マルコによる福音書:与え尽くされている私達

もし、皆さんの中に、自分の努力で色々なものを掴み取ろうと生きてこられた方がいるなら、どうでしょうか、皆さんが掴み取ったものは、皆さんに真の喜びと安きを与えてくれたでしょうか。どうか覚えてください、掴んだモノは、掴み続けなければなりません。手放した時に私たちはそれを失うのです。しかし、私達の上に注がれているものは違います。私達の現状がどうあるかということとは関係なく、それが私達に注がれ続ける限り、私たちはその命に生きることができるのです。



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本日礼拝でお話した日英両語の「礼拝メッセージ原稿」、および「本日のおもちかえり」です↓。本日の礼拝プログラムはこちらから。 

マック


  

マルコによる福音書:与え尽くされている私達

2013年2月24日

 私たちが今朝、見ていきます書は新約聖書の二書目にあたる「マルコによる福音書」です。その著者はその名のとおりマルコで、彼の母はマリアと呼ばれ、エルサレムでも裕福な家に住んでおり、その家庭は初代教会の集会にも用いられていました(使徒行伝12章12節)。一説によりますとこのマルコの家の二回座敷であの最後の晩餐がもたれたとも言われています。

 マルコによる福音書は他の三つの福音書の中でも一番最初に書かれた書だと言われており、他の福音書記者はこのマルコによる福音書を参考にしたといわれております。イエス・キリストの12弟子の一人であったペテロはこのマルコの父のような存在で(ペテロ第一の手紙5章13節)、マルコはよくペテロと行動を共にし、ペテロが三年半の間、間近に見聞きしたイエス・キリストの言動を聴衆に話す時にマルコが通訳をしていたようで、後にそのペテロがアラム語で語ったことをギリシア語で記録したのがこのマルコによる福音書であるといわれています。

 私は神学生の時にひと夏、北海道や広島でガンジーというイギリス人の通訳をしながら伝道旅行したことがあります。行く先々で彼のブリティシュ英語を訳して話すのですが、その証はどこに行ってもいつも同じで、さすがにいくら物覚えの悪い私でも、彼の証は心に刻まれ、彼が言う前から彼が言おうとしていることが全て分かるまでになりました。きっとマルコも行く先々でペテロの話を通訳しているうちに、そのペテロがイエス様と共に経験したことを全て覚えてしまったのでしょう。それは彼がこの福音書を書く時に大きな力となったと思います。

 ものを書く著者というのは読者を思い描きながらその書を書くものですが、先週、お話しましたマタイはユダヤ人読者を念頭においてマタイによる福音書を書いたようです。ゆえにユダヤ人がとても大切にしていた系図をその冒頭におきました。しかし、マルコはユダヤ人というよりもユダヤ人以外の人達、すなわち異邦人を念頭においていたようで、マタイが書いたような系図は記録せずに、それよりも異邦人に対する特別な関心を見せつつ、主にペテロが見聞きしたイエス様のアクティブな活動に注目しています。マルコによる福音書の特徴として他の福音書ではルカに7回、ヨハネに4回しか使われていない「すぐに」(εὐθύς=euthus)という活動的な言葉が42回も使われているところからもマルコが何に着目していたかが分かります。

 ですから、このマルコによる福音書には多くのイエスが関わった出来事が記録されています。その中で今日はひとつの出来事に注目していきたいと願っております。

 24そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った。25さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。26多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。27この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。28それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。29すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。30イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。31そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。32しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。33その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。34イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」(マルコ5章24節-34節)。

 ここにはある病に苦しんでいた女性が記されています。その名前は何も書かれていません。しかし、彼女が「12年間も長血で苦しんでいた」ということがここには記されています。これは血が流出する、そしてそれが止まることのない婦人病であったと言われています。同じ記事を記録している医者であったルカは彼女がこの病の治療のために医療費にその全財産を費やしてしまったと書いています(ルカ8章42節‐48節)。

 私たちがそうであるように、私達の健康を取り戻すことができるなら、私達はいかなる犠牲をも払おうと思います。どこそこの医者がいいと聞けば、その医者に治療してもらえるようにしますし、この薬がいいと聞けば、それが高価なものであっても手に入れようとします。あの温泉が体にいいといえば、私たちは遠方まで湯治に行きますし、もし臓器の移植が必要であるならば、海外に行って手術を受けようとします。彼女もそのようにあらゆる可能性を探り、多くの医者を訪ねたのです。なかには利益だけを考える悪質な医者もいたことでしょう、最後にはその持ち物を売り払ってまで、出来る限りのことをしたのですが、それらを全て使い果たしにもかかわらず、ますますその病気は悪くなるばかりだったというのです。

