人生観の確立(3):労働観

教会ではこれまであまり「労働」ということに目を向けることがありませんでした。それは私達の心のどこかに、聖と俗とを区別する意識があって、「労働」を「霊的な事がら」として結びつけることがなく、端っこに置いてきてしまったからなのかもしれません。

しかし、今日、私達の置かれている社会環境を見ます時に、仕事によるストレスや生きがいの喪失、疎外感を感じている人達が多くいることに気がつきます。この度のコロナ下において私達は働き方の変化ということに向き合わされています。これらの現状を見るにつけ、私達は労働について聖書が何を言っているのかということに目を向ける必要があるのではないかと思わされています。

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人生観の確立(3):労働観
2021年5月30日

私達は人生の中で労働を経験します。現代社会で私達は何かしらの会社に勤めて、そこで給料を得たり、自分で起業してその報酬を得、それをもって生活の糧とします。また労働は必ずしも勤めるということだけではなく、私達の自宅にも成さねばならない労働があります。近年、この自宅での労働ということが注目され、その働きを給与に置き換えるということがなされ、その額は会社に勤めることによっていただくものとほとんど変わらないと言われています。

教会ではこれまであまり「労働」ということに目を向けることがありませんでした。それは私達の心のどこかに、聖と俗とを区別する意識があって、「労働」を「霊的な事がら」として結びつけることがなく、端っこに置いてきてしまったからなのかもしれません。

しかし、今日、私達の置かれている社会環境を見ます時に、仕事によるストレスや生きがいの喪失、疎外感を感じている人達が多くいることに気がつきます。この度のコロナ下において私達は働き方の変化ということに向き合わされています。これらの現状を見るにつけ、私達は労働について聖書が何を言っているのかということに目を向ける必要があるのではないかと思わされています。

何を隠そう、「働く」ということをよく理解していたお方こそが、イエス・キリストでありました。イエス様はご自身、大工として生計を立て、家庭においても家族を支えるべく、成すべき日常の仕事に従事しておられたことでしょう。

実際にイエス様が語られた多くの譬は、仕事に関わるもので、このお方は労働に携わる者達の苦労をよく理解しておられました。ご自身もそうであったように、イエス・キリストの眼差しは、汗を流して働いている者達の上に注がれていたのです。これらのことを思いつつ、今日は最初に「労働の苦労」についてお話しましょう。

労働の苦労

「自分が本当に好きなことを仕事としている人」は幸せな人だと言われます。確かにそう言うことができるのではないかと思います。仮に一日の労働時間を8時間とするならば、一日の三分の一を私達は労働に使っています。すなわち私達の人生の多くの時間を私達は仕事に向けています。

これだけの時間を注いでいるのが仕事なのですから、それが自分の好きなことであるのなら、確かにその人は幸いな人でしょう。30分置きに終業時間を気にして「あと三時間で終業時間。それまでの我慢」とする人と、あっという間に終業時間が来てしまったことに気がつく人がいるのなら、私は後者の人のようになりたいと思います。しかし、今日、いったいどれだけの人達が時間を忘れるほどの仕事に取り組んでいるのでしょうか。

労働とは読んで字のごとく「労する働き」ということ。仕事には苦労がつきまとうのです。そもそもなぜ労働には苦労がつきまとうようになったのでしょうか。1700ページもある聖書はこのことについて実にその4ページ目にこう記しています。創世記3章17節から19節を読んでみましょう。

『17 更に人に言われた「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。18地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。19あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」』

この創世記の言葉は神によって創造された最初の人、アダムとその妻エバが神から禁じられていた実を食べてしまった後から、彼らが背負っていかなければならないことについて神様が言われた言葉です。

聖書はこの箇所において、私達がたとえ地を耕して食物となる種を植えたとしても、そこからは茨やあざみが生じるだろうと言っています。茨とかあざみというのはやっかいな植物で、その除去には大変な労苦がともないました。このように私達は私達の願いにも関わらず、期待していたものを得ることができないばかりか、かえって望んでいないことが起こる、そう、一生、苦労して地から食物を取る、そのために額に汗して働かねばならないというのです。

私達が日夜体験しているように、仕事は思い通りにいくことの方が少ないものです。受け入れがたいコストダウンを要求されたり、日々、移ろいゆく人の心に振り回されたり、世界経済に翻弄されたり、まさしく現在、私達が向き合っているこのコロナなどはその最たるものでしょう。

