他人事ではない殺人

幼い子供が、疲れている、喉が渇いている父親を見て、水を飲ませてあげようと思って水を汲んでもってきます。しかし、その子は外で泥遊びをしていたので、その泥がコップにもついています。決してキレイとはいえません。それを見た父親がもし「こんな水飲めるか!」と子供に向かって言うならば、それはその子供の心を、その思いを殺していることです。

「今日、こんなに残念なことがあったの」と語りかけてくる妻に対して「俺は今、疲れているんだ、そんなことたいしたことないだろうが!」と、もし言うのなら、その言葉は妻の心を殺しています。

これらのことにより、私達は法的な罰を受けることはないことでしょう。しかし、その人の心には突き刺された傷が残り、その心が枯渇し、死に瀕してしまうことがあるのです。今日という日、この静かな殺戮がいったいどれだけ起きていることでしょうか・・・。

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他人事ではない殺人
2020年9月27日

カリフォルニアに来たばかりの頃、ロスアンゼルスのユニバーサル・スタジオに行きました。そこには、ハリウッド映画で実際に撮影に使った町並みのセットがあって、その街の中をトローリに乗って見て回ることができました。

そこは1920年代の洒落た家が並ぶ街なのですが、なぜか、違和感を感じました。なぜなら、そこには人の面影がなかったからです。どんなにきれいに整えられている街であっても、そこに人の生活、命の気配がなければ、肝心なものを失っているように思えたのです。

今年もカリフォルニアのみならず西海岸では山火事が猛威をふるいました。多くの方達が家を失いました。しかし、それらの人達が「またカンバックする」と言っている姿をニュースで見ました。

その表情と言葉を見聞きして「すごいなー、きっとこの人達は大丈夫だろうな」と思いました。彼らの言葉には「多くを失ったけれど命は守られたのだ。だから再び立ち上がる!」という強い意志が込められていたからです。その言葉の背後には「命さえあれば立ち直ることができる」という思いがあるのです。

しかし、悲しいことに、今こうして話している時にも世界では、その大切な命が人の手によって奪われています。今も世界のどこかで、人が人の手によって殺されています。そんな世界に生きる私達に聖書は十戒の六戒で語りかけるのです「あなたは殺してはならない」(出エジプト記20章13節)

とても短い言葉です。ある学者は、この言葉は神様が、どんな人でも理解できるように言われたのだろうと言います。誰かが刃物を振り回して暴れていたら、その者に「君はどこから刃物をもってきたのか?誰の許可を得たのか?何でそんなに暴れているのか?」などとは聞かずに「やめろ!」と叫ぶのと同じです。その理由や状況を説明するまでもなく、ただ一言、「殺すな!」と主は言われたのです。

でも私達は実際にこの六戒を聞いても、これが自分に語りかけているのだという自覚をほとんど持たないのではないかと思います。理由は簡単、私達は人を殺したことがありませんし、これからも決してないだろうと思われるからです。

それでは果たしてこの言葉はピストルや刃物を握りしめている者、拳を振り上げようとしている人達だけに語りかけているのでしょうか。私達には関係のない言葉なのでしょうか。

イエス・キリストは言われました。「昔の人々に「殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟に向って愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」(マタイ5章21節―22節)

先に人を殺した方はいないでしょうと言いました。しかし、どうでしょうか。「ばか者」「ばか野郎」「愚か者」「stupid」、その類の言葉を口から一度も出したことがない人いますか。

イエス様は言われました、それらの言葉を出す者は、議会に引き渡され、地獄の火に投げ込まれる。イエス様はこれらの言葉を口にするのなら、それは人を殺したことと同様なのだと私達に語りかけます。

ヨハネ第一の手紙3章15節もこう記しています。「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠の命をとどめてはいない」。