 そして、もはやなす術がなにもない、財産もなくなってしまったというこの女性のもとにイエス・キリストの噂が聞こえてきました。いいえ、実際には彼女は巷でイエス様の話を聞いたこともあったのかもしれません。イエス様が色々な病気の人を癒しているということ、その教えは今までに聞いたこともないようなものらしいということ。そんな人がいるならば、いつか会いたいと思っていたに違いません。そして、今日の箇所においてそのイエス様がやって来るということを聞いて、彼女はイエス様を取り巻く群衆にまぎれ混んで、イエス様に近づいたというのです。

 ところで、この長血という病気は旧約聖書のレビ記にも記されている病気です。レビ記15章25節―30節にはこう書かれています。「女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があるか、あるいはその不浄の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不浄の時と同じように、その女は汚れた者である。その流出の日の間に、その女の寝た床は、すべてその女の不浄の時の床と同じようになる。全てその女の座った物は、不浄の汚れのように汚れるであろう。すべてこれらの物に触れる人は汚れる。その衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう」(25-27)。

この旧約聖書の掟によれば、彼女は一日や二日の期間の流出だけではなく、12年間もの間、汚れた女と言われてきた者であり、また自分自身もそのような自覚の中にいたのです。つまり、自分は汚れた者であり、自分に触れる者にもその汚れが移ってしまう、自分はそんな災いの元なのだという宿命を背負い彼女は生きてきたのです。それだけでも彼女の12年間がどんなものであったかということを私たちは容易に想像できます。

この「汚れる」ということですが、私達が暮らすこの合衆国では「汚れ」ということをあまり意識することはありません。しかし、世界を見渡せば世界にはまだ「汚れ」ということがその生活のすぐ隣に存在している国地域はたくさんあります。

以前、私がインドを旅していた時、ベナレスという町に滞在していたことがありました。あの遠藤周作さんの最後の作品となった「深い河」の舞台となった地です。そこはヒンズー教徒にとっての聖なる河、ガンジスを中心として成り立っています。その川沿いには石造りの家々が立ち並び、宗教音楽がワンワンと鳴り響き、あらゆる雑音が飛び交う賑やかな場所です。しかし、その岸からガンジス河をはさんだ半マイルほど先の対岸には家一軒建っていません。草木もありません。時々、カラスが黒い塊となっているのが遠くから見えます。おそらく人か、動物か、流れついた死体がそこにはあるのでしょう。その対岸は、自分がいる喧騒に満ちた河岸とはあまりにも対照的でした。そこで、ある時、川辺で煙草をふかしている男性にその理由を聞いてみました。「なぜ、こっちはこんなに賑やかなのに、あっちには何もないんだい?」彼は目を細めて対岸を見つめながら言いました。「あっちは汚れた地なのだ」。

汚れている、汚れていないという価値判断があまりない、自分にとってそれはとても興味がある言葉でした。そこで、ある時、ガンジスで働くボート漕ぎの少年に頼みこんで対岸に行ってもらいました。段々と近づくその地は草も生えていない不毛の乾いた土地で、近づいてみると幾匹かの動物の死骸に鳥が集まっている光景が印象的でした。その地に降り立ってみて、そのボート漕ぎの少年にも一緒に行ってみようと言ったのですが、彼は「とんでもない!お前は何を考えているんだ!」というような表情をして、決して陸に近づこうとはしませんでした。その彼の表情は忘れられないものとなりました。

私たちは汚れるとか汚れないということとあまり関係のない世界に住んでいます。しかし、ガンジスのボート漕ぎの少年はその大地を汚れものを見る目で見ていました。いいえ、彼だけではなく賑やかな岸辺にいた幾千の人達はあちら側の大地を見るだけでも汚れると思っていたのです。

この女が生きた時代の人々は、土地を汚れたものとして見ていたのではありません。心があり、感情がある、この女性に、その同じ視線を送っていたのです。そして、それは視線のみならず、言動となってどんなにか彼女の心に突き刺さったか分かりません。その状況を思う時に、なぜ彼女が身代を全て使い切ってまで、その病を治そうとしたかをうかがい知ることができます。

その彼女は今、イエス様に近づこうと群衆にまぎれています。もし、彼女が長血を患っているということを人々が知ったら、彼女は石で打たれ、袋たたきに合ったことでしょう。故にこの接近は彼女にとって命がけのものであったに違いありません。その緊迫する状況のもと、彼女はどうにかイエス様に触れることができる所にまでやって来、彼女の手が伸ばされ、その手がイエス様の衣に触れたのです。

