嘘のない人生を生きたい

「半沢直樹」というドラマが最近、日本で放映され、話題となり、最終回の平均視聴率が30%を超えました。数週遅れですが、こちらでも観ることができますので、興味深く、観させてもらいました。この度のシリーズでは日本国政府の幹事長にまでおよんだ不正に一介の銀行員である主人公、半沢直樹が踏み込んでいくのです。

このドラマで半沢直樹が何をしているかといいますと、一言で言いますのなら、彼は銀行や政府がなしている嘘偽りに向き合い、それを明らかにすることに体を張って、奔走しているのです。

一つの罪が別の嘘を生み、また別の罪を生み、嘘が加わる、そのようなドロドロとした人間に対して、半沢は相手がどんなに地位や権力を持っている人であっても、真実を語ります。しかし、相手はそれを受け入れずに、ごまかし、開き直り、さらには半沢に襲いかかろうとします。彼の息の根を止めようとします。

このドラマは人間の罪、嘘に対して、それを改め、誠実に心を入れ替えて歩みださなければならないと主張する者と、それを隠し通し、不正によって得た自らの地位と財を守り続けようとする者達のせめぎ合いのドラマなのです。

かつて聖書の中にも半沢直樹のような人がいました。このドラマのモチーフは聖書の中に既にあったのです・・・。

「あなたの隣人について、偽証してはならない」(出エジプト記20章16節)

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嘘のない人生を生きたい
2020年10月18日

イスラエルの二代目の王にダビデという人がいました。彼は神の前に真実に生き、イスラエルの歴代の王の中で最も神に愛され、民から尊敬された王でした。ダビデは聖書の中でもキーパーソンの一人で、牧師達は彼の生涯と彼の詩篇の言葉を説教壇から今も語り続けています。

しかし、このダビデにも問題がありました。たとえ私達が「偉大な王」と呼んでも、神の前に彼は「一人の人間」、その地位ゆえに、その過ちが見逃されることはありません。サムエル記下11章はある出来事を記録しています。

ある夕暮れ、昼寝から目覚めたダビデはエルサレムの宮殿のバルコニーに出てきました。この頃のイスラエルは全国を平定し、周囲の国々にも一目置かれ、戦も連勝が続き、彼自ら戦闘の指揮を執るまでもなく、戦いを部下に任せ、自分はエルサレムの王宮に留まっていたのです。

そんな彼がバルコニーから眼下に自分の街を見下ろしましたところ、一人の女が水を浴びているのが見えました。その姿に心が惹かれたダビデは彼女を宮殿に呼び、その後、彼女はダビデの子を身ごもります。ここに彼の最初の罪が生まれました。

彼女が自分の部下、軍人ウリヤの妻だということを知ったダビデは、戦場にいるウリヤをエルサレムに呼び、彼のはたらきをねぎらい、家に帰り、ゆっくり休んで妻と時を過ごすように勧めます。まだDNA鑑定などない時代、彼が家に帰り、妻と共に過ごすことにより、自分の子をウリヤの子としようとしたのです。

しかし、ウリヤはダビデの姑息な策略よりもはるかに立派な男でした。ウリヤは戦場で仲間が戦っているのに、どうして妻と共に過ごせるだろうかと家に帰らず、部下と共に城門で眠り、妻に触れることなく、戦場に戻ったのです。

ダビデは自分の策略がうまくいかなかったことを知ると、ウリヤを意図的に戦いが激しい最前線に送り出しました。そこで、ウリヤは死に、ダビデは未亡人となったバテシバを妻として迎え入れたのです。一国の王が成したこと、本来ならこのことは何事もなかったかのようにもみ消されたことでしょう。

しかし、このダビデがしたことは神が人に与えた十戒のうち、四つの罪に抵触しました。第八戒「姦淫するな」、第七戒「殺すな」、来週、見ていきます10番目の戒め「隣人の妻を欲しがるな」、そして、今日、見ていきます九つ目の戒め、あなたの隣人について、偽証してはならない(出エジプト記20章16節)です。

ここから私達は罪なるものが、まるで連鎖する鎖のごとく、次々と増え広がっていく様を見ます。そして、ダビデがなした「偽り、すなわち嘘」は、これらの罪を一つ一つ、つなぎとめる「つなぎ目」となりました。

ここに記されていることは「嘘」が生まれる土壌には、まずその前に「罪」があるということを明らかにしています。その罪を隠そうとして、嘘が語られ、また次の罪が生まれ、また嘘が語られます。こうして罪と嘘は結びつき、増え広がります。

