倍返しどころではない話

そもそも私達のこの命、その命が今もあるというのは神様からのギフトです。私達の家族は神様からのギフトです。私達が口に入れるもの、それは全て大地の恵みです。私達はこのようなことをほとんど何も考えずに毎日を生きていますが、私達が所有している物は全て神様が私達に与えてくださったものです。

聖書は私達が正当な方法で所有することを悪とは言っていません。それは神様の祝福です。しかし、一つだけ神様が私達に語りかけていることがあります。それは「私があなたに与えたものを、あなたはどのように私のために用いているのか。どのようにして、それらを用いて神の栄光をあらわしているのか」ということです。

このことに基づいて考えますのなら、もし、私達が神様から与えられているものを主のために用いず、ただ自分のためだけにそれを用いているのなら、それは神様が私達に与えてくださったものを盗用していることなのです。

「あなたは盗んではならない」(出エジプト記20章15節)

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倍返しどころではない話
2020年10月11日

「犯罪マップ」というウエブサイトがあります。昨日、一週間、一月、その地域でどんな犯罪が起きたかということがそこには示されています。その犯罪は強盗、家宅侵入、車へのブレイクイン、薬物所持、落書き、放火等に区別されており、自分が知りたい地域を調べるとその犯罪が起きた場所が表示されます。

それらを見ます時に私達は驚きます。私達がどこに住んでいようと、自分の家のあるストリートで車のブレイクインがあったとか、空き巣被害があったというようなことを私達は見ることになるからです。そして、このマップを見ていて気がつかされることは、これらの犯罪の中で圧倒的に多いのが「盗み」だということです。

十戒はイスラエルの民がエジプトを脱出して、約束の地を目指して40年の荒野での旅が始まった時に彼らに神が与えたものです。その時、大人の男だけで60万人いたと聖書は書いていますから、女性や子供を加えればその数たるや数百万にもなります。

それだけの人が所狭しと宿営テントを張り、荒野で共同生活をするのです。そのような状況で何が起こるのか、そうです、彼らとて人間、私達が今日、言うところの犯罪というものが起きてきます。そして、その時に一番、多かったであろう犯罪は、やはり盗みだったのではないかと想像します。

荒野で暮らしていれば隣の人のサンダルや鍋、釜をくすねてくるというようなことがあり、この後の十番目の戒めによりますと、その盗みは人間にまで及んだことがうかがい知れます。そのような状況の中で神様は十戒の八つ目の戒め「あなたは盗んではならない」(出エジプト記20章15節)を彼らに示されたのです。

かつて教会の電気がつかないということがありました。原因を突き止めましたら、建物の外に設置されている銅線が盗まれていることが分かりました。その時、銅線が闇取引で高く買われているということを知りました。

数年前、ジムで汗を流し、ロッカールームに戻りましたら自分が、どのロッカーに荷物を入れていたか分からなくなりました。私の鍵がどこを見てもないのです。ないはずです、壊されていたからです。おそらく鋼鉄を切り取る特殊なハサミで壊されたのだと思います。

今はインターネットで物を買う時代です。はたしてネット販売での詐欺はいったいどれくらいあるのでしょうか。皆さんの中にも被害にあわれた方がいると思います。知らないうちにクレジットカードが使われたというようなこともありますでしょう。今や、地球の裏側にいる人間が私達の財産を盗む時代なのです。

物騒な話をしましたが、今、お話ししましたようなことを聞きますと、私達は盗まれた被害者としての自分のことを思いますが、大抵は自分を盗む側には置かないのではないかと思います。実際に、隙あらば誰かの物を盗み、こっそりと自分のバッグに入れている人がいたるところにいるわけではありませんでしょう。

このことは「殺すなかれ」の時に「このことを自分に語られていることとして聞く人はいませんでしょう」とお話ししたことと同じです。しかし、いかがでしょうか。いくつかのことをお話ししましょう。

皆さんの中で「約束した時間」に遅れたことがないという方いますか。提出すべきものを提出せずに相手を待たせたことありませんか。そのことにより、相手は自分の時間や財産を犠牲にすることがあります。

午後2時にミーティングをもつと約束した人が、もし10分遅れてくるということになりますと、その間、待っていた人の時間を10分、盗んでしまうことになるというのは言い過ぎでしょうか。

