人の分際を知る

ある時、キリストの弟子ペテロとその仲間達が捕らえられて人の裁きの前に立たされた時に、そこに居合わせた律法学者ガマリエルが声を上げました。

『そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。(使徒行伝5章38節―39節)

この言葉は、その場に居合わせた人達の心にも届いたのでしょう。ペテロとその仲間達は解放されました。ガマリエルは神を知り、神を畏れる人だったのでしょう、人間の分際をわきまえる人だったのでしょう。そう、彼は自分達の領分によって裁きをなさず、神にそれを委ねるということを知っていたのです。

この彼の姿勢は私達に大切なことを教えてくれます。あなたは誤り多き人間であることを忘れるな。あなたの企てや仕業はあなたの心から出ているものなのか、あなたは「自分の企て」を「神の御心」にすり替えようとしているのか、それをしかと吟味しなさい。神の前にひれ伏し、神に問いかけなさい。まかり間違えば、あなたは天地万物の主権者、神を敵に回すことになる。これだけは避けなければならない・・・。

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人の分際を知る
2021年1月17日

かつて奴隷として400年余りをエジプトで生きたイスラエルの民は、そのエジプトを脱出して、定住する場がなく、荒野で40年を生きました。その40年の間には色々なことがありました。なぜ色々なことがあったのでしょうか。答はシンプル、彼らは人間であり、人間が共に関わり合いながら暮らす日々を送っていたからです。何も起こらないはずがありませんでしょう。

今日、私達は民数記16章1節―から11節までを見ていきます。

1 ここに、レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、2 イスラエルの人々のうち、会衆のうちから選ばれて、つかさとなった名のある人々二百五十人と共に立って、モーセに逆らった。3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。5 やがて彼はコラと、そのすべての仲間とに言った、「あす、主は、主につくものはだれ、聖なる者はだれであるかを示して、その人をみもとに近づけられるであろう。すなわち、その選んだ人を、みもとに近づけられるであろう。6 それで、次のようにしなさい。コラとそのすべての仲間とは、火ざらを取り、7 その中に火を入れ、それに薫香を盛って、あす、主の前に出なさい。その時、主が選ばれる人は聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたこそ、分を越えている」。8 モーセはまたコラに言った、「レビの子たちよ、聞きなさい。9 イスラエルの神はあなたがたをイスラエルの会衆のうちから分かち、主に近づかせて、主の幕屋の務をさせ、かつ会衆の前に立って仕えさせられる。これはあなたがたにとって、小さいことであろうか。10 神はあなたとあなたの兄弟なるレビの子たちをみな近づけられた。あなたがたはなお、その上に祭司となることを求めるのか。11 あなたとあなたの仲間は、みなそのために集まって主に敵している。あなたがたはアロンをなんと思って、彼に対してつぶやくのか」。(民数記16章1節‐11節)。

ここにはコラ、アビラム、オンという名前が出てきます。彼らは会衆の中から選ばれた司であったとここには記されています。この三人が250名の者達と共にモーセとアロンに逆らうことにより、この出来事は起きました。

私達はこの箇所からとても大切なことを学ぶことができます。今日はこのところから二つのことをお話したいと思います。まず最初に「主権者を知る」ということをお話しましょう。

1)主権者を知る

今、読みましたような反乱・反逆は、時は違えどいつの時代にも起こる話です。日本史や世界史を見ても、このような事は起きてきましたし、このことは私達のすぐ身近なところでも見受けられます。

その時、三名の司と250名の者達はモーセとアロンに逆らって言いました「あなたがたは分を超えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」(3)

 かなりの意訳となりますが、この言葉をリビングバイブルはこう書いています。「でしゃばるのもいいかげんにしてほしい。お二人の説教はもうたくさんだ。たいした人物でもないくせに。俺たちだって神様に選ばれた者じゃないか。神様は俺たちみんなの神様だ。お二人だけが特別に偉いのだろうか。そんなに威張りくさる権利がどこにあるんだ」。

時にリーダーと呼ばれる者はこのような言葉に甘んじなければならないことがあります。政治家も、会社の経営者も、学校の先生も、野球チームの監督も、そして牧師にもこのような言葉は投げかけられます。時に彼らは、このことで大いに悩み、胃が痛み、眠れぬ夜を過ごすのです。

そして、これらのリーダーの元にある者達も同じです。「この国の指導者ときたら・・・。社長はいったい何を考えているのか。あの先生は何もしてくれない。この監督のもとでは勝てない。牧師さん、しっかりしてくれ」というように、彼らの心にも色々なわだかまり、苦々しい思いがわき、何も手につかなくなります。