「半沢直樹」というドラマが最近、日本で放映され、話題となり、平均視聴率が30%を超えました。数週遅れですが、こちらでも観ることができますので、興味深く、観させてもらいました。この度のシリーズでは日本国政府の幹事長にまでおよんだ不正に一介の銀行員である主人公、半沢直樹が踏み込んでいくのです。

このドラマで半沢直樹が何をしているかといいますと、一言で言いますのなら、彼は銀行や政府がなしている嘘偽りに向き合い、それを明らかにすることに体を張って、奔走しているのです。

一つの罪が別の嘘を生み、また別の罪を生み、嘘が加わる、そのようなドロドロとした人間に対して、半沢は相手がどんなに地位や権力を持っている人であっても、真実を語ります。しかし、相手はそれを受け入れずに、ごまかし、開き直り、さらには半沢に襲いかかろうとします。彼の息の根を止めようとします。

このドラマは人間の罪、嘘に対して、それを改め、誠実に心を入れ替えて歩みださなければならないと主張する者と、それを隠し通し、不正によって得た自らの地位と財を守り続けようとする者達のせめぎ合いのドラマなのです。

かつて聖書の中にも半沢直樹のような人がいました。先ほどのイスラエルの王、ダビデが、その権力と嘘を用いて、自分が犯した罪をもみ消そうとした彼の前に立ったナタンです。ナタンはダビデの部下でありながら、ダビデの前に立ち、彼がしたことを告発するのです。ナタンはまずダビデを前にこのようなことを話します。

「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。2 富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、3 貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。4 時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」(Ⅱサムエル12章1節ー4節)。

ダビデはこの話しに激怒し、ナタンに言います。「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」(Ⅱサムエル12章5節‐6節)。

最高の視聴率を得た現代のドラマのモチーフは聖書の中に既にありました。「半沢直樹」の決め台詞は「倍返しだ!」ですが、主からダビデのもとに遣わされたナタンはダビデの言葉を聞き、声を大にして言うのです「あなたがその人です」(Ⅱサムエル12章7)。

ドラマの中では、半沢の偽りのない告発に対して銀行の経営者、政府関係者はえげつない抵抗をし、半沢を落とし込めようとします。ダビデはイスラエルの最高権威者であり、自分がした過ちなどは自分の権威でいくらでももみ消すことができるような立場にあり、ナタンの告発に対して、ナタンを処罰することもできました。しかし、彼はナタンの言葉を受け、砕かれてすぐに神の前に「わたしは主に罪を犯しました」(Ⅱサムエル12章13節)と自らの罪を認め、悔い改めたのです。

多くの人は自らの嘘に開き直り、言い逃れ、時には逆に告発者を攻撃します。しかし、ダビデは違いました。ダビデは確かに国のトップでありますが、彼は自分の上に真の権威者がいるということを知っていたからです。しかし、彼の罪と、それを隠そうとする嘘は既に多くの人を傷つけ、その関係を壊し、その命を奪いました。

ダビデはバテシバと不倫をすることにより、夫婦関係が壊され、夫ウリヤは殺されます。この間、ダビデの口からは嘘偽りが語られました。言うまでもなくウリヤにも親兄弟がいたことでしょう。友人がいたことでしょう。彼らはウリヤの死により多くの痛みを負います。

きっとダビデの側近の中にはダビデがしていることを知っていた、感じ取っていた者達もいたことでしょう。しかし、彼らはその罪を口にする勇気と覚悟がありません。ダビデの嘘は宮殿の中に不信感を生み出したことでしょう。ダビデの罪、そして、彼の嘘は多くの人達の心に暗い影を落としたのです。

箴言の言葉にこんなものがあります。「主の憎まれるものが6つある。否、その心に忌み嫌われるものが7つある。高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである」(箴言6章16節―19節)

この主が憎まれる7つの事柄の内、二つが「偽り」について触れているのです。つまり偽りは主が最も憎まれることだということです。なぜなら、嘘、偽りは神が愛される人間を破壊する力を持っているからです。

この箴言に書かれている主が憎まれ、忌み嫌われる「偽りを言う舌」「偽りをのべる証人」という言葉には共通点があります。そうです、それらは私達の口から出る言葉によってなされるのです。嘘という漢字は口に虚しいと書くのです。

ヤコブはこれらの偽りの言葉は私達の口から出る「」であると言い、「ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか」(ヤコブ3章5節)と言いました。マッチ一本の火により、何千エーカーの山火事が起こります。火の力というのはそのようなものです。私達の嘘が炎上し、全てを焼き尽くしてしまうことがあるのです。

それでは、私たちはどう生きたらいいのでしょうか。エペソ書4章にはそのための手がかりになる御言葉が書かれています。「こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して真実を語りなさい。私たちはお互い肢体なのであるから」(エペソ4章25節)。

私達は嘘、偽りを捨てるべきだ。嘘によって罪と罪をつなぎ留めずに、それをきっぱりと切り離すべきだ。そのために真実を語りあうべきだ。私達は互いにキリストの体の一部であり、その体の一器官が嘘により傷み始めると、その傷みはやがて全身に及び、全身が病んでいく。エペソ書はさらにこう続けます。

悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるために役立つような言葉を語って、聞いている者の益となるようにしなさい。神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである」(エペソ4章29節-30節)

聖書は言います。「あなたがたは人の徳を高める言葉、聞いている者にとって益となるべき言葉を語るべきだ。嘘、偽りを語ることにより悲しんでいる聖霊様がおられることを決して忘れてはならない。あなた達は聖霊の証印を押された者ではないか。もう既に神の子とされているではないか」。

先のダビデの一連の出来事が語られた後のⅡサムエル11章の最後は「ダビデがしたこの事は主を怒らせた」(Ⅱサムエル11章27節)という言葉で終わっています。今、主が憎まれることの七つの内の二つは「偽り」についてだと箴言の言葉を通してお話しました。それほど主が憎まれ、怒られる偽りは、また聖霊を深く悲しませるのです。聖書の中に「聖霊を悲しませるな」という言葉が書かれているのはここだけなのです。

サンディエゴのダウンタウンにはペトコパークという野球スタジアムがあります。ご存じのように、それは「PETCO」というペット商品を扱う企業の名前です。当然、ペトコ社は自分達の名前がスタジアムの名前になることにより、たくさんの広告料を支払っています。ペトコパークがテレビに映る度に、世界中の人はペトコという会社を知るからです。

ですからこの企業にとっての心からの願いはパドレスが活躍をすることです。そうすればするほどペトコの名前も知れ渡ります。また彼らがプロとして素晴らしいプレーをすることが、その企業へのイメージに直結します。反対にもし企業イメージを引き下げるチームや選手であれば、即刻、企業はスポンサーから下りてしまうことでしょう。

ペトコ社の従業員がまじめによく働き、業績がたとえ伸びていても、ペトコのスポンサーマークがついたシャツを着たパドレスの選手が汚いプレーをし、罵りの言葉を口にしているのなら、それはペトコを貶めることになります。それを見るペトコ関係者は悲しく思うことでしょう。

私達はあがないの日のために、聖霊の証印を受けたと聖書は言っているのです。私たちに命を与えるほどに、私たちを愛して下さったお方、このお方を悲しませてはいけない。

企業スポンサーなら、早々にそんな私たちを離れていくでしょう。しかし、父なる神様はそれでも私たちを見放すことはない。あちらのそんな愛を知りながら、分かっていながら、父なる神を悲しませ続けてはいけない。

そうではなく、このお方が喜んでくださる生き方。このお方が与えてくださった私たちの口から出る言葉を欺きに使わず、それによって人が神を崇めることができるものとして使わせていただく。もし、そう生きるなら神様は私たちに微笑んで下さるに違いありません。

今日はもう一つのことに目を留めたいと思います。それは私達が偽るということは、人を偽ることであり、同時にそれは自分に対しても偽っているということです。私達が嘘をつく時、嘘を繰り返し生きる時、それはイコール私達が自分を偽って、その人生を歩んでいるということです。

主にある皆さん、自らを偽って生きていく苦しみを知っていますか。あのダビデはどうやらこうやら、ウリヤの死をもって、自分の立場を守り通すことができるように思われました。しかし、彼がしたことは彼を苦しめました。その苦しみたるや地獄の苦しみです。彼はその心にある思いを詩篇32篇に記しています。

「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって枯れるように、枯れ果てた」(詩篇32篇3節ー4節)。

私達が偽る時、嘘をつく時、私達はその嘘が見破られないように、必死に自分を守ろうとします、自分をよく見せようとしようとしています、しかし、それは嘘、偽りであり、本当の自分の姿ではないのです。

その時の心境をダビデはひねもす苦しみうめき、私の骨はふるび衰え、全てを知っておられる神のみ手が私の上に重く、私の内なる力は夏のひでりによって枯れ果てる草のように枯れ果てたというのです。

ナタンが現れ、彼の罪と嘘を告発しなければ、ダビデは悔い改めのチャンスを失ってしまったことでしょう。ダビデはこの耐えがたき苦しみと共に生涯を歩まなければならなかったのです。

たとえ彼がイスラエルで最高の環境の中に暮らし、最高の寝具の上に身を横たえても、このことは彼から喜びと楽しみ、平安を奪い、彼から安らかなす睡眠を奪ったことでしょう。

自分はそうではないのに、そうであるかのようにして自らを偽って生きる。これはブレーキとアクセルを両方、踏み込んでいるようなもので、このような生き方を続けますとやがて私達の心と体は引き裂かれてしまうのです。心身の健全さを失ってしまうのです。このような生き方が長く続くことはないのです。どこかで破綻するのです。

ダビデは自らの過ちに対してどうしたでしょうか。彼はその時の気持ちを詩篇51篇に余すところなく書き記しました。この51篇の注意書きには「ダビデがバテシバに通った後、預言者ナタンが来た時に詠んだもの」と書かれています。

1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。(詩篇51篇1節‐4節)

彼はナタンの宣告を受け、悔い改めます。おそらく彼の周りには彼に仕える者達もいたことでしょう。しかし、彼は、はばかることなく、神に心からの思いを告げ、さらにこう言います。

10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。11 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。12 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。13 そうすればわたしは、とがを犯した者にあなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。14 神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。16 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。(詩篇51篇10節‐17節)

これまで一度も嘘をついたことがありませんという方はいないことでしょう。時に嘘は罪と罪を結び、私達はどんどん泥沼に陥っていきます。嘘を神は嫌い、聖霊はこのことを深く悲しみます。その時に私達と神との関係が失われます。さらにはその嘘は人と人との間にも亀裂ももたらします。自分に偽って生きるということが私達の心身にもたらす害悪はいかほどでしょうか。

主にある皆さん、私達は嘘のない人生を生きようではありませんか。小さな嘘が全てを燃やし尽くすのです。私達が嘘をつくことにより自らを肯定するような場面に立たされる時、そうです、その時、どうか主が力強く私達に望み、過ちを、罪を認め、嘘、偽りを言うことがないのように。神様は私達の嘘を決して受け入れませんが、私達の砕けた魂を神は受けてくださり、その砕かれた心をかろしめることがないのです。

私達の口が真実を語ることができますように。私達の口から人の徳を高めるために役立つ言葉が語られますように。聖霊様が喜んでくださる言葉を語ることができますように。主よ、どうか私の唇をきよめてくださいと日毎に主に祈り願おうではありませんか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年10月18日

 

1)神様は十の戒めの中にあなたの隣人について、偽証してはならない(出エジプト記20章16節)という戒めを加えました。なぜですか。

 

2)ダビデが関わったバテシバとウリヤの死までの一連の出来事にはどんな彼の罪がありましたか(サムエル記下11章)。この中で「嘘、偽り」はどんな役割を果たしていますか。

 

3)私達が嘘をつく時、私達はどんな環境に置かれているのでしょうか。嘘が引き起こす問題で、あなたに思い起こされることがありますか。

 

4)箴言6章16節―19節には主の憎まれることが七つ書かれています。その中には「偽りを言う舌」、「偽りをのべる証人」とあり、それは私達の「嘘」のことだと分かります。なぜ主は「嘘」を憎まれるのでしょうか。

 

5)上記から嘘は私達の口を通して語られるものだということが分かります。ヤコブ3章1節‐12節を読みましょう。私達の語る言葉について聖書は何と言っていますか。

 

6)エペソ4章25節、29節‐30節は私達に何を語りかけますか。私達が語るべきことは何ですか。聖霊は何に悲しみますか。聖霊の証印を受けた私達が取るべき道は何ですか。

 

7)バテシバの一件を隠し、嘘を並べたダビデの心の中はどのような状態になっていましたか(詩篇32篇3節‐4節)。

 

8)詩篇51篇1節‐4節、10節‐17節にはダビデのどんな祈りが込められていますか。私達が罪を犯したとき、私達がすべきことは何でしょうか。


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