その瞬間に彼女は自分の病気が治ったことを、その身に感じたと聖書は記しています。それがどんな感覚だったのかは分かりません。しかし、弱く萎えていた体に、確かに感覚として認識できる力が注ぎ込まれたのでしょう。それはまさしく彼女が12年間、全てを犠牲にしてまでも求めていた瞬間でした。彼女はどんなに嬉しかったことでしょうか。

飛び上がりたいほどの喜びを内に抑えて、後は、人に気づかれないように家路に着いて新しい生活をすればいい。そのお礼を言わずに立ち去るのは心苦しいけれど、もし、いつかどこかでその機会があれば、この時の事情を説明して心からのお礼をしようと考えていたかもしれません。

しかし、彼女がそんなことを思い巡らして、そこを立ち去ろうという時にイエス様は、彼女がドキッとするような言葉を言われました「わたしの着物に触ったのはだれか」。そうなのです、その場所は群集で満ちていたのです。押し迫っていたのです。汚れているといわれていた彼女と接触した人たちの数も相当のはずです。彼女は、そんなイエス様と弟子たちの会話を聞きながら、心臓の鼓動が回りの人にも聞こえるほどに高く鳴っていたに違いありません。

弟子たちはこのイエス様の言葉に対して誰もが言うであろうことを言いました「ごらんのとおり、群集があなたに押し迫っていますのに、誰が触ったのかと、おっしゃるのですか」。先にマルコはペテロの言葉を聞いてマルコによる福音書を書いたと言いましたが、きっとこの言葉はペテロ自身もこの状況で言った言葉ではなかったかと思います。ペテロはきっとその群集の只中におり、この女の表情を間近に見ていたのでしょう。

イエス様はその時、群衆に取り囲まれていました。イエス様の周りには大勢の人達がおり、イエス様の体に接触する者たちもそうとうにいたことでしょう。そのような中、イエス様はどうして女がイエス様に触れたのかが分かったのでしょうか。マルコは「自分の内から力が出ていったことに気がつかれて」と書いています。

このことがイエス様の肉体にどのように起きたのか私たちは説明することはできません。私たちが誰かに触れて、私たちの内から何かが出ていったというような感覚を私は持ち得ないからです。礼拝後にいつも私は皆さんと握手をして10年以上になりますが、普通の人間である私は誰かと握手をして、「ああ、今、私の内から力が出て行った」という感覚をもったことは一度もありません。

しかし、神的な力で満ちていたお方に、精神的にも肉体的にも乾いていたこの女性の指が触れた時に、あたかも天から降る雨が乾いた土地に沁み込んでいくように、その力が出ていったのではないでしょうか。心満たされている者の力が、悲しみに満ちていたその空っぽの心に注がれていったのではないでしょうか。

この出来事を思う時に、私たちの心の癒しとか、乾きに対する潤いとか、成長というものは必ずこのような形でなされていくことに私達は気がつきます。乳児を抱える母親はその子のために昼夜問わずに母乳をあげています。時には夜中でも30分おきに、子供は泣き声をあげます。母親にとって、それはそれはシンドイことに思えます。しかし、子供はその母乳なしに成長することはありません。いいえ、もっといいますと子供が育つためには母乳のみならず、その睡眠も自分のための時間も、あらゆることが子供に注ぎ込まれて子の成長はあるのです。

「愛情を注ぐ」という日本語がありますが、まさしくそれは水が注がれるように愛が注がれていくことを意味します。注がれるということは、注ぐ者の内から愛が出て行くことです。イエス様もその内から出て行くものを感じました。そして、それによりこの女性は癒され、彼女の生涯に長い間失われていた笑顔が取り戻されたのです。そしてイエス・キリストの生涯を見ていくと、この出来事以外に、そのご生涯は自分の内なるものを出し尽くされた歩みであったということを私たちは知ります。イエス様は求めてくる者に対しては、ご自身の内なる力を出し惜しみすることはありませんでした。

ヨハネによる福音書4章31節―34節にはこんな出来事が記録されています。「その間に弟子たちはイエスに「先生、召し上がってください」と勧めた。ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。そこで、弟子たちが互いに言った、「だれかが、何か食べるものをもってきてさし上げたのであろうか」。イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」。 

この箇所はイエスの弟子たちが近くの町から食べ物を買ってきた時の出来事です。弟子たちはまずイエスにその食べ物を食べていただこうと思ったのでしょう。しかし、イエス様はここで奇妙なことを言いました「わたしには、あなたがたの知らない食べ物がある」そして、その食べ物とは「わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることである」とイエスは言われたのです。

私たちにとって食物とは、私たちの体内に取り入れるもので、そのことによって私達は生き続けることができます。しかし、イエス様にとっての食物とは、内に入れるものではなくて、外に働きかけるものでした。すなわちイエス様を遣わされた父なる神のみ心を行うこと、そして、そのみわざを成し遂げることがイエス様がこの地にあり続ける理由なのだというのです。

