十分の一が意味すること

「ありがとう」とか「感謝」を意味する「THANK」という英語を見ていますと、ある言葉を思い浮かべます。そうです、それは「THINK」です。実は「THANK」とは「THINK」から派生して生まれた言葉だそうです。すなわち感謝するということは、考えなければ生まれないものなのです。感謝はしっかり考えなければ生まれてこないものなのです。

注:今週は大倉牧師が訪日中のために予め録画したメッセージをお届けしています。

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十分の一が意味すること
2019年11月24日

サンクスギビングディーの週となりました。今週はアメリカにとりまして特別な週です。日本では正月はとても大切な日とされますが、アメリカではさほど大切ではないように見受けられます。日本ではクリスマスは祝日ではなく、皆、普通に会社に出勤しますが、こちらでは一部例外を除いて働く人はいません。

アメリカではクリスマスは特別な日です。そして、同時にその一月前のサンクスギビングディーも特別な日です。この二つの日にはどちらも神が関連しています。クリスマスは神の一人子イエス・キリストの誕生をお祝いする日です。

サンクスギビングディーの由来は説明するまでもなく、皆さんご存知かと思います。そう、この日の中心は神に対する感謝にあります。それゆえ、私達も今朝、聖書の中から神様に対する感謝について考えてみましょう。ルカ17章11節から19節までを拝読させていただきます。

イエスはエルサレムへ行かれる時、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病の人達に出会われたが、彼らは遠くの方で立ち止まり、声を張り上げて「イエス様、わたしたちをあわれんでください」と言った。イエスは彼らをご覧になって「祭司たちのところへ行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。そのうちの一人は自分が癒されたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリア人であった。イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。それから、その人に言われた「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」(ルカ17章11節―19節)。

この箇所を読みます時にルカはイエス様が「サマリヤとガリラヤの間を通られた」と書いております。なぜ彼はあえてそのようなことを書いたのでしょうか。実はこのサマリヤとガリラヤというのは特別な関係を持つ地域であり、このことはこの出来事の大切なポイントとなるのです。

サマリアはかつて北イスラエルの首都でしたが、紀元前721年にアッシリアによって北イスラエルが滅ぼされると、そこにはアッシリア人が移り住むようになります。そして、この時に既にその土地に住んでいたユダヤ人と移住してきたアッシリア人の間に生まれた者達をサマリア人と呼ぶようになりました。

民族の血の純粋さというものを何よりも大切にするユダヤ人にサマリア人はその血を汚した者達とされ、迫害を受け、さらに彼らがアッシリアの宗教と混同した宗教をもつようになり、ますますユダヤ人とサマリア人の間の溝は深くなり、互いに反目し合うようになりました。

そのようなユダヤ人とサマリア人の住む地域の間をイエス様が通るということは、ある意味、とても緊張を伴うものであり、そのような時にある村でイエス様は10人の重い皮膚病の人達に出会われたというのです。

聖書中に出てくるこの病気は当時、汚れたものとされていました。レビ記 13章45節-46節には「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」と書かれており、これを読む限り彼らは当然、普通の社会生活を送ることができずに、人里離れてその生涯を送らなければならなかったのです。彼らがイエスに近づかずに遠くに立ち止まって叫んでいたというのもこの理由によります。

そして、この箇所のイエス様の言動を読むときに、この10人の者達の中には明らかにユダヤ人と共にサマリア人がいたと思われます。

民族的、宗教的な反目に生き、互いに全く交流をもたなかったユダヤ人とサマリア人ですが、その彼らも互いの身に同じ病いを負っているゆえに共同生活をしていたようです。

今、世界には深刻な宗教や民族問題があり、時に互いの争いが絶えません。しかし、イスラム教徒もキリスト教徒も病気になれば皆、同じ。アメリカ人もイラン人も子供が生まれたり、人が亡くなったりする時にもつ感情は皆、同じなのです。そこに違いはありません。

この共通点を抱えて彼らは行動を共にしていたのです。そして、声を張り上げて言ったのです「イエス様、わたしたちをあわれんでください」。

この出来事よりも前に起きたであろうルカ伝(5章12節以降)にはイエス様が既に重い皮膚病をもった人を癒したと記していますから、彼らはそんなことも聞いていたのでしょう。

もしイエス様が彼らの前を素通りしたら、自分達はこのままその病を背負って人生を送り続けることになるだろう。そう思った彼らは、まさしく千載一遇のチャンス、彼らがボソボソとイエス様を呼び求めることはなく、彼らはありったけの声を張り上げたのです。

10人が声を張り上げたのですから、その声がイエス様の耳に届かないということはないでしょう、聖書によりますと、イエス様は彼らをご覧になって「祭司たちのところへ行って、からだを見せなさい」と言われたと記されています。

