人生の主(あるじ)はあなたではない!

もし、それまでに会ったこともない人が玄関先に立ち、「おーい大倉、ちょっと出てきてくれー」と手をたたきながら呼ばれ、500円を手渡され、開口一番、「息子が大学受かるようになんとか取り計らってくれよ」とか「病気にならないようにここは一つ、頼むよ」と言われ、言いたいことだけ言って、こちらのことは何も聞かずに「じゃー、あとはよろしく」と去っていくとしたら・・・。

親しくもなく、話したこともない人に突然、こんなことを言われ、「なんなんだこの人は」と呆然と立ち尽くしていると数秒後、言い忘れたかのようにその人が戻ってきて、「あ、ごめん、言い忘れた、さっき言ったこと、してくれなければ、もうここには来ないから、よろしく!」と言って立ち去って行ったとしたら・・・。

これを「御利益宗教」と呼びます。

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人生の主(あるじ)はあなたではない。
2020年6月7日

二週間前、エジプトに向かったモーセを神様は殺そうとされ、モーセ夫婦は息子に割礼をすることにより命が守られたということをお話ししました。神様はエジプトに向かう前に、モーセとその家族に神に聞き従うことを求められたのです。それが出エジプト記4章でした。

そして5章はミデアンの荒野からエジプトにやってきましたモーセと彼のスポークスマン、アロンがエジプトのパロ王のもとに行き、彼と直接、交渉した、そのやりとりが描かれています。アロンはエジプトの最高権力者に向かい、こう言います「イスラエルの神、主はこう言われる。私の民を去らせ、荒野でわたしのために祭りをさせなさい」(出エジプト記5章1節)。

しかし、パロの心は頑なで彼はこう答えます「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」(出エジプト記5章2節)

パロはモーセとアロンの言葉に憤りを感じたのでしょう、奴隷であるイスラエルの民に対して、その労役をさらに重くし、民はさらなる苦しみを負うことになります。それゆえに民はモーセとアロンに対して、彼らがしたことを非難するのです。そう「余計なことをしやがって」と言うかごとくに。

この結末に直面したモーセは主に言います「主よ、あなたは、なぜこの民をひどい目にあわされるのですか。なんのためにわたしをつかわされたのですか。23 わたしがパロのもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、彼はこの民をひどい目にあわせるばかりです。また、あなたは、すこしもあなたの民を救おうとなさいません」(出エジプト5章22節―23節)。

そして、このことに対して主がモーセに語りかけるというのが、今日、見てまいします出エジプト記の6章です。読んでみましょう。

1 主はモーセに言われた、「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るであろう。すなわちパロは強い手に強いられて、彼らを去らせるであろう。否、彼は強い手に強いられて、彼らを国から追い出すであろう」。2 神はモーセに言われた、「わたしは主である。3 わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主という名では、自分を彼らに知らせなかった。4 わたしはまたカナンの地、すなわち彼らが寄留したその寄留の地を、彼らに与えるという契約を彼らと立てた。5 わたしはまた、エジプトびとが奴隷としているイスラエルの人々のうめきを聞いて、わたしの契約を思い出した。6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。8 わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を挙げて誓ったその地にあなたがたをはいらせ、それを所有として、与えるであろう。わたしは主である』と」(出エジプト6章1節―8節)。

この箇所は「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るであろう」(出エジプト6章1節―8節)という言葉で始まります。

 神様はまずモーセに「」と言いました。「今」という言葉は「その時」が「いつでもいい」という事ではないことを明確にしています。そうです、まさしく文字通り「今」なのです。それでは、はたして神様が言われた「今」というのは、どんな時だったのでしょうか。

その「今」とは、モーセとアロンがエジプトの王パロのもとに行き、同胞の民イスラエルの人々を去らせるようにと言った直後のことであり、故にパロは怒り、イスラエルの民にさらなる過酷な労働を与えた時のことであり、それによりモーセは同胞の仲間から激しく「余計なことをした」と中傷された時でした。

つまり、その「今」とはモーセにとって、全てがうまくいっている時ではなく、それどころか彼が失意のどん底におる時であり、「自分は何者なのだ、自分に何ができるのだ」という思いが彼の心を支配している時でした。自分自身の力のなさを実感している時でありました。

神様はそのような時に語りかけたのです。「あなたが今、対峙しているエジプトの王パロがこれからすることを、あなたは見ることになる。つまり、それはパロが強い手に強いられて、あなた方、奴隷であるイスラエルの民をエジプトから去らせるということを!」