このように労働には苦労がつきものなのだということを聖書は人の始まりから私達に向けて語りかけているのです。また他にも聖書の中の伝道の書や詩篇などを見ますと興味深いことが書かれています。

伝道の書1章2節‐3節
『伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか』

伝道の書9章11節                                     『わたしはまた日の下を見たが、必ずしも速い者が競走に勝つのではなく、強い者が戦いに勝つのでもない。また賢い者がパンを得るのでもなく、さとき者が富を得るのでもない。また知識ある者が恵みを得るのでもない。しかし時と災難はすべての人に臨む』

伝道の書5章10節 
『金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい』 

伝道の書4章4節
『また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである』

詩篇90篇10節
『われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです』

今日の世界の悲痛な悩みは「意味の喪失」です。私達は「する意味、し続ける意味」を見出さなければ、時に虚しさを感じ、それはやがて苦痛にもなります。先の創世記は額に汗しながらパンを食べる私達が最後に行きつくところを土と書いています。私達の最期を思えば、何をしても私達の心にはどこかに虚無がつきまといます。このことを私達は身に負って生きています。

また富を得る者は必ずしも正直に、まじめに働いている人ばかりではないということ、そのような人達が、その働きを正当に評価されないことがあるということ。金銭を愛し求めている人は、実はそれを求めていながら、その金銭によって満足することがないということ。世界の全ての巧みなわざを見れば、これは人が互にねたみあってなすものであるという指摘は、私達の市場経済の原則なのかもしれません。

これらの聖書の言葉を見るならば私達は労働に対して希望を持つことが出来ません。労働がアダムとエバの罪によって課せられたということであるならば、私達は労働を罰としか受け止めることが出来ませんし、それは苦痛以外のなにものでもないのです。しかし、聖書を注意深く読むと一つのことに気がつきます。創世記2章15節を読みましょう。

『主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた』

この箇所は先ほど読んだアダムとエバが禁断の実を食べる前の記事です。興味深いのはその時にも彼らは地を耕し、神は園を彼らに守らせていたというのです。すなわち彼らは罪を犯す前から働いていたのです。

神はその時、アダムにエデンの園を守らせ、これを管理させたのです。神はアダムを愛して彼に園の全てを任せ、アダムはそれに応えて働き、神の園を管理していたのです。そこには神との交流があったのです。私達がしばしば経験することですが、愛する者のためになされる働きは私達にとって苦痛ではなく、それは喜びとなるのです。

アダムの当初の園での労働はまさしくそのような働きだったのです。しかし彼が「食べるな」と言われていた神の言葉を破ったことにより、アダムにとって労働が苦痛になったのです。以来、労働は人類にとって苦痛を伴うものとなったのです。

それゆえに人類はその苦痛をやわらげるために、これまで様々の努力を積み重ねてきました。全ての私達の技術革新の開発は私達を楽に便利に生活させるため、もっといいますと労働の苦労から私達を解放させるために作られてきたといってもいいでしょう。

50年前と比べて、私達の生活は格段と便利になりました。しかしながら、現実は50年前には起きなかった人間同士の問題が、また私達の心の問題が今日、いたるところに存在しています。

確かに私達の肉体は楽になりましたが、それと同時に生きがい喪失や人間疎外が私達の間に見られるようになり、私達はますます、その苦痛を得たのです。 それでは、私達はどうしたら、この罪を犯す前のアダムとエバの働きの時点まで回復させることができるのでしょうか。二つめのポイントをお話します。それは「労働の回復」ということです。

労働の回復

労働の回復はどこにあるのでしょうか。聖書にはイエス・キリストがアダムから始まった人間の問題の回復となられたと書いている個所があります。そこにヒントがあるかもしれません。コリント第一の手紙15章45節から50節を読みましょう。

『45聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。46最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。47第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。48この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。49すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。50兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない』

聖書はこのところで最初の人間、土に属するアダムと最後のアダム、すなわち霊に属するキリストを比較しています。このところには「アダムは生きたものになった」、イエスは「命を与える霊となった」と書かれています。

すなわち、このことは土に属しながら生きるアダム、すなわち人間に対して、キリストは天に属する者として、我々にまことの命を与えてくださるお方だということを示しています。そして、私達にその命をお与えてくださるお方は私達の労働にも命を吹き込んでくださるお方です。