この「みわざを成し遂げる」という言葉は、原語のギリシア語を見ますと「ただ一度限りの行為」を意味する言葉です。それでは、イエス様にとってその生涯、ただ一度成し遂げられた行為とは何でしょうか。

それはイエス様の十字架です。十字架による罪の赦しを成し遂げること、それがイエス様にとっての食物であるとイエス様は言われました。十字架につけられたイエス様の光景に何かを獲得しているイエス様の姿を私たちは見出しますか。いいえ、そこにはご自身の命を私達のために注ぎ出して下さった姿があるのです。その注ぎだされたものを受けて、私達は今、生かされているのです。

ヨハネ4章には面識のない一人の女と出会うためにあえてサマリア、スカルの井戸辺に立ち寄られたイエス様の姿があります。その会話の中で、この女に対してイエス様は彼女の夫について、異性関係について問いました。そのことが彼女の生活と人格に大きな影響をおよぼし、その過去がその時の彼女を支配していたからです。それは表面的な問題ではなく、それこそが彼女が抱えている根本的な問題だったのです。この問いかけによって、彼女の心の引き出しに隠されていた、この女の生涯をコントロールしていた問題がイエス様と女との間に明るみにされました。そして、イエス様はその彼女の乾ききった心に命の水を注ぎ、その水は彼女の心の中で泉となり、彼女の内から喜びが生まれてきたのです

もう召されましたが、水野源三さんという詩人がおられました。水野さんは9才の時に赤痢にかかり、さらに脳膜炎を併発してその後遺症のために体全体の自由を奪われてしまいました。最初のうちは、「死にたい。死にたい。」といつも口走っていたそうです。しかし、その唇さえもがついには動かなくなり、話すこともできなくなり、最後には自分の意思で動かすことができるのは、「まばたき」だけになりました。

そのような中にいたとき、彼はイエス・キリストと出会い、その時から彼は変わったというのです。やがて源三さんは多くの詩を作り始めました。体を動かすことができず、言葉も話せない源三さんのためにお母さんが五十音表を指さし、源三さんが唯一、自分の意思で動く目の瞬きで合図して音を一つ一つ拾い、書き表していくのです。

キリストのみ愛に触れたその時に
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました
憎しみも恨みも
霧のように消えさりました

キリストのみ愛に触れたその時に
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました
悲しみも不安も
霧のように消え去りました

キリストのみ愛に触れたその時に
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました
喜びと希望の
朝の光がさして来ました

源三さんの家を訪ねた方が、次のように書いておられます。「源三さんのことは、具合の悪い方だとは知っていました。しかし、あれほど大変だとは思いませんでした。いつもこたつに顔を乗せられていますが、一人で七転八倒しながら、すごい時間をかけてあの態勢になるんです。これほどの中から源三の詩が生まれてくることを信じがたく思いました」源三を傍から見る者にとって、生きていくことが苦しみそのもののように思えます。しかし、彼の作った詩からはそんな苦しみよりも、希望と喜びとが溢れ出てくるのです。なぜんでしょうか、キリストの愛が彼の上に注がれているからです。

長血で苦しんでいた女性もサマリアの女もイエス様から出てきた愛に触れました。水野源三さんもイエス様の内から出る愛に触れ、その心が変わりました。そうしましたら憎しみも恨みも、悲しみも不安も喜びと平安に変えられたのです。

人というものが各々の人生を50年も80年もきてくるのならば、その間には色々なことがあります。口が裂けても人に言えないということもあることでしょう。それゆえに、そのことが私たちのこれまでの人生の手綱を握ってきてしまうということもあるでしょう。

あの長血の女は12年もの間、自分の抱える問題を解決するためにありとあらゆることをしてきました。「この医者が」「この治療が」という試みは全て行き詰まりました。サマリアの女には五人の夫がいました。「この人が」「この人こそ」「今度こそ」と彼女は自分を慰め、満たしてくれる男性を求めましたが、彼女の願った生活をすることはできませんでした。しかし、イエスの内から出てくるものに触れた、その時に彼女達の人生は変わったのです。

もし、皆さんの中に、自分の努力で色々なものを掴み取ろうと生きてこられた方がいるなら、今日、どうでしょうか、皆さんが掴み取ったものは、皆さんに真の喜びと安きを与えてくれたでしょうか。どうか覚えてください、掴んだモノは、掴み続けなければなりません。手放した時に私たちはそれを失うのです。しかし、私達の上に注がれているものは違います。私達の現状がどうあるかということとは関係なく、それが私達に注がれ続ける限り、私たちはその命に生きることができるのです。

