ヨハネ:気質と性格は変わるのか?

ヨハネは弟子達の間で一番、年齢の若い男でしたが、「雷の子」を意味する「ボアネルゲ」と呼ばれていました。先のマタイの「イスカリオテ」もそうですが、ニックネームとはその人の人となりを表します。私達が「雷の子」というニックネームから想像するヨハネの人となりはどのようなものでしょか。

南カリフォルニアでも年に数回、雷光と音を聞くことがあります。時にはすぐ側で雷光が天地を切り裂くような様を目的することがあります。あの天地を引き裂くような雷光の子と呼ばれたヨハネがどんな人間であったか私達はだいたい想像できます。ヨハネは年長者である他の弟子がそこにいようが、否、イエス様の前でも度々、雷が天地を引き裂くような激情を爆発させていたのでしょう。

はたして彼のこの気質と性格は変わるのでしょうか・・・。

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ヨハネ:気質と性格は変わるのか?
2017年6月11日

私達は誰しもそれぞれ「性格」を持っています。ある人は「社交的な性格」と呼ばれ、ある人は「もの静かな性格」と言われます。「性格」と同じように使われる言葉として「気質」という言葉があります。「性格」と「気質」の違いは何なのでしょうか。調べてみますとそこには違いがあるようです。

すなわち「気質」とは私達が先天的にもっているもので、それは何かしらの刺激を受けた時にする私達の反応だそうです。何かが起きた時にとっさにどんな言動をするのか、そこから見えてくるのがその人の気質で、英語ではテンパーメント(Temperament)と呼ばれます。そして「性格」とはこの「先天的な気質」に加えて「後天的な感情や意志」などが加わったもので英語ではキャラクター(Character)、パーソナリティー(Personality)と呼ばれます。

盲導犬となる犬は中型犬のラブラドール・レトリバー、あるいはゴールデン・レトリバーが主になります。彼らの気質が穏やかで、飼い主に忠実だからです。私達はポメラニアンの盲導犬を見たことがありません。また警察犬となる犬は賢く、機敏、かつ忠実で、主にそれはジャーマン・シェパードです。私達はチワワの警察犬を見たことがありません。それはレトリバーとシェパードという犬が生まれながらに持ち合わせている気質が盲導犬、警察犬の役割に適しているからです。その気質の上に彼らが後天的に得た性格が加わり、それぞれの犬の個性となります。

同じように私達一人一人にも気質があり、そして性格があります。この気質と性格が互いに違いますゆえに私達、人間社会には色々なドラマが生まれます。そして、言うまでもなくイエス・キリストの弟子達にもそれぞれ気質と性格がありました。

イエス・キリストは宣教活動を始めるにあたり12人の弟子を選び、彼らと三年半、寝食を共にし、彼らを訓練しました。先週、お話ししましたようにその中にはリーダー格のペテロという男がいました。ペテロは情熱的な男で、その情熱の方向性を誤り、度々、問題を引き起こしました。

また弟子の中には熱心党のシモンという男もいました。熱心党とはローマからユダヤの自治独立を勝ち取るために手段を選ばずにその目的を遂行しようという過激組織でした。暴動時の殺人で刑に処せられながらもイエス様の身代わりで恩赦を受けたあのバラバもこの熱心党員であったと言われています。

イエス様を裏切ったユダは「イスカリオテのユダ」と呼ばれていました。この「イスカリオテ」という彼の呼称は「カリオテ」という地名をあらわすとか「刺客:Assassin」を意味する言葉ではないかと言われています。仮にその意味を刺客としますのなら、シモンが属していた熱心党員はいつも懐に短刀を隠し持っていたといいますから、このユダも熱心党員であったのではないかと言われています。今日で言うなら懐に短刀を隠し持っているテロリストのような男達がイエスの12弟子の中にいたということは驚きです。

これらから分かりますようにペテロ、シモン、ユダ共に彼らは情熱的な気質をもっていました。情熱的であるということはとても大切なことです。情熱なくして事は起きないからです。しかし、その気質ゆえに彼らは物事に対して直ぐに熱く反応をするのですが、そこに彼らの感情や意思が反映しますと、その情熱の方向性を誤り、度々、問題を引き起こしました。そうです、彼らはその気質を正しく用いることができずにいたのです。

