利他の極み:十字架

先日、NHKの「緊急対談:パンデミックが変える世界 〜海外の知性が語る展望〜」という番組を見ました。その番組ではアメリカの国際政治学者、イアン・ブレマー氏、イスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏、そしてフランスの経済学者、思想家のジャック・アタリ氏がコロナ後の世界をどのように生きるべきかという見解を述べていました。

その中で特に印象的だったのが、ヨーロッパ最高の頭脳を持つと言われるジャック・アタリ氏のインタビューで、氏はパンデミックという深刻な危機に直面した今こそ「他者のために生きる」という人間の本来の姿に立ち返らねばならないと話していました。

このことこそが人類がこれから互いに生きながらえていく鍵であり、利他主義は合理的利己主義なのだとも言っていました。すなわち自分が感染の脅威にさらされないためには、他人の感染を確実に防ぐ必要があり、他国が感染していないことがイコール、自国の利益になるというのです。

アタリ氏がコロナ後の希望として語っていますこの利他主義ですが、実はこのことは神が天地万物を創造された時から自然界にインプットされている揺るぎないシステムなのです・・・。

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利他の極み:十字架
2020年6月28日

先日、NHKの「緊急対談:パンデミックが変える世界 〜海外の知性が語る展望〜」という番組を見ました。その番組ではアメリカの国際政治学者、イアン・ブレマー氏、イスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏、そしてフランスの経済学者、思想家のジャック・アタリ氏がコロナ後の世界をどのように生きるべきかという見解を述べていました。

その中で特に印象的だったのが、ヨーロッパ最高の頭脳を持つと言われるジャック・アタリ氏のインタビューで、氏はパンデミックという深刻な危機に直面した今こそ「他者のために生きる」という人間の本来の姿に立ち返らねばならないと話していました。

このことこそが人類がこれから互いに生きながらえていく鍵であり、利他主義は合理的利己主義なのだとも言っていました。すなわち自分が感染の脅威にさらされないためには、他人の感染を確実に防ぐ必要があり、他国が感染していないことがイコール、自国の利益になるというのです。

アタリ氏がコロナ後の希望として語っていますこの利他主義ですが、実はこのことは神が天地万物を創造された時から自然界にインプットされている揺るぎないシステムなのです。

自然界の生きとし生けるものは利他、すなわち己の命は他の命ためにあるということを前提として神によって創造されています。その始まりから今に至るまで自然界はこの法則に従っています。それゆえにこの地球環境は今日まで保たれているのです。

しかし、己の考えや欲望をもつ人間はこの利他に生きず、それゆえにこの世界はいたるところでほころびが目立っています。今日、環境問題と言われる原因を作り出したのは利己的な人間なのです。

今朝はこのことを心に収めつつ、今からさかのぼること3500年前の出エジプト記に記されている出来事についてお話しします。

先々週、私達は神の力により、カエル、イナゴ、アブ等の異常発生などを含む9つの恐るべき災いがエジプトに起こり、それでもエジプトの王パロはイスラエルの民を解放しようとはしなかったとお話ししました。なぜなら、奴隷であるイスラエルの民を解放することはパロにとって大きな損失だったからです。

彼の頑なさは驚くべきものでありましたが、私達にもその頑なさがあります。もし、そのような心にお気づきの方がおりましたら、そんな方達にイエス様ならこう言われるに違いありません。「あなたはさいわいだ」と。

なぜなら、その時にこの古の出来事はもはや3500年前の出来事ではなく、2020年を生きている私達の心は神に向けられ、その心が変えられていくからです。

さあ、それでは今日はいよいよ10番目の災いがエジプトに起こったということを見ていきす。事の始まりはこのような神様の言葉でした。

1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれない時は、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない(出エジプト記12章1節―7節)。

そして、その晩にこのようなことが起きました。12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない(出エジプト記12章12節―14節)。

神様はエジプトの地の全ての初子、すなわち王座につくであろうパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、果てには全ての家畜の初子にいたるまでも打つという警告をモーセを通してパロに伝えたのです。

