リアリストであり、信仰者

その著書で世界的に有名なデール・カーネギーがあるラジオ番組で「あなたが今までに学んだ最大の教訓を三行の短い言葉で言ってください」と問われた時に彼が何と答えたかご存知ですか。彼は言いました。「私が今までに学んだ最大の教訓は、私がいつも何を考えているかということの驚くべき重要性です」。

続けてカーネギーは言います。「もし、あなたが何を考えているかが分かれば、あなたがどういう人か、分かります。なぜならあなたが考えていることが、今のあなたをつくっているのですから。考え方を変えると、人生を変えることができます」。

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リアリストであり、信仰者
2021年1月10日

私達は昨年の4月から、出エジプト記を9ヶ月にわたり見てきております。そして、そこにはかつて奴隷として捕らえられていたエジプトから解放されたイスラエルとそのイスラエルを率いるモーセの荒野での姿が書かれていました。

昨年最後の礼拝では、その出エジプト記33章を見ましたので、残すところあと7章でこの出エジプト記は終わるのですが、残りのほとんどは幕屋に関する言及です。

幕屋とは神様が荒野にてイスラエルの民に、神と謁見する場所としてその建築を命じられたもので、そこにはどんな材料で幕屋が作られ、その長さはどれ位か、調度品はどのようなものであるべきかというような記録が淡々と書かれています。

聖書を通読する時に、少々忍耐を必要とする箇所と言われてしまうところかとも思います。詳細を一つ一つ見れば、そこにはとても大切なメッセージがあるのですが、この度はこれらに触れずにイスラエルの民の姿をまた違った角度から見ていきたいと思います。

それではどこから話すのかと思われる方がいるかと思います。実はこのイスラエルの民の荒野での日々は出エジプト記だけに記されているのではなく、レビ記、民数記、申命記などにも記録されているのです。これらを見ることにより、さらに私たちはこのモーセ率いるイスラエルの民たちに起きた出来事をさらに知ることができます。そこで今日は民数記13章17節-33節を見ていきたいと思います。

17 モーセは彼らをつかわし、カナンの地を探らせようとして、これに言った、「あなたがたはネゲブに行って、山に登り、18 その地の様子を見、そこに住む民は、強いか弱いか、少ないか多いか、19 また彼らの住んでいる地は、良いか悪いか。人々の住んでいる町々は、天幕か、城壁のある町か、20 その地は、肥えているか、やせているか、そこには、木があるかないかを見なさい。あなたがたは、勇んで行って、その地のくだものを取ってきなさい」。時は、ぶどうの熟し始める季節であった。21 そこで、彼らはのぼっていって、その地をチンの荒野からハマテの入口に近いレホブまで探った。22 彼らはネゲブにのぼって、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマン、セシャイ、およびタルマイがいた。ヘブロンはエジプトのゾアンよりも七年前に建てられたものである。23 ついに彼らはエシコルの谷に行って、そこで一ふさのぶどうの枝を切り取り、これを棒をもって、ふたりでかつぎ、また、ざくろといちじくをも取った。24 イスラエルの人々が、そこで切り取ったぶどうの一ふさにちなんで、その所はエシコルの谷と呼ばれた。25 四十日の後、彼らはその地を探り終って帰ってきた。26 そして、パランの荒野にあるカデシにいたモーセとアロン、およびイスラエルの人々の全会衆のもとに行って、彼らと全会衆とに復命し、その地のくだものを彼らに見せた。27 彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。28 しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。29 またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。30 そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。31 しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。32 そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。33 わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」(民数記13章17節ー33節)。

今日、読みました聖書箇所の背景を説明いたしましょう。ある時モーセは神様から「イスラエルの部族のうちからそれぞれ一人のつかさを選び、カナンの地を探らせるように」(民数記13章1節、2節)と命じられました。

余談となりますが、現在のイスラエルにはモサドという諜報機関があり、このイスラエルの諜報機関は世界で最も緻密な諜報機関だと言われています。彼らのモットーは聖書、箴言11章14節の 指導者がなければ民は倒れ、助言者が多ければ安全であるからきており、まさしく世界各地に助言者、すなわちネットワークをはりめぐらし、機密情報を収集しています。