これらの人達以外に、他の弟子達の気質と性格もあげることができますが、今日はその中で12弟子の中で一番、若かったであろうヨハネに特に注目したいと思います。ヨハネにはもともと気の短い気質があり、その気質ゆえに頭に血がのぼると彼の感情や意思はそれを抑えられず、度々、爆発しました。

ヨハネはガリラヤ湖畔で兄弟ヤコブと共に網を繕っている時にイエス様に声をかけられると、すぐに舟と家族を置いて12弟子に加わり、イエス様に従っていきました(マタイ4章21節、22節)。ヨハネは弟子達の間で一番、年齢の若い男でしたが、「雷の子」を意味する「ボアネルゲ」と呼ばれていました。先のマタイの「イスカリオテ」もそうですが、ニックネームとはその人の人となりを表します。私達が「雷の子」というニックネームから想像するヨハネの人となりはどのようなものでしょか。

南カリフォルニアでも年に数回、雷光と音を聞くことがあります。時にはすぐ側で雷光が天地を切り裂くような様を目的することがあります。あの天地を引き裂くような雷光の子と呼ばれたヨハネがどんな人間であったか私達はだいたい想像できます。ヨハネは年長者である他の弟子がそこにいようが、否、イエス様の前でも度々、雷が天地を引き裂くような激情を爆発させていたのでしょう。

ある時、イエス様一行が旅をしていた時、途中、サマリア人が住む町を通過したのですが、その時に彼らがイエス様を歓迎しませんでした。このことに対して雷の子ヨハネは激怒してイエス様にこう言ったのです。

『主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火を呼び求めましょうか?』(ルカ9章54節)自分達を受け入れないというその理由だけで、彼は天から火をおこして彼らを焼き払ってしまいましょうというのです。彼はサマリア人に対して完全に頭に血が上っていました。「彼らを焼き払いましょう」とは何とも激しい言葉です。

またルカ9章49節を見ますとヨハネがイエス様に「先生、わたしたちはある人が、あなたの名前を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人は私たちの仲間ではないので止めさせました」と言っています。

ヨハネはある所でイエス様の名前を使って悪霊を追い出している人達を見て、頭に血がのぼり、彼らに詰め寄り「やいやいお前ら、誰の許可があって、勝手に俺たちの親分の名前を使っているんだい。やめろ、やめろ、今すぐやめろ」と彼らに強く迫ったのでしょう。さらりと書かれていますが、この時のヨハネもそうとうに激しかったことでしょう。

瞬間湯沸かし器のごとく、すぐに頭に血がのぼり、一度、そうなったら誰も止められないような気質をもったこんなヨハネでしたがイエス・キリストと出会い、その弟子となって以来、イエス・キリストの言動が本当に彼を惹きつけたのでしょう。彼は他の誰よりもイエスの近くにいることを自らに心がけ、イエス様から離れることがありませんでした。ペテロの家にいる時も(マルコ1章29節)、会堂司の娘がよみがえった時も(マルコ5章37節)、変貌の山(マルコ9章2節)とオリブ山(マルコ13章3節)とゲッセマネ(マルコ14章33節)においてもヨハネは苦悶するイエス様と共にその場に居合わせました。彼は雷の子でしたが、イエス様から離れることなく、その言動を心に焼きつけました。

イエス様が十字架にかかる最後の晩餐の席上では主の御胸に寄り添って席に着きました(ヨハネ13章23節、25節)。イエス様が捕えられた時、他の弟子達は皆、散り散りに逃げましたがヨハネだけはイエス様を離れずに(ヨハネ18章15節)、母マリアと共に弟子の中で唯一、十字架の下でイエス様の姿を最期まで見届け、イエス様から母マリヤのことを託されました(ヨハネ19章26節、27節)。

ヨハネは明らかに激しやすい気質をもっていましたが、その気質を持ったまま、彼は「このお方こそ」と思ったイエス様にひたすらついていく決意をしていたのです。そして、この決意は後に彼の性格となりました。そう、彼は常に物事を注意深く観察する性格を獲得したのです。、かつてあの偉大な預言者イザヤはイエス様の姿を預言して「かわいた土から出る根のように、見るべき姿がなく、威厳もない」(イザヤ53章2節)と世の人達のイエス様に対する視点を預言しましたがヨハネは「わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1章14節)とイエス様の本質的な姿を見極めていました。