モーセはこの言葉を受けた時、大きなショックを受けたことでしょう。彼とて人間、心ない彼らの中傷に唇をかんだことでしょう。

モーセが率いていたのは数百万ものイスラエルの民、その中で彼に逆らっている人の数は250名です。リーダーとして百戦錬磨の洗礼を受けてきたモーセの天来の知恵と言葉があれば、彼らを論破することもできたでしょう。

はたしてモーセはこの問題にどう向きあったのでしょうか。このことは私達にも問いかけます。私達がこのような問題に向き合う時に、どのようにそれに向き合えばいいのか。民数記16章4節はその時にモーセがしたことを一言、こう書き記しています。

『モーセはこれを聞いてひれ伏した』(民数記16章4節)。

 私はこのメッセージを準備しながらこの一行に鳥肌が立ちました。モーセは「お前は分が超えている」と問われたのです。彼はこの批判に対してすぐに言い返さずに、それをまず受け止め、彼らと対峙せずに、主の前にひれ伏しました。ひれ伏すということは、自分の力によらず、神の前に自らを差し出し、神の御心を探り、祈るということです。

皆さん、私達が厳しい言葉を受けた時、大きな困難に見舞われた時、私達の義が問われる時、私達は何をしますか。その時、私達の心に全てを承知しておられる全知全能の神はいるでしょうか。

モーセも人間、色々な弱さがありました。欠点がありました。しかし、ここを読んで、なぜ神がこの人を選んだのかということが分かったような気持になりました。彼がいつからこのような姿勢を主の前にとることができるようになったのか定かではありません。しかし、少なくとも彼はまず、神の前にひれ伏す心を持っていたのです。

「モーセがひれ伏した」ということ、驚くべきことに、このことはこの民数記16章だけで、4節、22節、45節と三度も書かれているのです。そうです、彼はたまたまその時、ひれ伏したのではなく、彼は常に神様の前に出たのです。彼の人生において、色々な所を通りながら、彼はきっとこのことを会得したのでありましょう。

皆さんの中にはリーダーと呼ばれる人がいるかもしれません。私達のあるべき姿はここにあるのではないでしょうか。あれやこれや私達は自分ができることを考えます。しかし、まず主の前にひれ伏す。私達もモーセのように、それを常とすること、そこに私達のリーダーシップがかかっているのではないでしょうか。

彼らの言葉を聞き、まずモーセは神の前にひれ伏し、そして立ち上がってレビの子、コラとその仲間に言いました「明日、主は、主につくものはだれ、聖なる者はだれであるかを示して、その人をみもとに近づけられるであろう。それで、次のようにしなさい。コラとそのすべての仲間とは火ざらを取り、その中に火を入れ、それに薫香を盛って、明日、主の前に出なさい。その時、主が選ばれる人は聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたこそ、分を超えている(民数記16章5節‐7節)。

主にある皆さん、これがモーセが神の前にひれ伏し、祈りの中で神様に示されたことなのでしょう。彼は何と言いましたか。「明日、顔を洗って、俺の前に出てこい。そこで白黒決着をつけようじゃないか」とは言いませんでした。

彼は言ったのです。「明日、共に主の前に出ようではないか」。モーセはこのことにおいて、白黒をつけるのは自分の領分ではない、それは神の管轄なのだと言ったのです。

主にある皆さん、私達は直面している問題の解決に対して知恵を出し合うべきです。しかし、忘れてはならないことがあります。それは、私達は人間だということです。

私達の知恵は何と多くのことを見落としているでしょうか。私達は四日前に何を食べたのか思い出せない者。我々は自分の都合のいいように物事を見、それに従い、善悪を決め、義を振り回しかねないような者です。そんな私達のどこから完全な、公平なジャッジメントが出てきますでしょうか。

私達が書き記したこと、私達がつぶやいたこと、それらを全て神は知っている。このお方は私達の心の奥底にある、その動機までも知るお方です。私達はこの神の前に言い開きをしなければならないのです。全てのことを最終的にジャッジなさるのは神です。私達は己の分際を超えてはなりません。

聖書に出てくるパウロはかつてイエス・キリストにある者達を捕らえて獄にぶちこむことに生きがいを感じていたキリスト者の迫害者であり、その先陣を切っていた男です。パウロはそのことをすることが神の前に本当に正しいと思い、それに人生をかけていました。

皆さんもご存知でしょう、その彼が殺害の息をはずませながらダマスコに向かっていたところ、天から強い光があり、彼は地に倒れます。そして、その時に主イエスが彼に語りかけます。

『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』(使徒行伝26章14節)。

彼は「これこそ正しいこと」と思ってやっていたことが、神の御心にかなわないことであったということをその時、悟ったのです。彼は危うくとげのある鞭を蹴飛ばすところでした。パウロが幸いだったのはこの警告を受け止め、心を入れ替えたことでした。時に人は警告を受けながらも、それに反発し続け、深い傷を負います。パウロはその傷を負う前に主の憐れみにより目が開かれました。