この言葉を読んでいますと、神様はあたかも、モーセが一番、無力さを感じている時、自分の小ささに肩を落としているような状況に彼が陥ることを待っていたかのように「今!」と語りかけたことが分かります。そして、このことは、これから起きることは全て、あなたの力によるのではなく、私の力によるのだということを言い表していました。

おさらいになりますが、イスラエルの民は実に400年もの間、エジプトの奴隷となっていました。その数たるや数百万人とも言われています。モーセは「その同胞の者達をエジプトから解放させよ」とエジプトのパロに進言しているのです。

パロは当然、イスラエルの民を手離したくないのです。なぜなら、彼らこそがエジプトの繁栄を支えている労働力だからです。しかし、神様はパロ自ら、彼らを去らせるであろう、否、エジプトから追い出すであろうというのです。なぜ?強い手に強いられて」(出エジプト6章1節)とここには2度も書かれています。

パロと言えば、当時の世界で最も権力を手中に治めていた人です。彼が願うことは何でも叶えられたことでしょう。しかし、その彼も「強い手に強いられて」動かされていくのです。そして、この「強い手」こそが「神のみ手」なのです。このパロについてローマ人への手紙9章17節―18節に興味深いことが書かれています。

聖書はパロにこう言っている、わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界にいい広められるためである。だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである」(ローマ人への手紙9章17節―18節)

確かにパロはこれから先、どんどんその心を頑なにしていきます。後日、見ることになりますが、神様は一つ、また一つと、計10の災いをエジプトに下します。その災いを受けつつも、彼の心はどんどん固く閉ざされていくのです。

そして彼がかたくなになればなるほど、エジプトからイスラエルの民を解放させようとしている神の力が明らかになったのです。パロの心がかたくなになるのと、神の名が全ての人々に明らかになることは比例していくのです。

私達はユダヤ人の間に今も「過ぎ越しの祭り:PASSOVER」があることを知っています。これはモーセが率いた出エジプトをお祝いしたものであり、ユダヤ民族にとって、それは最大のお祭りであります。

今や、聖書の言葉どおり、パロの心のかたくなさゆえに出エジプトの出来事は全世界が知るものとなり、その背後にある神の力強い御手を全世界が知るようになりました。まさしく、聖書が言っているとおりです。

しかしながら、ここで皆さん、一つ釈然としないことに気がつかれているのではないかと思うのです。それは、このローマ書を読みながら「神様はその力をあらわすために、悪役パロを立てたのではないか」と私達は思わされてしまうということです。

18節を見ると「神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである」(ローマ人への手紙9章18節)と書かれています。

このような箇所を読む時に、パロはその悪態ぶりを否応なく発揮するために神に選ばれたというように読むことができます。その「かたくなさ」は神によってパロの内にかたち作られたとすら読むことができます。

そうなると、パロはまさしく、悪王となるために生まれてきて、その生涯も操り人形にように神に操られていたのではないかと私達は考えます。

しかし、実際にはそうではないことが、ここを読む時にすぐに気がつきます。この箇所も含めたローマ人への手紙9章14節から24節を見ますと、この箇所の中だけで実に6箇所も「あわれむ」という言葉が書かれていますが、神様はこのパロにも深いあわれみをかけておられたのです。

その証拠にこの後、少なくとも10回、パロは悔い改めて神に立ち返る機会が与えられていたことを私達は知っています。すなわち、神は深いあわれみを、チャンスを彼に与えていました。しかし、彼は自らそれらの機会をことごとく無にしました。

このパロのことを思います時に、人間はその人に委ねられている権力が大きければ大きいほど、自ら神の前にへりくだることが難しいのではないかと思われます。今日の世界の最高権力者達はいかがでしょうか・・・。

これらのことを見る時に私達は一つのことに気がつかされていきます。それは、誰がこの世界の主権者であるかということです。この世界の主権は誰が握っているのでしょうか。

目に見えることで言うならば、圧倒的な経済力、軍事力を有している国々、あるいはその国々のリーダー達のように思えます。しかし、聖書はこの世界は神の主権の元にあるというのです。

今日、開かれている出エジプト記6章1節―8節の中に一つのことを気がつかれたでしょうか。そうなのです、この中には「わたし」という言葉が14回も出てきて、そのうち4回は「わたしは主である」という言葉なのです。