イエス様のよみがえりの朝、彼はペテロと共に主の墓にかけて行き、ペテロが猪突猛進、墓穴の中に駆け込んだ時にも、ヨハネは墓に入ることはなく墓の中を観察していました(ヨハネ20章3節-6節)。イエス様がガリラヤ湖の岸に立っておられた時、だれよりも先に「あれは主だ」とイエス様を見極めて叫んだのもヨハネでした(ヨハネ21章7節)。このようにしっかりと物事を見極めることができたヨハネであったゆえに、彼は後年、パトモス島において幾千年の歴史を見通して、主の再臨の栄光を拝し、そのことをヨハネ黙示録に記し、後世に書き残すという大役を神様から授かったのでしょう。

また12弟子の中で自分のことを「イエスの愛された弟子」(ヨハネ21章20節)と呼んだのは彼だけでした。愛されているという感受性を彼は持ち合わせ、そこに生き続け、神様はその彼を御手の中でかたち作られたのです。

ヨハネは十字架にかけられたイエス様の一部始終を十字架の下、間近に見ていました。釘づけにされたイエス様から語られた十字架上の七つの言葉を聞き、イエス様から直々に母マリアを託されたようにイエス様と直接会話ができるようなところにいたにちがありません。十字架上で「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」(ルカ23章34節)と言われた言葉やイエス様の横の十字架につけられた強盗に向かって「あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23章43節)という言葉、全てをヨハネは十字架の側で見聞きしたことでしょう。ヨハネが書き記したヨハネ伝だけが、イエス様が十字架上で言われた、聞き逃してしまうような「わたしは乾く」(ヨハネ19章28節)と「すべてが終わった」(ヨハネ19章30節)という短い言葉を記録しています。そう、彼はその言葉を人づてではなくイエス様から直接聞いたのです。

これらの事があったずっと後にヨハネは「ヨハネ第一の手紙」を書いたのですが、そこには非常に不思議なことが書かれています「主は私たちのために命を捨てて下さった。それによって、私たちは愛ということを知った(口語訳)。私たちに愛が分かったのです(新改訳)」(Ⅰヨハネ3章16節)

不思議な言葉です。ヨハネはここで「それにより愛ということを知った分かった」というのです。「それにより」とは「主はわたしたちのために命を捨ててくださった」ということです。そのことにより、彼は愛ということを知り、愛が分かったというのです。

そうです、「このこと」とは彼が見上げた十字架のイエス様のお姿です。目の前に無残な姿で十字架にかかっているイエス様がいる。つい数時間前までエルサレムの二階座敷で自分の隣に座っておられたお方。自分の目の前でパンをさき、ブドウ酒を注ぐ姿を間近に見ていた、その手に今は釘が打ち込まれている。なぜ、このお方はこのような十字架刑にかけられたのか。彼は知ったのです。このお方は自分のために十字架にかかったのだということを。そのことが分かった時、彼は生まれてはじめて愛というものを知った、愛とは何かが分かったというのです。

かつてヨハネの母親がイエス様のもとにきてこんなことを話したことがありました。「その時、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。そこでイエスは彼女に言われた。何をしてほしいのか。 彼女は言った、わたしのこの二人の息子を、あなたの御国で一人はあはあなたの右に、一人は左に座れるようにお言葉をください」(マタイ20章20節-24節)。

そうです、ヨハネの母はイエス様に言いました。我が愛する子達をあなたのの一番弟子、二番弟子としていただきけないかと。明らかにこれは他の弟子たちを出し抜いたもので褒められことではありませんが、正直な親心でありましょう。どんなにかこの母やヨハネを愛していたことでしょうか。ヨハネには子のために盲目になってしまうような優しい母がいました。また彼にはいつも行動を共にする兄弟ヤコブもいましたし、父ゼベダイは二人の息子がイエスに従って家を出ていく時にも(マタイ4章21節-22節)、とがめることをしないような息子に信頼を置く父親だったようです。聖書によりますとヨハネの家には雇人があり(マルコ1章19節、20節)、彼は大祭司の知り合いであり(ヨハネ18章16節)、相当に裕福であり、父も町の名士であったようです。ヨハネはこのような家族の愛と恩恵を受けて育ったことでしょう。もともと激やすい彼の気質に加え、親の溺愛ゆえにそれが咎められることなく育ったことゆえの性格が雷の子と呼ばれた理由だったのかもしれません。