当時、人の体にあらわれる皮膚病が癒されたように見受けられる時は祭司の所に赴き、彼らからお墨付きをいただく必要があったからです。それにより、彼らは普通の社会生活に戻ることができたのです。

そして、その祭司のところに向かう途中で10人の病は癒されたというのです。この辺り、どんなことが起きたのかを聖書は記していません。この出来事を記録したルカは医者でした。医者がこのようなあり得ないことを書くはずはありません。

しかし、彼はこのことを書き記しました。なぜか?理由は一つしかありません。それが実際に起きた出来事だからです。およそ医者が理解できないことであってもそれが正真正銘の事実であるなら医者でもその出来事を書き記すのです。

彼らはどんなに喜んだことでしょうか。彼らの病とはまさしく彼らにとって「これさえなければ」というものだったのです。

その「これさえなければ」が目的の場所に向かう途中で癒されたのです。もう彼らは自分は皮膚病を負っているものだと叫ぶ必要がなくなり、人ごみの中にも入っていくことが出来るし、家族との生活も取り戻せるようになったのです。

この10人にとって、その出来事はおそらくその生涯で最も忘れられない喜びの瞬間であったに違いありません・・・。

しかし、その時にイエスのもとに帰ってきたのは、一人のサマリア人だけだったと聖書は記録しています。その人は大声で神をほめたたえながらイエスのもとに帰ってきて、イエス様の足もとにひれ伏して感謝しました。

皆さん、私達はこのところから大切なことを学びます。彼らは皆、人生最大の喜びにあずかったのです。それは彼らの努力によらず、全くイエス・キリストの力によったのです。イエス様の力添えなくして、彼らの長年の願いは決して叶うことはなかったのです。

しかし、彼らはその後、イエスに対する感謝を忘れ、たった一人だけがイエスのもとに帰ってきたのです。人生最大の願いをかなえていただいた日、そのことを感謝した者の割合は10分の一であったということ。私達はこのことを心に手を置いて、私達にこう問いかけるべきです。「お前はどうなのか?」

イエス様を見た時に彼らは自分の体を癒して欲しいと願い「声を張り上げたのです」(13)。

私達も何かを求める時には声をあげます。「祈ってください」と声をあげ、祈祷課題として兄弟姉妹にも祈っていただきます。涙を流しながら、時には断食までもして神様に祈り願います。しかし、その祈りがきかれた時はいかがでしょうか。

かのサマリア人は「大声をあげて」(15)イエスのもとに帰ってきたのです。大声をあげて願ったのですから、その願いがかなったのなら、その時よりも大声をあげて感謝を言い表すべきではないでしょうか。

「ありがとう」とか「感謝」を意味する「THANK」という英語を見ていますと、ある言葉を思い浮かべます。そうです、それは「THINK」です。実は「THANK」とは「THINK」から派生して生まれた言葉だそうです。すなわち感謝するということは、考えなければ生まれないものなのです。感謝はしっかり考えなければ生まれてこないものなのです。

このことをヨハネはヨハネ第一の手紙3章1節に記しています「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。 わたしたちは、すでに神の子なのである」。

私達、クリスチャンが感謝すべき最高のことは私達が神の子とされたことです。そして、そのためにどんなに大きな神の愛を受けたかということ、すなわち、そのためにイエス・キリストがその命を捧げてくださったということ、それが「どんなに大きなことなのか」、それは誰かではない、私達が考えるべきことなのです。

ただ「考える」のではなくて、「よく考えてみる」ことなのです。よく考えなければ、私達はイエス・キリストが私達のために成されたその命の犠牲すらもわすれ、その前を知らぬ顔で素通りしてしまう者だからです。

十人中、九人がイエス様の前を素通りしたのですから、その割合は九割にもおよぶのですから、私達も神様が私達に成してくださったことなど考えもせず、それゆえに感謝することなど生きていても何らおかしくないのです・・・。

ところで皆さん、なぜサマリア人だけがイエスのもとに帰ってきたのでしょうか。彼だけが神から自分がどんなに大きな愛を受けたかということを知っていたからです。そのことを彼はよく考えていたからです。

先に述べましたように彼はユダヤ人とは異なる民族です。当時の背景で考えるならば神様の恵みから除外されていた人達です。ですから自らユダヤ人でありましたイエス様にとりましても本来、彼をユダヤ人とは区別して取り扱ってもよかったのです。

10人の者達に混じっているサマリア人である彼の姿を、もしイエス様が見つけたとしたら「ああ、あなたはサマリア人だから、私の恵みの外にいるからだめだよ」と言われても彼は仕方のない人だったのです。

そのような意味で彼はドキドキして祭司の住む方角へと歩み出したのではないかと思います。後ろからイエス様の声がかかり、「あ、ちょっと待って、あなたは違う、あなたはサマリア人ではないからだめ、だめ」と言われるのではないかと。しかし、彼の名が呼ばれることはなく、彼も他の九人と共に祭司のもとへ向かう途中で癒されたのです。

彼は道中、思っていたかもしれない「私はダメなのではないだろうか」。そんなことを考えつつ、道を進んでいて、ふと自分の手足を見ると見慣れた自分の皮膚病が全く癒されている!ざらざらしている、粉を吹いて膿んでいるような自分の肌が赤子の肌のようになめらかになっている!

