優先順位が決める私達の人生

2019年、私が深く教えられたことの一つにこの「神こそが主である」ということがあります。「主は自分ではない」ということです。私の人生の主(あるじ)は私ではないのです。

このようなことは本来、最初から肝に銘じておくべきことでした。なぜなら、このことは私達の信仰生活の大前提となることだからです。それではなぜ、神こそが主なのでしょうか?

なぜなら、私は裸で生まれてきたということは否定できない事実であり、また私は裸で死んでいくからです。その始まりに自分がたてた計画や自分の力は全く関与していないのです。この命は100パーセント、神がくださったものです。

さらに言いますと、私は自分の力で一分たりとも生きることができない存在だということです。この命は神がくださったものであり、あと一時間の寿命があるとするのなら、その一時間も神がくださるものです。

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優先順位が決める私達の人生
2020年1月19日

一月の教会カレンダーを見ますと本日の欄に「財政状況説明会」と記されていますが。そこで、礼拝の直後、この一年の教会の財政的な現状について財務委員会のレポートをうかがうことができたらと願っております。

そして、このことに並行して普段、教会ではあまりお話しをしませんが、今日はマラキ書より「優先順位が決める私達の人生」について「献金」ということに今日は着目してみたいと願っております。聖書を拝読させていただきます。

主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。――万軍の主は仰せられる。――しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか。』と言う。8 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――12 すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。(マラキ3章6節―12節)

普通、私達は何の疑いもなく、自分が所持しているものは全て自分のものだと考えています。このことは私達にとりまして「当たり前」のことと思われています。しかし、このことを聖書に照らし合わせますと、その「自分が所有している」と私達が思っているものも、実は全て神様が私達に与えてくださったものであることが分かり、その一部はまず神様に捧げるべきものなのだと聖書は私達に語りかけているのです。

いいえ、それは「捧げる」と言うより、もともと全てが神様のものであるゆえに、それを神様に「お返しする」ということのほうが正しい意味となります。

このマラキ書の冒頭に皆さんは躓くかもしれません。そう、ここには「あなたがたはわたしのものを盗んでいる」と書かれているからです。言うまでもなく誰しも「盗人呼ばわり」などされたありません。果たしてこの言葉は何を意味するのでしょう。

まず、私達が注視すべきことはこのマラキ書の冒頭が「主であるわたしは変わることがない」(マラキ3章6節)という言葉で始まっているということです。この言葉は私達の人生の主(あるじ)は私達ではなく、主なる神なのだということを言い表してます。そして、これはこの箇所に限らず、聖書はこの事実を大前提としています。

2019年、私が深く教えられたことの一つにこの「神こそが主である」ということがあります。「主は自分ではない」ということです。私の人生の主(あるじ)は私ではないのです。

このようなことは本来、最初から肝に銘じておくべきことでした。なぜなら、このことは私達の信仰生活の大前提となることだからです。それではなぜ、神こそが主なのでしょうか?

なぜなら、私は裸で生まれてきたということは否定できない事実であり、また私は裸で死んでいくからです。その始まりに自分がたてた計画や自分の力は全く関与していないのです。この命は100パーセント、神がくださったものです。

さらに言いますと、私は自分の力で一分たりとも生きることができない存在だということです。この命は神がくださったものであり、あと一時間の寿命があるとするのなら、その一時間も神がくださるものです。

私達が今、いるこの土地はサンディエゴ日本人教会の所有する土地です。しかし、そもそも、この土地に限らず、この地球は神が所有しているものです。人は神の造られた地に国境(くにざかい)を敷いて、国土とし、その国土を私有地とし、ある者はそこに家を建て、店を立て商売をし、ある者はそこを耕し、収穫物を得ています。

呼吸をするたびに「この空気に感謝」と思っている人はいません。凍えるような寒い朝を迎えても、太陽がのぼることにより、この世界は温まります。これらのことに感謝している人もいないでしょう。でも、これらのものが一日、失われたら人類は絶滅します。

私達は恩恵により与えられている無数のものに対して心を向けることないばかりか、私達がいつも心に思っていることは私達が失っていくものであり、私達に不足しているものばかりを考えています。さらに申し上げましょう。およそクリスチャンと名乗るものは全て、この御言葉に準するものです。イエス・キリストを主とした者に対してパウロははっきりと書いています。

19あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。20あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい』(コリント第一の手紙6章19節―20節)

そう、私達はもは自分自身のものではない。主イエスがその尊い血潮により私達を買い取られた。そのことを知る者達が残された人生にもつべき目的は明確です。そう、私達を通して主なる神の栄光があらわされることです。