 この御言葉は「兄弟を憎む者は人殺しだ」と書いています。何かの間違いではないか、ミスプリントではないかと思うような言葉です。しかし、確かにここには「兄弟を憎む者は人殺しだ」と書いてあります。主にある皆さん、こうなると人を殺すということは人事ではなくなってきませんか。

これらの主イエス・キリスト、そしてヨハネの手紙から私達は殺人には「思いで殺す」場合、「言葉で殺す」場合、そして「行いで殺す」場合と、三つがあることを知るのです。

人類初の殺人がいつ起きたか皆さん、ご存じでありましょう。そうです、聖書の創世記において初めの夫婦アダムとエバの間に生れた兄弟、アベルとカインの間で、そのことは起きました。

そうです、彼らは人類の二代目です。人は人類二代目において殺人を犯しています。しかも、それは兄が弟を殺すということでした。その箇所をみてみましょう。創世記4章1節―11節、

1 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。8 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。9 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。10 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。11 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。

互いに血を分け合っている兄が弟を殺したというのです。なぜでしょうか。神様に捧げる供え物のうち、兄カインは「地の産物」をもってきました。弟アベルはその「群れの初子と肥えたもの」を持ってきました。

確かに兄カインは「地の産物」を神に捧げました。しかし、おそらく彼は地の産物の中でいい状態のものをまず自分のために確保し、傷んだもの、枯れかかったような残り物を神様の前に持ってきたのではないかと思われます。

しかし、それに対して弟アベルは家畜の中で最高と思われるものをまず主に捧げたのです。それゆえに創世記は「主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」と記録しています。

このことに対して、兄カインは「大いに憤り、顔を伏せた」のです。カインはただ怒ったのではなく、大いに憤ったのです。言うまでもなく、その怒りには弟だけが神に顧みられたという妬みがあったのです。

彼のその妬みと憤りはおさまることなく、やがて心の内に燃える炎となって、この弟の顔を見るたびに心にくすぶるマグマが、蓄積されていき、それはとても危険な状態になりつつありました。どういうことでしょうか、そのことを聖書はこう表現しました。

罪が門口に待ち伏せています。それは、あなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません(創世記4章7節)。

そうです、アベルの心にある苦々しい思いは彼の心に治めきれなくなっていました。しかし、彼はそれを治めなければならない。なぜなら殺人という罪が既に門口に待ち伏せしており、彼がその思いを治めきれなくなる時を今か、今かと待っているからです。

この人類最初の殺人を見る時に私達は先の第一ヨハネ3章15節のみ言葉に言われている「憎しみ」と「殺人」の関連性を知るのです。人が人を殺す前にはそこに至るプロセスがあるのです。すなわち、その前には怒りとか妬みがあり、それがさらに進んで、憎しみとなり、人は苦々しい言葉を語りだし、そして人は拳を振り上げます、銃口を向けます。このようにして人殺しは起きるのです。

殺人を犯してしまった人達は「自分が人を殺すなどは思いもしなかった」と思うのではないかと思います。しかし、彼らの心に妬みと怒り、そして憎しみがあるのなら、それはいつ爆発してもおかしくなかったのです。そして、気がつくと相手が自分の前に倒れていた。そんな悲劇が一体、今日も世界中でどれだけ起きていることでしょうか。

しかし、皆さんは思われる方がいるかもしれません。「いいえ、いくら私の内に怒りや憎しみがあっても人を殺してしまうなんてことは絶対にありえません」。そうです、実際にそうです、憎しみを持つ人はたくさんいますが、実際に人の命を奪ってしまう人というのは確かに決して多くはありません。

しかし、どうでしょうか、私達はその人の肉体に一撃を加えることはなくとも、その人の心を殺してしまうということはないでしょうか。言葉によって、行いによって、その人の心を殺してしまう。先のイエス様の言葉、第一ヨハネの言葉はそのことを私達に語りかけないでしょうか。