一日、8時間の仕事がありますと、その間、私達の8時間は雇用者に賃金と引き換えに渡されています。しかし、その8時間をその雇用者のためだけに使っているかというと、必ずしもそうではありませんでしょう。リタイアするまで私はその勤務時間の100パーセントを雇用者のためだけに使いましたと言い切れる人はいませんでしょう。言い方を変えれば、その時間を私達が盗んでいたということにはなりませんでしょうか。

時に私達の周りにゴシップが出回ることがあります。そのゴシップが完全に正しいということはなく、そこには憶測や嘘偽りが含まれることがありますでしょう。そのようなゴシップが私達を通して広がります時に、その人の評判や役職を奪ってしまうことがあります。そのゴシップはその人が大切にしてきたものを盗んでいるようなものです。

ここまで人間に関することを話してきましたが、神様に対してはどうでしょうか。神様は私達の必要を与えてくださり、私達を祝福してくださるお方です。そして、私達が今、所有しているものは全て、神様が私達に与えてくださったものです。

そもそも私達のこの命、その命が今もあるというのは神からのギフトです。私達の家族は神からのギフトです。私達が口に入れるもの、それは全て大地の恵みです。私達はこのようなことをほとんど何も考えずに毎日を生きていますが、私達が所有している物は全て神様が私達に与えてくださったものです。

聖書は私達が正当な方法で所有することを悪とは言っていません。それは神様の祝福です。しかし、一つだけ神様が私達に語りかけていることがあります。それは「私があなたに与えたものを、あなたはどのように私のために用いているのか。どのようにして、それらを用いて神の栄光をあらわしているのか」ということです。

このことに基づいて考えますのなら、もし、私達が神から与えられているものを主のために用いず、ただ自分のためだけにそれを用いているのなら、それは神が私達に与えてくださったものを盗用していることなのです。

いかがでしょうか、これらのことを考えますと、この八戒は他人事ではなく、私達は皆、同じ土俵に立ってはいないでしょうか。

それではここから本題に入ります。そうです、これから今日のメッセージタイトルとなっております「倍返しどころではない話」をさせていただきます。

聖書は繰り返し盗むことを禁じています。そして、盗んだという事実に対して、それを神様が黙認しているということはありません。私達が誰かの何かを盗んだとします。誰もそれに気がつかれずにいるかもしれません。手元には盗み取った物品がその人の物としてあり続けるかもしれません。ゆえに思うことでしょう、得したなと。

しかし、とんでもありません、神様はその全てを知っておられます。へブル4章13節、『そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない』(へブル4章13節)

私達はこの神の前に立たなければならないものであり、また聖書は盗んだ者は、その盗んだものを償わなければならないことを明確にしています。しかもそれは盗んだものを返却するということだけではなく、それを数倍にして償うようにと私達に語ります。

『もし人が牛または羊を盗んで、これを殺し、あるいはこれを売るならば、彼は一頭の牛のために五頭の牛をもって、一頭の羊のために四頭の羊をもって償わなければならない』(出エジプト記22章1節)。

『盗びとが飢えたとき、その飢えを満たすために盗むならば、人は彼を軽んじないであろうか。もし捕えられたなら、その七倍を償い、その家の貨財を、ことごとく出さなければならない』(箴言6章30節、31節)

聖書にはザアカイという取税人が出てきます。当時、取税人は民衆から税金をだまし取っていました。そうです、本来の税よりも多くの税を徴収して、自分の懐に入れていたのです。すなわち彼らは民衆から盗んでいたのです。それがザアカイの生業でした。しかし、彼はイエス・キリストに出会うことにより、自らがしていたことを悔いたのでしょう、イエスに向かい、こう言いました。

「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」(ルカ19章8節)。 

これらのことは私達が盗んだものに対して、私達には厳しい償いが求められることを示しています。そうです、このことは私達が盗んだものに対してなさなければならない償いは倍返しどころではないことを示しているのです。

しかし、聖書は私達に厳しい罰則を語ることだけでは終わりません。エペソ書は私達の心をその先のことに向けさせます。

「盗んだ者は今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペソ4章28節)。

世においても私達が罪を犯した場合、それに対する償いが求められます。そして、その償いをしましたら、そこから先の生き方に言及されることはありません。しかし、聖書は言うのです、このことは「盗んではならない」で終わるのではない、神の心は別のところにあり、それは、私達がさらに一歩を踏み込む新しい生き方なのだと聖書は語りかけるのです。