こうして、かつてキリストを迫害することに全てを注ぎ込んでいた者が、命がけでキリストを伝える者となりました。そして、そのことは今度は彼が迫害される側に立つということを意味しました。彼はモーセのように人間のジャッジメントの前に度々、立たされました。

しかし、パウロはかつてのパウロとは違います。神こそが最終的な裁きを下すものであり、その神のみを畏れるということを彼は知っていたのです。

ある時、キリストの弟子ペテロとその仲間達が捕らえられて人の裁きの前に立たされた時に、そこに居合わせた国民全体に尊敬されていました律法学者ガマリエルが声を上げました。

38そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。39しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。(使徒行伝5章38節―39節)

この言葉には聖霊の力添えがあり、その場に居合わせた者達の心にも届いたのでしょう。ペテロとその仲間達は鞭打たれた後に解放されたのです。当時の律法学者にも色々な人がいたことでしょうが、このガマリエルはよくよく神を知り、神を畏れていた人だったのでしょう、人間の分際をわきまえている賢き人だったのでしょう。そう、彼は自分達の領分によって裁きをなさず、神にそれを委ねるということを知っていたのです。

この彼の姿勢は私達に大切なことを教えてくれます。あなたは人間であることを忘れるな。あなたの企てや仕業があなたの心から出ているものなのか、あなたは「自分の企て」を「神の御心」にすり替えようとしてはいないか、それをしかと吟味しなさい。

モーセの言葉を借りて言うのなら、神の前にひれ伏し、神に問いかけなさい。まかり間違えば、あなたは天地万物の主権者、神を敵に回すことになる。これだけは避けなければならない。主にある皆さん、私達の立ち位置はどこにあるのでしょうか。

二つ目のことをお話します。それは私達の主権者の前に生きるということです。

主権者の前に生きる

モーセは神がこの問題を明らかにしてくれるだろうと言いました。そして、引き続き8節-11節において言ったのです8 「レビの子たちよ、聞きなさい。9 イスラエルの神はあなたがたをイスラエルの会衆のうちから分かち、主に近づかせて、主の幕屋の務をさせ、かつ会衆の前に立って仕えさせられる。これはあなたがたにとって、小さいことであろうか。10 神はあなたとあなたの兄弟なるレビの子たちをみな近づけられた。あなたがたはなお、その上に祭司となることを求めるのか。11 あなたとあなたの仲間は、みなそのために集まって主に敵している。あなたがたはアロンをなんと思って、彼に対してつぶやくのか」。(民数記16章8節‐11節)。

モーセがすごいなと思いますのは、彼は彼に逆らった者達の気持ちを想像していたことです。彼らがなぜモーセに詰め寄ったのか、彼はそのことを理解しました。モーセはここで主にレビの子、コラの名前を、レビの子達よと呼びかけます。

レビの子達に神様が委ねている務めは幕屋の管理という神聖な仕事でした。しかし、彼らはその尊い務めに対して不満があったのでしょう。彼らはアロンのように祭司になることを願っていたようです。これらが積もり積もって、モーセとアロンに対する不満へと繋がっていったのでしょう。

モーセはその彼らの気持ちを理解し、受け止め、彼らに与えられている幕屋での務めについて一言、言います。

『これはあなたがたにとって、小さいことであろうか』(民数記16章9節)。

モーセは彼らの心を読み、どんなに神はあなたがたに期待されているか、そのはたらきは決して小さなことではないではないかと言っているのです。

彼らの仕事はレビ人だけに委ねられた光栄な仕事です。それは他の誰にも委ねられていない仕事です。彼らは直接、神の臨在がある幕屋に関わる仕事を託されていたのです。しかし、いつのまにか、その彼の心に不満という小さな種が蒔かれたのでしょう、やがてその苦い思いが彼の心を支配し、彼はこれらの反乱を起こしたに違いありません。

今日、私達の間に起きうる問題や混乱も元をたどっていけば、このようなことがその動機となっているのかもしれません。私達が置かれている、託されている役割に対する不満がある時に私たちは喜びを失い、心には怒りがわいてくるからです。

モーセのこの事件が起きてから1600年ほど後に、このような出来事が現在のギリシアにあったコリントの教会にも起きていたことが聖書には記されています。おそらく教会の中でそれぞれに託されている奉仕の内容に対しての不満が生じてきたのではないかと思います。つまり、私がしていることはお前の仕事より優れているとか、私はいつもこんな仕事ばかりだというような問題です。

しかし、それらの不満に対してパウロは言います。「皆さん、私達の目は手に向かって「お前はいらないよ」とは言えないでしょう。頭は足に向かって「お前は必要ない」とも言えないでしょう。それと同じようにどんな働きであっても父なる神の前では尊いのだ。体の各器官のごとく、私達のさせていただく働きは、神の前になくてはならない大切なことなのだ」と。