かつて極道の世界にいましたが、回心してクリスチャンとなり、宣教師になられた信田和富(しなだかずとみ)という人がいました。「いました」と言いましたのは、このメッセージを準備している中で、信田和富先生は2018年に召されていたということを知りました。

信田宣教師は17歳の時、新宿歌舞伎町でスカウトされてその道に入り、ヤクザとして13年を過ごしました。しかし“賭場(とば)荒らし”で逮捕され、8年の刑を受け、刑務所に入れられます。その刑務所の中で襲われ、命を失うかもしれないということを恐れ、精神的に極限状態に追い詰められ、幻聴を聞き、自殺未遂をします。

そのような中、キリスト教の集会に集うようになり、むさぼるように聖書を読み、ある時ペテロ第一の手紙5章7節の「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」という言葉に出会います。先生の言葉を借りていうのなら、この言葉を聞いた瞬間、心の底から平安がグングンと沸き上がってきたというのです。

出所後には元ヤクザでクリスチャンや牧師となった男達のグループ、「ミッション・バラバ」のメンバーに会い、組からも抜け、96年、以前、この教会にも来てくださった鈴木啓之牧師より洗礼を受けて、クリスチャンとなります。

当時、信田先生にはつき合っている女性がいました。ヤクザだった時に知り合い、それから彼を支えてきた女性です。彼が「俺の交際費は月に80万、必要だ」と言えば、仕事をかけもち、彼に与えたという女性です。

ある時、彼はその女性について鈴木先生に相談します「私にはつきあっている女性がいるのです。その人と結婚しようかと迷っています」。二人のことをよく知る鈴木牧師は言いました。「彼女は自分の身を削ってあなたに尽くしている。そんな人を不幸にしたら、彼女の心が死んじゃうんだよ。今まで彼女によって積み上げられた愛を殺しちゃうことなんだよ。そんなことしたら、男じゃないよ」

鈴木先生は言いました「彼女の心が死んじゃうんだよ。愛を殺してしまうんだよ」。信田先生は彼女を肉体的に殺すことはありませんでした。しかし、その心を殺してしまうことを鈴木先生は指摘したのです。

主にある皆さん、殺すということは、必ずしもその人の命を奪うということだけではありません。聖書は私達に語りかけるのです。「殺してはならない、あなたは人の心を剣で突き刺してはならない、その人の心を踏みつけてはならない」。

幼い子供が、疲れている、喉が渇いている父親を見て、水を飲ませてあげようと思って水を汲んでもってきます。しかし、その子は外で泥遊びをしていたので、その泥がコップにもついています。決してキレイとはいえません。それを見た父親がもし「こんな水飲めるか!」と子供に向かって言うならば、それはその子供の心を、その思いを殺していることです。

「今日、こんなに残念なことがあったの」と語りかけてくる妻に対して「俺は今、疲れているんだ、そんなことたいしたことないだろうが」と、もし言うのなら、その言葉は妻の心を殺しています。

これらのことにより、私達は法的な罰を受けることはないことでしょう。しかし、その人の心には突き刺された傷が残り、その心が枯渇し、死に瀕してしまうことがあるのです。今日という日、この静かな殺戮がいったいどれだけ起きていることでしょうか・・・。

皆さんの中で、殺人現場に居合わせたという人はおそらくいないでしょう。しかし、今、お話しした現場に被害者として、そして加害者としていたという方ならいるのではないでしょうか。このことを思い、心に手を当てて自らを省みる時に、私達はこの第六戒を人事として聞くことができなくなるのです。

私達の心に家族に対して、友人に対して怒りがあり、それが熟し、憎しみとなっているというようなことがないでしょうか。その心に彼、彼女に対して「馬鹿者、愚か者」と思う、思いはないでしょうか。それが言葉となり、態度となっているということはないでしょうか。

ヤコブは私達の口から出る言葉について言いましたでしょう。「あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは制しにくい悪であって、死の毒に満ちている」(ヤコブ3章7節―8節)

