世に勝つ者は誰か?

子供達、若者達、これからの皆さんの人生は時に心が揺さぶられるでしょう。なぜなら、皆さんはこれから色々なものを見聞きすることになるからです。

皆さんよりかっこいい人、かわいい子、皆さんより足の速い子、皆さんより成績のいい子、皆さんよりクールなスニーカーをはいている子、きりがない。あのスパイたちが敵は自分達をいなごのように見ていると言ったように、自分が友達からどう見られているか、これらのことは君たちの人生につきまとうでしょう。

皆さんはこれらのことに振り回されて人生の大半を過ごすことになるかもしれません。そうです、皆さん自分の人生をコントロールするのではなくて、これから見聞きするものが皆さんの人生をコントロールする可能性が大いにあるのです。

大人の方々、日々の職場で見る光景はいかがですか。ストレスで胃が痛くなるということもありますでしょう。かつては若々しかった私達の肉体の変化を私達は目の当たりにしています。親しい友人がここ数年、何人も亡くなってしまった。齢を重ねるということは、力を失う自分の姿を見続けるということです。これら私達がいつも見ている光景に対して私達は何を考え、どのようにそれを受け止めるのでしょうか。

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2018年9月16日
世に勝つ者はだれか?
敬老合同礼拝

今年もこのように敬老の日を祝して合同礼拝をもたせていただけますことを感謝しています。今日は幼子から大人までここにいると思いますので、できるだけ全ての人が分かるようなお話しをしたいと願っています。

今日、私達が見ていきたい聖書箇所は民数記です。そこには今から3500年も昔、エジプトにおいて長い間、奴隷であったイスラエルの民がモーセをリーダーとして、エジプトを脱出し、荒野に生きるイスラエルの民の姿が記されています。

そんな彼らの内、12人の者達が選ばれ、これから攻略しようというカナンという土地を前に、その土地はどんなところなのかとモーセはスパイを送ったのです。そうです、その土地は彼らが将来、定住の地と考えていた場所です。

17 モーセは彼らをつかわし、カナンの地を探らせようとして、これに言った、「あなたがたはネゲブに行って、山に登り、18 その地の様子を見、そこに住む民は、強いか弱いか、少ないか多いか、19 また彼らの住んでいる地は、良いか悪いか。人々の住んでいる町々は、天幕か、城壁のある町か、20 その地は、肥えているか、やせているか、そこには、木があるかないかを見なさい。あなたがたは、勇んで行って、その地のくだものを取ってきなさい」(民数記13章17節-20節)。

彼らの偵察は40日にも及び、彼らは帰ってきてこう報告します。

「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。28 しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。29 またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」(民数記13章27節―29節)。

彼らの目にその土地はとても豊かな場所に見えました。そのところでとれるくだものはとても大きいのです。しかし、そこには諸々の部族が住み、彼らの町を取り囲む城壁は非常に大きく、さらには屈強な者達がいたという報告がなされました。この報告が何を意味しているかお分かりになりますでしょう。

そうです、土地は確かに豊かです。でも、そこに住む人たちがあまりにも強いので、そこに立ち入ることはやめましょうということです。しかし、30 そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。31 しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」」(民数記13章30節―31節)。

カレブに対して他の者達はさらに声を大にして、イスラエルの民に言います。

32 そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。33 わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」(民数記13章32節―33節)。

これらの言葉を聴いたイスラエルの会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明し、モーセに向かってこうつぶやいたのです。「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」(民数記14章1節-3節)。

これを聞き、ヨシュアとカレブは再び会衆に訴えかけます。「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。これに対して会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとしました。(14章7節ー10節)

ここで興味深いことを私達は知ります。彼らは同じ光景を観てきたのです。しかし、その受け止め方が全く違うということです。

主にある皆さん、私達はだいたい同じものを毎日、見て、生きています。それが日本であってもアメリカであっても私達は人間ですから、見聞きしているものはだいたい同じようなことです。