何も知りえない素人がこのような諜報機関について言えることは何もありませんが、ご存知のようにイスラエルはアラブ諸国に囲まれた小国であり、世界が常にその動向を注視している国です。そのようなイスラエルにとりまして、先んじて機密情報を得るということは国の安全保障、そして国の存続に関わることです。イスラエルの歴史を見れば、「国を存続させる」ということに関して言えば、彼らは他民族には知りえないほどの並々ならぬ強い思いを持っていることが分かります。

そして、この今日のイスラエルの現状に対する先駆けのような出来事が今読みました民数記の出来事なのです。そうです、そこに書かれていることは今日でいいます諜報作戦と言えますでしょう。モサドという諜報機関は、古の昔から、常に敵と対峙してきたユダヤ人が必然的に持たなければならない最重要機関なのです。

その時、神様からの命を受けたモーセは早速、そのために12の部族から12人のリーダを選びました。そして、彼らはカナンの地へと出て行きます。現代の言葉で言うならば彼らはスパイとなったのです。「7人の侍」のごとく、それは「12人のスパイ」でした。

その彼らにモーセはこんな命令をしました「あなたがたはネゲブに行って、山に登り、その地の様子を見、そこに住む民は、強いか弱いか、少ないか多いか、また彼らの住んでいる地は、良いか悪いか。人々の住んでいる町々は、天幕か、城壁のある町か、その地は肥えているか、やせているか、そこには木があるかないかを見なさい。あなたがたは勇んで行って、その地のくだものを取ってきなさい」(民数記13章17節-20節)。

この言葉から分かるように、それは後になってイスラエルがその地にいる者達と戦いを交えることを想定して、そこには城壁があるのかないのか、そこに住む者達はどれくらいの力を有しているのか、その数はどれくらいかと敵の状況を把握するということだったと思います。

さらに最終的にはその地を獲得するにあたり、その土地がどんなところなのかを探ったのでありましょう。その地が木もはえない、人も住めない場所では獲得しても役立つ場所とはなりません。そこは肥えた良い地なのか、木があるのか、どんな果物がなっているのか、彼らはモーセの言葉に従い敵地を40日かけて偵察したのです。

聖書は詳細を記していませんが、12人にとりまして、このミッションは極度の緊張を強いたものだったと思われます。スパイということは、相手の国にとっては不審者であり、国を脅かす者であります。故にもし見つかったら捕虜となるか、殺されてしまう可能性が十分にあったことでしょう。細心の注意をしてこの12人は任務にあたったことでしょう。

そして、幸いなことに12人、誰一人損なわれずに帰還することができました。命じられたように彼らはかの地に生息していた豊かなブドウとざくろとイチジクを携えて帰ってきました。彼らはモーセとアロン、イスラエルの全会衆のもとに行き、その果物を皆に見せ、こう報告したのです。

27節-29節、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはその果物です。しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、私たちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。またネゲブの地には、アマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、アモリ人が住み、海辺とヨルダンの岸辺には、カナン人が住んでいます」

そして、31節―33節においてさらにこう言いました「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言いました、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民は、みな背の高い人々です。わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちは自分が、いなごのように思われ、また彼らにもそう見えたに違いありません」。

主にある皆さん、皆さんはこの報告を聞いて、どう思われるでしょうか。彼らが見た土地は乳と蜜が流れる土地でした。それはその土地が肥沃な場所であったということの表現でありましょう。「これがその果物です」とその時に彼らが差し出した果物は、大きく実った果物であり、その収穫物はその土地の豊かさを十二分に示していたことでしょう。

しかし、彼らはその後にこう言いました。「しかし、その町々は堅固で大きく、そこに住んでいる者たちは皆、背が高く強そうで、彼らを前にしたら自分達はイナゴのようであり、彼らにもそう見えたに違いありません」

