備えあれば憂いなし

今年、イチロー選手がとてつもない記録を作りました。10年連続200本以上の安打を重ねたという大記録です。今年のシーズン、メジャーリーグで200本以上のヒットを打った選手が何人いたかご存知ですか。たった二人なのです。イチローが214本。そして、もう一人ヤンキースのCanoという選手が打った200本です。どれだけ一シーズンに200本のヒットを打つことが難しいかということが分かります。その200本をコンスタントに10年間続けたというのですから、これは文句なしに称賛に値します。

よく人はイチローを天才だと言います。確かにそうなのかもしれません。しかし、彼をよく知るチームメートやライバル達が口をそろえて言いますことは「彼は万全の準備を怠らず、怪我もせずに試合に出続ける。それは日々の努力の積み重ねだ」と。

そんな彼をあえて天才と呼ぶ分野があるとするならば、彼は「準備の天才」なのです。彼自身こう言っています「要するに準備というのは、言い訳の材料となりうるものを排除していく、そのために考え得るすべてのことをこなしていく、ということです」。イチロー選手は自らが使うグローブやバットに対して誰よりも入念なケアーを自分でするといいます。彼が打てなかったり、エラーした時にグローブやバットを言い訳にしないためです。当然、食事にも日々のトレーニングに関しても自分で十分な備えをしています。それらを言い訳としないためです。誰彼のせいにしないためです。彼に打順が回ってきたら、逃げることはできず、誰かと共にそこに立つことはできず、誰かに変わってもらうこともできず、彼自身が一人、そこに立たないといけないからです。

今日、お話した礼拝メッセージです。                                よかったらどうぞ↓                                               礼拝の録画はこちらから(相変わらず音声がよくなくてすみませんです)。

マック 

備えあれば憂いなし

2010年10月17日

マタイ25:1-13

1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。6 夜中に『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。  

今、読みました聖書の言葉はイエス・キリストが話された譬話です。譬話とは私達がよく知っている身近なことが話されることによって、そこから不変の真理を引き出すということです。はたしてこの譬話は私達に何を語っているのでしょうか。

イエス・キリストが過ごされた今から2000年前、その地域でもたれていた結婚式は夜、行われていたようです。その結婚式のために、花婿と彼につきそう友人達は花嫁を花婿の家に迎えるべく、行列を作って、花嫁の家におもむきます。花嫁の友人である女性達は、めいめい明かりと共に予備の油を用意して彼らが来るのを待ちます。しかし、彼女達は花婿たちがいつ来るのか分かりませんでしたので、余分な油をあらかじめ備えて、ひたすら待つのです。そして、いざ彼らがやってくれば、明かりをもちながら共に花婿の家に向かうというのです。

この譬においておとめ達とは私達を指しています。そして花婿とはイエス・キリストのことを指しています。すなわち、この譬話はキリストが私達のもとに、予め知らせもなく、ある日必ず戻ってこられるということです。

聖書はその日について「その日、その時は、誰も知らない。天の御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが 知っておられる」(マタイ24章36節)と記しています。そして、その日とは私達にとってどんな日なのか、聖書はこう記しています。「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 

そして、洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。その時、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。だから、目を覚ましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、分からないからである」(マタイ24章37節‐42節)。その日というのは何ら私達にとって、普段と変わらない日だというのです。その時とはいつものように普通に出勤してビジネスミーティングをもっている最中かもしれないし、洗濯ものを干している時かもしれません。私達が平々凡々と暮らしている時に、ふたりの者が映画を見ていると一人は取り去られ、一人は残される。二人の者がスターバックスにいると、一人は取り去られ、一人は取り残されるということです。

多くの私達は今“その日”を意識せずに、そんな日などは来ないかのように暮らしています。その様は大洪水が襲ってきて、ノア達がその箱舟にはいる日まで人々が食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたように、私達も何事もないだろうかのごとくに毎日を過ごしていたのと何ら変わりません。しかし、ある日突然、それは不意にやってくると聖書はいいます。だから私達に目を覚ましていなさいというのです。さらに詳しくこの譬を見ていきましょう。まず最初にここに記されている「思慮深い」とはどういうことなのかを見ていきましょう。