しかし、自分の家の鴨居と二本の門柱に子羊の血を塗っている家の初子は過ぎ越されて、打たれることはないという約束をイスラエルの民になされました。

こうしてエジプトの全ての初子たちは神に打たれてしまったのですが、イスラエルの家々の者達は神に示されたとおりにその鴨居と門中に子羊の血を塗りましたので、その災いが過ぎ越され、彼らの初子は守られ、さすがのパロももはやイスラエルの民をエジプトに留めておくことができずに、彼らはエジプトを脱していくのです。

以来、このことを記念してユダヤ人の間では「過ぎ越しの祭り」がもたれるようになりました。今日でもこの過ぎ越しの祭りはユダヤ人にとって、神が先祖たちになして下さった救いを思い起こす大切な時となっており、彼らは今も、その日には定められた食事を家族と共にもっています。

イエス・キリストがこの地におられたのは、この出エジプトの時から約1500年後であり、ユダヤ人として生まれたイエス様ご自身もこの過ぎ越しの祭りを祝いました。そのイエス様にとって、地上での最後の過ぎ越しの祭りはご自身がエルサレムにおいて十字架にかかる時と重なっていました。ルカによる福音書がその時のイエス様の言葉を記録しています。

15イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。16あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。(ルカ22章15節ー16節)。

その時、エルサレム市内の多くの家庭で過ぎ越しの食卓が囲まれていたでしょうが、イエス様はその過ぎ越しの食事を弟子達と共にとることを「切に望んでいた」(15)というのです。イエス様はただ願っていたのではなく、心から望んでいたのです。イエス様は何を望んでいたのでしょうか。イエス様の言葉はこのように続きました。

17そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。18あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。19またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。20食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」(ルカ22章17節ー20節)。

その席でイエス様はぶどう酒の入った杯を取り、感謝して言われました。「これを取って、互いに分けて飲みなさい」(17)。またパンを取り、感謝してこれを割き、弟子たちに言われました「これは、あなたがたのために与える私のからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」(19)。食事の後、杯も同じようにして言われました「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」 (20)。

先にもお話しましたように、はるか昔、イスラエルの民は家の鴨居と門柱に塗られた子羊の血により救いを得たのです。つまり、彼らの救いのためには、子羊の血が流され、その命が捧げられました。

このところでイエス様が語られたのは、この晩餐の直後に自分が十字架にかかるということはどういうことなのかということでした。出エジプトの時にイスラエルの民が救われるために流されたのは子羊の血でした。新約聖書においてバプテスマのヨハネはこのことを悟り、イエス・キリストを指してこう呼びました「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1章29節)。

イエス・キリストが十字架におかかりになる時、その時が過ぎ越しの祭りの時期と重なっていたというのは偶然ではなくて、明らかに「出エジプト記の過ぎ越しにおいて屠られた小羊の血」は「神の子羊なるイエス・キリストが十字架で流された血」の予型となっていたのです。そこには神のご計画と意図がありました。

そうです、かつてあのイスラエルの民の命が鴨居に塗られた子羊の血によって救われたように、私達も私達の罪の身代わりのために、ご自身の命を捧げられたイエス・キリストによって救われるのです。
主にある皆さん、そのエルサレムでの最後の晩餐の席で弟子達が何を話していたがご存知ですか。ルカ22章24節、『それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った』

この数時間後にイエス様は十字架にかけられる。それまで三年半、イエス様はこの弟子達にご自身の姿を通して、言葉を通して、教え諭してきました。そして、いよいよその時が終わろうとしている(弟子達はそのことを知りませんが、イエス様は知っていました)。

そのような時に三年半の集大成と言えるような言動を弟子達に見ることができたら、イエス様はどんなに喜ばれたことでしょう。しかし、彼らの言動は「これまでの三年半はいったい何だったのだろうか」と思わざるをえないものでした。

この時、弟子達は自分が一番だと考え、他者は自分に劣ると考えていました。

また、イエス様はその晩餐の席で自分を裏切る者がこの中にいると、こう指摘しました特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている』マタイ26章21節)。そうです、この人とは12弟子の一人、イスカリオテのユダのことで、彼はこの後、イエス様を銀貨30枚で売り渡すのです。