イエス様は最後にこの女にこう言いました「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。なんという言葉でしょうか。当初、この女の心には恥ずかしさと、諦めと、痛みと怒りというような苦々しい思いが満ちていたと思います。しかし、彼女がイエスに触れた時に、彼女の心と体が癒されたのです。そして、その女にイエスは安心していきなさいといわれたのです。もう、恐れることはない、自分が汚れているなどと思う必要はない、すっかりよくなって達者でいなさいよ」というのです。

世界は何十億ものお金をや地位を掴み取った人の名前を忘れてしまうことでしょう。しかし、自身の内にあるものを誰かに与え続けた者、注ぎ続けた者の名前が忘れられることはありません。なぜイエス・キリストは2000年来、忘れられることなく、今日でもこの名のもとに真の命を得ていく無数の人達がいるのでしょうか。なぜなら、彼はご自身を全て与え尽くしたからです。彼がエルサレムに巨大かつ荘厳な神殿を建てたとしても、その名はすぐに忘れられていくことでしょう。しかし、このキリストを私たちは忘れません。キリストは私たちのために、その命を全て注ぎだして下さったのですから。今日、そのままのあなたでいい、負ってきた問題をそのまま背負って、あの女のようにイエス様に触れるべく、私達の手を伸ばそうではありませんか。お祈りしましょう。

The Gospel Mark:  We who are given all

February  24 ,2013

      The book we are looking into this morning  is the gospel according to Mark, the second
book in the new testament. The author is Mark as the title shows, and his
mother was called Mary. They lived in a large house in Jerusalem.  His house was used for the meetings of the
early church (Acts 12:12).  It is said
that the last supper was held at the upstairs floor of Mark's house.

 The
Gospel of Mark was said to have been the first written book of the four
gospels, and it is believed that the other gospels were written in
reference  to the gospel of Mark.  Peter, one of the twelve disciples, was like
Mark's father,(1 Peter 5:13) and they worked together.  It is said that when Peter preached to the audience
what he had seen and what he had heard from Jesus of the last three and half
years, Mark worked as his interpreter. 
The gospel Mark is believed to be the record of what Peter had talked in
Aramic.  It was written in Greek.

 When
I was a seminary student,  I had a
mission trip in Hokkaido and Hiroshima working as an interpreter for English
guy name Gandhi one  whole summer.  I went with him wherever he went and  interpreted his British English.   His testimony was always the same.  So even though I had a poor memory, his
message was engraved deeply in my heart, and after a while, I was able to
figure out what he wanted to say before he started his speech.    Since Mark always worked with Peter as I
did with Gandhi, I am sure that 
Mark  remembered everything  Peter had to say about Jesus while he was
interpreting Peter's message.   This must
have been a big help when he wrote the gospel.

 Authors
usually keep readers in their mind when they write.  As I told you 
last week, Matthew wrote the gospel especially for Jewish readers.    So he wrote Jesus' genealogy first since
genealogy was  very important for
Jews.  But it seems that Mark wrote the
gospel for gentiles.  He didn't write the
genealogy like in Matthew.  Instead,  he took an special  interest in gentiles and emphasized  Jesus' action 
mainly through what   Peter had
heard and seen.   Another distinctive
character of gospel Mark is  the use of
word “ at once” (euthus) which is very active word.  It  is
used 42 times comparing with 7 times  in
Luke and  4 times in John.  We can see what Mark focused on.

 Because
of this reason, many events which  Jesus
took part in were recorded in the gospel Mark. 
Among those, I want to talk about 
one incident today.

 24
So Jesus went with
him.  A large crowd followed and pressed
around him.25And
a woman was there who had been subject to bleeding for twelve years. 26 She had
suffered a great deal under the care of many doctors and had spent all she had,
yet instead of getting better she grew worse. 27 When she heard about Jesus, she came
up behind him in the crowd and touched his cloak, 28 because she thought, “If I just
touch his clothes, I will be healed.” 29 Immediately her bleeding stopped and
she felt in her body that she was freed from her suffering.30
At once Jesus realized
that power had gone out from him. He turned around in the crowd and asked,“Who
touched my clothes?”31
“You see the people
crowding against you,” his disciples answered, “and yet you can ask, ‘Who
touched me?’”32
But Jesus kept looking
around to see who had done it. 33 Then the woman, knowing what had happened to her, came and fell
at his feet and, trembling with fear, told him the whole truth. 34 He said to
her, “Daughter, your faith has healed you. Go in peace and be freed from your suffering.”

