう。パウロの確信を私達の確信として、今日という一日を、そして明日も歩んでまいりましょう。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり                                2018年10月21日

1)私達の生活環境は昔と比べて格段に便利になりました。このことゆえに私達には自由な時間が与えられるようになったと思われますが、なぜ私達は増々、忙しく、時間が足りないように感じるのでしょうか。

 

2)ピリピ1章3節―6節を読みましょう。ここからパウロのピリピの教会に対するどんな思いをうかがい知ることができますか。

 

3)成長や収穫には時間がかかるということが聖書や自然界を見渡す時にどのように分かりますか。

 

4)「インスタントなもの」と「時間をかけてつくられたもの」の違いは何ですか。

 

5)ヤコブ書1章4節を読みましょう。「忍耐」にはどんな意味がありますか。

 

6)エペソ4章13節を読みましょう。「到達し」、「至る」というところから、私達が目指しているような者になるために何が必要だということが分かりますか。

 

7)なぜ神様は「プロセス」を大切にするのでしょうか。なぜ私達は「プロセス」をスキップして早く結果に至りたいと願うのでしょうか。

 

8)私達を完成に導いてくれるものは何ですか。ピリピ1章6節を読みましょう。

 

9)今日のメッセージを通してあなたはどんな視点をあらためて確認しましたか?

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