この時、ユダは自分の将来のことだけを考え、他者のことは何も考えてはいませんでした。

また、この晩餐の席で12弟子のペテロはこう言います『主よ、わたしは御国でも、また死にいたるまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です』(ルカ22章33節)

しかし、この勇ましい言葉に対してイエス様は言われますペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』(ルカ22章33節―34節)。

ペテロは死んでまでもイエス様に従うと言いましたのに、イエス様は彼の忠誠心は試みに耐えることができないだろうと予め話し、まさしくこの数時間後にイエス様の言われた通りになったのです。

その時、ペテロは自分の身を守ることだけを考え、イエス様のことを考えることができませんでした。

そのようなことが交わされた晩餐の席でイエス様はぶどう酒を注ぎ、パンを割いたのです。イエス様がそれらの事を通して弟子達に伝えようとされたことは、彼らのため、否我々のためにご自身を捧げるということだったのです。

このことが起きた時について使徒パウロはコリント第一の手紙で「主イエスは渡される夜」(コリント第一の手紙11章23節)と記しており、英語の聖書はこの箇所を「主イエスは裏切られた夜・・・」と書いています。

そう、自分が弟子たちに裏切られた、すなわち、弟子達が皆、自分のことだけを考えて逃げていった夜、イエスはパンをさき、ブドウ酒を分け与え、自らの十字架による愛を弟子たちに告げ知らせたのです。

信仰があるないにかかわらず、先にお話ししたアタリ氏の言葉こそが確かにこれからの世界を保つために必要な生き方なのだということに賛同する人達はたくさんいます。

人間として、心のどこかにそのことに賛同するものを私達は持っているようです。きっと神がそのような思いを私達の心に予めインプットしてくださっているのでしょう。

それでは、私達が「これが生きる道」と考える、その利他の生き方をこれから選び、そこに生きようとする時に私達の前にその模範となるなる方は誰なのでしょうか。

それはイエス・キリストを他にしておりません。このイエス・キリストは自分の命を捧げたお方であり、驚くべきことは、その彼の愛は彼を裏切る者達、彼を十字架にかける者達にも向けられた愛であったのですから。

私たちにとって自分によくしてくれる人を好んだり、愛することはたやすいことです。害なく、悩まされず、益をもたらしてくれる人を受け入れることもたやすいことでしょう。

私達がしばしば使います「I love you」とか「I like you」という言葉はこのような人達に向かって語られます。この言葉は私達がその人の内に、その人を好きになる、愛するに値するものを見出した時に発せられる言葉です。

人間的に考えたら、私たちの側にはイエス様に愛されるべき要素はないのです。すなわちイエス様に愛されるために値することを私達は何もしていないのです。神の愛は私達の功績に報いたり、見返りを与えるための愛ではありません。それは人間的な尺度や理解を超えた無条件の愛なのです。

いよいよこの十字架が間近に迫りました時にイエス様はその時が来たことをよくよく理解してこう言われました。

23「人の子が栄光を受ける時がきた。24よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。25自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう(ヨハネ12章23節―25節)。

イエス様はここで「ご自身が十字架にかかる時」を「栄光を受ける時」と言われました。誰が極刑である十字架にかかる時を「栄光の時」と呼びましょうか。しかし、イエス様はそう呼んだ。なぜなら、その十字架により我々が新しい命を得、救われるからです。一粒の麦が地に落ちて、そこからおびただしい数の新しい命が生まれるからです。

以前、日本に行きました時に、ニガウリの種を買ってきました。その種は封を開けられないまま、今ものガレージの引き出しの中にあります。

私達は知っています。その種がガレージの引き出しの中で芽を出し、私達がニガウリを収穫することは決してないと。そうです、その種は地に落ちて、その種を新芽が突き破って、すなわちその種が死ななければ、芽は出ず、また収穫はないのです。その種は地に落ちて死ななければ、一粒のままなのです。