その彼が言うのです「私は愛を知った、愛が分かった」と!このことが分かった時に彼は「雷の子」というニックネームを返上したのでしょう。自分は主から愛されているのだということを知った時に、その愛が彼の内に満ち溢れ、それが留めえないので、その手紙に何度も「愛」を書き記したのでしょう。ヨハネは変わりました。イエス様の愛を知ったからです。その愛が彼の心に満ちたからです。ゆえに先ほど読みましたヨハネが晩年に書き残したと言われているヨハネ第一の手紙は「愛の書」と呼ばれ、この手紙の3、4章だけで実に「47回」も愛という言葉が記されているのです。まさしく口を開けば彼は愛を語る男に変わったのです。

人は人を努めて愛そうとします。しかし、実際のところ、それは難しいのです。愛の本質は愛されてはじめて、愛することができるからです。愛はその時々に自分で生産するものではなく、どうにかこうにか内から自分で絞り出すものではなく、「愛する」前に「愛されている」という愛が溢れ出てくるものだからです。ルカ伝においてイエスが言われているとおりです。『心からあふれ出ることを、口が語るものである』(ルカ6章45節)。

ヨハネの気質と性格は雷の子でした。しかし、その雷の子がイエス・キリストの弟子となり、この雷の子はイエス・キリストの言動を一つももらさないように常にイエスの側にいて、その姿を心に焼きつけました。そのようにしてイエスと共に過ごすうちに彼の気質は変えられ、それゆえに彼の性格も変えられていったのです。イエス様の愛が雷の子と呼ばれたヨハネの気質と性格を全く変えてしまったのです。

伝説によれば後にヨハネはイエス様から言づけられたようにイエス様の母マリアと共にヱペソで過ごしたといいます。かつては一番若かった彼も老年となりました。かつては雷の子であった彼も、自分の弟子たちに手を引かれながら集会に来るようになりました。彼はそんな集まりに出ては「子達よ、互いに愛し合いなさい」とだけ繰り返し言ったといいます。「天から火を!」と言っていたかつての雷の子はイエスの愛に触れ、愛しか語らない人となりました。ヨハネはイエスとの出会いによって愛の使徒に変えられました。私たちの人生にも色々な出会いがあることでしょう。しかし、このイエスとの出会いに勝るものはありません。

ヨハネは第一ヨハネ4章10節で言いました「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪の贖いの供え物として御子をお遣わしになった。ここに愛がある」 ここに愛があるのです。愛という言葉の価値が暴落しているようなこの時代にあっても、あの2000年前のカルバリの愛は今もその輝きが失われることはないのです。

あの人は自分にいいことをしてくれる。親切だ、優しい人だというようなものではない、自らの命を投げ出すまでに私たちを愛して下さったキリストの愛がここにあります。医者が患者のからだを診察し、その患者に必要な薬を処方するように、私達が自分の心と真摯に向き合う時に、私達が本当に必要としているのは、このキリストの愛なのだということが分かります。言い方を変えれば、私達はこのような類の愛を受けることなく、日々、暮らしているのです。誰もがこのキリストの愛を必要としています。

今日のメッセージのタイトルは「気質と性格は変わるのか」というものです。結論を言います。気質と性格はイエス・キリストにあって変わります。何が私達の気質と性格を変えるのでしょうか。キリストの愛が私達の気質と性格を変えるのです。あなたはこのことを信じますか。

イエス様が12弟子を選ぶにあたり、何をなさったかということをルカは書き残しています。12このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。13夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。14すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ・・・」(ルカ6章12節-16節)。

イエスの12弟子は皆、志願してその弟子となったのではありません。ペテロも熱心党のシモンもイスカリオテのユダも、そして雷の子ヨハネもイエスに選ばれて弟子となったのです。イエス様は彼らの気質と性格を知りつつも、そのために夜を徹して神に祈られ、夜が明け、その所から立ち上がる時にイエス様の心には彼らがいたのです。そうです、粗削りの気質を持ち、その気質の用い方を知らないゆえに失敗を繰り返した男達です。しかし、彼らはイエスの愛により、その気質と性格が変えられたのです。