彼らは確かにその土地を見、それが豊かな土地であることを証言しました。しかし、彼らはそこに住む者達を見て、圧倒されてしまったのです。「相手は虎のようです。それに対して私達はコヨーテです」ならまだしも、彼らは自分達がイナゴのように思えると言ったのです。

イナゴとはバッタのことです。彼らは自分達がどんなに小さき者、無力な者であるかということを言い表したのでしょう。彼らは自らをそう評したのです。敵にとってこんなにありがたく嬉しい事はありません。相手は自分をイナゴのようだと思って委縮しているのですから、既にそこで勝敗は決まったようなものです。

しかし、彼らの中に異なる考えをもつ人がいました。恐れおののいた報告をする彼らに対して、その人、すなわち偵察隊12人のうちの一人、カレブという男はこう言ったのです「わたしたちはすぐにのぼって攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」(30節)。

次の14章を見ますと、このカレブの思いをもつのは、彼だけではなくカレブ同様、偵察に行ったヨシュアという若者も同じ考えを持っていた事が分かります。すなわち、12人の内、2人は10人とは全く違った正反対の意見を持っていたのです。そう、そこには意見の違いがあったのです。

ヨシュアとカレブだけ、その土地の肥沃なことだけを見て、城壁や背の高い人たちを見損なったのでしょうか。いいえ、彼らもしかとアマレク人を見、確かに彼らの身丈は自分達よりも大きく、肉体も屈強だという事実を確認したことでしょう。

しかし、彼らの心にあったのは、彼らに必ず勝つことができるということでした。彼らは同じものを見ていたのに、その考え方にこれほどまでに大きな違いがあったのです。

このことは私達に問いかけます。なぜなら、時に彼らの姿は私達の姿でもあるからです。そうです、私達も同じ事を見ながら全く異なった思いを抱くからです。

ここには「物事の受け止め方の違い」があります。そして、その物事を受け止めるのは私達の頭脳であり、私達の心です。私達の物事の受け止め方の違いはどこからくるのでしょうか。それは、私達がいつも何を考えているかということによる違いなのです。

その著書で世界的に有名なデール・カーネギーがあるラジオ番組で「あなたが今までに学んだ最大の教訓を三行の短い言葉で言ってください」と問われた時に彼が何と答えたかご存知ですか。彼は言いました。「私が今までに学んだ最大の教訓は、私がいつも何を考えているかということの驚くべき重要性です」。

続けてカーネギーは言います。「もし、あなたが何を考えているかが分かれば、あなたがどういう人か、分かります。なぜならあなたが考えていることが、今のあなたをつくっているのですから。考え方を変えると、人生を変えることができます」。

10人の者達は「自分はいなご」だと考えました。カレブとヨシュアは「今すぐ、攻め上ろう、私達は必ず勝てる」と言いました。これはその時に彼らの脳裏にフット思い浮かんだことではなく、彼らが日頃から何を考えていたかということが、この一言に出たのです。

このことを知る時に、まず私達が検証すべきことはカレブとヨシュアは単に能天気な楽観主義者で、現実離れした夢想家だったのかということです。そうです、彼らは現実から目を背け、根拠のないことを言っていたのではないかということです。

彼らが受けた指令は「カナンの実情を見てこい」でした。考えてみてください、リアリストではないスパイほど役に立たず、危険なものはありません。それでは国が滅びます。彼らが選ばれたのは、彼らが、徹頭徹尾リアリストであったからでしょう。

私達はこの世界の現実をしっかりと見、同じ地に立つ人達がのけぞってしまう、どん引きしてしまうファンタジーのようなことばかりを言っていてはならないと思います。

主にある私達はリアリストであるべきです。目の前で起きている事実を事実として受け止めるべきです。しかし、同時に私達は信仰者です。この世界にしっかりと足をつけ、物事をリアルに見つめ、同時に私達は聖書を通して語られる天からの視点によって、この世界を見るべきです。私達はリアリストとして、この世界が理解できる言葉を語り、そこに信仰によって受け止めた天の視点を添えるべきなのです。