しかし、それが地に落ちて死ぬのなら、新しい命が生まれます。これが神が定めた自然界の法則であり、この法則は私達の間にも有効なのです。そして、その極みがイエス・キリストの十字架だったのです。

先に申し上げましたように自然界はその始まりから変わることなく、この法則に従い生きています。恥ずかしいことながら、その営みの邪魔をしているのは我々人間です。その悪影響は自然環境のみならず、私達、互いの関係にも深刻な問題を日夜、生み出しているのです。

自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう』(ヨハネ12章25節)。

不思議なもので、我々が試みを受ける時に、神のメッセージは私達に身近なものとなります。今、コロナ・ウイルスというこの試練を通して、私達に語りかけられている聖書のメッセージに我々の心の目が向こうとしています。

自分さえよければと生きるのなら、そのことにより他者は苦しみ、ひいてはその苦しみは私達にもおよんできます。自分の国のことだけを考えているのなら、私達はやがて自分の国に大きな損害を受け、それを失ってしまいます。

しかし、もし私達が自らを他者のために、他国のために差し出すのならその人自身もその国も、そして他者も他国も生きるのです。

ここまでお話ししてきたことにより、アタリ氏が提言していることは、古の昔から聖書が私達に語りかけていることなのです。人はこれまで色々な愚行を繰り返してきましたが、

今、はたと立ち止まり、我々人間が立ち返るべきところはどこなのかと私達が自らに問う時に、その答えは2000年来、私達の手元にありますこの聖書の中に既に記されていたことなのです。

アタリ氏は最期にこんな印象的なことも言っていました。「楽観主義(オプティミズム)とポジティビズムは違う」。

スポーツの試合を観客として見ていて、「自分の好きなチームが勝ってくれるだろう」と考えるのがオプティミズム、楽観主義。自分が試合に参加して「いいプレイができれば勝てるだろう」と考えるのがポジティズムだそうです。

私達が世界を傍観して「何とかなるだろう」と考えるのが楽観主義、それに対して「私達が自分の置かれている場において一粒の麦として地に落ち、そのことゆえにこの世界はこれからも保たれていくだろう」と信じ、そのことに生き始めるのなら、それは我々にとってポジティブなことになるのです。

一粒の麦として、この地に落ちて私達のために死なれた主イエスから目を離さず、私達がそれぞれ今、置かれている場所で私達一人一人がなり得る一粒の麦となるのなら、私達は今、世界が直面している難局を持ち返すことができるという、主イエス・キリストにある前を向いた信仰と共に私達はこれからも生きていくのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2020年6月28日

1)フランスの経済学者ジャック・アタリ氏はこれからの時代は「他者のために生きる」ということに立ち返らなければならないと言いました。あなたは氏の考えをどう思いますか。なぜ、氏はこのことを指摘しているのでしょうか。

 

2)私達が自然界を見る時に、そこにどんな神様の法則を見ますか。その自然界に置かれている私達人間はその神の法則に従っていますか?そのことゆえに何が起きていますか。

 

3)3500年前、過ぎ越しの晩に起きたことを記念する祭りの最中にイエス様は弟子達と最後の晩餐をもち、十字架につかれました。その時が過ぎ越しの祭りであったことは偶然ですか。そこにはどんな意味がありましたか。

 

4)ルカ22章17節ー20節を読みましょう。イエス様が「杯を取り、互いに分けて飲め」と言われたこと、「パンを取り、感謝してこれをさき、弟子達に与えた」ということからあなたが思い浮かべる光景は何ですか。

 

5)最後の晩餐の席で弟子達がしていたことは何ですか(ルカ22:24)。イスカリオテのユダ(マタイ26:21)、ペテロの心の中にあった思いは何ですか(ルカ22:33―34)。これらの思いが私達の心にもありますか?

 

6)「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう(ヨハネ12章23節―25節)というイエス様の言葉は私達に何を語りかけますか。あなたはこの言葉が真理だと思いますか。私達の日常生活で、どのようにしたらこの御言葉にならった生き方ができますか。具体的に説明してください。


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