 Here, it is written about the woman who
suffered from an illness.  Her name was
not known.  But it is written that she
suffered from bleeding for twelve years. 
They say that it might  have been
a women' disease  of bleeding and it
wouldn't stop at all.  Luke who was a
physician also recorded  this same woman
and wrote that she used up all her fortune 
for the medical expenses.  (Luke
8:42-48)

 We make any sacrifices to restore
ourselves good health.  When we hear
about a reputable doctor, we want to see him. 
If we know a good medicine, we will try to get it at all costs.   When we hear about a  good hot spring,  we will go there for a treatment even if it
is very far.  If we need an organ  transplant, 
we will go abroad to have a surgery. 
This woman also tried to look for a cure and visited many doctors.  Among them, there must have been dishonest
doctors.  At last, she sold all her
possession and spent all her money, yet her illness didn't get any better but
only got worse.

 And the woman who lost all her money
and  didn't know what to do heard a rumor
about Jesus Christ.  Actually, she might
have listened to Jesus' teaching in town. 
Because she heard that Jesus had healed many sick people, and  his teaching was totally new,  she must have wanted  to see him. 
The woman learned that Jesus would come to town, so she went into  the crowd and approached  Jesus. This is what we are learning today.

 By the way, it is  written in Leviticus in old testament about
this illness of bleeding.  It is written
in chapter 15 verse 25 to 30,  25
“‘When a woman has a
discharge of blood for many days at a time other than her monthly period or has
a discharge that continues beyond her period, she will be unclean as long as
she has the discharge, just as in the days of her period.
26 Any bed she lies on while her
discharge continues will be unclean, as is her bed during her monthly period,
and anything she sits on will be unclean, as during her period. 27 Anyone who
touches them will be unclean; they must wash their clothes and bathe with
water, and they will be unclean till evening.(25-27)

 According to the law in the old testament,
she was considered  unclean not for one
or two days but for 12 years because of bleeding.   And she thought herself  unclean. 
It means that not only her but others who touched her  also become unclean.  So she 
had a burden of being  a cause of
evil.  We can imagine  easily what her past twelve years was like.

 Let me tell you about “unclean” written in
the Bible.  We are hardly aware of
uncleanness living here in the United States. 
But there are still many countries or areas where people  have an idea 
of what “uncleanness” means  for
specifically religious reason. 

 When I was traveling India years ago, I
stayed in Varanasi.  This city was used
for  the novel titled “ The Deep river”
which Japanese Catholic author Shusaku Endo wrote as his last work.  The Ganges river which was considered sacred
for Hindu flows in the middle of this city. 
There were many stone houses along the river and religious music sounded
loudly.  The city was busy and lively
with  all kinds of noise.  On the other hand,  no house 
was built on the other bank which was about a half miles away across the
Ganges river. There was even no grass or tree. 
Sometimes I could see in a distance that crows got together to become
like a black ball. Probably, there must have been  a dead body or a dead animal having been
washed ashore.  The bank on the other
side  was in contrast to the busy bank
where I was staying at.  One day I
asked  a man smoking by the river about
the reason of the  difference  between two banks.  I said, “why isn't there anything on the
other side while there is so busy on this side? ”He answered narrowing his eyes
and watching the other side of the river, ”That land is unclean.”

 “Unclean” 
This is very interesting word for me since I don't have a value standard
for clean or unclean.  Then one day, I
asked the boy to row the boat to take me to the other side of the river.  Approaching to the bank, gradually, it was
becoming clear  that there were many
birds on dead animals at the barren and dry land.  It was a very impressive scenery.  I told the boy to come with me when I arrived
on the land.  But he never came close to
the bank and showed the expression like” No way! What are you thinking.”  I never forgot his look.

 We live in the world where there has
nothing to do with “clean” or “unclean”. 
But the boy rowing a boat on the Ganges looked at this bank as if he
watched dirty things.  Not only this boy
but all thousands of people on this side of the 
busy bank may think that they become unclean by just glancing at the
other side of the river.

 People who were living in the same age of
this woman in the Bible didn't think that the land was unclean.  But they looked at her with the same eyes of
people watching an unclean land  although
she was a human with a heart and emotions.  
Surely, their speech and behavior must have hurt her feelings like a
spear stabbing her.  So we understand the
reason why she wanted to cure her illness even if she spent all of her money.

 Now she was in the crowd to come close to
Jesus.  If people had known that she was
bleeding, she would have been stoned and have been beaten up.  So she risked her life to approach
Jesus.  In such a tense situation, she
managed to come close to him.  Then she
stretched her hand to touch Jesus' cloak.  

 The Bible said that she felt in her body
that she was freed from her suffering immediately.  We don't know what kind of feeling it
was.  But she must have felt some kind of
power in her week body.  It was the
moment that she waited for twelve years and after the sacrificing
everything.   How happy she was!

 Although she was filled with a great joy,
she hid her joy inside and must have tried to come home quietly to start a new
life. She might have felt bad not to say thank you to Jesus, but she might have
believed that she would have a chance to testify about her experience and would
express her gratitude someday. 