目から感激の涙が溢れる時に、その涙を見る人は心に感動をおぼえます。その時に、誰も足のつめのことを考えてはいません。人は髪の美しさを誉めることがありますが、誰かの腸や胃のかたちを誉める人はいません。

しかし、それでは足のつめや胃や腸が必要ないかというと、言うまでもない、これらは私たちの体になくてはならないものなのです。それらは私たちの体にとって小さいものではないのです。

教会において人前で話す人も必要、キッチンをきれいに保つ人も必要、椅子を並べる人も必要なのです。教会には人知れず各トイレを回りトイレットペーパーを補充していてくれるがいます、人知れず教会の周りのゴミを拾っている人もいます、人知れず土曜日の休日を教会やパーソネジの修繕にあてている人もいます。

全てこれらを言い出せばきりがありませんが、今朝のこのオンライン礼拝も多くの兄弟姉妹の結晶のようなものです。この一時間の礼拝のために、いったいどれだけの人達がこの礼拝のために祈り、その背後にあって毎週、備えをしていてくれることでしょうか。

そして、それは教会だけではなく、私たちの家庭において、職場において、私たちの人生において、どれだけの人たちの見えない働きがあって、私達の今があるのか計り知れません。私達一人ひとりにもその中で任じられていることがあるのです。そして、それは決して神の前に小さなことではないのです。

主にある兄弟姉妹、今朝、主は私達に語りかけてはいないでしょうか。「それはあなたにとって、小さいことであろうか」。

レビ人、コラがすべきことは自分の現状を嘆くことではありませんし、モーセに逆らうことでもありませんでした。神様から与えられた任務に全力を尽くすことだったのです。今日、神様が私たちに委ねていてくださることも一人一人違います。しかし、その与えられていることに感謝して私たちはそのことに全力を注ぐものでありたいと思います。

ところで皆さん、モーセは彼に反逆した者達に向かい「共に主の前に立とう」と言いましたね。その結末をご存知ですか。民数記は記しています。地が口を開き、彼らとその家族、ならびにコラに属する全ての人々と、全ての所有物が大地に飲みこまれてしまったのです。彼らは皆、生きながら陰府に下り、血はその上を閉じふさいで、彼らは会衆の内から立ち滅ぼされ、また主の元から火が出て、かの250人は焼き尽くされたと聖書、民数記は記録しています。(民数記16章30節ー35節より)。

その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。私達は人間に対して過剰な恐れを感じる必要はないと思います。私達が真に恐れるべきお方はこの主なる神です。「主の前にひれ伏した」モーセの生き方に私達はならおうではありませんか。

私達が日毎に託されている諸々のことは主から直々にいただいている尊いはたらきです。そのことを喜びと感謝と共になしていこうではありませんか。そのことは主の前に小さいことではないのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2021年1月17日

1)私達の裁きはどれくらい正確でしょうか。あなたは自分が正しいと思っていたことが、全く間違っていたという経験をしたことがありますか。あなたは最終的なジャッジメントを神様にお委ねしていますか。

 

2)民数記16章1節―11節を読みましょう。モーセが受けた批判はどんなものでしたか。モーセは批判を受けた時にまず何をしましたか(4節)。

 

3)民数記16章は4節、22節、45節において「モーセがひれ伏した」と三度も記録しています。なぜモーセはこのことを常としたのでしょうか。最初から彼はこのような生き方をしていたのでしょうか。

 

4)ひれ伏して、立ち上がった時に彼は何をしましたか(5節-7節)。彼はこの問題をどのように解決しようとしましたか。

 

5)キリスト教徒を迫害することは完全に正しいことと確信していたパウロに対して、主イエスは何と言われましたか(使徒行伝26章14節)。このことはどんな知恵を私達に授けてくれますか。

 

6)捕らわれの身のペテロ達が、裁かれようとしていた時に律法学者ガマリエルは何と言いましたか(使徒行伝5章38節―39節)。あなたはガマリエルの言葉をどう思いますか。「その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう」(38節)ということは正しいとあなたは信じていますか。

 

7)モーセはレビの子達に語りかけました(民数記16章8節-11節)。その中で彼らに『これはあなたがたにとって、小さいことであろうか』(民数記16章9節)と言いました。モーセはレビの子達に何を伝えたかったのでしょうか。

 

8)あなたは日々、自分に託されていることについて不満をもったことがありませんか。「それは小さなことであろうか」と神様が語りかけていることを知る時に、そのことに向かう私達の心はどう変わりますか。

 

9)あなたはキリストの体なる教会のために何を神様から託されていると思いますか?それは「小さなこと」ではありません。喜んで主にお仕えしましょう!

 


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