しかし、私達が見聞きしているものを、私達がどのように受け止め、どのようにそれに対応しているかということ、このことに対しては互いに大きな違いがあります。

モーセが送った10人のスパイは言ったのです。『わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」(民数記13章33節)。

しかし、この10人に対してカレブとヨシュアは言いました。「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」(民数記13章30節)。

同じ光景を見ながら、この見解の違いは何だったのでしょうか。カレブは向こう見ずなアホだったのか。カレブの視力はよくなかったのか。カレブは極めて楽天的だったのか。いいえ違います。

かつてイスラエルの民はエジプトに捕らわれていました。その民はエジプトを脱出します。彼らには目指すべき場所があります。約束の地、聖書でいうカナンの地です。そう、その土地は神がイスラエルに与えると約束された土地でした

さかのぼること、この時よりさらに800年ほど昔、彼らの祖先、アブラハムに神様に語られた約束の土地です。

時に主はアブラハムに現れて言われた、『わたしはあなたの子孫にこの地を与えます』(創世記12章7節)

さらにこの約束を確認するかのように主は再び、アブラハムに語りかけます『わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です』(創世記15章7節)

主は周到です。さらにアブラハムに語りかけます。『わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで・・・』(創世記15章18節)

そして、アブラハムから約800年後、いよいよ、その土地を前にしたモーセに神は言われたのです。見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である』(申命記1章8節)。

まさしく彼らが偵察した土地と言うのは、神が彼らに約束されていた土地だったのです。ということはこういうことです。

カレブとヨシュアは彼らの先祖であるアブラハムになされ、その後の子孫たちが皆、引き継いできたこの約束の言葉を信じていたのです。そうです、信じていたのです! この約束の言葉はこの時代よりも約800年も昔のものですから、この言葉は理解するものではなく、再検討すべきものではなく、信じるべきものだったのです

かつてイスラエルの民が自分達の偵察報告と異なる報告をしたカレブとヨシュアを石で打とうとしたとき、神はこう言われたとおりです。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがもろもろのしるしを彼らのうちに行ったのに、彼らはいつまでわたしを信じないのか」(民数記14章11節)

確かにイスラエルの民は皆、彼らの先祖に語られた神の約束の言葉を見聞きしていたのです。カレブとヨシュア以外の者達ももちろん、そのことは知っていました。そして、このスパイが偵察に行ったのは、その約束の土地だったのです。しかし、彼らの受け止め方は異なったのです。そう、彼らはその神の約束の言葉を信じなかったのです

そして、この違いは今日も私達の間に大きな違いを生み出すものとしてあります。私達の毎日は私達が見聞きすることが私達の感情に大きな影響を与え、その見聞きすることに従い、私達は生きています。

それはこういうことです。もし私達が見聞きしていることをそのまま私達が心に落とし込めるのなら、私達はあの10人と同じなのです。言うなれば、それは私達の人生は私達が見聞きしている事によってコントロールされているということです

かつてパウロは言いました。『わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである』(2コリント5章7節)。信仰とは根拠のない迷信、独りよがりな思い込みでしょうか。いいえ、信仰とは確固たるものです。なぜ、確固たるものなのか、なぜなら、私達の信仰とは、カレブが彼の先祖アブラハムに語られた神の言葉を信じたように、私達も既に聖書に記されている神の約束の言葉を信じることだからです

この後にパウロは何と言っているかご存知ですか。『わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い』

言い方を変えれば、「私達は見えるものだけに頼って歩いている」ということは、すなわち、それはとても心細いことなのだということです。しかし、私達が信仰によって歩くのなら、私達は心強いのです。あの10人のスパイは心が折れそうでした。しかし、カレブの心は動かず、折れませんでした。

子供達、若者達、これからの皆さんの人生は時に心が揺さぶられるでしょう。なぜなら、皆さんはこれから色々なものを見聞きすることになるからです。

皆さんよりかっこいい人、かわいい子、皆さんより足の速い子、皆さんより成績のいい子、皆さんよりクールなスニーカーをはいている子、きりがない。あのスパイたちが敵は自分達をいなごのように見ていると言ったように、自分が友達からどう見られているか、これらのことは君たちの人生につきまとうでしょう。