人間的に見れば彼ら以上によき気質と性格をもった有能な人達はたくさんいたことでしょう。素材ということで考えればそれは決して最善とは言い難い男達でした。しかし、イエス様の目から見れば彼らは可能性に満ちた男達でした。ペテロ、ユダ、シモン、ヨハネの情熱の出どころと、矛先が変わる時に、何が起こるかということをイエス様はご存知でした。イエス様は荒削りの素材をその御手の中で整え、愛の使徒、ヨハネを作り上げ、弟子達も変えられました。褒めたたえられるのはヨハネではなく、弟子ではなく、主イエスが人を造り変えたそのみわざなのです。

主にある皆さん、私達の気質と性格はいかがでしょうか。そのことにおいて完璧な人はいないでしょう。今日、お話ししましたことで分かりますことは、イエス様は弟子達の欠点と思われるところを引き延ばし、そのことによって彼らは神の栄光をあらわしていく人生へと導かれていきました。あなたの気質と性格を十二分に知りながら、あなたのために夜を徹して祈っておられる方がいるということ知る時に、そのキリストの私達に対するパッションに皆さんの心は動かされませんでしょうか。私達がこの人生で作り上げる唯一の作品、そう、「自分」という作品を神の御手の中で作り上げていただきませんか。お祈りしましょう。

Message: “John: Do temperament and personality change?

Rev. Makoto Okura
June 11, 2017

 Everyone has their own “personality”. Some people’s character is “sociable” and some are said to be “quiet”. “Temperament” is a word used like “personality”. What is the difference between “character” and “temperament”? If you investigate, you may find the difference.

In other words, “temperament” is what we have inherently; it seems to be our response to something inspiring. By observing what sort of things to do or to say when something happens instantly, we can find out someone’s temperament. Whereas, “Character” and “Personality” are of acquired feelings and will, in addition to this innate temperament.

A guide dog is mainly a medium size dog like a Labrador Retriever or Golden Retriever, because the temperament is calm, and it is faithful to the owner. We have never seen a Pomeranian as a guide dog. Police dogs are smart, agile, and faithful. They are mainly German shepherds. We have never seen a Chihuahua as a police dog. That is because the temperament that Retrievers and Shepherds have are inherently suitable for the roles of guide dogs and police dogs. On top of that temperament, the character they acquired afterwards adds to the individuality of each dog.

Likewise, each one of us has temperament and personality. Because our temperament and personality are different from each other, various dramas are born to human society. And, of course, each one of the disciples of Jesus Christ had temperament and personality.

When Jesus started his missionary activities, he chose 12 disciples. Jesus ate and slept together with them and trained them for three and a half years. As I mentioned last week, there was a man named Peter who was the leader of the disciples. Peter was a passionate man who mistook the direction of his passion and often caused problems.

Also, among the disciples there was a man named Simon, who belonged to the Zealot Party. The Zealot Party was an extremist organization trying to accomplish its purpose by choosing any means to win autonomous independence of Judea from Rome. It is said that Barabbas who received amnesty instead of Jesus, while being sentenced for murder at the time of the riot was also a member of this party.

Judas who betrayed Jesus was called “Judas of Iscariot”. It is said that his “Iscariot” is a word that signifies the land name of “Carioté” or “assassin”. If the meaning is “assassin”, Judas might have been also a member of the Zealots, since the Zealot members to whom Simon belonged always hid daggers in their bosoms. It is surprising that the men like terrorists who hid daggers in their bosoms were among the twelve disciples of Jesus.

As you can see, Peter, Simon and Judah all had a passionate temperament. Being passionate is very important, because things will not happen without passion. However, because of their temperament, they responded too quickly to situations, and when they reflected their emotions and intentions, they mistook the direction of their passion and often caused problems. Yes, they were unable to properly use that temperament.

Besides these people, I could describe the temperament and personality of other disciples, but today I would like to pay particular attention to John who was thought to be the youngest of the twelve disciples. John was inherently short-tempered. He could not suppress his emotions and intentions, and often exploded when his blood came up to his head, due to his temperament.