内村鑑三が「いかにしてわが天職を知らんか」」(1904年8月「聖書の研究」)という一文の中にこんなことを書いています「人間は神との交わりが回復して、はじめて労働の喜びが湧き出す。それまでは神以外のものに仕える労働なのであるから、生きがいも喜びも湧かないのである。神以外のものとは、マモン(金銭)、支配欲、効率、高度な技術、早さ、大きさ、享楽などである」。

イエス様は荒野で3つの誘惑を受けたと聖書は記していますが、内村がここで言っていることは、イエス様が受けた誘惑の中身であり(マタイ4章1節-10節)、これらは全てサタンが常に私達を罠にかける時に使うベイト(餌)です。

私達がもし神との関係を回復し、その関係を維持しないのであるならば、私達は常にこのトラップにかかる危険があり、貴重な一生の全てをそのために費やし、さらにはそのための修復に多くの時間を注ぎこむことになりかねません。

内村がここで書いている効率や高度な技術、早さ、大きさ、またその労働に対して支払われる報酬はとても大切なことです。しかし、それが私達にとって第一のものとなっていくならば、すなわち、そのことだけから私達が喜びや生きがいを得ようとしていくならば、私達はやがて行き詰ってしまうことでしょう。

なぜでしょうか。先ほど読みましたコリント第一の手紙15章50節がその答えを書き記しています。すなわち「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」とあるとおりです。

この言葉の中に先の内村の言葉を入れてみましょう。「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。マモン(金銭)、支配欲、効率、高度な技術、早さ、大きさ、享楽とは神の国を継ぐことができないし、これら朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」

私達が何か製品を作る時に、その商品が、自分が意図しているような商品価値を発揮して顧客に喜ばれることを願います。それが例えば目覚まし時計なら、しっかりとそれが必要とされている場所で設定された時間にベルがなり、正しい時間を示す事が求められます。製作者は自分が作った目覚まし時計が髪の毛を乾かしたり、床の塵を吸い取ることは考えもしないし、当然、そのように用いられることを願っていないのです。

私達を造られた神は、私達が朽ちてしまうものを生み出すために労働をすることがないようにと願っているのです。先に読みました伝道の書の空しさとは実にこのことを言っている叫びなのです。神は私達の労働によって朽ちないものを生み出すことを願っているのです。

しかし、私達の今日、作り出すものは明日、中古となり、最後には廃棄される、そう、手に取り、目に見えるものは全て、この法則からのがれることができません。それでは、私達はどのように朽ちないものを生み出すことができるのでしょうか。マタイ6章19節-21節にそのことが書かれています。

『19あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。20むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。21あなたの宝のある所には、心もあるからである』

 私達がこの地上で蓄えるものが失われないということはありません。否、確かに長持ちするものはあるでしょう。しかし、悲しいかな、たとえその物が長持ちしても、そうこうしているうちに、その所有者である私達が老い、やがて土にかえるのです。私達はこの法則からも逃れることができません。

「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」それでは、朽ちない宝を天に積むにはどうしたらいいのでしょうか。

コロサイ人への手紙3章23節から24節に書かれているように働くのです。『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである』

私達が人にではなく、主に対して人と対峙し、心を尽くす時に、私達はその時に御国を継いでいるというのです。そして、主から報いを受けるというのです。なぜなら、そのことはイコール主イエスに仕えていることだからだと聖書は言うのです。このようにして私達は宝を天に積むことができるのです。

今日、会社人事担当者が嘆くことは、就職をする若い方々が数年で仕事を辞めてしまうということです。そのことには色々な理由があり、私達の人格が壊されたり、健康を害することまで求められるような、そこには留まるべきではないというような状況も確かにその中にはあることでしょう。

しかし、そんな理由の中に多いのは「この仕事は自分がやりたいと思っていたものとは違う」ということだというのです。そして、その人達はまた次の仕事につき、また同じ思いを持つことが多く、転職を繰り返すというのです。果たして、その人はいつか自分がやりたいことを見つけることができるのでしょうか。

仕事をしている方、していた方にはご理解いただけると思うのですが、本来「自分の本当に願っている仕事」というものに従事するということは決して簡単なことではありません。そして、たとえ自分が願っていた通りの仕事を見出すことができたとしても、そこにはやはりたくさんの労苦がつきものなのです。そのような時に、私達にとって本当に大切なことは、その仕事を通して、私達が誰に仕えているのかということを知っているということなのです。