 その言葉が口から出る時、罪が門口で待ち受けています。その罪が私達を慕っているのです。ゆえに主に請い願いましょう。私たちの口を聖別して下さいと。今日、神様によって、その思いを取り去っていただきましょう。主に祈りましょう。私たちの心を聖別してくださいと。

最後になりますが、皆さんにとって思いがけないことをもう一つ、お話ししましょう。それは私達は既に殺人に関わっているということです。皆さんは身に覚えがないかもしれません。しかし、確かに私達はある方の死に関わっているのです。

それはイエス・キリストです。キリストは茨の冠をかぶせられ、自ら十字架を背負い、そして、その十字架に磔にされて、最後に腹にやりを突き刺され、死なれました。いいえ、死んだのではなく、殺されました。

メルギブソンという俳優が監督をした「パッション・オブ・クライスト」という映画を観た方がいるでしょう。この映画はイエス・キリストが十字架にかかる直前に祈られたゲッセマネの園でのシーンから始まり、十字架にかけられるまでのことを描いています。

メルギブソンは監督ですので、その映画の中に姿を現しませんが、ワンシーンだけ、彼の手が画面に映っているといいます。それはキリストの手に釘を打ち込むシーンです。メルギブソンは自らの手でキリストの腕に釘を打ち込むことにより、自分がキリストの殺害に関わっているということを表現したのです。

聖書はキリストの死は私達のためであったといいます。ということは、私達もその殺人と無関係ではないのです。私達はキリストの死によって、今日、新しい命を与えられているのです。キリストによって新しい者とされているのです。

イエス・キリストはご自身がこの地に来られた理由をこう言われました16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである』(ヨハネ3章16節-17節)。

 ここには、はっきりと書かれています。イエスは私達を裁くためにこの世に来たのではなく、私達に命を与えるために来たのだと。命を奪うためにきたのではなく、命を与えるために来たのだと。

このことを知る時に私達の生き方は定まります。それはこのキリストにあって、救われた私達も人を殺す生き方ではなく、人を生かそうとする生き方をするということです。キリストと同様、私達もそのために今、それぞれの場に置かれているのです。

今日は私達の思いと言葉、そして行為によって人を殺すことができるとお話ししました。このことはもう一つの可能性を私達に示します。そうです、その私達の思いと言葉、そしてその行為は、同時に私達をして、人を生かすこともできるということです。そのことができる心と口と体を主は私達に与えてくださっているのです。

主よ、我らの思いと言葉、そして行いを聖別し、それをあなたの御名があがめられることのために用いてください。その思いを持って、人を生かす使者として、今日もここから任わされていきますように。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年9月27日

1)あなたは今まで十戒の第六戒、「あなたは殺してはならない」(出エジプト記20章13節)という言葉をどのように受け止めてきましたか。その言葉と自分の関係について考えたことがありますか。

 

2)マタイ5章21節―22節を読みましょう。なぜイエス様は「兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟に向って愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」というような強い言葉を語っているのでしょうか。

 

3)ヨハネ第一の手紙3章15節は「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠の命をとどめてはいない」と記しています。憎しみはどのように心に据えられていきますか。

 

4)創世記4章1節―11節を読みましょう。ここからどのような経緯で兄弟殺しが起きてきたことが分かりますか。私達がここから学ぶべきことは何ですか。「罪が門口に待ち伏せています」とは、どんな状態なのでしょうか。

 

5)ヤコブ3章7節―8節を読みましょう。ここには、はっきりと「舌を制しうる人は、ひとりもいない」とありますが、あなたはこのことに同意しますか。それが「制しにくい悪であって、死の毒に満ちている」ということは具体的にどういうことでしょうか。

 

6)ヨハネ3章16節-17節を読みましょう。ここにはキリストがこの地に来た理由が書かれています。このキリストによって新生した私達はどのように生きることが神様によって、望まれているのでしょうか。

 

 

 


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