そうです、これからは盗むのではなく、正当に働き、何を与えることができるかということに目を向けていくのだと。そして、私達がこのことに目を向けていくのなら、私達はそこに“あること”を見出すことになります。

そうです、それはこのことに関しても、そこに私達は倍返しどころではないものを見るのです。盗んだものに対して私達の倍返しが求められましたが、私達が与えることに対しては神様の私達への倍返しが約束されているのです。

かつてイエス・キリストは言われました。『与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから』(ルカ6章38節)。

「与えなさい。そうすれば与えられる。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでにあなたの懐に入れる。自分の量りがそのままあなたを量る量りとなるのだ」。

もちろん、このことを期待して私達は与えるのではありません。しかし、結果的にそこに神が介入され、私達は祝福される。この主イエスの言葉は明らかに、倍返しどころではない、主は数倍にもして私達に祝福してくださることを明らかに示しています。

私達は考えたことがないかもしれません。私達には今、時間が与えられています。この時間とは、すなわち私達の命の長さのことで、それは完全に神様が私達に与えてくださっているものでしょう。その与えられている時間をあたかも自分が獲得した所有物のようにして使っていることはないでしょうか。

15そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、16今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。17だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。(エペソ5章15節ー17節)

「賢い」ということは、私達が知恵あるものとなるということです。箴言の御言葉は言います『主を畏れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる』(箴言1章7節)。知恵とは主を畏れることです。

すなわち賢い者のように歩くということは、主を畏れながら、主の御旨を問いながら歩くということです。その主のために、今、主から与えられているこの時をどのように用いるかということを考え、それを実行するということです。

私達が神様からいただいている時を神様のために用いましょう。与えられているのですから、お返ししましょう。主にある皆さん、そのことに対しても、主が私達になしてくださる祝福は倍返しどころではないのです。

私達が各々与えられている神様からの賜物、ギフト、あなたはそれを自分のためだけに使っていますか。あの有名なタラントの譬えを知っていますでしょう。神様は私達に五タラント、二タラント、一タラント、と賜物、ギフトを与えてくださっており、私達はそれを十二分に主のために用いることが求められているのです。

その譬えでは五タラント、二タラントを主人から与えられた者達は、それを用いて、それを倍にしました。そのことを知った時の主人の喜びはとても大きく、主人は彼らに言います。

『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』(マタイ25章21節、23節)。

しかし、一タラントが与えられた者は、それを土の中に埋めて隠し、一切、それを用いませんでした。その僕に向かい、主人は言います。28さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。29おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』(マタイ25章28節ー30節)。

このたとえ話が私達に語りかける真理は説明するまでもないでしょう。ギフトは神から私達に与えられているものなのですから、それを用いて、主にお返ししましょう。そのことに対して主が私達になしてくださる祝福も倍返しどころではないのです。

私達はマラキ書の言葉を知っています。そこには先にお話しました神様に対して私達が盗みを働いているということについて、はっきりと示しています。

8 人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。9 あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。(マラキ3章8節、9節)

私達のこの命が今も私達と共にあるのは全て神の恵みであり、あわれみです。それは神からのギフトです。私達の家族は神からのギフトです。私達が口に入れるもの、それは全て神のギフトです。私達はこのようなことをほとんど何も考えずに毎日を生きていますが、私達が所有している物は全て神が私達に与えてくださったものです。

ですから、主はその一部を私に捧げなさい。返しなさいと言われるのです。もし、あなたがそれをなさないのなら、それはあなたが私の物を盗んでいることなのだと主は言われるのです。そして、この言葉はこのように続きます。

10 わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる(マラキ3章10節)。

私があなたに与えている全てのもののうち、その10分の一を私に感謝と共に捧げなさい。そうすることによって私を試みてごらんなさい。わたしは天の窓を開いて、溢れる恵みをあなたに注ぐことを見なさいと万軍の主は言われるのです。

そして、さらにその主が私達の必要の供給源を握っているお方だということを忘れてはならないと主は言われます。11 わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。12 こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる(マラキ3章11節ー12節)。