 When she was about to leave, Jesus said
something that  made her surprised.  “Who touched my clothes?”  As you know, there was a large crowd.  There must have been many people who touched the unclean woman
without noticing.  While listening to the
conversation between Jesus and the disciples, her heart must have beaten so
violently as if people around her  might
have heard the sound. 

 The disciples answered to Jesus as a
matter of course.  “You see the people
crowding against you, and yet you can ask ‘Who touched me?’”  As I told you before, Mark wrote the gospel
after having listened to Peter's message. 
Probably, Peter  said the same
thing to Jesus there.  I believe that Peter
was in the middle of the crowd and saw the woman's expression.

 Jesus was surrounded by the crowd at that
time. Many people   might  have 
touched him.  Then why did Jesus
know that this particular  woman touched
him?  Mark describes it as “Jesus
realized that power had gone out from him”

 We can't explain what happened in Jesus'
body at that time because we are never able to 
feel truly some kind of  power
going out from us.  It has been more than
ten years since I started to shake hands with you all after the worship
service. So far, I have never  felt
anything like my power going out from me. 

 However, when the woman who was thirsty
mentally and physically touched Jesus who was filled with divine power, his
power went out from him and seeped  into
her heart as if rain soaks into the dry ground. Wasn't it as if a sad person
with an empty heart receives power from a cheerful person filled with joy?

 Thinking about this incident, we notice
that our mental healing,  quenching  our spiritual thirst or our  growth will be done in the same way.  A mother gives her milk day and night to a
baby.  Sometimes a baby cries every
thirty minutes.  It seems to be a hard
job for a mother.  But a baby can't  grow without mother's milk.  In other words,  not only her milk but everything  including her sleep,  her own time 
and all work are dedicated to a baby to grow.

 We say in Japanese that I pour out love to
someone.  It means that love is poured as
water flows.  Being poured means that
love is poured out upon us  from the one
who loves us.  Jesus felt that his power
had gone out from him.  With his
power,  the woman was healed and had her
smile back which she didn't have for a long time.  More 
incidents proved that Jesus gave 
his whole life for us. He will lavish his divine power to anyone  who asks for it.

 In John chapter 4 verse 31 to34, it is
written,”1 Meanwhile
his disciples urged him, “Rabbi,eat something.” 32But he said to them,“I have food to
eat that you know nothing about.”33 Then his disciples said to each other, “Could someone have
brought him food?”34
“My food,” said Jesus, “is to do the will of him who sent me and to finish
his work.

This is the incident when Jesus' disciples
brought food from the town nearby.  They
wanted Jesus to eat first.  But Jesus
said something strange to them.  “I have
food to eat that you know nothing about.” 
and “ my  food is to do the will
of him who sent me and to finish his work.” 

 Food for us is something we take into our
body, and we depend on food to live.  On
the other hand, Jesus' food is not food to take in but used to work for
someone.  It means that he does the will
of God who sent him and finish his work. 
He said that this is the reason why he was living on this earth.

 According to the original Greek, the
phrase “to finish his work” has the meaning of an action done only once.  So, for Jesus, what is the action accomplished  just once 
in his life? 

 It is the cross that Jesus was
crucified.  Jesus said that his food was
to accomplish the salvation from sins through the cross for us.  When you see Jesus on the cross, do you see
that Jesus gained something?  No.   We see Jesus who gave up his life to pour
out his love for us.  His divine power
flowing out  from him keeps us alive.

 In gospel John chapter 4, it is written
about Jesus who dared to stop at Jacob's well of Sychar to meet a woman whom he
had never met.   In the conversation with
her, he asked about his husband and the relationship with men.  Because he knew that  the relationship  influenced her life and her character so
much, and the past had power over her. 
It was not a superficial problem but was a very fundamental
problem.  By asking about  her problem which was hidden in her heart and
controlled her life until that time, Jesus 
brought it to surface.  Jesus
poured out the water of life into her thirsty heart.  The water became a spring in her heart and
the joy came from it. 

 There was the poet name Genzo Mizuno who
already passed away.  He had dysentery at
the age of nine and  also got
meningitis.  Because of the aftereffects
of those diseases, he lost his ability to move his body.  He kept saying“ I want to die, I want to
die”in the beginning.  But finally, since
he couldn't move even his lips and  he
was not able to talk at all.  At last,
the only thing he could do was just to blink. 

 In the midst of despair, he met Jesus, who
changed  him totally.  Then he started to make many poems.  His mother pointed one letter at the time on
the table of Japanese 50 hiragana letters for Genzo.  Then she picked up one letter when he gave a
signal  by blinking his eyes.  The poems were  written in this way..