これらのことを知る時に、私達自身も私達が所有しているものも全て私のものではなく、神様が私達にお与えくださったものであるということが分かります。しかし、もし、それら全てをあたかも自分のものとするのなら、それは盗人と同じだとマラキ書は言うのです。そして、それは正しいのです。

このようなことに目が開かれていきますと私達は自分の人生における優先順位というものを考えなければならなくなります。そして、その時に明らかなことは、その優先順位の第一は神であるということなのです。

それまではその第一のところに色々なものがありました。「自分自身」かもしれないし「仕事」かもしれないし、もしかしたら「愛犬」かもしれません。しかし、主なる神を知る時に、そこには「神」がくるのです。

そして、神を第一とする時に、私達がなすべきことの一つに私達が主に捧げさせていただく献金というものがあり、そのことをマラキ書はここに記しているのです。

このマラキ書が言うメッセージは「まず、私を第一としなさい。私があなたに与えている最善のもののうち、その10分の一をまず私に捧げなさいというのです。今日、このことは日本では「月定献金」と呼ばれ、英語では「Tithe」と言います。このことを第一にせよというのです。

そして、このことを私達がさせていただく時にこのような約束の言葉が続きます。10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――12 すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。(マラキ3章6節―12節)

皆さん、神様はこのことをして「私をためしてみよ」と主は言われるのです。このような表現は聖書の他の箇所ではほとんど見受けられません。そして、そのように神を第一として、神からいだだいている全てのうちからの一部分を神様にお返しする時に、神様は天の窓を開いて、あふれんばかりの祝福をあなたがたに注ぐと言われるのです。

さらには「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする」(11)

これは当時の社会が農耕社会であり、ここで言われている十分の一とは、その穀物の収穫の一部であったということを表しています。農業に従事している者にとりまして、その環境というものは彼らがどんなに豊かであっても自分ではどうにもできないものであり、どんなに経費を削減して、人を雇わず、自分達だけで働いて少しでも収入を増やそうとしても、いなごの大群がその田畑におしかけてくれば、そのすべてを失ってしまうということです。主はその人の力のおよばないところに私は手を延ばすというのです。

皆さん、農業ではなくとも、私達もこのような世界に生きていますでしょう。私達の勤労ではおよばない分野がありますでしょう。世界経済の流れや、人と関係する仕事であるのなら、その人の心の移り変わり、これらは私達にはどうすることもできないものです。しかし、主はそのようなところにも私は手を延ばすというのです。

さらに、主はこう言わます。そのようなあなたたちを見て『すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる』(12)と。そう、その幸いは人から見ても明らかだというのです。英語聖書はすごいことを言っているのです「Then All the nations will call you blessed, for yours will be a delightful land, says the Lord Almighty」

今年のECで色々な出会いがありましたが、その中に中林義朗(なかばやしよしろう)という牧師先生との出会いがありました。先生はこの度、奥様とお子さんと共にECに参加しておりました。

かつて先生は中国にある会社の社長で、1000人もの従業員を従えていました。中国でのビジネスでは酒の席は欠かせないようです。連日連夜、政府関係者との接待が繰り返され、酒宴の座に座ります。先生は思ったそうです。このような生活をしていれば、私は何度も離婚を繰り返すことになるだろうと。

そして、その同じ光景を見ていた先生のクリスチャンの奥さんは「このままではこの人は死んでしまうだろう」と案じ、夫のために祈り続け、その祈りと愛によって先生は神様に立ち返り、クリスチャンとなりました。

こうしてクリスチャンとなりました先生は現在、ホノルルでビジネスをしながら牧師もしています。そして、先生には子供が8人もいらっしゃる。日本では少子化と言われていますが、このご時世に8人の子供がいる親はさすがに珍しい。この時代に、8人の子を養うということはどんなに大変なことかと思います。

しかし、先生ご夫妻は主の前に同じ確信に立っていらっしゃる。そして、それを見る私達はそこに「この生き方でいいのだ」という確信と内からあふれてくる喜びを否が応でも認めなければならなくなります。

先生ご夫妻が共有している確信とは何か。それはとてもシンプルなことです。そうです自分の生活の中で為すべき優先順位に従うことだと先生は言い切ります。

かつての先生の人生の優先順位は1)仕事、2)趣味、それ以外は全てパイの外。つまり自分は本当に自己中心だったと言います。その優先順位に生きていた自分に対して先生はこのままでは何度も離婚を繰り返すだろうと思い、その姿を見た奥様は「この人はやがて死んでしまうだろう」と思ったのです。

しかし、先生は聖書に従い、ご自身と家族の優先順位を今、こうしていると言います。1)神、2)夫婦・両親 3)子供・兄弟姉妹 4)健康、5)仕事、6)趣味。

先生はこのことに徹しておられ、それゆえに私は本当に幸せであり、神様は私を豊かに祝福してくださっていると言います。そして、そのことは先生ご夫妻のお顔を拝見していれば納得できるのです。