思慮深いとは

この譬話には10人のおとめが登場します。そして、そのうちの五人は「思慮の浅い者」とされ、他の五人は「思慮の深い者」だと記されています(英語聖書ではこの思慮深いことをWISE、思慮の浅いことをFOOLISHと書いています)。では、なぜこの10人はそのようにはっきりと区別されているのでしょうか。学力テストの結果なのでしょうか。それは彼女達のIQの問題なのでしょうか。

まず彼女たちに共通することは皆が明かりを持っていたということです。それはランプのようなものだったのでしょう。では何が彼女達の違いだったのでしょうか。この譬から分かりますことは、ただ一つ、それは彼女達が「油を持っていたか否か」ということでした。その違いが彼女達をして「思慮の深い」と「思慮の浅い」という区別となっているのです。たかが油と思いますが、なぜそのことが「思慮深さ」と関係しているのでしょうか。

このところで言われている「油」は、この後、どのような意味をもっていくかといいますと、突然、花婿がやってくる“その時”に明かりを灯し続けるために必要不可欠なものとなっていきます。すなわち、油を持っていなかったということは、その後に必ず起きることを予測して、それに備えなかったということです。聖書ではそのように「必ず起こる事柄について備えている人」のことを賢い人というのです。反対に「必ず起こる事柄について備えていない人」のことを愚かな人といいます。このことを確認するために、もう一箇所聖書を読みましょう。マタイ7章24節‐27節です。

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者を、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そして、その倒れ方はひどいのである。(マタイ7章24節‐27節)

イエス・キリストが生活なされたあの今日のイスラエルとその周辺地域は普段は雨の少ない地域ですが、一度雨が降りますと、それが鉄砲水のように押し寄せてきて、全てのものを押し流してしまうというのです。ですから家を建てる時というのは、そのことがいつかは必ず起こるということを踏まえて、手間はかかっても砂の上ではなくて、岩の上に家を建てる必要があったのです。イエス様はその岩の上に建てる人を賢い人、砂の上に家を建てる人を愚かな人と言っているのです。

言うまでもなく、これはイエス様のイスラエル地域における建築方法の勧めではなくて、私達の生涯には必ず直面する雨、洪水、風というような試練が襲ってくるから、それらに対して、しっかりと予め土台を準備しておくことこそが賢い者の生き方だということです。

皆さん、このように必ず来る日に備えるということは、別の言い方をしますならば、「今が良ければいい」ということだけではなくして、私達が先を見越すこと、もっといいますなら、私達が「自分の生涯全体を神様の視点で見ようとする」ことです。今までの自分の歩みはどんなものであったのか、神様はそんな自分にどう関わってくださっていたのか、そして、これからどのようなことが起こりうるのか、神様は私達にこれから何を願っているのか、そして、そのために今、私がすべきこと、しておくべきことは何なのかということを考えて、実行することです。

多くの子供達はなかなか宿題を始めようとはしません。確かなことは、その宿題にはデッドラインがあるということです。その時は分かっているのですから、時間がある時に早めに終わらせておけばいいのです。しかし、彼らは始めようとしないのです。ですから親達はこう叫びます。

「どうせいつかはやらなければならないんだから早めにやっておきなさい!提出前日の晩10時を過ぎて、ガミガミ怒られながら、眠くなりながらするのと、早めにやってしまって、後は誰からも文句を言われずに自由に遊んでいるのとどっちがいいか?!」(この台詞かつて私自身が母から何百回も聞いた言葉です。遺伝の力はおそろしいものです)。

私の長男が小学校を卒業してミドルスクールに行く前に、小学校の担任教師との面談がありました。その時に先生は息子に「数学はこうしろ」、「サイエンスはこうしろ」と細かい指導はほとんどしませんでした。ただ、これからは「しっかりと計画をたてて実行することを習慣としなさい」とだけアドバイスをしてくれました。計画をたてるとは「その日がくるまでに、いかにその準備をしておくか」ということです。