 In the moment I was touched by love of
Christ

In the moment I was touched by Love of
Christ

My heart was changed

All my hatred and grudges

are all gone as fog cleared

 

In the moment I was touched by love of
Christ

In the moment I was touched by Love of
Christ

My heart was changed

All my sorrow and worries

are gone as fog cleared

 

In the moment I was touched by love of
Christ

In the moment I was touched by Love of
Christ

My heart was changed

Joy and hope shine

like morning sunlight

 The person who visited Genzo's house wrote
as following.  “ I knew that Genzo was
paralyzed but I didn't understand how serious it was.  He always put his head on the top of Kotatsu,
Japanese heating table. But to get into this position by himself, he takes
so  long 
and  so much effort.  It is hard to believe that Genzo's poems were
created from such  'hardship'”.  For people who watch him, his life seems just
only be a struggle.  But actually, hope
and joy instead of suffering come out from his poems.  Why is it? 
It is because Christ's love is poured out to him. 

 Both 
woman who suffered from bleeding 
and Samaritan woman were touched by the love of Jesus.  Genzo Mizuno was also touched by Jesus' love
and it changed his heart.  Then his
hatred, grudges, sorrow and worries turned into joy and peace.

 People who live for fifty or for eighty
years have so many experiences.  We might
have  done something awful which  we are never able to tell to anybody.  Those pains might control our lives. 

 The woman suffering from bleeding did
everything she could to solve her problem for twelve years. But she failed to
find  a good doctor or a new
treatment.  The Samaritan woman had five
husbands.  Even though she married five
times to search for an ideal  husband who
would give her comfort and satisfaction, she couldn't have the life she
wanted.  But at the moment these women
touched Jesus' love which overflew from him, 
their lives were completely changed.

 Today, there may be someone here who tried
to pursue  something only with his
effort.  Please take a moment to think
whether they brought you true joy and peace. 
Please remember this.  When you
hold something, you have to keep holding because we lose it when we release it.  But divine power pouring out upon us is
different.  No matter what our condition
is, as long as it keeps pouring out, we can live in Him. 

 Jesus said to the woman at the end.  “Daughter, your faith has healed you. Go in
peace and be freed from your suffering.” 
How comforting it is! At first, her heart must have been filled with
bitter feelings like as shame, hopelessness, pain and anger.  But when she touched Jesus,  her heart and body were healed.   Then Jesus told her to go in peace.  It means “You don't need to be afraid.  You don't need to consider yourself
unclean.  You are free from your
suffering.”   

 This world doesn't remember the names of
rich people who gained hundreds million dollars or earned high status.  But the one who kept giving his divine power
or keep pouring out his love on us was never forgotten.  Why wasn't Jesus forgotten for two thousand
years? And why are there countless people who gain their true lives through his
name even now?  It is because he gave his
life completely for us.  Even though he
were to build a huge majestic temple in Jerusalem, his name would  be 
forgotten soon.  But we never
forget Christ.  For he poured out his
love and gave his whole life for us. 
Come as you are and it is all right if we are burdened.  But, let's stretch our hands to reach him
like the woman we learned about today. Let's pray. 

Translated by Takako Nishii

本日のおもちかえり

2013年2月24日

 

1)マルコ5章25節-34節を読みましょう。このところからあなたがこの女性の気持ちになる時、どんな思いで日々を過ごすと思いますか(ルカ8章42節‐48節には彼女が治療費のために財産を全て費やしてしまったと記しています)。

 

 

 

2)レビ記15章25節―30節を読みましょう。あなたは「触れると汚れる」というようなことを体験したことがありますか(あなたの故郷にそのような慣習がありましたか)。このような律法が有効な時代に生きていたこの女の暮らしぶりはどのようなものだったでしょうか。

 

3)ヨハネによる福音書4章31節―34節を読みましょう。ここでイエス様が言われた「わたしの食物というのは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることである」とはどういう意味ですか。私達が一般的に考える「食物」とイエス様がここで言っている「食物」とは何が違いますか。

 

4)上記、ヨハネ4章34節の「みわざを成し遂げる」という言葉は、原語のギリシア語を見ますと「ただ一度限りの行為」を意味する言葉です。イエス様にとってその生涯、ただ一度成し遂げられた行為とは何でしょうか。

 

5)あなたの人生において忘れられない人というのはどんな人ですか。なぜ、その人のことが忘れられないですか。「受けるより与えるほうがさいわいである」(使徒行伝20章35節)とはどういう意味ですか。そのように生きることはさいわいだと思いますか。なぜですか?

 

6)この女に向かってイエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」と言われました。この言葉にはイエス様のどんな思いが込められていると思いますか。

 

 

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