事はとてもシンプル。神を第一とする。神を第一としていますから、神からいただいたものは、何よりもまず最初に神様にお返しする。この優先順位こそが私達家族が受けている祝福の理由だと先生は断言します。

先生は隠居生活をしているのではなく、今も厳しい世界でビジネスオーナーとしてホノルルでその働きをしている。私達が日々、向き合っていることと同じ現実世界を目の当たりにしていながら、それでも言い切る。神を第一としなさい。これこそが祝福の源だと。

そうしてこう言っています。牧師である自分の仕事のほとんどは人の話を聞くカウンセリングだと。これまで多くの方達の悩みや問題を聞きんがら分かってきていることがあると。

それは問題を抱えて来られる方達の話を聞いていると、その方々のほとんどはこの優先順序がないか、その順位がバラバラであることが多いと・・・。同じ牧師の端くれ、私もこの先生の意見に100パーセント同意します。

皆さん、「神を第一としなさい」というこのようなメッセージは皆さんへの信仰のチャレンジでもあり、語っている私自身もこのことを皆さんに語ると言うことはチャレンジです。

なぜなら、私達は常日頃、「神を第一にする」なんてことは経済も時間も余裕のある人達の話であって、この人生のただ中で必死に生きている私達はそこから除外されているのだと思うからです。なぜなら、それが私達の頭の中にある計算機が導き出す数字だからです。もしかしたら、牧師さんは「本音と建て前を知らないんじゃないですか」と心に思われている方もいるかもしれません。

しかし、もし本当にそうであるのならお聞きしたいのです。聖書のメッセージは経済と時間に余裕のある人を対象に書かれたのでしょうか。

いいえ、とんでもない、神様は私達の生活を知っていながら、それでも私を第一とせよ。私を試みよ。そうするならば、私はあなたが見えないところで進行しかねない諸々の問題を封じ、天の扉を開き、あなたを祝福すると言っているのですよ。

イエス・キリストは飼い葉おけに寝かされたのですよ。すなわち私達と同じ目線で、私達と同じものを見て、それを肌身に感じて生きたのですよ。その主イエスのもとに集まってきた、ある意味、当時、世の中において、明日はどうしようかと考えている者達に向かいイエス様は言われたのです。

『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう』(マタイ6章33節)

私達は神様のことなど一切、眼中なく、とにかく「自分のあれこれ」だけに全てを注いでいる方達をたくさん知っています。それが当たり前の生き方とされていますから。神様にお返しすべきものなど考えず、全てのことを自分のために注いでいる。それはもっとも効率的で、一番、全てのものが手元に残る生き方、そしてついでにそのことゆえに幸いもつかみ取れるように思える生き方なのでしょう。

しかし、そうは頭の中で思っても実際は全く違うと思うのは私だけですか?神を差し置いて、自分に関することだけに集中すればするほど、その人の心のうちに平安とか心の余裕というものを見つけることができず、何のために生きているのだろうかと首をかしげてしまうのは私だけですか。

自分のあれこれだけに集中していますから、他のものはどんどんおろそかになり、そのおろそかにらしているところから色々な問題がふつふつと沸いてきます。そして、その場合の問題のほとんどは夫婦の問題であり、家族の問題なのです。

そうです、自分のあれこれをあまりにも第一として力を注いでいる間に、それよりもはるかに大切なものが放置されてしまうのです。

神は私達を造られたと聖書は記しています。その私達の製作にかかわったお方が、私達が与えられている人生の使い方についても書いています。それが私達の生き方のマニュアルです。人生の取り扱い説明書です。これに従って人生を営んでいくことが最も幸いであるということは明らかなことなのです。

自分の心すらコントロールできない者、自分の都合のいい尺度でこの世界を見ている者が「私が自分の人生はマネージする」とハンドルを握っているから危ないのです。そして、時に私達はクリスチャンになってもこのハンドルを神様に譲らない。「主イエス」とか「主なる神様」と言いますが、主はいつも自分なのです。

先週もお話ししましたが私は今までに「重力に挑戦する人」を見たことがありません。「俺は重力に打ち勝つ」とジャンプしている人などはいない。言うまでもなく生身の人間が重力に勝てるはずがないのです。重力には従うべきです。「遠心力なんかに負けるもんか」と言っても、勝てるはずはない。この法則から自由になろうとするのなら怪我をします。命を失います。

主にある皆さん、神が私達のために定めた法則、優先順位に従うこと、これが最も賢明な人間の生き方です。このことを夫婦で喜んで共有してみてください。何かを二人で決める時に、まず神様を第一としてみてください。まず、神に捧げるべきものを第一に捧げること、このことに徹してみてください。