カレブとヨシュアはカナンの現実をしっかりと見て、言ったのです。「今、攻め上ろう、我々は勝つ」。彼らのこの思いの根拠はどこにあったのでしょうか。

この時から45年後、カレブは85歳となっていました。その時の彼の言葉がヨシュア記に記録されています。彼はそこで、今日、お話ししました出来事を振り返り、共に生きたヨシュアにこう語っています。ヨシュア記14章6節‐12節。

6 時に、ユダの人々がギルガルのヨシュアの所にきて、ケニズびとエフンネの子カレブが、ヨシュアに言った、「主がカデシ・バルネアで、あなたとわたしとについて、神の人モーセに言われたことを、あなたはごぞんじです。7 主のしもべモーセが、この地を探るために、わたしをカデシ・バルネアからつかわした時、わたしは四十歳でした。そしてわたしは、自分の信ずるところを復命しました。8 しかし、共に上って行った兄弟たちは、民の心をくじいてしまいましたが、わたしは全くわが神、主に従いました。9 その日モーセは誓って、言いました、『おまえの足で踏んだ地は、かならず長くおまえと子孫との嗣業となるであろう。おまえが全くわが神、主に従ったからである』。10 主がこの言葉をモーセに語られた時からこのかた、イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。わたしは今日すでに八十五歳ですが、11 今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます。12 それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください。あの日あなたも聞いたように、そこにはアナキびとがいて、その町々は大きく堅固です。しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう」(ヨシュア記14章6節ー12節)。

「全くこの人ときたら!」、私はこのカレブの言葉を読んで思いました。カレブがスパイとしてカナンを探ったのが40歳の時、今や彼は85歳となった。その彼は、その時、大きくて堅固な町に住むアナキ人に挑もうとしているのです。彼は言います「わたしは今日85歳ですが、今もなお、モーセが私を遣わした日のように健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも耐えることができます」

皆さん、今日、85歳の人を徴兵して戦地に派遣する国があるでしょうか。おそらく受け入れてもらえないかと思いますが、80を超えた皆さん、これから軍隊に志願し、戦地に行こうと願いますか。

しかし、カレブは自ら新たなる挑戦を志願しているのです。彼のこの心の姿勢は一貫して、生涯変わらなかったようです。

さて、それでは彼の生涯を貫き通した、この彼の心はどこからきたのか。何度も申し上げますが、彼は夢想家ではありません。リアリストです。現実を見ています。この度も彼は対面する者が誰なのか、その町は堅固な街であるということをしっかりと理解しています。しかし、彼の心の中には一つの確信がありました。彼は言いました。

7 主のしもべモーセが、この地を探るために、わたしをカデシ・バルネアからつかわした時、わたしは四十歳でした。そしてわたしは、自分の信ずるところを復命しました。8 しかし、共に上って行った兄弟たちは、民の心をくじいてしまいましたが、わたしは全くわが神、主に従いました。(ヨシュア記14章7節ー8節)。

彼は言ったのです。「わたしは自分の信ずるところを復命しました」(7)。ここを新共同訳聖書は「わたしは思った通りに報告しました」と書いています。すなわち、カレブは、私は私の信じていること、思っていることを報告したということです。そして、その信じるところ、考えるところというのは、昨日、今日、彼の心に芽生えたことではなく、彼がそれまでいつも信じ、考え続けてきたことに従ったということです。

このカレブについて民数記14章24節には、主の言葉としてこんな言葉が書かれています「ただし、わたしの僕カレブは、他の者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導きいれる。彼の子孫はその地を所有するようになる」

主は言われたのです。あの10人の者達とカレブの違いは、彼が「他の者と違った心を持っていたのだ」と。そして、その心と共に私に従ったゆえに、私は彼とその子孫にその地を与えると。

カレブは現実をしっかりと見ました。しかし、その心には人々とは異なる思いを持っていたのです。そう、それが神の御心と呼ばれるものです。そして、その思いを私達は信仰と呼ぶのです。