皆さん、忙しい毎日に追われていると私達は目先のことだけに目が向けられます。過去のことを引きずって、それに縛られて生きることもあります。その時に備えていないがゆえに、漠然たる不安が頭をもたげてきます。そして、何よりも実際にその時が来た時に、私達は唖然と閉じられたドアの前で立ち尽くす以外にありません。

もしかしたら、皆さんの中にはいや、自分が生きている間にはキリストの再臨などというものはないだろうと高をくくっている方もいるかもしれません。だから、準備をしても意味がないかもしれないじゃないか。確かにそうかもしれない。その日、その時は誰も知らないのですから。しかし、その準備が無駄になることはありません。なぜなら、私達は必ず死ぬのですから。死んで主の前に立つのですから、同じことです。その日は必ず来ます。その必ず来る日から逆算して、今どう生きたらいいのかを考えましょう。

ですから、この譬は私達にとって「WAKE UP CALL」になるのです。そうです、やがてイエス・キリストはくる、必ずくる。そのことは分かっている。たとえそうでなくても、私達は必ず死ぬ。だから、今のうちから備えをしなさいと!皆さん、備えはできていますか?二つ目のことをお話ししましょう。

自分の人生に対する責任(救いはおすそ分けできない)。

おとめたちはその夜、皆、眠っていました。確かに、四六時中、起きていることはできません。しかし、その彼女達のもとに遂に花婿一行が来たのです。そして“その時”、油を用意していた五人のおとめは花婿と出て行くことができたのです。しかし“その時”他の五人は油を用意していませんでした。ですから彼女達は油を備えていた女達から分けてもらおうとしたのです。しかし、それはできませんでした。それゆえに彼女達は婚宴の席に入ることができなかったのです。

この油は何を意味しているのでしょうか。「聖霊」とか「キリストにある救い」とか「クリスチャンの生き方」、「クリスチャンの品性」等、色々な解釈があり、それらは全て正しいでしょう。しかし、この場合「あれかこれか」とこの油を限定するのではなくて「キリストが来る時に備えておくべきこと」という広い枠の中で考える必要があります。私達がしばし、それは何なのかと思いめぐらせば、あれもこれもと思い起こされることがあるでしょう。予備の油を準備するとはどのようなクリスチャンライフを送ることなのかということを自分自身に問うのです。そして、忘れてはならないことは、それが何であっても、この油は「私のが足りないから、あなたのを貸してよ」という内容のものではないということです。もっといいますと、これらのことに関して、その油を自ら備えるということは、誰彼ではなく私達自身の責任であるということです。

私達は時に「今の自分がこうなのはあの人のせいだ」「あの学校のせいだ」「会社のせいだ」と心に思うことがあります。もしかしたら、この油が足りなかった女性も後になって、自分が婚宴の席に行けなかったのは、あの女達のせいだ。彼女達が自分に油を分けてくれなかったからだと思うかもしれません。しかし、やはりそれはおかしいのです。彼女達も「その時は来る」ということを知っていたのですから、自分の油は自分で準備しておくべきだったのです。この油は貸し借りできるようなものではないのです。その油を備えておくことは自分の責任なのです。

「責任」という言葉に対して、しり込みする方がいるかもしれません。しかし「責任」が与えられるということは、その人が大人として取り扱われているということであり、その人に自由が与えられることを意味します。この譬に記されている花嫁は、数多くいる自分の友人の中からこの10人を選び、その大任を委ねたのでしょう。この10人の友人なら、自分の大切な婚宴のために、しっかりと助けとなってくれるだろうという期待と共に彼女達は選ばれ、大切な責任が託されたのでしょう。

同じように神様は私達一人一人に対しても「その日」に備えるようにというのです。それが自分の責任だということの自覚なしに、私達は油を備えることはないでしょう。誰かが何とかしてくれると思っている限り、その油を手に入れようとはしないでしょう。

このあたり、聖書はとてもクールに私達に責任を問うているのです。数週間前に見ましたあのラザロと金持ちの譬話を覚えていらっしゃいますか。ルカ16章19節から31節に書かれている譬話です。

金持ちがいました。毎日を贅沢に生きていました。ラザロという貧しい人がいました。彼は住む家なくこの金持ちの玄関口で捨てられるものを食べながら生きていました。この二人が死にました。金持ちは地獄に落ち、ラザロは天国でアブラハムのふところにいました。