皆さんはこれらのことに振り回されて人生の大半を過ごすことになるかもしれません。そうです、皆さん自分の人生をコントロールするのではなくて、これから見聞きするものが皆さんの人生をコントロールする可能性が大いにあるのです。

大人の方々、日々の職場で見る光景はいかがですか。ストレスで胃が痛くなるということもありますでしょう。かつては若々しかった私達の肉体の変化を私達は目の当たりにしています。親しい友人がここ数年、何人も亡くなってしまった。齢を重ねるということは、力を失う自分の姿を見続けるということです。これら私達がいつも見ている光景に対して私達は何を考え、どのようにそれを受け止めるのでしょうか。

聖書は私達の勝ち負けについて書いています。その勝ち負けは誰かに対して勝つということではありません。その勝敗の相手は人間ではないのです。聖書が勝ち負けについて触れる時にその対象はいつも「世」なのです

「世」というのは、今までお話しした全て、「私達が見聞きする世界」のことです。私達の戦いは私達がこの世で見る毎日、見聞きするものとの戦いなのです。そして、それに対する勝利をイエスは語っているのです。そして、その勝利は我々の信仰によってなされるのです。

『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです(ヨハネ16章33節)。

私達が従っている主イエスは既に世に勝っています。そう、主イエスはこの世で見聞きするものに勝利をとられました。そして、その主イエスを信じる者も何と、この世に勝利をとることができる、それが聖書の約束です。

「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(ヨハネ第一の手紙5章4節-5節)

私達が直視しなければならないこの世の最後は何か。それは死です。私達の肉体が少しづつ弱り、そして最後にその機能が弱る瞬間です。その本人にとりましても、それを見守る者にとりましても、これほど私達の感情が揺さぶられる瞬間はありません。しかし、聖書はこの死に対しても勝利を宣言しています。

55「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(1コリント15章55節)。

私達は確かに老いていきます。肉体に弱さを感じることもあるでしょう。しかし、ここに記されているように聖書に書いてある約束の言葉を信じ続け、そして、その成就を私達はこれから体験するのです。このことゆえに私達は心強いのです。

今日は敬老の日です。皆さん、私達は毎日、何を見ているのでしょうか。弱っていく自分の肉体を見て肩を落としますか。めまぐるしく変わる家族の変化を見て翻弄しますか。私達の生涯続く戦いは、この世との戦いです。神は我々がこの世で見聞きしていることに支配されて、打ちひしがれてい生きる人生を望んではいないのです。

「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(ヨハネ第一の手紙5章4節-5節)

わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。ますます、私達はこのことを胸に刻み、このことに集中して、この世を生きていこうではありませんか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2018年9月16日

1)民数記13章17節-20節、27節-29節、30節-33節を読みましょう。これらからカナンの地に偵察に行った10人のスパイとヨシュア、カレブのどんな違いが分かりますか。

 

2)彼らは同じ光景を見てきました。なぜ、その受け止め方に違いがあるのですか。

 

3)私達は大抵、同じようなものを見て日々、生活しています。それなのに、どうして私達の間にはその受け止め方と対処の仕方に違いがあるのでしょうか。

 

4)「自分がいなごように思われ、人もそのように自分を見ている」(民数記13章33節)というような気持ちになったことがありますか。このような思いで送る日々の生活、そして人生は最善のものとなりますか。

 

5)創世記12章7節、創世記15章7節、18節、申命記1章8節はイスラエルの民に対する神様の約束でした。12人のスパイは皆、この約束を知っていました。しかし、なぜ10人とヨシュアとカレブは違ったのですか。

 

6)聖書が語る勝利は「世」に対する勝利です(ヨハネ16章33節、ヨハネ第一の手紙5章4節-5節、1コリント15章55節)。「世」とはすなわち私達が見聞きしている世界のことです。これらに対する勝利はどのようにして獲得できますか。

 


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