 言うまでもなく、その「わたし」とは神ご自身のことであり、それはパロがいかなる権力をもち、いかに暴虐な王であっても、この時に起きた全ての出来事の主導権は神が握っておられたということです。

そう、まさしくパロが主なのではなく、神こそが主なのだということを神様はここで何度もモーセに語り、彼を励ましているのです。力づけているのです。

世界の歴史を見ると多くの大国が興ってきました。それらは莫大な富と荘厳な文化、そして軍事力をもち、その繁栄と力を誇りました。しかし、それらの多くは衰退していきました。今や残るのは廃墟となった遺跡だけなのです。

人は知り尽くすことができない様々な出来事の背後には確かに、神様の強いみ手があるのです。歴史のことを英語でHISTORY、“HIS STORY―彼、つまり神が導いている歴史”と呼ぶことは間違っていないのです。

「ボタンのかけ間違え」という言葉があります。最初のボタンをかけ間違えますと、その後の全てのボタンがずれてしまうということです。この言葉の教訓は色々あるでしょうけれど「しかるべきところから始めなければ、後に続くことが全てちぐはぐでうまくいかない、ずれが生じる」というようなことになりますでしょうか。

私達は誰しも生まれ育った国の文化や慣習に影響を受けています。私は生まれたてから2年ほど韓国籍をもち、その後、38年間、日本国籍を有し、以降11年の間、アメリカの国籍を持っています。

それでは自分はアメリカ人なのかと問われれば、確かに国籍はアメリカであり、この国の文化や習慣の影響を多分に受けてはいるのですが、やはり心の核には日本的なものがあることを自分自身、知っています。

そんな我々日本人の心には、我々が日本で生まれ育ったというその理由により、心に沁みついていることが幾つもあります。その一つに「御利益宗教」なるものがあります。

日本では大勢の方達が、大晦日や元旦に神社仏閣に参拝に行きます。毎年、その参拝者のトップテンが発表されますが、そのトップテンだけで、2602万人の人達がお参りをしているといいます。これは10の参拝所の数ですので、日本各地に点在しているものを入れましたらいったいどれだけの数になるのでしょうか。

想像しますに、その日に来られる方達は小銭を賽銭箱に入れ、手を打ち、神を呼び、心にある願い事、すなわち家内安全、無病息災、商売繁盛を願うのでしょう。

もし、それまでに会ったこともない人が玄関先に立ち、「おーい大倉、ちょっと出てきてくれー」と手をたたきながら呼ばれ、500円を手渡され、開口一番、「息子が大学受かるようになんとか取り計らってくれよ」とか「病気にならないようにここは一つ、頼むよ」と言われ、言いたいことだけ言って、こちらのことは何も聞かずに「じゃー、あとはよろしく」と去っていくとしたら・・・。

親しくもなく、話したこともない人に突然、こんなことを言われ、「なんなんだこの人は」と呆然と立ち尽くしていると数秒後、言い忘れたかのようにその人が戻ってきて、「あ、ごめん、言い忘れた、さっき言ったこと、してくれなければ、もうここには来ないから、よろしく!」と言って立ち去って行ったとしたら・・・。

これを私達は「御利益宗教」と呼びます。皆さんは思うかもしれない、「いや、かつては自分もそうだったなー。でも、今はクリスチャンになったのだからそういうことはなくなったなー」と・・・。

・・・はたしてそうでしょうか?「御利益宗教」とは言い換えれば、「神様を自分の利益のために引っ張り出し、用いようとする宗教」です。あくまでも自分が中心で、神は自分の願いを聞く存在だとしている宗教です。すなわち「人生の主役は自分」で「神はその自分が必要な時に助け、盛り立ててくれる脇役」であるべきだという考えです。

自分の思いや願いが叶う時、「ハレルヤ!プレイス・ゴッド!」と言い(否、このように言うのならまだマシで、このような時には大抵、私達は神様のことなど忘れて、それらを全て自分の努力の賜物、自分の功績としています)、願いが叶わなければ、口には出さずども「主はいったい何をしているのだろう」と思う。

「主はいったい何をしているのだろう」ということは、すなわち「神よ、そうじゃないだろう、あなたは私のためにもっと注意を払い、私のために取り計らうべきだろう、あなたはもっと私の状況改善のために力を注ぐべきだろう」ということです。

果たして神と人間、どちらが主(あるじ)なのでしょうか?私達の人生はどのように始まったのでしょうか。私達の命は誰から与えられ、その命は誰によって今、保たれているのでしょうか。