火炎の中で苦しむ金持ちはアブラハムに言いました。どうか、自分の五人の兄弟のもとにラザロを送って、こんなところに来るなと伝えてくれと。しかし、アブラハムは言いました。いいや、彼らには既にモーセと預言者の言葉があるだろう。それに聞くがよかろう。

聖書を読みます時に、私達はこのような場面をあちこちに見ます。神様は限りない愛と恵みを等しく私達の上に注いでいてくださいます。しかしながら、それを受け止めて、どのように生きるかということに対しては、神様は私達一人一人に全てを委ねておられるのです。そう、委ねておられるということは、それを私達の責任としておられるということです。

今年、イチロー選手がとてつもない記録を作りました。10年連続200本以上の安打を重ねたという大記録です。今年のシーズン、メジャーリーグで200本以上のヒットを打った選手が何人いたかご存知ですか。たった二人なのです。イチローが214本。そして、もう一人ヤンキースのCanoという選手が打った200本です。どれだけ一シーズンに200本のヒットを打つことが難しいかということが分かります。その200本をコンスタントに10年間続けたというのですから、これは文句なしに称賛に値します。

よく人はイチローを天才だと言います。確かにそうなのかもしれません。しかし、彼をよく知るチームメートやライバル達が口をそろえて言いますことは「彼は万全の準備を怠らず、怪我もせずに試合に出続ける。それは日々の努力の積み重ねだ」と。

そんな彼をあえて天才と呼ぶ分野があるとするならば、彼は「準備の天才」なのです。彼自身こう言っています「要するに準備というのは、言い訳の材料となりうるものを排除していく、そのために考え得るすべてのことをこなしていく、ということです」。イチロー選手は自らが使うグローブやバットに対して誰よりも入念なケアーを自分でするといいます。彼が打てなかったり、エラーした時にグローブやバットを言い訳にしないためです。当然、食事にも日々のトレーニングに関しても自分で十分な備えをしています。それらを言い訳としないためです。誰彼のせいにしないためです。彼に打順が回ってきたら、逃げることはできず、誰かと共にそこに立つことはできず、誰かに変わってもらうこともできず、彼自身が一人、そこに立たないといけないからです。

今日の譬は私達がやがていつか必ず、主の来臨の前に一人で立つ時のことを言っているのです。誰かが私達の変わりに立ってくれるということはないのです。夫と妻、子供と手を繋いでそこに立つのではないのです。そして、皆さん、そのことは来たボールを打つということではないのです。それは、私達の永遠の命に関わることなのです。最後にⅡペテロ3章8節-13節を読みこのメッセージを終えましょう。

愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、全ての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対して長く忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲ってくる。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に作り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみな崩れ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、私達は神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいるⅡペテロ3章8節‐13節)

 

本日のお持ち帰り

2010年10月17日

 

1)マタイ25:1-13を読みましょう。この譬では「花婿」「おとめ」はそれぞれ何を意味していますか。イエス・キリストが再び、この世界に来られることに関して聖書は多くのページを割いています。マタイ24章36節、マタイ24章37節‐42節を読みましょう。あなたは“その日”についてどう思いますか。

 

 

 

 

 

2)この譬において「思慮の深い」、「思慮の浅い」ということは何を指していますか?マタイ7章24節ー27節も参考にして考えてみましょう。

 

 

 

 

 

3)あなたにとってこの譬に記されている「油」とは何ですか。油をあらかじめ備えていた五人のおとめは備えていなかったおとめにそれを分け与えることをしませんでした。このことは何を意味していますか。

 

 

 

 

 

4)聖書はイエス・キリストは必ずこの地に戻ってくると記しています。私達はそのことを信仰によって受け止めています。それでは、その日のために今、あなたは備えをしていますか。その時になってあわてて油を買い求めに出て行ったおとめたちは、その婚宴の部屋に入ることができませんでした。このことは何を暗示していますか。

 

 

 

 

5)Ⅱペテロ3章8節‐13節について感じることを思いめぐらしましょう。誰かと共に学んでいる場合はシェアーし合いましょう。

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください