回心にいたる道

皆さんはきっと多忙な毎日を送っていると思います。しかし、そんな皆さんにも時に内なる声が聞こえてくることがありませんか。「このままでいいのか」。「このことに手をつけないでいいのか」「この人との関係をどうするのか」・・・と。

家の中で、ちょっとカビ臭い匂いがします。車を運転すると気になる音がします。心臓の不整脈を感じる時があります。どれも、常に感じているものではなく、ある時、フッと感じるものです。内なる声も常に聞こえているのではなくて折に触れて、心に語りかけてくるものなのかもしれません。

そして、私達はしばしば、その内なる声をそのまま放置してしまいます。理由は色々あります。「忙しいから」。「今はまだ大丈夫だから」「面倒だから」・・・。

しかし、私達は知っています。家や車や自分の体について違和感を感じた方達が後々になって口々に言うことを。「あの時によく見ておけばよかった」「あの時に直しておけばよかった」・・・。

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こうして教会は(24):回心にいたる道
2020年2月2日

先週は2000年前に産声をあげた最初のキリスト教会の前途には迫害があったということをお話ししました。しかし、神様はその困難と思われる迫害を通して、クリスチャニティーを世界に広げられたということをお話ししました。神様のなさることは私達の思いをはるかに超えています。

そして、その迫害の中心にいたのがパウロという人でした。彼はギリシア語を話すユダヤ人で、当時、エルサレムで最も影響力のあったパリサイ派の律法学者ガマリエルの下で学んだ人です(使徒行伝22章3節)。パウロの信仰は非常に熱心で(ガラテヤ1章14節)、彼はキリスト教徒への迫害の首謀者となりました。

パウロは非常に賢い人ですから、闇雲に感情に任せて迫害をしていたというわけではなく、自分がしていることに対して彼なりの根拠をもっていました。

すなわちユダヤ人にはもともと「王なるメシア」という伝統的な信仰がありまして、それに対してイエス・キリストの言動はこの「王なるメシア」には全く当てはまりませんでした。決定的であったのはイエス・キリストが十字架刑に処せられたということで、メシアが十字架で殺されたというような考えは彼らには到底、受け入れられるものではなかったのです。イエス・キリストは彼らにとってつまづきだったのです。

今日はそんなパウロがどのようにして回心し、クリスチャン、さらには宣教者へと変えられていったかということをお話しします。まず最初に「内なる声」ということをお話ししましょう。

内なる声

かつてパウロは自分の目の前でキリスト者、ステパノが石打ちの刑により死んでいく様を見ていました。その時にパウロはステパノに石を投げつけている者達のために「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒行伝7章60節)とステパノが神に向かい叫んでいた声を聞いていたと先週、お話ししました。さらに彼はその時のステパノの顔が御使いのように輝いていたのも見ていたのです(使徒行伝6章15節)。

その状況で自分を殺そうとしている者達の赦しを請い、輝いた表情をもつことはありえないことです。しかし、パウロはその不可能を可能にしている人間を目の当たりにしたのです。

この光景は後々、パウロの心にいつも語りかけてきたことでしょう。「お前は必死にキリスト教徒を迫害している。しかし、そのお前の心に内なる平安はあるのか。愛はあるのか」このようなことをパウロに面と向かって語りかける人はいなかったでしょう。しかし、彼の内なる声は彼にこのことを語り続けたに違いありません。

皆さんはきっと多忙な毎日を送っていると思います。しかし、そんな皆さんにも時に内なる声が聞こえてくることがありませんか。「このままでいいのか」。「このことに手をつけないでいいのか」「この人との関係をどうするのか」・・・と。

家の中で、ちょっとカビ臭い匂いがします。車を運転すると気になる音がします。心臓の不整脈を感じる時があります。どれも、常に感じているものではなく、ある時、フッと感じるものです。内なる声も常に聞こえているのではなくて折に触れて、心に語りかけてくるものなのかもしれません。

そして、私達はしばしば、その内なる声をそのまま放置してしまいます。理由は色々あります。「忙しいから」。「今はまだ大丈夫だから」「面倒だから」・・・。

しかし、私達は知っています。家や車や自分の体について違和感を感じた方達が後々になって口々に言うことを。「あの時によく見ておけばよかった」「あの時に直しておけばよかった」。

家や車に関して言えば、そのほうが安く修理できますし、ダメージを最小限にすることができます。体に関して言えば、その方が癒しと回復も早いでしょう。もしかしたら命を救うことができるかもしれない。まことに「善は急げ」とは正しい言葉だと思います。

以前、フリーウエイ8を東に向かい、アンザボレゴにあるキャンプ場に向かっていました。どのEXITでおりればいいのかと事前に調べておいたのですが、うっかりしてそこを通り過ぎてしまいました。その結果、さらに次のEXITまで10マイルをはしり、また戻ってきました。

間違った方向に向かっているのに、方向転換できないもどかしさにハンドルを握りながら悔しい思いをしました。結局、往復、計20マイル、余計なガソリン、余計な時間を使いました。

そこから得た教訓は「しかるべき時に、向かうべき方向に向かうこと」で、これをミスすると、後々、苦労するということでした。

20マイルなら戻ればいいのです。しかし、2年ならどうでしょうか?20年はどうですか?人生とは有限なもの、なるべく早く私達が向かうべき方向に向かい、なるべく早く自分の人生の土台作りに着手した方がいいと皆さんは思いませんか。

ヘブル書は書いています『今日、御声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』(ヘブル3章15節)

神様があなたの心に今、語りかけている内なる声はありませんか?二つ目のこと、それは無力さに向き合うということです。

無力さに向き合う

パウロの場合、内なる声を聞きながらも、なおもキリスト教徒を迫害し続けました。しかし、そのパウロに神様は直々に介入されました。

1さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、2ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。3ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。4彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。7サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。8サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。9彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった(使徒行伝9章1節―9節)。

その時、サウロは殺害の息をはずませながらダマスコに向かっていました。その時に天から光がさして、サウロは地に倒れ『サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか』(4)というイエス・キリストの声を聞いたのです。

彼はその後、三日間、視力を失い、食べることも飲むこともしませんでした。その時まで彼はキリスト教徒を見つけ出しては、彼らの手足を縄で縛りあげていたのです。しかし、その時のパウロはもはや右にも左にも一人では一歩も踏み出せない状況に陥りました。

当たり前にしていたことが一瞬で失われました。その状態のまま彼は三日間、何を考えていたのでしょうか。彼は思ったに違いありません、「自分は何と無力なのだろうか!」と。

彼は当時のユダヤ社会で最も学を積んだ人であり、社会的にも一目、置かれており、それなりのステイタスを持っていました。

しかし、視力を失った彼にそれらのものはほとんど意味のないものとなりました。彼は自分の不完全さ、弱さを知りました。しかし、そのことを認めた時に神様は彼の前に新しい扉を開きました。

使徒行伝9章18節には「サウロの目から鱗のようなものが落ちて、元通りに見えるようになった」と記されており、このことにより彼は再び視力を回復しました。英語ではこの「鱗」のことを「スケール(Scale)」と言います。

「スケール」といえば「物差し」を意味します。すなわち、サウロはそれまでは自分が持っていた尺度、自分の基準によって物事を見ていましたが、その時からそんな自分の物差しから解放されたのです。

それまでの彼は自分の考え、自分の知識、自分の力で生きてきました。しかし、ステパノの死に立ち会うことによって内なる語りかけを聞き、ダマスコ途上で心身ともに打ちのめされるような体験をし、イエス・キリストの声を聞き、彼には新しい基準、尺度が与えられたのです。

天から光があった時に使徒行伝26章14節にはこんなイエス様の言葉も記録されています『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』(使徒26章14節)。

彼は熱狂的にキリスト教徒の迫害に燃えていました。しかし、天から見れば彼がしていることは「とげのあるむち」を蹴飛ばしているようなことで、そのことにより自らを害するようなことだったのです。

彼は共に歩むべきお方を見失い、かえってそのお方に敵対していました。主にある皆さん、このような人生がうまくいくはずがないのです。

そして、このことは私達にも当てはまるのです。私達は自らに問いかけるべきです。「この人生を私は誰と共に歩むべきなのか」。そして、この問いに対する答えは、「私達は本物の力を持ち合わせているお方と共に歩むべきだ」ということです。

それは人間ではありません。正真正銘の力をお持ちの方はパウロに臨まれた神だけなのです。私達はこのお方と共に生きるべきです。

さらに申しあげましょう、パウロがしてしまったように「共に歩むべきお方を敵としてはいけません」。これは人間が一番、してはいけない大きな過ちです。言うまでもなく、このお方に勝ち得る力など人間には全くないのですから。

私達は今、生かされています。この私達にとって最重要な「命」を前に、私達は悲しいほど無力です。しかし、イエス・キリストはかつて言われました25あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。26そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか』(ルカ12章25節―26節)。

私達にどうすることもできないこともイエス・キリストにとりましては「そんな小さなこと」でした。もし、皆さんの心の中に「神はいるのだ」という内なる語りかけがあるのなら、そして、自らの力の限界に気がついているのなら、今こそ、それまでの生き方の方向を変えて神と共に歩き始める時ではありませんか。パウロの回心はそこから始まり、我々の回心もここから始まるのです。

三つ目の事をお話しします。それは「静かなる時」ということです。

静かなる時

パウロはダマスコ途上で自ら経験した後のことについてガラテヤ書にこう記録しています。

16・・・異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、わたしは直ちに、血肉に相談もせず、17また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。それから再びダマスコに帰った。18その後三年たってから、わたしはケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間、滞在した(ガラテヤ1章16節-18節)。

 

既に聖書に対する知識が十分にあり、劇的な体験をしたパウロですから、そのままキリスト教徒になり、宣教へ出て行ってもいいかとも思いますが、彼はその時、血肉にも、先輩の使徒たちにも相談せずに、一人、アラビアの荒野に数年、退いたと言われています。

数年は長いです。そんな長い間、荒野にいるのはもったいないと思いますが、それは私達の頭の中にある“私達が考える日程”です。神様は時間をかけてパウロを整えました。人の前に立つ前に彼はじっくりと神と向き合う静かな時を必要としていました。

彼はアラビアで、あらためて聖書を読み直し、その教えを整理し、そこからイエス・キリストこそが、まことのメシアであるということを検証したのです。

同時にステパノをはじめ、それまでキリストについて自分が見聞きしてきた経験と聖書の言葉を照らし合わせていきました。イエスの言動をじっくりと心に収め、それらと古のユダヤ民族の歴史との関連を見出しました。このような日々を経て、彼の心に内なる確信が与えられました。

私達も時に神様と一人、向き合うことが大切だと思います。自分の心を主の前に差し出すのです。聖書を通して神のお心をくみ取り、自分の置かれている状況の中で語られるメッセージを受け止めるのです。

「信仰こそが全てであり、考える必要はない、ただ信じればいいのだ」と思われる方がいるかもしれません。確かにそうなのですが、「考える」ということはやはりとても大切です。聖書は私達に度々、自らよくよく考え、自分で決断することの大切さを勧めています。

私は27年前に神学校に入学しました。しかし、当初、牧師になるコースに入らずに一年間の基礎科という信徒コースに入学したのです。まさしくその一年間、来る日も来る日も私は聖書に向き合い、一人、神様の前に出続けました。

今、思えばパウロのアラビアでの日々と重なり合うように思えます。神学校にはテレビもなく、まだインターネットもない時代です。そこで、それまでの自分が見聞きしてきたことと聖書の言葉を重ね合わせ、その中で牧師になるという道が開かれていきました。

我々は忙しい日々を過ごしています。しかし、その中で短くともいい、私達の日々の生活を聖書の言葉に照らし合わせて考える一人の時間を確保しようではありませんか。自から省みて、祈りの中で神様と対話する時をもとうではありませんか。

パウロにとってアラビアでの時間は必要不可欠な時となりました。そして、それは私達にもそのまま当てはまるのです。

こうしてパウロは内なる確信と共にアラビアからエルサレムに出てきて、イエスを直接知る12弟子の一人、ペテロに会い、そこで15日間、彼からイエス・キリストに対する証言を聞きましたガラテヤ1章18節)。おそらく、その時、ペテロのみならず、他の弟子達にも会って、話を聞いたことでしょう。このことにより彼の確信はさらに増し加わったことでしょう。

これらのプロセスを経て、いよいよ彼が世界に宣教に出ていく備えが整ったのです。彼は既にあったキリスト者の群れに加わり、彼らと共にユダヤ社会を超えて、ギリシア、ローマへと出ていったのです。

今日の「落穂」にも書きましたように、新約聖書の多くの部分はその彼が諸教会に書き送った手紙で占められています。そうです、彼は一匹オオカミではなく、主にある兄弟姉妹と共にキリストのからだなる教会を各地に誕生させていったのです。

これらがパウロがその回心にいたり、キリストの宣教者になるまでの道のりです。私達がイエス・キリストのもとに導かれていく道のりはそれぞれ異なると思いますが、基本的には、このパウロと同じようなプロセスを経て私達も主イエスにある者へと導かれていくのだと思います。

ですから、もう一度、この朝、私達はこのことを心にとめましょう。どうか、あなたの心に聞こえてくる内なる声を大切に、それが神様からのものであるのなら、それを真摯に受け止め、その声に応答しようではありませんか。

私達の生涯、誰と共に歩んでいくのかを今朝、もう一度、確認しようではありませんか。神に挑(いど)んではいけません。天に唾をはいてはなりません。私達が傷つくことは目に見えているからです。

日々、一人で主の前に出ることをやめてはなりません。その所で私達は今日を生きるガイダンスと力をいただくのです。日々、目の前で起きていることに対して、主の御心を知ることができたら、それは私達にとりましてどんなに大きな祝福でしょうか。

私達一同がこのお方と共に人生を歩み続けることににコミットすることができますように。私達はこれからもこの主にお仕えしていくのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2020年2月2日

1)何事に対しても「情熱」や「熱心」な心をもつことは大切です。しかし、このことには注意が必要だということがパウロの生涯を通して、どのように分かりますか。「情熱」や「熱心」が正しく行使されるために不可欠なことは何ですか。

 

2)ステパノが石に打たれて死んでいく様を見ていたパウロは、ステパノの言動を見聞きすることにより、ぬぐいきれない課題を受け止めました。それは何ですか。あなたは最近、どんな「内なる声」を聞いていますか。

 

3)ヘブル3章15節の言葉は私達に何を勧めていますか。なぜしかるべき時にしかるべき応答をすることは大切なのですか。このことを先延ばしにすることにより、私達が受ける損失にはどんなものがありますか。

 

4)使徒行伝9章1節―9節を読みましょう。天からの光を受け、イエス・キリストの声を聞き、三日間、視力を失い、飲み食いもできなくなったパウロはその間、どんなことを考えていたと思いますか。

 

5)「サウロの目から鱗のようなものが落ちて、元通りに見えるようになった」(使徒行伝9章18節)この「鱗」を英語聖書では「Scale)」と書いており、それには「定規」の意味もあります。あなたには「自分の物差し」がありますか。その物差しは常に正しいですか。

 

6)『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』(使徒26章14節)という言葉は私達に何を語りかけますか。天に唾を吐くことはなぜ愚かなことなのでしょうか。あなたが本当に味方にすべきお方は誰ですか?

 

7)ガラテヤ1章16節-18節を読みましょう。パウロがアラビアに退き、そこで数年、神の前に静まったことはなぜ大切なのですか。あなたは神様の前で静まる時間を日々、確保していますか。


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