主にある皆さん、私達が日本人であるかぎり、私達は多かれ少なかれ、このような御利益宗教的なものに取り囲まれた場所で生まれ育ってきたのです。そして、それはクリスチャンになった今でも私達の心に残っているものなのです。

このような思いが私達の心にあり、ここから私達の信仰が始まりましたら、すなわち、これが最初のボタンであるのなら、その後、どのようになっていくのか想像できますでしょう。

クリスチャンになってからも、自分の願い通りにいかないことがあると、祈っても神様は願いを聞き入れてくれない、もう信仰はやめようかと言うようなことになりかねないのです。

ローマ8章28節は私達が大好きな言葉です。『神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている』

 何か必死に祈っていることがある時に、この御言葉が取り上げられることがよくあります。しかし、この御言葉は注意して受け止めなければなりません。時にこの御言葉は間違って使われることがあるからです。

「神は万事を益としてくださる」。確かにそうなのです。しかし、問いたいのは私達が「益」と言う時に、それは「誰の益」なのかということです。

もし、その「益」が自分が思い描いている「益」、すなわち自分が祈り願っていることを「益」としているのなら、この御言葉の真意を私達は知ることがないでしょう。いつも「神はいったい何をしているのだ」という思いと共に私達の信仰生活は続いていくことになるのです。

そうです、この「益」は神様が私達を見て、神様が益と思われるところの「益」なのです。そもそも、私達が「益」と思っていることが、どれだけ益なのか、それは誰にも知りえず、実際のところ、私自身に関して言えば、私がこれまでに益だと思って祈り願っていたことが全て叶っていたら、今頃、私はどうしようもない人間になっていたと思うのです。そう、自分の願いが叶うことが必ずしも私にとって益となる保証などどこにもないのです。

神様はモーセに対して繰り返し、このことをあなたは絶対に忘れるな。心に刻むのだと言うかの如く、言われたのです「私は主である」。

モーセのリーダーとしての歩みは始まったばかりです。これから幾多の難が彼を待ち受けています。モーセにとりましてこの「私は主である」ということは彼が取りつけるべき、最初のボタンでした。もし、彼がそこを取り違えましたら、彼は後々、いつも同じことで立ち止まらなければならなかったことでしょう。そして、それは私達とて同じです。

主にある皆さん、私達も心に刻もうではありませんか、「私は私の人生の主(あるじ)ではない。あなたはあなたの人生の主(あるじ)ではない」。「主こそ我らの神だ」と。

ここから私達の信仰生活が始まるのです。これが私達の信仰の前提であり、これが私達の信仰の土台なのです。

そして、言い方を変えれば、この力強い言葉により、私達は救われているのです。なぜなら私達の前途に立ちはだかる世界は、私達が自らを主として立ち向かうことができるような世界ではないからです。

「あなたこそわが主」という私達の信仰告白が、どれだけ私達を救ってくれるのか、そして、この主の主たることを味わい尽くす、各々、私達に神様が与えてくださっている人生なのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年6月7日

1)あなたの人生の主(あるじ)は誰ですか。もし、その主(あるじ)が自分なら、私達はどのような生き方をするでしょうか。

 

2)なぜ神様が私達の主であるのですか。その根拠はどこにありますか。

 

3)出エジプト6章1節を読みましょう。神様が言われた「今」はモーセにとってどんな時でしたか。ここから神様はどんな時に事を始められることが分かりますか。

 

4)ここには「強い手に強いられて」と二度、書かれています。この強い手にパロは逆らうことができますか。このことは何を明らかにしていますか。

 

5)ローマ9章17節―18節を読みましょう。ここから神様とパロのどんな関係を見ることができますか。パロは神様の目的を遂行するための操り人形だったのでしょうか。

 

6)ローマ9章14節―24節を見ますと、その箇所の中だけで6箇所も「あわれむ」という言葉が書かれています。神様はパロにあわれみをかけていましたか。パロはそのあわれみにどのように応答したのでしょうか。

 

7)出エジプト記6章1節―8節の間には13回も私という言葉が出てき、「わたしは主である」という言葉が4回も出てきます。このことは何を意味していますか。

 

8)「御利益宗教」の特徴は何ですか。クリスチャンでも「御利益宗教的クリスチャン」となりかねません。それはどんなクリスチャンですか。

 

9)ローマ8章28節の「益」は誰の益ですか?もし、この「益」を「私が願う益」とするのなら、この御言葉はいつまでもあなたの希望と慰めとはならないでしょう。なぜですか?


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