彼はその時、考えたに違いない「私はサマリア人であるにもかかわらず、神はそんな私の病をも癒してくれた。なんと大きな神の愛とあわれみを私はいただいたことだろう!」。

どんなに彼は嬉しかったことでしょうか!ですから、彼は祭司に見せに行く途中なのに、その道を引き返してイエス様の元に大声で神様をほめたたえて一目散にイエスのもとへと戻り、その前にひれ伏したのです。

彼は自分がどんな人間であるかをよく知っており、そんな自分に注がれた神の恵みを素通りすることはできなかったのです。

そんな彼を見てイエス様は言われました。「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」(19節)。

ここでイエス様が言われた信仰とは、その前にイエスが十人の者達に向かい「祭司のもとに言って、その体を見せなさい」と言って、それに対して彼らが祭司のもとへと向かったという信仰だけではありません。

それも信仰ですが、このサマリア人がまことに神は私の病をいやしてくれたのだと、その神の愛に感激して、祭司のもとにも、自分の家族のもとにも行かず、まずその感謝の思いを言い表すためにイエス様のもとに引きかえしてきた、そのことも信仰なのです。

その彼に向かいイエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われたのです。この言葉は彼の肉体が救われたということだけではなくて、その時に彼の魂も救われたということなのです。

信仰とは「私のこの問題は解決される」と信じることだけではないのです。しかしながら私達の信仰はこのようなことだけに強く向けられます。しかし、神がこの問題を解決してくださったことを感謝すること、これも私達の信仰なのです。

他の九人も確かに肉体の癒しを受けました。しかし、このサマリア人はイエスのもとに感謝をするために戻ることにより、魂の救いをも受けたのです。そして、彼が受けた魂の救いというのは、先の肉体のいやしとは比較にならないほどに価値あるものなのです。

イエス様は帰ってきたサマリア人を見てこう言いました「きよめられたのは十人ではなかったか。他の9人はどこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたのは、この他国人の他にはいないのか」(17,18)。

このイエス様の言葉を見る時に私達はイエス様が他の九人も神をほめたたえるために帰ってくることを期待していたことがうかがい知れます。このところから神様は私達に対して神様がなしてくださったことを心から感謝することを、それゆえに主の御名を大声でほめたたえることを期待し、喜んでくださるということが分かります。

そして、私達が主への感謝と喜びをもって、主をほめたたえる時に、このサマリア人が肉体の癒しから、魂への救いへとさらに大きなお恵みを神様からいただいたように、神様はさらに私達に祝福を与えてくださるお方なのです。

いかがでしょうか、今年のサンクスギビングディーを迎えるにあたり、私達はもう一度、神様が自分に対して、どんなに大きな恵みを注いでいてくださっているのかをよく考えようではありませんか。そして、そのことに対して感謝しようではありませんか。

困っている時だけ、必要な時だけ「あなたを信じます」と声を張りあげるのではなくて、その願いに応えてくださった神様にも声をあげて感謝しようではありませんか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年11月24日

1)ルカ17章11節-19節を読みましょう。この箇所はあなたに何を語りかけてきますか。

 

2)重い皮膚病にかかっていた人達はどんな日常生活を送っていたと想像できますか。レビ記13章45節-46節を読みましょう。

 

3)この10日の中にはユダヤ人もサマリア人もいたことがうかがい知れます。なぜこの二つの民族は共にいることができたのですか。

 

4)なぜ、彼らは声を張り上げてイエス様にあわれみを求めたのですか。

 

5)彼らにとりましてこの重い皮膚病が癒されたことは何を意味しましたか。それは彼らにとって小さなことでしたか。

 

6)なぜサマリア人は「大声をあげて」イエス様のもとに帰ってきたのですか。

 

7)イエス様のもとに感謝を言い表すために戻ってきた人は10人中1人でした。これはあなたにとって驚きですか。10パーセントという数字は何を示していますか。

 

8)戻ってきたサマリア人に対してイエス様は「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」(19節)と言われました。この時にサマリア人は何から救われたのですか。

 

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