先の内村鑑三は言いました「人間は神との交わりが回復して、はじめて労働の喜びが湧き出す」。神との交わりの回復とは何か。それは私達があの禁断の実を食べてしまった以前のアダムの姿に戻ることです。自分は神の園で神に仕えて働いているのだということを、私達はこの世界の只中で見出していくのです。

私達のまことの解決は、キリストにある新しい被造物とされた私たちが罪のゆえに歪められてしまった仕事を贖い、回復してくださるイエス様を仰ぎ、神がもともと意図された労働のあり方、すなわち私達をこよなく愛していてくださる神のために、その神を喜ばせるように私達が回復されて生き始めることなのです。

このキリストを信じる者にとって仕事には意味があります。後に来る、完成した神の国を知り、それを待ち望む者にとっては、仕事はこの世で生活をしながら、主に仕える手段です。

すなわち、それは私達が自分の業績というものを数字によって一喜一憂するのではなく、その仕事がいかなるものであれ、その仕事を通していかに神の栄光が表されるかということに私達の関心が寄せられていくのです。

神に仕えることによって、その仕事に従事していく。ここに素晴らしいおまけがあります。そのような人の仕事は必ず祝福されていくということ、そのことは自ずと起きてくることなのです。

日本では「お客様は神様です」と言いますでしょう。この言葉には多分に問題が含まれていますが、そのような心で顧客に向き合うことにより、日本国は世界最高のサービスを顧客に提供し、それが喜ばれ、多くの益を得てきましたでしょう。

私達にとって神は唯一なるお方だけであり、顧客を神と等しい者とは決して言いませんし、思いません。しかし、聖書が言うように、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」という思いで、人に向き合う者が祝福を受けるということ、それは必然なのです。

「天職」とは分け入った海辺の砂の中から、ボタンを探すことではなくて、今、私達が与えられている仕事をもって、それがいかなるものであっても、その仕事によって神に仕えていくことなのです。私は今、神の園に身を置いているのだ、そして、ここで私の主に仕えているのだということを自覚し、その園の中で神の栄光を表すのです。そのようにして、その仕事に向き合うならば、その仕事は天と繋がりを持つ仕事となるのです。

主にある兄弟姉妹、私達のキッチンが、私達のオフィスが、私達の工事現場が神の園の只中にあることを私達は知っているでしょうか。

キャッシャーで並ぶお客さんに主に仕えるように私達の労働を提供しましょう。誰かに料理を作る時に主にその料理を食べてもらおうと心を込めましょう。部下の失敗を償うために奔走する時に、主の笑みを思い起こしましょう。そこにも神の支配がおよんでいるのですから。

そして、これら全てのことが、何一つ見落とされることなく天に記録されていることを喜びましょう。そう、私達がここに生きる時に、その働きは主イエス・キリストにあって徒労に終わらないのです。

皆さん、お一人お一人のお仕事に、それがいかなるものであれ、神様の豊かな祝福がありますように。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2021年5月30日

 1)皆さんは働くことのどんな苦労を経験しましたか。これまで願い求めていたような仕事をしてきましたか。

 

2)「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3章19節)という、この言葉はあなたに何を語りかけますか。

  

3)コリント第一の手紙15章45節から50節を読みましょう。ここにはアダムとイエス・キリストのどんな比較がありますか。

 

4)内村鑑三は「人間は神との交わりが回復して、はじめて労働の喜びが湧き出す。それまでは神以外のものに仕える労働なのであるから、生きがいも喜びも湧かないのである。神以外のものとは、マモン(金銭)、支配欲、効率、高度な技術、早さ、大きさ、享楽などである」(「いかにしてわが天職を知らんか」」(1904年8月「聖書の研究」)と言いました。あなたは労働を通して何に仕えていますか。

 

5)神との交わりが回復して、はじめて生きがいや喜びが湧き出すということはどういうことですか。

 

6)コリント第一の手紙15章50節やマタイ6章19節-21節の御言葉は私達の労働に関して何を語りかけていますか。この御言葉の約束と私達が現在、従事している仕事はどのように関係していますか。

 

7)コロサイ人への手紙3章23節から24節を読みましょう。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」ということは私達をどこに導いていきますか。あなたにこのように接する人がいたら、あなたはその人にどんな印象をもちますか。


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