私達はせっせと自分のために働く。しかし、苦労は尽きない。なぜ?私達の力のおよばないところで、私達を食い滅ぼそうとする外的要因が私達を抑え込もうとする、私達が精魂込めて育ててきたものが瞬く間に失われてしまうことがある、それが世の常だからです。

しかし、主は言われます。あなたたちに降りかかる、時に理不尽と思われるような要因にも私は手を伸ばすことができる者であることを、あなたは決して、忘れるなと。

我が家の子供達はアルバイトをするような齢になりました。わずかではありますが、自分の必要を自分で働いて得る齢となりました。ここまで子供達を育んでくださった主への感謝は尽きません。

彼らが自分で働いて得たものをいただいた時に、私達は彼らに月定献金をするように勧めました。マラキ書が記しているように、いただいたものの十分の一をまず主にお返しするのです。

1997年、日系アメリカ人のロバート・キヨサキさんという方が「金持ち父さん、貧乏父さん」という本を出し、全世界で1000万部売れ、51か国語に訳されました。そこにはどうやって賢くお金を稼ぐかということについて書かれていました。

私達夫婦はそのような本を読んでもよく分かりませんから、そのような財テクを子供達に教えることはできません。しかし、神様からいただいているものに感謝して、その一部を主にお返しすることにより、主は大いに私達を祝福してくださるということなら、私達夫婦は知っています。その確実な勧めは私達の確信に基づくものです。

彼らに「わたしが天の窓を開いて、あふれる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい」と言われる万軍の主の力を体験してほしいと私達は心から願います。いいえ、彼らは必ず、それを体験し、主をほめたたえることでしょう。

かつて私の友人が私に詩篇84篇の御言葉を贈ってくれたことがありました。その時、私は主に従うことにチャレンジを受けていました。神に従うことが割に合わないのではないかと思わされることが目の前にいくつも起きているような時でした。しかし、この御言葉は私をもう一度、私が立つべき場所へと私を引き戻してくれました。詩篇84篇11節、12節、

主なる神は日です、盾です。主は恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです』(詩篇84篇11節-12節)

私は今でもこの御言葉を大切にしています。主は神の前に直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。あなたはこの言葉を信じますか。この主に信頼しますか。

神の祝福は私達が自らの手で獲得するものではないのです。祝福は上から注がれるものなのです。そして、その神様の祝福は倍返しどころのものではないのです。それは私達が散らないようにと一生懸命に抱え込んでいるものを遥かに凌駕する祝福です。

主にある皆さん、私達の一度きりの人生、これだけはミスしたくないと思われることがありますでしょう。その中で最大のミスは、主なる神の存在を知らされていながら、この神様の祝福を経験することなく終えることなのではないでしょうか。

どのようにしたら主からいただいていることに対して、真心なるお返しができるだろうか、いかにしたら主の栄光のために私達を主に用いていただけるだろうか、今日から、そのことに私達の思いを向けていきませんか。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2020年10月11日

 

1)あなたは盗難にあったことがありますか。その時、どんな気持ちがしましたか。「あなたは盗んではならない」(出エジプト記20章15節)という言葉はあなたと関係がありますか。

 

2)「時間」「評判」「神の恵み」に対する盗みをあなたはどう受け止めますか。

 

3)私達が何かを盗み、たとえそれが誰にも見つからなくとも神は全てを知っています(へブル4章13節)。そして、盗みに対する処罰はとても厳しいものです(出エジプト22章1節、箴言6章30節、31節)。このことを私達はどれだけ真剣に受け止めているでしょうか。

 

4)「盗んだ者は今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペソ4章28節)という言葉は私達に何を語りかけますか。

 

5)ルカ6章38節には与える者に対する神様の倍返しの約束が書かれています。あなたはこの言葉を信じていますか。

 

6)エペソ5章15節―17節には私達が与えられている時間の用い方が書かれています。「主の御旨を知り、今の時を生かして用いなさい」ということは結局のところ、どんな生き方の勧めなのでしょうか。

 

7)タラントの譬え(マタイ25章14節-30節)は何を私達に伝えていますか。タラントを用いた者への待遇と、用いることがなかった者に対する処遇はどう違いますか。

 

8)マラキ3章10節-12節のどんな主の約束に私達は驚きますか。あなたは天の窓が開けられているということを経験したことがありますか。なぜ、この主の約束に立って生き始めることは難しいのでしょうか。


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