When Jesus spoke to John at the shore of Lake Galilee with his brother James, he immediately gave up his boat and his family and joined the twelve disciples and followed Jesus. (Matthew 4:21-22) John was the youngest man among Jesus’ disciples, but he was called ” Boanerges” which means “son of thunder”. It is like Judas’ “Iscariot”, but the nickname represents a personality of the person. What kind of person was John who we imagine from the nickname like “son of thunder”?

Even in Southern California, we hear thunder and lightning several times a year. Sometimes, we see lightning strike very closely like severing the heaven and earth. We can almost imagine what kind of man John was by thinking about the sight of lightning. John would have often exploded like a thunder tearing apart the heaven and earth, before the elder disciples, and even before Jesus.

One time, when Jesus was traveling, they passed the town where the Samaritans lived, but at that time they did not welcome Jesus. In response to this, John, the son of thunder, was angered and said to Jesus: “Lord, do you want us to call fire down from heaven to destroy them?” (Luke 9: 54) Just because the Samaritans did not welcome them, John wanted to call fire from heaven to destroy them. His blood had completely gone up to his head against the Samaritans. “Let’s burn them down” is a fierce word.

Also in Luke 9:49, John told Jesus, “Master, we saw someone driving out demons in your name and we tried to stop him, because he is not one of us.”

In one place, John saw the people who were driving out evil spirits using the name of Jesus, and his blood rose to his head. Probably John said to them,  “Hey guys, who allowed you to use the name of our boss? Stop it, stop it now!” He forced them to stop it. At that time, John would have been intense like that.

Like an instantaneous water heater, John’s blood instantly rose to his head, and once he was in such a condition with his temperament, no one could stop him.  But ever since John met Jesus Christ and became his disciple, he was trying to be closer to Jesus more than anyone, never leaving Jesus. Jesus’ words really attracted him. Even when Jesus was at Peter’s house (Mark 1:29), even when the daughter of the synagogue was resurrected (Mark 5:37), at the mountain of transfiguration (Mark 9:2), at Mt. Olive (Mark 13:3), and at Gethsemane with Jesus in agony on the spot (Mark 14:33), John was always there with Jesus. He was a “son of thunder”, but he did not leave Jesus and Jesus’ words burned into his heart.

At the last supper, John sat close to Jesus leaning against the breast of the Lord (John 13:23, 25). When Jesus was caught, all the other disciples fled and scattered, but only John did not leave Jesus. (John 18:15) He was the lone disciple, who was at the foot of the Cross with Mother Mary. He watched Jesus until the end, and Jesus entrusted Mother Mary to John. (John 19:26, 27)

John was clearly temperamental, but with his temperament, he was determined to follow Jesus who he thought “this is the One”. And this decision later developed his character. Yes, he gained the character of always observing things carefully. The great prophet Isaiah once prophesied the appearance of Jesus, writing, He grew up before him like a tender shoot, and like a root out of dry ground. He had no beauty or majesty to attract us to him, nothing in his appearance that we should desire him.” (Isaiah 53:2) Isaiah prophesied how the people of this world viewed Jesus, but John said, The Word became flesh and made his dwelling among us. We have seen his glory, the glory of the one and only Son, who came from the Father, full of grace and truth.” (John 1:14) John was seeing the essential appearance of Jesus.

In the morning of Jesus’ resurrection, John went to the grave of the Lord with Peter, and while Peter furiously ran into the grave, John was observing the grave without entering the grave. (John 20:3-6). When Jesus was standing on the shore of Lake Galilee, it was also John that recognized Jesus earlier than anyone, crying out “He is the Lord!” (John 21:7)

Because he was able to observe things clearly in this way, he later foresaw the history of thousands of years while on Patmos Island, observing the glory of the Lord’s Second Coming, and recorded it in the Revelation of John. Because of his ability, God gave him the big role of writing the Revelation for future generations.

He was the only one who called himself “Jesus’ beloved disciple” among the 12 disciples. (John 21:20) He had the sensitivity of being loved by Jesus, and continued to live there. God created his figure in His hand.

John observed the whole thing of Jesus’ crucifixion from the beginning to the end near the cross. He heard the seven words on the cross told by Jesus who was nailed on the cross, and stayed n the spot where he could talk directly with Jesus as Jesus entrusted his mother Mary directly to John.

On the Cross, Jesus said, “Father, forgive them, for they do not know what they are doing.” (Luke 23:34) And the words that Jesus told the robber placed on the cross next to Jesus: “Truly I tell you, today you will be with me in paradise.” (Luke 23:43) John would have seen and heard everything as he stood by the cross. Only the Gospel of John recorded the words of Jesus on the cross, “I am thirsty.” (John 19:28) and “It is finished.” (John 19:30), which could have been missed from being heard because they are short words. Yes, he heard those words directly from Jesus, not through others.

Long after these things happened, John wrote “The First Letter of John”. However, there is a very strange thing written as follows: This is how we know what love is: Jesus Christ laid down his life for us.” (I John 3:16)

It is a mysterious word. John said here that we know and understand what love is by the fact that “Jesus Christ laid down his life for us.” By that, he knew and understood love.

Yes, that is the figure of Jesus on the cross that he looked up. There was Jesus in a miserable form on the cross in front of John. A few hours ago, Jesus was sitting next to John in a second-floor room in Jerusalem. He saw Jesus break the bread in front of his eyes, watched closely as Jesus poured wine with his hands; the hands which the nails were driven through.

Why was Jesus subjected to such a crucifixion? John knew that Jesus was crucified for him. When he realized that, he knew the real love for the first time in his life. He understood what love is.

At one time, John’s mother came to Jesus asking a favor as follows: Then the mother of Zebedee’s sons came to Jesus with her sons and, kneeling down, asked a favor of him. “What is it you want?” he asked. She said, “Grant that one of these two sons of mine may sit at your right and the other at your left in your kingdom.” (Matthew 20: 20-24)

Yes, John’s mother said this to Jesus. I wonder if you would like my dear children to be the first and the second disciples of yours? Although she is an honest parent, this is obviously not something commendable, for that pushes other disciples out of place. I can imagine how much this mother loved her children. John had a gentle mother who would become blind for her children.

There was also the brother James always acting together with John. And his father Zebedee also did not blame them when his two sons left the house to follow Jesus. (Matthew 4:21-22) It seems that he was a father who put trust in his sons. According to the Bible, there were servants in the house of John (Mark 1:19-20), and he is an acquaintance of the high priest (John 18:16), and he was considerably wealthy. It seems that John would have been brought up in such a family with love and benefits. In addition to his native temperament, perhaps because he was raised without being condemned due to his parents’ blind love, his personality became such that he was called a “son of thunder”.

Such a John said, “I knew love, I understood love!” When he understood this, he would have given up the nickname “son of thunder”. When he realized that he was loved by the Lord, he was filled with that love and he could not retain it inside, so he wrote “Love” over and over in that letter many times.

John changed, because he knew Jesus’ love, and his heart was filled with that love. Therefore, the first letter of John that is said to be written in his later years is called “the book of love”. The word “love” is actually written 47 times in chapters 3 and 4 of this letter alone. Indeed, John changed into a man who talked about love whenever he opened his mouth.

People are striving to love others, but in fact, that is difficult. It is because the essence of love is that people can love only when people are loved. Love is not something to produce, nor something to squeeze out from within, but the feeling of “being loved” comes up before loving someone. It is exactly what Jesus said in the Gospel of Luke. The mouth speaks what the heart is full of.” (Luke 6:45)

The temperament and personality of John was like a son of thunder. However, the son of thunder became the disciple of Jesus Christ, and he was always at the side of Jesus so that he would not miss any of the words of Jesus Christ, and burned Jesus’ figure into his mind. While spending time with Jesus like that, his temperament was changed, and his character was also changed. Jesus’ love completely changed the temperament and personality of John who was once called a son of thunder.

According to legend, it is said that John later took care of Jesus’ mother Mary in Ephesus as asked by Jesus. Once the youngest man among the disciples, now became an old man. Once he was a son of thunder, but now he came to a meeting being lead by his disciples. It is said that John repeatedly said, “My children, you love each other!” in such a meeting. The son of thunder, who had cried “Fire from Heaven!” was changed and became a person who only talked about love. Touched by the love of Jesus, John was changed to an apostle of love. There will be various encounters in our lives. However, there is nothing better than the encounter with Jesus.

John said in I John 4:10 as follows: This is love: not that we loved God, but that he loved us and sent his Son as an atoning sacrifice for our sins.” There is love here. Even in this age when the value of the word of love is diminishing, Jesus’ love at Calvary 2000 years ago will never be vanished.

That person does good things for me. He is kind. Jesus’ love is not that level of love, but he loved us so much that he sacrificed his own life for us. Here is the love of Christ. Like a doctor examines the patient’s body and prescribes the necessary medicine for that patient, what we really need when we seriously look at our hearts is this love of Christ. In other words, we live our daily lives without receiving that kind of love. Everyone needs this love of Christ.

The title of today’s message is “Do temperament and personality change?” I will tell you the conclusion. Temperament and personality can be changed by Jesus Christ. What will change our temperament and personality? The love of Christ will change our temperament and personality. Do you believe this?

Luke wrote about what Jesus did in selecting 12 disciples as follows: One of those days Jesus went out to a mountainside to pray, and spent the night praying to God. When morning came, he called his disciples to him and chose twelve of them, whom he also designated apostles: Simon (whom he named Peter), his brother Andrew, James, John, Philip, Bartholomew, Matthew, Thomas, James son of Alphaeus, Simon who was called the Zealot, Judas son of James, and Judas Iscariot, who became a traitor.” (Luke 6:12-16).

Every one of the twelve disciples of Jesus did not volunteer and became his disciples. Peter, Simon of the Zealot party, Judas Iscariot, and John the son of thunder, were all chosen by Jesus and became disciples. While knowing their temperament and personality, Jesus prayed to God throughout the night for that, and at dawn when he rose from the place, those names were in the heart of Jesus. Yes, those men had rough personalities and repeatedly made mistakes because they did not know how to control their temperaments. But because of Jesus’ love, their temperament and personality were changed.

From a human vantage point, there might have been many talented people with better temperament and character than the disciples. From a human resources standpoint, they were not the best men. But from the eyes of Jesus, they were men full of potential. Jesus knew what was going to happen when Peter, Judas, Simon, John’s sources of passion and the directions had changed. Jesus remodeled the roughly cut material in His hands, making the apostle of love, John, and also changed other disciples. It is not John, nor the disciples, but the Lord Jesus who changed them all to be praised.

Brothers and sisters in the Lord! How about our temperament and personality? Probably, there is no perfect person on this matter. What I would like to point out from my message today is that Jesus took advantage of what seemed to be the defects of his disciples, and led them to a life to express the glory of God. Wouldn’t you be moved by the passion of Christ for us, when you know that He is praying for you all night, while knowing your temperament and personality to the fullest? Yes, why don’t we let the only masterpiece that we can make in this life, our “self”, to be made complete in God’s hands. Let’s pray.

Translated by Hideyuki Honda

本日のおもちかえり
2017年6月11日

1)あなたとあなたの親は似ていますか。何が似ていますか。あなたはどんな気質を持っていますか。あなたはどんな性格でしょうか。人からあなたの気質や性格について言われたことがありますか。あなたには変えたい気質や性格がありますか。

 

2)ペテロや熱心党のシモン、イスカリオテのユダがいた12弟子は普段、どんな共同生活をしていたと想像できますか。

 

3)ルカ9章49節、54節を読みましょう。ここからヨハネのどんな気質、性格を読み取ることができますか。

 

4)ヨハネはいつもイエス様から離れずにその言動をつぶさに見続けました。このことはどれくらいヨハネに影響を与えたと思いますか。あなたが見聞きしていることはどれくらいあなたという人格を作り上げていますか。

 

5)ヨハネはヨハネ第一の手紙3章16節で「主は私たちのために命を捨てて下さった。それによって、私たちは愛ということを知った(口語訳)。私たちに愛が分かったのです(新改訳)」と言いました。彼の人生には愛を知る機会がなかったのでしょうか。それとも彼はイエスのうちにどんな愛を見つけたのでしょうか。

 

6)あなたの気質や性格を変えうるものは何ですか。私達は神の御手の中にある土の器です。あなたは神の作品です。神様の御手により主が喜ばれる器へと作り変えていただきましょう。そのために必要なことは何ですか。

 

 

 

 

 

 

 

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