以前、ホテルに滞在しました時、朝、ロビーに行きますと、とてもいい匂いがしたのです。そう、そのホテルでは朝食においしそうなバフェが用意されているのです。そのホテルの朝食は特別においしいというレビューを思い出しました。宿泊している方達はうまそうに朝ごはんを食べています。

そんな方達を横目で見ながら、私の宿泊代には朝食代は含まれていないから、しょうがないなと何も食べずに過ごしました。そしていざチェックアウトの時、フロントの方に聞かれました。「当ホテルの朝食はお楽しみいただけたでしょうか」。

・・・・「はっ?」「へっ?」・・・「お客様の宿泊には朝食が含まれています」・・・。

さすがに「今からでもいいですか」というわけにもいかず、泣く泣く、チェックアウトしました。

ホテルの朝食なら笑い話。しかし、このことは笑い話ですまない。我々の主権者が提示している生き方にならわなかったことで、失った人、失った時間、失った関係、与えられるはずだった祝福、癒しと回復、喜び、それらの損失を知ったら私達は気を失うことでしょう。

神が備えてくださっていたあのことも、このことも、私は見向きもせずに、ただただ「自分の何か」だけに心が奪われて、そこに集中することこそが最も大事だと思って生きてきた・・・、あぁ、私は何ということをしてしまったのだろう。

万軍の主が、Almighty Godが私達のために天の扉を開こうといつでも備えているのに、そう、「天の扉」ですよ。あなたの車のトランクじゃないのですよ、あなたの冷蔵庫の扉ではないのですよ、「天の扉ですよ、それを主はいつでも開いて、溢れんばかりの祝福を注ごうとというのに、「あぁ、いいです、私はそれには興味がありませんから、今、一生懸命、このトランクの中に、この冷蔵庫の中にあるものをかき集めていますので、ほおっておいてください」と言って、その生涯を終えるのなら・・・。

皆さん、新しい年、神を第一としていきませんか。人を造られたお方を主であるのなら、このお方の法則に我々はしたがえばいいのだ。神を第一とする。全ての供給者にいただいたものをまず最初にお返しする。この優先順位を私達の人生に据えませんか。

この一年、私が主ではない、あちらが主であるということ気がつかせていただいた時、私の心に起きた第一の変化は平安です。年が明けても私が日々、向き合うことは何も変わりませんし、受ける試みが変化したということはありません。

しかし、この「優先順位」に生きているかぎり、私は大丈夫という平安があるのです。私がこれから何かを決めなければならない時もその決断はそんなに複雑ではありません。神を第一とし、それに準するものを大切にしていく。その法則に従っているかぎり、大丈夫。残りの人生をこうして生きていけばいいのだという平安。この平安を私達から奪うものはないのです。

主にある皆さん、年の初めです。過ぎ去った日々は戻りません。しかし、私達の未来はまだ変えられる。肝心なことは、これから私達はどんな人生を送っていくのかということです。

皆さんのこれまでの優先順位を評価する時、あなたはどんな評価をくだしますか。空回りを感じていませんか。虚しさを感じていませんか。こんなに頑張っているのに、もう燃え尽きそうだという方いませんか。

もしかしたら「人生の優先順位」なんてこと、今日、生まれて初めて知ったという方もいるかもしれません。どうですか、これからもこのことなしに行き当たり、ばったり生きていきますか。

もう一度、あなたの優先順位を確認しませんか。神が定めた祝福の方程式は私達の前に明らかになっているのです。はたして、あなたの優先順位はそれに勝るものなのでしょうか?

お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2020年1月19日

1)マラキ3章6節―12節を読みましょう。なぜここには「あなたがはわたしのものを盗んでいる」(8)と書かれているのですか。私達が所有しているもので神様から無償で与えられているものにはどんなものがあるでしょうか。

 

2)私達が人生の主役ではないという考えをあなたは正しいと思いますか。私達の人生の主は誰ですか。このことを知る時に私達の心に起こるべき思いはどんなものでしょうか。

 

3)コリント第一の手紙6章19節―20節は現在のあなたのステイタスについて何を語っていますか。このことを知る私達はどのような人生を送るべきですか。

 

4)神様に「お捧げする」ということは、すなわち「お返しする」ことです。なぜですか。

 

5)マラキ3章6節―12節には神様にお返しする者に対するどんな祝福が書かれていますか。あなたはこの祝福を体験したことがありますか。

 

6)今日、読みましたマラキ書は「豊かな人や暇な人」に向けられて語っているのでしょうか。

 

7)なぜ優先順位は大切だと思いますか。どのような優先順位をもつことが最善だと聖書は言っていますか。私達の生活をこの「優先順位」に照らし合わせて振り返ってみましょう。何か反省点はありますか?

 

 

 

 

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