それを持って彼は世界に立ち、それを見渡し、決断し、行動したのです。そして、そのことを主は「彼が私に従い通した」と評価されたのです。

ここに、世の中がいう「ポジティブ・シンキング」とカレブの考え方の違いがあります。彼の物事のとらえ方は「肯定的、楽観的思考」とは異なるのです。「否定的に考えるよりは、楽しくいこうよ、明るく前向きに考えようよ、そうしたら物事またよくなるよ」というようなかけ声ではないのです。

聖書は私達に新しい生き方を与えてくれます。それは「新しい視点」と呼ぶものです。カレブは40歳の時にこの視点と共に立ち上がり、それから45年後、人生の晩年になってもその視点を失わずに持ち続けたのです。

さらにつけ加えますのなら、その45年の間に彼はますます神の真実を知りました。「私はあの若き時から、主の御心について考え、主を信じ、今日まで主に従って生きてきた。そして、主はそれに対して常に真実であり続けてくださった。私はこれまで私が従ってきたお方を知っている。いつも、このお方は私の人生に対して、最善をなしてくださった。故にこれからも大丈夫。神の恵みは変わることがない」という確信が彼の心の中にはあったのです。そして、このことは誰もが持ちうる思いではなかったのです。

今日、見てきました民数記13章の冒頭にはカナンの地に遣わされた12人の名前が記録されています。これらの内、カレブとヨシュアを除く10人の名前はこの後、聖書に一度たりとも出てきません。

しかし、カレブはこの後、実に31回もその名が聖書に出てきます。ヨシュアに関して言えば、彼はモーセの後を引き継いだリーダーでありますから、言うまでもなく彼の言動は数多く記録されています。

彼らはいかなる現実に直面しても、常に主について考え、主を信じ、主を仰ぎ、主に従い通したゆえに、神は彼らにさらに多くの可能性を与え、彼らはその生涯を通して、神の手となり、足となってその御心を全うするために用いられたのです。

皆さん、私達はいかがでしょうか。現実を見て、委縮してしまい「私はイナゴのような人間。周りの人もそう思っているに違いない」。そのような思いに縛られてこれまで生ききて、それにしがみついて残りの人世を終えますか。

神様はそのような思いと共に私達がこの一度きりの人世を歩むために、私達に命を与えたのではない。リアルな世界に向き合いつつ、しっかりとその地に足を踏みとどめ、神の御心を考え、神を信じ、勇気をもって一歩、そして一歩、日々を踏み出すことができますように、そして、その確信をさらに増し加わるような神の真実が私達の前途を照らしてくださいますように、否、主はそうしてくださると確信するのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2021年1月10日

1)私達はどんな時に現実から目をそらす傾向がありますか。なぜ現実を受け止めることは大切なのでしょうか。

2)民数記13章17節-33節を読みましょう。カナンを偵察して、カナンの情報を得ることはなぜ大切でしたか。あなたは現代社会で「情報・ニュース」とどのように向き合っていますか。

3)10人の者達はどんな報告をしましたか。彼らの心にはどんな思いがありましたか。

4)カレブとヨシュアはどんな報告をしましたか。彼らの心にはどんな思いがありましたか。

5)私達はクリスチャンとして現実にどのように向き合うべきでしょうか。その時にはどのようなバランスが必要ですか。そのバランスはどのようにしてチェックすることができますか。

6)ヨシュア記14章6節‐12節を読みましょう。カレブは45年前のことを思い起こし、わたしは自分の信ずるところを復命しました」(7節)(口語訳)「わたしは思った通りに報告しました」(新共同訳)と言いました。カレブとヨシュアはいつも何を考えていたと思いますか。

7)カーネギーは「私が今までに学んだ最大の教訓は、私がいつも何を考えているかということの驚くべき重要性です」と言いました。なぜ私達が「いつも何を考えているか」ということは大切なのでしょうか。あなたはいつも何を考えていますか。

8)私達はリアリストであり、信仰者であるべきであるということはどういうことですか。あなたは地に足をつけ、今を生きる人達に対して、納得、理解できる言葉で伝道しようと心がけていますか。


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